第三章 ⑦/離れた手をもう一度
彼の薄い夜着に、レイシアの涙が吸い込まれてゆく。
少しだけ、深く息を吸った。
声が震えないように。
「聞いたこと、ある? 十年前、私が誘拐されかけた時の話を」
レイシアの静かな声に、イアンはこくりと頷いた。
頭上でそれを確認したレイシアは、さらに言葉を紡ぐ。
「今日と同じだったわ。たくさんの人間に囲まれて。暗い場所に閉じこめられて。あわや、殺されそうになった時に、初めて力が働いたの」
忌まわしき、この瞳の呪いの力が。
「今の私と同じぐらいの歳かしら。たくさんの人がもがき苦しみながら倒れたわ。そのうち、帰らぬ人となった者もいた」
今まで、こんな話を自ら進んで人に話すことなど一度もなかったのに。
なぜか、今日。彼にだけは話しておくべきかと思ったから。
一拍置いて、レイシアは続ける。
「わかったでしょう? 私の瞳は呪われているの。決して直接見てはいけないものなの。皆が忌み嫌っているわ。だから、あなたはもう、私に関わらない方が良い」
きっぱりと言い切った。きっと、これでイアンも分かってくれるはずだ。
それなのに、肩の荷が降りるどころか、胸が痛むのはどうしてだろう。
「だから、もう離しなさい。命令よ」
「嫌だと、言えば?」
「……もう一度、あなたのこと、打つわ」
「涙を流しながら、謝るのに?」
痛みに気がつかないふりをして、強情に言えば。すげなくイアンに返される。
(なぜそれを知っているのよ)
レイシアの疑問は、そのあとすぐに知れた。
「眠れるわけがないでしょう」
「は?」
「大丈夫ですよ、俺は。あなたの瞳を恐れたりなど、ありえません。……美しいと思ったことはありますけどね」
予想外だった彼の切り返しに、レイシアは目を数度瞬かせる。
十二歳の事件以降、レイシアは目をヘッドピースで隠すことにした。その日以来、誰とも直接目を合わしたことなどない。今日まで。
(いつ?)
思い出そうとするも、思い出せない。
レイシアにとって、過去は、あまりいい思い出のないものだから。
「昔見たあなたの瞳は、本当に綺麗な空色の瞳でした。ただ今は、それを見ることすら叶わない。本当に残念です」
彼が、何を言っているのか、何を言いたいのか。
一生懸命、働かない頭で理解しようとしたが、霞みがかったように頭がぼうっとしてできなかった。
ただただ、すぐそこに聞こえる彼の鼓動と、紡ぎだされる言葉に意識を注ぐ。
「呪われた力と殿下はおっしゃいますが。俺には、どうしてもそうは思えない。美しいまでに綺麗な空の瞳を持つあなたを、神が愛するばかりに、あだなす者を虐げている力のように思えます」
言われて、思い出す。
つらく苦しい過去にも、心温まる瞬間があったことを。
――「いいですか、レイシア様? 私はあなたのことなど、これっぽっちも怖くありませんわ! 私が怖いのは、賞味期限が切れたと知らずに飲んでしまった牛の乳ですわ! あれは本当にやばいんですのよ!」
――「また泣いていらっしゃいますの? そんなに一人が寂しいなら、私が芝居をしてあげますわ! もちろん一人でですけれど? 少しは楽しくなるのではなくて?」
――「いい加減に前を向きなさい! いつまで下を向いているの? 一国の姫ともあろうお方が、二重顎になりますわよ! おブス!」
落ち着いたはずの目頭は、再び熱を持つ。
どうやら今日はよく泣いてしまう日らしい。
もう諦めるしかないようだ。
「上を、前を、向いてください。下も後ろも、あなたが向くのには相応しくない。空はいつも、天高い場所にあるものですから」
「ふふふ」
思わず笑ってしまった。
笑った拍子に、目からまた涙があふれ出す。
泣いているのに、笑っている。
わけのわからない状態だ。
「イアン、あなたやっぱりヴィオラの弟ね」
「……そこでなぜ姉の名前が出てくるんですか? 不本意です」
「ふふふ。怒らないで。同じことを、言われたの。昔。ヴィオラに。とっても嬉しかった」
覚えていたけれど、忘れていた、変な感覚。
それを、今一番必要としている時に、思い出させてくれたのは彼だから。
(ありがとう。ごめんなさい)
残念ながら、言葉にはならなかったけど。
心の底から感謝した。
ただ、泣き顔を見られた上に、現在進行形で抱きしめられたままで。それを見破られるのは、さすがに気恥かしく。
半分笑い、半分泣きながら、もうお決まりとなりつつある、ひとつ気になったことを訊いてみる。
「ねえ、イアン。――これも、計画の一部なの?」
今までと違い、すぐには返事をせず、彼は一拍黙った。
黙ったが、少しゆるんでいた彼の腕に、また力がこもる。
それが、すべての答えのような気がした。
「――だと、言ったら?」
「――許さないわ」
拒絶をしても、ずっと抱きしめてくれていた彼の腕が、胸が。
優しくて。優しすぎて。
それからあとは、小さな子供のように、彼の胸で声をあげて泣いてしまった。




