第三章 ②/荒れた街
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「遅い。何かあったのかしら?」
イアンと別れてから、すでに一時間は経過した。
茜色だった空は、すでに数多の星が瞬く夜空へと変わっている。
あれだけ賑やかだった街も、今やすっかり静まり帰り、キンと澄んだ夜の空気が街全体を包んでいる。
街を照らす街路灯はぼんやりとした光を湛え、この広い街を照らすにはいささか心許ない光明だった。
(ここで待ってると言ってしまったから、帰るわけにはいかないし。かといって、あまりここに居たくないなあ。……あ、そもそも大前提として帰り道が分からないわ)
いともあっけなく、ここで待機することが決定した。
(にしても本当に遅いな。――もしかして、尾行がばれて連れていかれちゃったとか⁉)
待っている不安から、あらぬ考えが浮かんでしまう。
(でもイアンは藍公だし。剣の腕は間違いなくいいはずよね。……あれ? でも剣なんて持っていたっけ?)
彼の恰好を思い出してみる。
瞬間、血の気が引いた。
(持ってない! 持ってなかった! 丸腰だった!)
街に行く庶民の恰好をしている人間が、そもそも剣を帯刀しているはずがない。
(どうしよう⁉ 城に戻って誰か呼んできたほうがいいかも。ああ~! でも! 帰り道が分からない!)
自分の役立たずっぷりに嫌気がさしてきた。
(ああ~! 馬鹿、馬鹿、大馬鹿! どうすればいいの⁉)
闇が濃くなってくると同時に、一度心に棲みついた不安はどんどん大きくなってくる。
どこかの家の子供だろうか。どこからか少女の泣き声が聞こえてきた。
(泣きたいのは私の方よ。ちょっと待って。いったん落ち着かないと。出るものも出ないわ)
ゆっくり深呼吸する。
レイシアが気を落ち着かせようとしているさなか、今度は少女の叫び声が聞こえてきた。
その声からさっきの泣いていた少女と同一人物だということが知れる。
「助けてーー! 誰かーー!」
(助けてほしいのはこっちよ、って、え?)
少女の危機迫るような助けを乞う声と、複数の足音が静まり返った街に響いた。
だんだんと、レイシアのいる場所に近づいてきているようにも思える。
その異様なまでの足音の多さと少女の声音から、只事ではないことに気づく。
(なに⁉ 誰か追われているの?)
どこから声が聞こえてくるのかと耳を済ませて、辺りに目を走らせていると。レイシアの視界の隅に何かが映った。
(あ)
見れば、先頭にまだ幼い少女が逃げるように走っていて、その後ろから十数人の男たちが下卑た笑い声をあげながら追いかけていく。
(下衆。下衆の極みがいるわ)
そこからのレイシアの行動は早かった。
ベンチから勢いよく立ち上がり、スカートの裾をたくしあげると、そのまま勢いよく駆けだした。
初めてきた街だというのに、ここで生まれ育ったかのごとく。裏道をどんどんと抜けて走っていく。
下品な男たちの足音と少女の声を頼りに、ちょうど正面に出られるよう、くねくねと街中の細い道を進んでいった。
野生の勘と言うべきか、だてに年食っているわけじゃないと言うべきか。
ほぼ的確に進み続けたレイシアの前に、ちょうど逃げ回っていた少女が走りこんできた。
勢いよく飛びこんできた少女を胸で受け止めてあげる。
「きゃあっ!」
「大丈夫、こっちよ、ついてきて!」
間髪いれずに少女の手を取り、また走りだす。
できるだけ人目につかなそうな道を走り、時には建物の陰に隠れたりして。
しばらく走りまわっているうちに、なんとか男たちの足音が聞こえないところまで、逃げ切ることに成功した。
肩で息をしながら少女を見ると、彼女はひどく震えていた。
呼吸もまだ整ってはいなかったが、彼女を少しでも安心させるよう話しかける。
「大丈夫? 怪我はない? なにもされなかった?」
「は、い……、本当に、あり、がとう、ござい、ま、した」
震えているせいか、言葉を紡ぎだすのにも一苦労のようだ。
そうとう怖い思いをしたのだろう。
少女の背恰好から察するに、まだ十五、六ほどの女の子だとレイシアは推測する。
街で見た人たちよりは身綺麗な服を着ていることから、裕福な家の娘なのかな、と当たりをつけた。
それで追われてしまったのかもしれない。
「家は近く? ちゃんと帰れるかしら? 送っていくわ」
「大丈夫です。ここからすぐ近くなので。助けていただき、本当にありがとうございました」
ようやく息の整ったらしい少女は、やっとにこりと笑顔を見せてくれた。
そのまま深々とレイシアにお辞儀をする。
丁寧な言葉遣いと礼儀正しさから、おおよそレイシアの勘は当たりだったらしい。
「そうなの? それならいいのだけれど。もうこんな夜遅くに、供もつけずに一人で歩いちゃだめよ? どうか気をつけて」
レイシアの言葉に、少女が一瞬、目をぱちくりと瞬かせた。
(あれ? 私、何か変なこと言ったかしら?)
そう思ったのもつかの間、少女は「お気遣いありがとうございます。お姉さまもどうかお気をつけて」と告げ、帰っていった。