姫君の安息
†姫君の安息†
目の前の少年はただただ、人懐っこい笑顔でチェリーを見つめる。彼女はそんなリーフを見つめ返しながら、頭の中はひどく混乱していた。
なぜ。どうして。そんな疑問符が浮かんでは消え、浮かんでは消え。
チェリーは震える握り拳をそっとほどき、リーフの胸へと持っていく。ぶつかる強い視線。彼女は彼の首もとのスカーフを掴み、叫んだ。
「騙したなこのエセ貴族ー!」
喉が絞まり、リーフはぐえっとひしゃげた声をだす。
「なぁにが『初めまして姫』よ! バカにしてるの!?」
「ちょっ、落ち着けチェリー! 死ぬ死ぬ!」
「お黙り! あんたに拒否権はないわ!」
「横暴だぞ! っていうか、こんな所でそういうこと叫ぶな!」
その指摘にチェリーはハッとし、手を放した。確かにここで騒ぎたてるのは良くない。
姫と公爵子息が揉みあってる光景などを、城の誰かに見つかってはまずいだろう。
チェリーは未だに咳き込んでいるリーフの手を引き、自室に向かった。
◇
チェリーはベッドに座り隣をパンパンと叩いて、リーフも腰掛けるよう促す。
リーフは少し迷ったが、早くと急かされたので仕方なく座った。
「……で、どういうことか説明してくれる?」
「お顔が恐いですよ、姫」
明らかにからかっているその言葉に、チェリーの眉間に皺がよる。普段あのお世辞にも綺麗とは言えない口調を聞いていたせいか、違和感が拭えない。
チェリーの怒りに気付いたリーフは、冗談だよと慌てて言った。
彼女はまだ不機嫌な表情をしていたが、このままでは話が進まないので何とか抑える。隣に座る少年を見つめ、説明してともう一度言った。
「俺もチェリーと同じ。屋敷から脱け出して、町で遊んでたわけ。あ、でも俺はお前と違ってバレたことねぇよ」
得意気に言うリーフに、チェリーはムッと口を尖らせる。
確かに自分は何度も気付かれ、その度にどこかの堅物騎士に怒られているけれど。
「て、っていうか、リーフは私のこと姫って分かってたの?」
「いや、最初はただの町娘かと思った。まず格好が小汚かったし。まぁ、やけに気品があるというか高飛車だなとは思ったけど」
「……じゃあ、いつから」
「そりゃ、一応俺だってこの国の一員だからな。名前くらい知ってるし」
偽名使えばよかった、とチェリーは後悔した。自分は少しばかり、いや、かなり姫としての自覚が足りないのだろう。
それにしても、と彼女は隣の少年を見た。多少の名残はあるものの、同一人物とは思えないほどの変わりようである。
纏っている服装のせいだけじゃない。雰囲気も普段の彼とは全然違う。現にチェリーはリーフと直ぐに分からなかった。
「な、なんだよ。そんなに見るなって」
頬を赤く染め、リーフは小さく身構える。
「いや……すごい演技力だなって思ってさ。あんな馬鹿そうだったのに」
「失礼だな!」
「だから騙されたって言ってるじゃない。なにあんた、猫かぶってるの?」
フォーリッジ公爵の前でのさわやかな笑顔、丁寧な言葉遣いを思い出す。今とはかなり態度が違う。
チェリーの問いに、リーフはまぁなと頬をかきながら答えた。
――町に出かけるのは、ストレス解消かしら?
自分の本当の性格を隠すなんて、疲れるに決まっている。他人ならまだしも、家族相手なら尚更だ。そんなことしていたら、誰だって精神が参ってしまうだろう。
彼の心情を思い、少しばかりナーバスになる。しかしそんな彼女の気持ちを、リーフの次の言葉がガラガラに崩した。
「あ、でも家ではこんなだぜ?」
へっ、と思わずチェリーは漏らす。しかし構わずリーフは続けた。
「だから、猫かぶってるのは偉い人の前でだけ。俺自身は普段からこんなだよ」
それはつまり、先程の態度は王の前でだからであって。実際は、他人でも家族でも、目上の者ではないならこの少々ずさんな自然体、ということだろう。
――し、心配して損したわ……!
私のセンチメンタル返せ!という言葉に、リーフはなんじゃそりゃ、と肩をすくめた。
それにチェリーは更に不機嫌になるが、あることに気付き、みるみるうちに笑顔へと変わる。分かりやすいそれに、リーフは首を傾げた。
「ふふ、だって、相手がリーフって分かったなら安心だもの。私、まだ結婚したくないのよね。っていうか、決められた結婚が嫌なの。どうやって断ろうか悩んでいたところだけど、リーフなら簡単」
スラスラと弁舌爽やかに話すチェリーは、リーフの眉間にしわが寄せられていることに気付かない。
「二人でお父様と公爵を説得すればきっと納得してくれるわ。リーフだって、こんな形の婚姻は嫌でしょ?」
同意を求めるというよりは、YESが前提である言い方。リーフは目を細め、ベッドにつけていた右手をゆっくりとあげた。
警戒心のないチェリーはそれに気付いても、動かない。やがてその手は彼女の薄紅色の頬にそえられる。
「俺は、相手がお前なら」
吐息混じりの声。絡む若草色と空色の視線。
「リーフ……?」
そして彼の左手も、彼女の頬へと移動して。二人の距離は、わずか5センチ。
◇
ブリーズは焦っていた。なぜもっと早く気付かなかったのだろうと自身を責めたが、既に後悔先に立たずである。
――見覚えはあったんだ。ただ、服装と言葉遣いのせいで見抜けなかった。
小さく舌打ちしながら頭に浮かべるのは、空色の瞳の少年。町で姫君といた、見た目は一般庶民の。リーフ。そう、リーフ=エア。貴族ならば、エアの名を知らぬ者はいない。王族にさえ劣らない、高等貴族なのだ。
――だから余計に、信じられない。公爵子息ともあろう者がなぜ……。
疑問と焦りを感じながら、ブリーズは広い廊下を大股で歩く。行く先は、我が姫の部屋。
扉の前まで着き、しかし彼はそのノブに手をかけることを躊躇っていた。自分は何に対して焦り、苛立っているのだろうと。
開けるべきではないかもしれない。たかが護衛が口出しすることではないのだ。
だが、そんな彼の考えは吹き飛ぶ。
「や、やだリーフ……!」
その声が耳に届いた瞬間、ブリーズは勢いよく扉を押し開いた。