第三章 ⑥/自己嫌悪
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(もう、どこにも行きたくない。外にも出たくない。何も、したくない)
天蓋付きの広々とした寝台に、レイシアは深く身を沈ませた。
あのあと、どうやって城に帰ってきたかもよくわからない。
ほぼ無意識のうちに、就寝前のあれやこれやを一人で済まし、夜着に着替えた。
そのままのろのろと、こうして寝台に辿り着いたわけだが。
ちっとも眠気なんかきやしない。理由はわかっている。
今日はいろんなことがあった。
朝早くに起きて、馬車で移動し、菜園で野菜を収穫して、街で買い物。女の子を助けるために走り回って、あれだ。
身体は信じられないぐらいに倦怠感に包まれ、瞼ももう重たいのに。
「馬鹿ね、私」
誰に言うわけでもなく、言い聞かせるようにぽつりと零す。
零したところで、自分がしてしまったことが取り消されるはずもない。
もやもやとした、持て余した負の感情がレイシアの体内を蝕むように駆け巡り、寝台に入ってからもう二時間は経とうというのに、目は冴えたままだ。
月明かりに照らされた部屋で。
星が瞬くかのような宝石が散りばめられた天蓋をぼんやりと眺めて。それから、未だに空いている自分の隣をちらりと見る。
二人で使う予定だった寝室の寝台には、レイシアしかいない。
ずいぶん前に日付も変わった時刻。
そんな時間になっても、イアンは寝室に来るどころか、隣の彼の部屋にすらいる気配はしない。
(当たり前よね。あんなことをしてしまったのだから)
頬を平手打ちするだけでなく、ひどい言葉を浴びせてしまった。
彼と距離を置くために自分で望んだこととはいえ、我ながら、ひどいことをしてしまったと思う。
けれど。頭の片隅で、これで良かったのだと無理やり納得しようとする自分がいるのも確かだ。
(彼の輝かしい人生に、私みたいな人間が影を落とすわけにはいかないもの)
日数にして、たったの一日。
ただそれだけの短い時間だったけど。
こんな私にも、普通に接してくれようと努力してくれた彼は、きっと優しい人だと思うから。
これで良かったのだ。
(明日にでも王宮に手紙を書いて、ここから出立する旨を伝えよう)
王宮に戻ったら、もう二度と外には出ない。
出ようと思ったけれど、土台無理な話だったのだ。
自分には。
腹を決めたところで、ようやく睡魔がレイシアを襲ってきた。
くるのが遅すぎた分、まどろみ始めるとすぐに眠ってしまいそうな心地になる。
けれど、静かに寝室の扉が開く音がして、レイシアは一気に現実に意識を引き戻される。
誰、と問うのは愚問だろうか。
扉のある方向に対して、レイシアは背を向けていたので、誰が入ってきたのかは厳密には分からなかったけれど。
おそらく。
(イアン、ね)
すたすたと迷いない足取りが、そう思わせた。
やがて、寝台がぎし、と軋み、彼が隣にきたことが、柔らかいシーツ越しに伝わる。
起きていることを彼に知られるのは、なんとなくはばかられて。息を殺して、レイシアは寝たふりをすることにした。
眠たかったはずなのに、彼が横にいることで再び目が冴えてしまう。
結局、まったく眠気が来ないまま、イアンの寝息がすうすうと隣から聞こえはじめた。
どうやら、彼の方が先に眠ってしまったらしい。
じっと同じ態勢でいるのに疲れ、仰向けになる。
背中を向けていた時よりも、ずっと近くでイアンの息遣いを感じた。
ちらりと、彼の寝顔を盗み見る。
彼も、レイシアと同じように仰向けで寝ていた。
お陰で顔が月明かりに照らされ、よく見える。
(良かった。生きている、わよね?)
彼の胸が呼吸によって上下するのを目で確認し、ようやくレイシアは生きた心地がする。
(大丈夫。イアンは私の瞳を見てはいないはず。だから、苦しんでもいない)
そう何度も自分に言い聞かせていても、やっぱり不安だった。彼の穏やかな寝顔を目にしただけでも、ずいぶん心を落ち着かせることができた。
イアンが寝ているのをいいことに、もう一つ気がかりだったことを確認すべく、そっと身を起こして、彼の顔を覗きこむ。
(やっぱり。ちょっと腫れてる。ちゃんと冷やしたのかな?)
自分が打ってしまったイアンの左頬が、少し赤みを帯びていることに、ひどく胸がざわついた。
なんて情けなくて、醜い生き物なんだろう、私は。
身を盾にしてまで庇ってくれた人に。こんな怪我をさせて。
止まっていたはずの涙が、また一筋、レイシアの頬を伝った。
一度堰を切った涙は、止まることを知らない。
それどころか、さっきより大粒の涙が流れてくる。
「ごめんなさい」
堪え切れず、嗚咽がでそうになった口を手で覆う。
声はなんとか抑えることができたが、涙の方はそうもいかない。
涙で視界が歪み、何度も瞬きをして。
やがてイアンの顔も見れなくなり、レイシアは俯いた。
すべての音を押し殺して泣いていれば、突如、寝台が軽く軋みをあげる。
はっとして顔をあげれば、そこには上半身を起こしたイアンがこちらを見つめていて。
そこで、ようやくイアンが起きていることに気がついたレイシアは、条件反射で彼から瞳を逸らし、背を向けようとしたが。叶わなかった。
逃げようとするレイシアの腕をイアンが力強く引き、彼の胸の中に閉じこめられる。
(な、に? どうして?)
レイシアのことを抱きしめたまま、彼は何も言わない。
(だめ。このままじゃ、また流されてしまう)
それを嫌って、手まであげた。
昼間と同じように手に力をこめて、突き離そうとした。
それなのに、手が震えてできなかった。
きつくもなく、ゆるくもない、彼の優しすぎる腕の中が、あまりにも心地良かったから。
「……無礼者」
嗚咽を堪えて、なんとか紡ぎだした罵倒の言葉は、あまりに弱々しい。
これは効果ないなと、言ったそばからレイシアは落胆した。
「無礼を承知でしております。あとでいくらでも罰していただいて構いませんから。今は、……今だけは、ご容赦ください」
言うなり、イアンの腕にまた力がこもる。
「願うなら、今すぐにでも涙を拭ってさしあげたいのですが。そうすると、また逃げられてしまいそうなので」
抱きしめました、とでも言いたいかのように。
イアンは大きな手をレイシアの頭に添わし、そっと自身の胸に押しつけた。