第四章 ⑧/大事な人
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「これはいったいどういうことかしら? イアン」
彼に身を委ねて、しばらく。
連れられてきた場所と、目の前にたたずむ箱馬車を見て、レイシアは眦を吊り上げた。
「この馬車はなに?」
城の外、厩舎近くに停めてあった馬車の前で、レイシアは腕を組み、イアンを睨みつけた。
「質素な馬車で申し訳ありません。ただこのぐらいの方が目立たずに済みますので」
「何に、目立たないのかしら?」
「みなまで言わないと分かりませんか?」
いたずらに目尻を下げたイアンに、レイシアはなおも怒鳴りつける。
「そんな笑顔にはもう騙されないんだから! 私一人だけ王宮に帰れと言うの? あなたは!」
「はい」
簡潔に答えたイアンに、レイシアは抗議の眼差しを送る。
「嫌よ。絶対に乗らないから」
きっぱりと言い切り、そっぽを向いてやる。
当たり前だ。
国の一大事になるかもしれない局面に対峙しておいて、自分だけ逃げ帰るだなんてできない。
ヴィオラやミリィのように役に立つことはできないし、ロイやイアンのように力もない。
それでも。ここを離れるわけにはいかなかった。
「もし、成功しなかったら。私の身一つでどうとでもなるわ。だから、ここにいる」
王族とはえてしてそういうものだ。
レイシアも幼いころからそう教えられ育てられてきた。
平民ができない贅沢を一生分する代わりに、有事の際には身を売って投げ出す。
そのために、自分たちの生はあるのだと。
「だから、私は帰るわけにはって、きゃあ」
言いたいことも半分に、レイシアの身体は宙に浮いた。
いきなりイアンに横抱きにされたのだ。
じたばたと手足を動かして抵抗するが、いとも呆気なくレイシアは馬車に乗せられてしまう。
こうなったら急所蹴りも辞さない構えよ、と下品にも足に力をこめたが。予想外の展開が起きたのは、そのあとだった。
馬車のシートに仰向けに寝かされたレイシアの上に、イアンが覆いかぶさってきた。
手は頭上で縫いとめられ、足は彼の太い腿によって動きを封じられる。
(お、お、おおお、お、お、お⁉)
押し倒されている、という表現が頭で浮かばないほど、レイシアはひどく混乱した。
さらに、息をするのも躊躇うほど、イアンの顔が間近にまで迫ってくる。
「二度と言うな」
レイシアが声を出しあぐねている側で、イアンが囁く。
いつもの彼の口調と穏やかな声音からは想像もできないほど、言葉が荒々しい。
「自分の身を投げ出すなどと。二度と言うなと言っている」
イアンの瞳は真剣そのもので。
彼が本気で怒っていることが、まざまざと知れる。
「……わかったわ。でも、ここにはいる」
「帰れ。いい加減聞き分けろ」
イアンの凄みのある剣幕に、何も言葉を言いかえせない。
大人しくなったのを見計らってか、イアンの片手がレイシアの頤にそっと触れる。
言葉の荒々しさに似合わない、優しすぎる彼の手が、余計に思考を混乱させた。
このままでいると、恥ずかしいような、泣きたいような心地になってしまって。
レイシアはイアンの瞳から視線を逸らした。
「前を向けって、教えてくれたのはあなたでしょう?」
逃げてばっかりだったレイシアに、そう教えてくれたのは、まぎれもなくこの人だったから。
きっと、わかってくれると思ったのに。
彼はそっと身を起こし、レイシアの上から退いた。
「危険です。あなたの命がかかっている。今は忘れてください」
そう言い残し、彼は馬車を降りた。
「待ちなさい!」
「これは置いていきますので」
かちゃり、とレイシアの足元に置かれたのは、イアンの剣。
「彼らと剣を交える気はございませんし、下手を取るつもりもありません。ご安心を」
では、とイアンが馬車の扉を閉める。
イアンの剣を見つめていたレイシアは、後れをとった。
気がついたが最後、もう外から鍵をかけられる音が聞こえてしまい。何一つ言いたいことも言えぬまま。レイシアを乗せた馬車は王宮へ向かい、無情にも動きはじめた。




