第五章 ⑧/長い長い夜が明けて
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長い一夜が明けて。
日中は忙しくこまごまと働き、ときはすでに夕暮れ。
レイシアは一人、美しい夕焼けが照らす、街の高台に佇んでいた。
昨夜、おとなしく降参したヴェルテを筆頭とした一行は、無事捕らえられた。
イアンが秘密裏に呼び寄せていたらしい彼の直属部下たちの協力もあって、ことはすんなりと運んだ。
また、ゼーベック伯の屋敷裏から続く軍事路も、早々に塞がれる手配となった。
フォルキアの兵がいるかと思ったが、すでにそこはもぬけの殻と化していた。
どこかで事の成り行きを見ていた偵察の者が、自軍に知らせたのだろうというのがロイの見解である。
それでも、手元には大麻に関する証書が残っているので、フォルキアに逃げ道はなく。
王宮に戻り次第、世界会議にて上訴する用意を行う予定だ。
大爆発に巻きこまれたミリィ、ヴィオラ、駆けつけてくれた騎士たちにもたいした怪我はなく、今は事後処理の手伝いにあたってくれている。
もちろん、モニカも無事だった。
彼の父親のゼーベック伯は、治療のため、王宮へとおくられることになった。
腕のいい医務官に任せた方が、治癒も早いとの判断からだ。
事件は収束をむかえ、ようやく肩の荷がおりて。
ずっと張りつめていた気を紛らわすために、レイシアはのんびりと夕焼けを眺めにここまでやってきたのだ。
軽くのびをして、空気を胸一杯に吸いこむ。
「王女殿下、こちらでしたか」
聞きなれた声に背後から呼びかけられ、レイシアはくるりと振り返る。
「あら、イアン。もう具合はいいの?」
昨夜の件で一番重傷を負っていたイアンは、ロイに担ぎあげられるなり、どこかへ連れていかれてしまったので、彼の姿を見るのは昨日ぶりだ。
看病をしていた医務官が、命に別条はなく寝てれば治ると言っていたので、邪魔するのも悪いかと思い、見舞いをするのも控えていた。
「平気です。よく寝ましたし」
「そうなの? でも無理しちゃだめよ」
レイシアが念押しすれば、イアンは「はい」と不本意そうにも短く返事をした。
「みんなは何をしていた? 明日には王宮に戻れそう?」
「概ね順調ですし、明日出立にも問題はなさそうですが。隙あらば、ミリィ殿がヴェルテの脳天めがけて剣を突きたてようとするので、少し厄介ではありますね」
すごく現実的に、その場面の絵が脳内に浮かんだのを軽く頭を振り払って消す。
「あら、そう。あとでちゃんと言っておくわ」
「お願いします。部下の騎士がどちらを縛っておくべきか混乱し、右往左往しておりますので」
「そう。できるだけきつめに言っておくわ」
むしろ縛っていた方がいいんじゃないかしらと、助言しようかと思ったけれど。
それはさすがに酷か、むしろ彼女がそれを喜びそうな気がしてきて、言うのを止めた。
「ヴィオラは?」
「今日も元気に狂ってますよ」
「通常営業ね。よかったわ」
たった数十秒で元気か否かを判断できる人間もそうそういないだろうが、ヴィオラはその部類には入らない。
元気そうでなによりだ。
ふふふ、とレイシアの顔に笑みがこぼれる。
対して、イアンはただ一点、レイシアの首元をじっと睨みつけていた。
(ああ、これね)
ヴェルテに締めつけられた箇所が内出血となり、痕になってしまっている。
目立たないように、襟首のつまった服を着ているのだが、ふとした拍子に見えてしまうのだろう。
「なんて首をしているんですか」
イアンがレイシアの首から目を逸らさず。
とても深刻そうな顔をしていたので、レイシアは努めて明るく声をかける。
「大丈夫よ? 痛くもなんともないし。赤くなっているだけ。すぐに治るわ」
「噛みつきたい」
「…………え?」
ゆっくり瞬きすること三回。
脳内で意味を反芻するも、理解できず。レイシアは眉間に皺を寄せた。
だがそれ以上に、言った本人であるイアンがなぜか眉間に皺を寄せている。
「なんでもありません」
「え?」
大きな咳払いをイアンがして、この話は終わりだと言わんばかりに、彼はそっぽを向いた。
耳が赤くなっているような気がしたものの。
今が夕暮れだったことに気づき、思い違いか、とレイシアは彼の横顔を見つめる。
彼の左頬には、自分を庇った際に負った矢傷が残っていた。
急に、レイシアの胸が押しつぶされるように苦しくなる。
「ねえ。私のことなんかより、イアンの方よ。顔に傷が残っちゃうかもしれないじゃない」
「大丈夫ですよ」
「私が大丈夫じゃないの。もう二度と、私を庇って自分が怪我を負うようなことはしないで」
もし、あの時彼が命を落としていたら。
それこそレイシアは悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
結果として、イアンはこうして無事だったわけだが、もう二度とあのような思いはしたくない。
彼が傷つくなら、自分が傷ついている方がマシだとさえ思うようになった。
この想いを、人は何と呼ぶのだろう。
「わかった?」
答えの出そうにない思考を止めて、イアンに詰め寄れば。
彼は大仰にため息をつき、「それは聞けない命令ですね」とはねのけた。
「王女殿下、あなたは自分のことには無頓着なのに、いつもそうやって人のことばかりを考える。悪い癖ですよ」
たった今考えていたことを見抜かれたようで、レイシアは息を詰める。
彼は今日も淡々としていて、何を考えているのかわからない。
でも彼には、レイシアの考えていることなんて全てお見通しのようで。
嬉しいような、悔しいような、変な感情がレイシアの心の中を渦巻く。
「自分を大事にしてください」
(ほら、またそうやって)
人のことをからかうだけからかっておいて。
欲しい言葉を欲しいときにくれる、人。
「ですから、たとえ命令であっても聞けません。
――俺には、あなたが大事すぎる」
ゆっくりと紡ぎだされた、甘い響きをもつその言葉の意味を、考える。
王女として? それとも一人の人間として?
どちらでも嬉しいけれど、なぜかとても泣きたくなってきた。
必死の思いで涙を止めて、彼の瞳を見れば。
「愛しすぎています。苦しいぐらいに、あなたのことを」
また紡ぎだされた甘い言葉に、これも計画のうちなの? と言おうと思った。
いつも、そう応酬していたように。
でも、終ぞ口から言葉が出てくることはなかった。
だって、あまりにも彼の瞳が真剣で、冗談を、軽口を言っているように思えなかったから。
レイシアが黙りこんでしまっているうちに、イアンは懐から小さな白い箱を取り出す。
彼が箱を開ければ、中からはレイシアの瞳の色と同じ、淡いブルーのサファイアがあしらわれた指輪が入っていた。
彼の大きな手が小さな指輪を取り、そっとレイシアの右手薬指にとおす。
王女らしく、数多の指輪をつけてきたレイシアだからこそわかる。
この指輪は自分のためにつくられたそれであると。
寸分狂いなく、その指輪はレイシアの薬指に馴染むようにおさまった。
「俺と。結婚してください」
時が止まった。
そう思ってしまうほどの静寂が、その場を満たした。
何度、夢に見ただろう。
自分のことを真っ直ぐに見つめてくれて、優しい言葉をかけてくれて。
そんな人と恋人同士になって、結婚して、幸せな未来を歩んでいく、そんな夢を。
素直に彼の言葉は嬉しかった。とても。
でも、目の前にいる人は、夕焼けに照らされて、初めて会った時よりもさらに眩いばかりに輝いていて。
レイシアには眩しすぎる存在だから。
(ありがとう、イアン)
気持ちは変わってはいない。
だから、答えはもう、決まっていた。
「ごめんなさい」
言葉にしてしまえば、涙が出る。
なぜ今自分が泣いているのか。泣くのは自分ではないはずだと言い聞かせるも、涙は止まらない。
目の前にいたイアンが、一歩、足を引く。
ああ、もう行ってしまう、と思ったとき。
本当に無意識だった。彼の服を、そっと掴んでしまったのは。
自然、イアンの足の動きが止まる。
しばらくの静寂――は、イアンの軽く吹きだす声で破られた。
「意味がわからない」
「わ、私も、わからない」
「は?」
「い、い、行かないで」
精一杯言った言葉は、信じられないぐらいに震えていて。
自分が支離滅裂なことを言っていることすら、もう考えている余裕などなかった。
なのに、涙が溢れるばかりで、言葉一つすら出てこない。
手を払うわけでもなく、帰るわけでもなく、ただ泣き続けるレイシアをじっとイアンは見つめている。
何を思ったか。彼は突然「これが邪魔なんだな」とレイシアのヘッドピースを手にかけて。目元を覆っていたレースを持ちあげ、レイシアの瞳を覗きこんだ。
条件反射で逃げ腰になったレイシアにも構わず、そのままイアンに腰を引き寄せられる。
「ごちゃごちゃ難しいことを考えるな。これから先、俺の傍にいたいか、いたくないか、どっちなんだ?」
間近に迫った彼の瞳を前に、嘘などつけるはずもなく。
「一緒に、いたいです。けど!」
レイシアは涙ながらに訴えた。
もう顔面崩壊など気にしていられない。
今、言わなければ、きっとこの先一生、後悔すると思ったから。
「イアンといると、しんどいの!」
そうだ。〝しんどい〟のだ。
いつも、何があっても、仕方がないと割り切って考えられていたのに。
イアンといるとそれが全くできなくなってしまう。
「馬鹿にされるし、からかわれるし、でも優しいし、でも何を考えているのかわからないし! 年下だし!」
彼の優しさに甘えてはだめだと、頭では分かっている。
だからこそ、初志貫徹を自分に言い聞かせてきた、必死に。
「あなたには、もっともっと素敵な人がいるだろうし、無理して私なんかに求婚しなくていいし! そう思うのに!」
ぐい、とレイシアはイアンの胸倉を掴んでやった。
もう喧嘩腰である。そうじゃなきゃ恥ずかしくて、声が消えいってしまいそうになるから。
「イアンが! 他の女の子のところに行っちゃうのは嫌で! 寂しくて! でも、私と結婚するのは賛成できなくて! もう、わからないの。ごめんなさい」
徐々に声が小さくなる。同時に、手の力も抜けてきた。
情けない。恥ずかしい。寂しい。いろんな感情が渦巻く中で。
最後に、レイシアの口から出たのは、すべてのしがらみを取り払った純粋な気持ち。
「一緒に、いてくれる?」
返事のかわりにおりてきたのは。
涙の味なんか気にならないほどに、優しく甘い口づけ。
「レイシア」
啄ばむように唇を重ね、合間に名前を呼ばれて。
悲しみよりも恥ずかしさが上回ってきたら、あれだけ流れていた涙も止まった。
「かわいい。レイシア」
唇が離れれば、次は優しく彼の腕の中に抱きしめられる。
泣いた夜にも思ったが、彼の腕は本当に居心地がよくて、ついつい身を預けてしまう。
そのまま、腰にまわっていたイアンの手が、だんだんと。
下に下りてきて。
(ん?)
腰の下にある、女性特有の柔らかさをもった肉塊に、イアンの手が添わせられる。
あまつさえ、その手が撫でるような手つきで動けば。
レイシアはカッと我に返り、どん、とイアンの胸を押した。
「ちょ、調子に乗るなーー!」
「は?」
「な、な、どこを、触って、いるの、あなたは!」
「尻」
「真面目に答えなくていいし! あと、もうちょっと表現を控えめに包んで!」
なんであの甘ったるい展開からこうなるんだ、と思考が追いつかないレイシアが顔を真っ赤にして抗議したのに。
心底意味がわからないといった表情のイアンが、考えること数秒。
「俺の嗜好ポイント」
「きゃあああああ! 変態!」
ずささささ、と勢いよく後ろに飛びのき、イアンから距離を取ったレイシアに、イアンは喉を鳴らして笑った。
「ずいぶん深刻そうに考えていたみたいなので。ちょっとでも気が和らげばいいかな、と」
「和らぐか!」
勢いよろしくレイシアが叫ぶも、イアンはまったく相手にする雰囲気がない。
年相応な人懐っこい笑顔で、まだ笑っている。
「失礼。俺がいろいろ段階をすっ飛ばし過ぎたんですね。だから王女殿下のお子様脳にはついていけなかった、と」
「ねえ。まだ私のこと馬鹿にするの⁉」
「ははははは」
「笑ってないで! 聞きなさいよ! 人の話を!」
なんか前にもこんなこと言ったことがある、と脳内で思いながら、レイシアはがっくりと肩を落とした。
「要は、王女殿下の不安がすべて消し飛ぶぐらいに、俺があなたのことを愛しているとわからせればいいんですね」
「へ?」
真っ直ぐにレイシアの瞳を見て、また近づいてくるイアンに、足が縫いとめられたように動かない。
案の定、先ほどと同じように腰に手を回されて、捕まった。
「覚悟しとけよ?」
耳元で、色っぽく囁かれれば。
くにゃり、と腰が砕けてしまいそうな心地に襲われる。
「俺は、この日をずっと夢見ていたんだからな」
彼はそう零して、夕焼けに照らされた二人の影は、またぴったりと重なった。




