終章 /恋よ、はじめまして。
(まさか、現実になるなんてな)
いつの日だったか。あれはまだイアンが幼い子供だった頃。親父に初めて王宮に連れてきてもらった日のことだ。
ぼんやりと流れゆく雲を追いかけていたら、広い王宮内で迷子になってしまった。
歩きまわって疲れ切った足で辿りついた庭園で。不運にも、自分の背の丈倍ほどもある巨大な野犬と出くわした。
自分と同じく迷いこんできたらしい野犬は、ぼたぼたと涎を垂らし、今にも飛びかからん勢いで俺のことを睨みつけた。
子供ながらに「ああ、これ死ぬな」と直感し、目をつぶったときだ。
初めて、彼女に逢ったのは。
――「大丈夫。私が絶対に守ってあげるからね」
うるさい野犬の吠える声を掻き消すような優しい彼女の声に。恐る恐る目を開けた俺の目に映った景色は、大きな大きな背中だった。
彼女は両手を精一杯に伸ばし、自分を背に庇ってくれていたのだ。
――「あっちへ行きなさい!」
大声で野犬を追い払うなり、彼女は眩い金の髪をふって、後ろを振り返る。
――「怪我はない?」
くまなく俺の身体のあちこちを確認する。
そういう彼女は野犬に引っかかれたのか、腕や足に血を滲ませていた。
――「あ、の、ありがとう」
たどたどしく伝えた礼に、彼女はとても綺麗に笑った。
そのときの、嬉しそうに細められた空の瞳が忘れられなかった。
そのあと彼女は「じゃあね」と言い残し、小走りでその場を立ち去ってしまった。
どこの誰かもわからぬまま、ただただイアンの幼心に深く印象が残った。
(で、必死になってこっちは探したんだよ。なのに)
親父に王宮に連れて行けとねだり、連れてきてもらったら散策開始。
もとい、彼女を探しに王宮中を走り回った。
立ち入り禁止区域に入ってはつまみだされ、王族居住区域に入ってはつまみだされを繰り返し、二年ほどが経ったころ。
偶然だった。
あの日逢った彼女が、この国の王女、レイシア・エルメルトその人であったのを知ったのは。
今日も今日とて巡回中だったロイ・リールにつまみだされ、すごすごと帰り路を強制されていたとき、彼女にすれ違った。
(最初は別人かと思ったけどな、さすがに)
まるで彼女の姿を隠すように周りにはたくさんの騎士がいて。
わずかな隙間から見えた彼女の横顔はあまりに悲しそうだったから。
記憶に残る、美しかった空の瞳もレースで覆い隠し、所在なさげに下を向いて歩いていた。
なにが、彼女の顔を曇らせてしまっているのだろうと思った。
その理由は後々知ったのだが、そんな些末なことはどうでもよかった。
ただ、あの日見た笑顔をもう一度見たいと、心の中で強く思った。
――「なんだお前、そんなちっちゃいのに恋してんのかよ」
幼さゆえに、ロイにそんな気持ちを吐露すれば、そんな言葉が返ってきた。
人はこれを〝初恋〟と呼ぶらしいことも、不本意ながら彼から教わった。
――「でも残念だったな。歳の差五歳、しかもお前が年下はちょっときついだろ。初恋は実らないって言うし諦めな。で、王宮中を走り回るのはもう止めとけ」
ロイにとっては、俺を王宮で走りまわらせない口実だったのだろう。
幼かった俺は、まだ習いたてだった算術を使い、必死に計算した。
彼女が結婚適齢期になったとき、自分はようやく十二歳になることに気がつき。
正直。自棄になった。
――「相手にされるわけないか」
算盤を壁に投げつければ、みるも無残に壊れた。
俺はその日、自分の初恋に別れを告げた。
月日は流れ――俺は十五歳になった。
ところかまわず寄って集ってきた女たちと遊び、夜を共にし、毎日を無為に過ごしていたわけだが。
どうにも気は晴れなかった。
あんな澄んだ綺麗な瞳をしている女なんて、一人もいなかったから。
そこで、自分は結構、いや、かなり粘着性のある人間だと気がつく羽目になった。
そして気になる点がもう一点。
いつまで経てど、王女は結婚どころか、婚約者の名前すら耳に届かないことを。
それどころか、六十も超えたじいさんどもと茶ばかり飲んでいると、もっぱらの噂である。
(で、気がついたわけだ)
王女であるレイシアは今年二十歳。俺は今十五歳。
男は騎士として、名乗りをあげる歳になったのだ。
「これ、あるな」
このまま彼女がじいさんたちと茶を飲み続けていたら。もしかしたら。
そう思い立ったが、行動は早かった。
その日から、きっぱり全ての女との縁を切り。女たちと過ごしていた時間を、すべて剣の稽古に費やした。
フィーリッツ家は武を重んじる家風だ。
剣の扱いは幼少時より徹底的に叩きこまれているため、イアンがめきめきと騎士として頭角を表すのに、さほど時間はかからなかった。
そして二年後。十七になり、虹騎士の藍公の席を賜った俺は、内心ほくそ笑んだ。
もう、これで敵はいない。
読み通り、王女は二十二になった今でも浮ついた噂一つない、独身のままだった。
公爵家長男、藍公、おまけに健康的な十七歳の男。
これ以上王女殿下にふさわしい相手はいるだろうかと自負するほどに、イアンは自信満々だった。
すぐにでも、結婚の話が舞いこむだろうと確信していた。
しかし。
「いつまでじいさんどもと茶飲んでるつもりだ?」
待てど暮らせど、そんな報せはいっこうに届かない。
「なんだこの茶番は。いつまで待たないといけない?」
心底自分の運の悪さを呪った。
「くっそ、腹立つ」
またも自棄になり、どうとでもなれと、久々に花街の門をくぐろうかと思った日の晩。
いきなり自分の父親から呼び出しをくらった。
すっぽかしても良かったのだが、いかんせん藍公という立場になってしまったからにはそれも叶わず。
呼び出された場所に律義に足を運んだ。
そこで聞かされた話に、すっかり気持ちが花街に飛んでいたイアンは目を剥く。
(まさかと思ったな。本気で)
「王女殿下を娶りたくはないか、イアン」
父親の口から出た言葉に、しばし黙考するしかなかった。
当たり前だろう。冗談かと思ったのだから。
「いろいろ意見はあったが。最終的にお前一人を推しておいた」
「…………」
目の前に座っている父親を見ても、冗談を言っているような雰囲気ではなかった。
自分の薄くなった髪を指して、「案外抜け感があっていいかもしれん。おしゃれだろう?」と言ってきた日にはもうこいつどうしようかと思ったが。
あの人に会えるなら。誰よりも完璧な男になろう。
口調も紳士的に、行動は優雅で騎士らしく、表情は大人っぽさを常にたたえるように――
計画書と称して手渡された勅命文は、ロイの言った通り、恋愛小説なるようなもので散々な内容だったが。
長々と丁寧に綴られた内容の上に、荒っぽく大きな×印がつけられていて。
下の空いた隙間に、国王直筆で〝よろしく頼む〟とたった一言、メッセージが書かれてあった。
イアン自身、国王との面識はほぼないに等しい。
しかし、王宮中を走り回っていた子供として、ひそかに耳に入っていたのかもしれない。
そんなこんなで、最初から計画などではなく、イアンはほぼ独断で動いていた。
結果的にうまくいったが、さすがに頬をひっぱたかれた時は焦った。
あの時の自分の焦りようといったらない。墓までもっていくことに決めた。
(そろそろ、来るかな)
トーリア城から王宮に戻ってきてからも、彼女とはいまだにいい仲だ。
おもに俺からは行動しないが。彼女がちょくちょく時間を見つけては、この部屋に遊びに来る。
今日はちょうど午前中に議会がある日。
午後から暇になるから、遊びにくるだろうとふんで、藍公としての任務もすっぽかし、ここで待機している。
座っていた椅子の背もたれに深く沈みこめば。
扉が三回ノックされる音が部屋に響いた。
(きた)
「どうぞ」
部屋の中から返事をすれば、彼女が扉からひょっこりと顔を出す。
目が合えば、彼女はにこりと笑って「失礼します」と部屋に入り、お決まりの定位置、ソファに腰をかけた。
今日も今日とて、レイシアは綺麗だ。
本当に、いつ見ても、この人は綺麗だ。
頬が緩んでしまいそうになるのをぐっと堪え、イアンも彼女の隣に腰をおろす。
自分の目と、彼女の目の間に、隔たるものは何もない。
この部屋に来るときだけはヘッドピースを外してほしいとの俺の願いを、今日も律義に守ってくれている彼女が愛おしすぎて。気が狂う。
「イアンって、左目の下にほくろがあるのね」
「いまさらですか?」
「うん。だって気がついたのは……あ、ごめん。なんでもない」
言葉を遮って、急に頬を染めた彼女の真意が知りたくて。
距離を詰めて「つづきは?」と問いつめれば。
「えっと、その、夕焼けの、あの、高台の、ときに気がついて……」
小さな小さな声で彼女が恥ずかしそうに言うものだから。
(かわいすぎか、こいつ。押し倒したろか)
なんて理性の欠片もない考えが浮かんだが。言葉に出すわけにもいかない。
でも、このまま流すのは何か勿体ない気がして。
「……キス、してほしいんですか?」
「ち! ちが! そうじゃなくて!」
あれやこれやと忙しく説明し始める彼女をよそに、イアンは軽く笑って、そっと窓に目を向ける。
身ぶり手ぶりで必死に否定するかわいい彼女を。
また笑ってくれるようになった綺麗な彼女を。
力は弱くても、決して挫けない強い心をもった彼女を。
一生守り続けていこうと、雲一つない晴れ渡った青空に誓った。




