第三章 ①/王女殿下、はじめてのおつかい
街には馬で移動して、およそ十分ほど。
泥が跳ねた身体を拭いたり、着替えをしたりしていたら、いつの間にかときは過ぎ。
街に辿り着いたころには、すでに陽は傾きかけていた。
ヘッドピースからつばの広い帽子へと変えたレイシアは、イアンの操る馬上から街の様子を見下ろす。
とても綺麗な街だ。
建物は赤茶色の煉瓦で統一され、石畳の歩道がずいぶんと先まで続いている。
街は人々で活気にあふれ、賑やかな話声があちこちから聞こえてくる。
店に呼びこみをする声に、陽気な歌声。
囃したてるような笑い声。
数多ある屋台の間をぬうようにして、子供たちはあちこちを走り抜けては母親らしき人物に叱られていた。
良い匂いがそこら中にたちこめ、お昼もしっかり食べたというのに、もうお腹が減ってきた心地すらしてしまう。
(あれはなにかしら? 見たことないわ。果物? 野菜? あっちはなに? 大道芸かしら?)
忙しなく首を動かしていたレイシアに、イアンが背中側から声をかける。
「一度馬をおります。街中は徒歩で移動しましょう」
邪魔になってしまいますからと、願ってもないイアンの提案に、レイシアは首振り人形のように激しく同意した。
そのまま馬を降り、街の馬丁屋に馬を預ける。
さっきよりもいっそう近くなった目線に、レイシアは心弾むのを抑えきれなかった。
さらに良いことには。
皆が皆、自分のすべきことに精一杯で誰もこちらに気を取らないのだ。
いつも周りの視線ばかりを気にしていたレイシアには、これ以上楽なことはない。
「ねえ、イアン。早く行きましょう?」
手招きをして彼を呼べば、なぜか彼は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「なに? どうしたの?」
「いや。初めて名前を呼ばれたな、と思いまして」
「えっ? そうだった? まあそんなことはどうでもいいじゃない。早く!」
「はいはい。迷子になるのだけはご容赦下さいね」
言うなり、イアンは何の迷いもなくレイシアの手を握った。
まさかの出来事に、すでに一歩目を大きく踏み出していたレイシアは、不自然に動きが止まってしまう。
「なにをぅ⁉」
あまりの驚きに声が裏返ってしまった。
ついでに咽こんだ。
涙目になってごほごほ言っているレイシアの背をイアンがやんわりと擦る。
(情けない、情けないわレイシア。またまんまと〝計画〟にはめられるところだったわ)
長めに息を吐き出し、レイシアは目に力をこめた。
「これも、計画の一部かしら?」
握った手をわざわざ視界に入るよう持ち上げてイアンに問えば、彼は「なにを緊張なさっているのです?」と目を軽く細めた。
「嫌われたものですね、俺も。ただの迷子防止ですよ。ご安心ください」
「あのね、さっきから〝おつかい〟とか〝迷子〟とか。いくらなんでも馬鹿にしすぎよ」
「馬鹿になどしていません。心配しているんですよ。昔から、馬と子供の手綱はしっかり握っておけ、と言いますし」
「なにそれ。上手いこと例えたみたいな顔してるけど、どっちにしても不愉快よ」
ふいと顔をそむけると、イアンはこれみよがしにため息をついた。
「馬と子供は騎士にとって何にも換え難い宝です。……まあ、王女殿下には分かりにくい例えですかね」
「また馬鹿にした」
「先を急ぎましょうか。早くしないと日が暮れてしまいそうなので」
最初こそ雲行きは怪しかったけれど。それ以降は特に何のわだかまりもなく、街を堪能した。
食材調達という本来の目的だけでは飽き足りるわけもなく。
口から火を吐きだす大道芸人を見たり、花屋では珍しい植物を見せてもらったり。
肉屋に行って、店の軒先に剥製にした牛の頭部が飾られていたのにはさすがに驚いたが。
おまけだと言って、肉屋の主人に手渡された揚げ鳥は本当においしかった。
玉子屋では、甘いプディングをお土産にもらった。
「まあ。ありがとうございます、おばさま」
玉子屋の女主人に、愛想良くお礼を言いつつ受け取る。
「いやだわ、おばさまなんて。そんなお上品に呼ばれたのは生まれて初めてだよ。嬉しいねえ」
レイシアとイアンの顔を交互に見つつ、女主人はさらに話しかけてくる。
どうやら、かなりおしゃべりが好きな方らしい。
「いい男連れているじゃないかい。夫婦かい? ここらじゃ見かけない顔だけど」
「いえ、夫婦なんかではあり」
「夫婦です」
レイシアが馬鹿正直に否定しようとしたのを、イアンが肯定してしまった。
とっさにイアンの方を見たが、彼は「話を合わせた方がこの場は無難です」と視線で伝えてくる。
「照れちゃって、かわいらしい奥さまだこと。さぞ自慢なんでしょうねえ」
「ええ。我が妻は、エルメルト一、美しい女性だと自負しております」
鉄壁のほほ笑みを顔に刻みつけて、のうのうと言うイアンにレイシアは絶句した。
照れてではない。あまりに棒読みに言うので、神経を逆撫でされたのだ。
そんな二人の心情も気にすることなく、女主人は「いいねえ」とにこやかに笑っている。
「でも、気をつけなされよ。最近じゃこの街もずいぶんと物騒な感じになってきたからね。あまり見せびらかしていると、ね」
含みを持たせた彼女の方便に、レイシアは少し気にかかる。
それはイアンも同じだったようで、二人は揃って顔を見合わせた。
「この街が、ですか? ここは昔からとても治安が良くて、良い街だとうかがっていたのですけれど」
「昔は、ね。今じゃもう、嫌な感じのする街になっちまった。悪いことは言わねえから、早めにこの街は出た方が良い。かわいらしいお嬢さんに、おばちゃんからの忠告だよ」
目元に深く皺を刻んで、親切に教えてくれた彼女が嘘をついているとはとても思えないが。
何かが腑に落ちないまま、二人は玉子屋を後にした。
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買い物も全て終え、もと来た道を戻る途中。
レイシアはずっと、さっきの玉子屋の女主人の言葉を反芻していた。
皆も買い物は既に終えたのだろう。さっきよりも客足がまばらになった街を見渡しつつ、さっきまではよく見ていなかった街人の顔を盗み見てみる。
(確かに。なにか元気がないような気がする。気のせい、かしら?)
威勢の良い呼び声も、人々の笑い声もあるが。
ふとした時に見せる、街人たちの、何かに絶えているような表情がレイシアは気になった。
「あっ」
街人たちを見ているうちに、前を見ていなかったレイシアは、通りすがりの人とぶつかってしまう。
「すみません」
軽くレイシアが謝れば、ぶつかった人物は隠しもせずに眉間に皺を寄せて、舌打ちをする。そのまま上から下まで睨みつけられた。
「おい」
「待って。いいの。私が悪いのだから」
すかさずイアンがレイシアを背に庇い、目つきの悪い男を非難したが、上着を軽く引っぱり、それを止める。
街の往来で目立つわけにはいかない。それに。
(胸にフォルキア国の紋章? どうしてここに?)
夕暮れの、辺りが赤く染まる中で。
よくよく見れば、上品な身なりをしたその男は、数名の護衛らしき屈強な人物たちを引きつれていた。
レイシアとイアンの庶民的な恰好を見るなり、興が逸れたと言わんばかりに、男はそのまま二人の目の前を去っていった。
「見た? イアン」
「ええ。間違いなくフォルキアの人間ですね、あれは」
「どうしてこんなところにいるのかしら? 確かにここは、……そうね。彼らがいてもおかしくはないのだけれど」
そこで、レイシアは黙考した。
近年では忘れかけていたが、ここトーリアは少し難しい土地であることを思い出す。
「少し、気にはなるわね」
「そうですね。……俺が尾行して様子を見てまいります。王女殿下は、」
「待っているわ、ここで。ちょうど腰掛けるベンチもあることだし」
「――助かります」
イアンが肩の力を少し抜いたのが、レイシアには分かった。
(そこまで『私も行く!』と言うほど、物分かりは悪くないわよ)
イアンは左右あちこちにすばやく視線を走らせ、何かを確認し終えてから「何があっても、ここから動かないでください」と言い置き、くるりと身を翻して男たちの去っていった方向へと姿を消した。
彼の姿が雑踏に消え、全く見えなくなったところで、レイシアはベンチに腰をおろす。
朱色が一段と濃くなっていく、美しい夕焼けのはずが。なぜか街全体を血の色で覆うような、まがまがしい心地がして。
得体の知れぬ嫌な胸騒ぎに、レイシアは軽く身震いをした。