第二章 ⑦/当事者たちの懸念
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一方。
「いやあああああ!」
「いいではないですか。こういうのは慣れですよ。怖くありませんから」
「嫌なものはいやあああああ!」
レイシアは今、絶体絶命の状況に立たされていた。
――さかのぼること一時間ほど前。
ぐうぐうと鳴るお腹をやんわりとおさえつつ、厨房へと行けば、すでにそこにはイアンがいた。
彼も目立つ騎士服からは着替えたようで、白いシャツに灰色のスラックス、黒のジレを着た、ごくごく普通の格好になっている。
彼の手にはトレーが乗せられており、さらにその上には昼食らしき食事がちょうど二人分乗っていた。
「それ、あなたが作ったの?」
温かな湯気が立ちのぼるスープと、新鮮な野菜とベーコンをはさんだサンドウィッチを見つつ問えば、短く「いえ」と返事が返ってくる。
「昼食は用意してくれていたみたいです。俺はスープを温めただけです」
「そう。ありがとう」
「すぐ隣に部屋がありますから。そこで食べましょう」
そのままイアンが手際よくテーブルセッティングもこなし、二人で昼食を食べた。
食後にのんびりと紅茶を飲んでいたら、いつの間にかイアンが食器洗いまでしてくれていた。
ミリィの心配をよそに、何の苦労もなく(イアンが全てしてくれただけ)、レイシアには実に有意義なランチタイムとなったのだが。
問題は、そのあとに起こった。
「食材がありません」
「え? ないの? まったく?」
「水はさすがにありましたが、貯蔵庫は空でした」
食材がないということは、食事を作れないということ。
しばらくここで生活をするのに、それでは困る。飢え死に確実だ。
かといって、ないものはない。
「どうするの?」
「幸い、厨房の裏口から出たところに菜園があるみたいなので、野菜はなんとかなりそうですが」
「菜園があるの⁉ お城の中に⁉」
「さっき覗きましたが、結構立派な菜園でしたよ。私は今からそこで野菜を採ってきますので、王女殿下はこちらでお待ちくださ」
「私もやる!」
遮って、レイシアが勢いよく椅子から立ち上がった。
(だって、このままイアンにばっかり全部任せきりなんて、何だか嫌なんだもの)
全部が、彼の掌の上で転がされてしまいそうで。
あと、やっぱり共に生活するのだから、自分もやれるだけのことはやらないと彼に申し訳ない。
そう思ったのに。
「なによ、その目は!」
「王女殿下、今からいくところは花々が咲き誇る王宮の庭園ではありませんよ?」
「わかっているわよ! 野菜がたくさん実っている畑でしょう? それともなに? 私が役に立たないとでも言いたいの⁉」
そんなこんなで。
疑わしげな視線を送ってくるイアンも否し、袖をたくし上げて、意気揚々と菜園へと続く裏口を通ったまではよかった。
――「きゃあああああ!」
幾度目になるか分からないレイシアの叫び声に、イアンがたった今引き抜いた大根を手にして、後ろを振り返る。
「虫ぐらいいいますよ。菜園なんですから。慣れたら怖くありません」
「違う! 違う! 虫じゃなくて!」
「ぬかるんだ土に足を取られて尻もちをついて、顔に虫が直撃して転んで、芋を掘れば虫が出てきてひっくり返って。次は何です?」
言いつつ、イアンはため息交じりに、大根に付着している土を払いのける。
もはやレイシアの方を見もしない。
「見て! トマト! すごく綺麗!」
もぎたてのトマトをスカートで丁寧に磨いてから、イアンにかかげて見せる。
ようやくこっちを振り返ったイアンは、真っ赤なトマトもそこそこに、レイシアを見て目を数度瞬かせる。
「王女殿下、失礼ながら。一言よろしいですか?」
「なにか?」
上機嫌で首を傾げたレイシアに、イアンはふっと相好を崩した。
「顔に泥がついてます。それがちょうど、面白いことに鼻の下で髭のようになっていまして。――非常に言いにくいのですが、絵本に出てくる泥棒みたいですよ?」
だんだんと笑いを堪え切れなくなってきたらしいイアンは、腹を抱えて笑いだした。
自分の顔がおかしくて笑われていることに、ちょっとだけむっとした。
でもそれより。
初めて意地悪でも何でもなく、自然に笑っている彼の顔に、レイシアは不覚にも見惚れてしまう。
いつも無愛想な顔なので、年齢よりも大人びて見えるが、笑うと年相応かそれ以下に見える。目元に刻まれる笑い皺がそうさせるのだろう。
一通り笑い終わったらしいイアンが「そろそろ戻りましょうか」と声をかけてくる。
「野菜もたくさん収穫できましたし。泥を落としませんと、ね?」
笑いの発作はおさまったらしいが、まだ口元は笑っている。
そんなにひどい顔をしているのか、とさすがにレイシアは両手で口元を覆い隠した。
覆ったまま、「笑いすぎよ」とレイシアがたしなめれば、彼は素直に「すみません」と謝った。
「泥を落とし終えて身綺麗になったら、今度は街まで行きましょうか」
ふてくされて下を向いていたレイシアは、イアンの提案に一気に顔を上げる。
「街に行くの?」
「ええ。さすがに野菜だけでは心許ないですから。肉や玉子を調達しに」
「私も行く!」
ずっと王宮に閉じこもっていたレイシアにとって、ミリィやヴィオラから聞いていた街という場所はとても魅力的な場所だ。
ちなみに、今まで行ったことは一度もない。
人混みは嫌いだけれど。こんな機会はもう二度とあるか分からない。
目を輝かせて言えば、イアンは「はいはい」と生返事を返す。
「言われずとも連れていきますよ。二十二歳の王女殿下、はじめてのおつかい」
「なに? なんだか悪意があるように聞こえたのは気のせいかしら?」
「まさか。勘ぐりすぎですよ」
こうして、二人でトーリア城から目と鼻の先にある城下街に行くことが決定した。