第三章 ④/伸ばした手、弾いた手
ふわり、と。一陣の風が、レイシアの前に吹く。
それが最後の瞬間だと感じ取った。
けれど、いつまで経ってもこない痛みに、不審に思う。
しばらくして、重い瞼をゆっくりと開けたレイシアの視界にあったのは、さっきまではなかった男物の靴と、どこかで見たスラックスの色。
「貴様ら、命惜しくば今すぐこの場を去れ。さもなくば、この男のように叩き斬る」
もうすでに聞き慣れてしまった彼の声を聞いて、レイシアはゆっくり顔をあげた。
そこには予想と違わず。
イアンが自分を庇うようにして、男たちと対峙していた。
持っていなかったはずの剣を手に持ち、勇ましく構えている。
イアンの足元には、倒されたと思われる男がうつぶせで突っ伏していた。
痛いほどの沈黙がその場に満ちる。
やがて複数の足音が去っていくのを、レイシアは意識のどこか遠くで聞いていた。
涙はすでに止まった。震えてもいない。
ただ、頭だけが、思考が真っ白で、何も考えられなかった。否、考えたくなどなかった。
身体に力が全く入らない。
まるで血の通わない人形のよう。
(どうしよう、私、また、とんでもないことを)
それ以上の思考は断ち切られた。
レイシアに背を向けていたイアンが、男たちが全員いなくなったのを見、後ろを振り返ったからである。
咄嗟に、レイシアは両手で自分の顔をきつく覆って、下を向いた。
「レイシア様、お側を離れてしまい、申し訳ございません。お怪我はございませんか?」
「離れて」
いつもと変わらぬイアンの声音にも、レイシアは刺々しく返す。
彼がいまどんな表情をしているか。考えただけでも、また目頭が熱くなってくる。
(どうせ、皆同じなんだから)
「……城へ帰りましょう。立てますか?」
「大丈夫。一人で帰るから。先に行って」
「それはできません。帰りますよ、ほら」
イアンがレイシアの腕を取って、立たせる。
立つことはできたが、まだ顔から両手を離すこともできず、顔を上げることもできてはいない。
小さな、それでも確かに、ため息がイアンの口から漏れた。
「レイシア様、お顔を見せてください」
「嫌」
いい大人が、駄々をこねる子供のように、首を左右に大きく振った。
呆れているだろうか。恐れているのだろうか。
彼がどんな表情をしているのかなんて、もう、そんなことはどうでも良かった。
(もう、見ないで)
そんな切実なレイシアの気持ちも届かず。
イアンがそっとレイシアの手に触れる。
きつく顔を覆っていた手は、予想外の彼の動きに、思わずびくりと跳ねた。
「っつ、触らないで!」
叫ぶも、イアンはレイシアの手に、自身の大きな手を添わせたまま、動こうとしない。
それが、そっとしてほしかったレイシアの心に、拒絶を生む。
「離しなさいと言っているでしょう! あなたも知っているでしょう? 私の瞳を見たら、皆もがき苦しんで倒れてしまうの! 激しい痛みと苦痛。前に、私の瞳を見た人間は……」
それ以上は、言葉にならなかった。
(未だに昏睡状態で、意識が戻っていない人もいる、のに)
「離して。同じ目に遭いたくなければ」
「レイシア様」
淡々とした声からは、何の感情も読みとれない。いつもそうだったように。
(そっか。あなたも、やっぱり私のこと、そういう風に見ていたのね)
そう考えると、なぜか、すとんと心から棘が抜け落ちたような気がした。
(最初から、嫌われていたのなら。もう、これ以上ないぐらいに嫌われてしまった方がいい)
「帰りましょう。一緒に」
イアンの手に、ぐっと力がこもった。
手を剥がされる、と瞬時に悟ったレイシアは、気がつけば、あれほど頑なだった両手をすんなり外していた。
そして、次の瞬間。
ぱしん、と乾いた音が、静かすぎる夜の街の空気を震わせた。
時が止まったように、レイシアもイアンも動かなかった。
レイシアは振りあげた手が空中に縫いとめられたように動かなかったし、イアンはレイシアに左頬を打たれた時のまま、動かなかった。
(これで、いいの)
「たかが騎士ごときが。なんでもかんでも、むやみに踏みこんでこないで!」
言い切って、レイシアは足元に落ちていた帽子を自分で拾う。
さっと汚れを落として、再び深くかぶれば、昂ってしまった気持ちが落ち着く、そう思っていたのに。
鼓動はおさまるどころか、息苦しいまでに早く波を打っている。
「出過ぎた真似を致しました。どうぞ、お許しください」
視界が半分隠れてしまった状態でも、彼が深々と頭を下げたのがわかった。
イアンが顔を上げる際。
レイシアの視界にちらりと見えた彼の顔は、ただただ痛みを堪えたような顔をしていた。