騎士の予感
†騎士の予感†
ブリーズは椅子に深く座り、ため息をついた。
窓から見える空はひたすら青い。昨日の雨など嘘のように、晴れわたっている。
落書きのように散りばめられた雲は、手を伸ばせば掴めそうで。昼の細く白い月は、みとれるほど綺麗で儚い。
今日は、姫君の婚約者になるかもしれない人物がくる。チェリーは乗り気ではなさそうだが、王の命令だ。さすがに逆らえなかったのだろう。
まだ16の若さだと聞いた。しかし、貴族には若いうちから婚約者はいる。不思議な話ではない。
しかし王族と結婚するなど、かなり身分が高くないと不可能だ。
――陛下は知り合いと言っていたが…他国の王子か?
ブリーズも詳しいことは聞いておらず、顔だって見ていない。
彼は二度目のため息をついた。
護衛とは主人の幸せを願うもの。口出ししてはいけない。邪魔するなんてもっての他。姫君を無粋な輩から守り、常に傍らに寄り添う。
主以上の感情を抱かない。
それが暗黙のルール。しかしチェリーは彼を好きだと言う。そして同様に、ブリーズも彼女に愛しさを感じていた。
とは言っても所詮身分違いの恋。祝福してくれる者は少ないだろう。
側にいれればそれでいいなんて、綺麗事だ。
何やら廊下が騒がしい。部屋から出て近くにいたメイドに何事かと尋ねる。
「姫君がいなくなったのです! ああ、もう公爵が来るというのに……!」
忙しそうに言い、彼女は走っていった。
「公爵……。公爵の息子なのか?」
てっきり王族の者だと思っていたブリーズは、少しばかり驚いた。
――それにしても。まさか今日、この日に城をぬけだすとは……。
その大胆さには、さすがに感心する。
「しかし、公爵と言ってたな。陛下と馴染みの深い公爵といったら…」
そこでブリーズはハッとした。思い当たる公爵の名前を思いだし、重大なことに気付いたのである。
「まさか!」
彼は走りだした。
◇
迷路のように複雑で、気が遠くなるほど広い城内。そこで一人の女性を探すのはとても困難な行為だ。
「そっちは!?」
「だめです、いません!」
「くっ、姫君はいったい何処へ行ってしまったんだ……」
使用人たちが慌ただしくかけまわっている。無理もない。大切な客人が来るというのに、肝心の姫君がいないのだから。
「いいか。陛下には言うなよ。なんとしても見つけるんだ」
そう言って彼らは、長い廊下を走る。その様子はかなり挙動不審だ。
「……行ったわね」
壁に身体を這わせ、曲がり角からその場面を見ていた彼女──チェリーは息を吐きだす。
「まったく、婚約なんて冗談じゃないわ。しかも16歳って……年下じゃない」
心底嫌そうに彼女は呟いた。
チェリーは、自分のやっていることがどれだけ大変なものか分かっていた。分かっていて、城から脱走しようとしてるのである。
――嫌なものは嫌なんだもの。
そんな言い分、他人が聞いたらただの我儘だ。しかしチェリーにとって、決められた結婚は、苦痛でしかない。
――それに私が好きなのは、ブリーズだし。……未だ相手にされていないけど。
アプローチ方法が悪いのかしら?なんて頭をひねるチェリー。
彼女は気付いていないが、それは十分に効果を発揮している。ただ、主と護衛という厚い壁があるだけで。それさえなければ、二人は一緒になっているだろう。
「どうして、私は姫なんだろう」
普通の町娘がよかった。普通の友達がいて、普通の恋をして、普通の人生を送る。
ないものねだりだが、チェリーに姫という身分は正直鬱陶しかった。
――でも、もしそうならブリーズとは会えなかったよね。どちらにしても、満足できないか。
利と損はつきもの。改めてそう感じるチェリーであった。
◇
「おお、久しぶりだなエア公爵」
「そんな他人行儀なことを仰らないで欲しいな陛下。フォーリッジと呼んで下さい」
「君こそかしこまった口調して……。まぁお互い様か」
その言葉に笑いあう王とエア公爵。彼の傍らには、まだ幼さの残る顔立ちをした少年が立っている。
ハニーブラウンの髪をして、瞳は淡い空色だ。利発そうな雰囲気を纏っている。
「……おや? あれは」
何かに気付いた王が、首をめぐらせた。その視線を追う二人。そこには、金髪を高い位置で結った若い女性が。
桃色のドレスは厚手の絹で。見ただけで上質だと分かる。城内でそんなドレスを着た者など、なかなかいない。そのうえ挙動不審で。
全てを悟った王は呆れのため息がこぼれそうになるのを堪え、彼女の肩に手を触れた。分かりやすく、跳ね上がる身体。
彼女は、ゆっくりと振り返った。
「何をしてるんだ? チェリー」
「お、お父様……」
ひきつる頬。まさか逃げようとしてたなんて言えるはずなく、
「遅いので、心配になり見に来たのです」
とっさに嘘をついた。
王はそれを見抜き、苦笑いを浮かべる。これ以上責められぬよう、チェリーは公爵に目をむけた。
「初めまして、フォーリッジ=エア公爵。御会いできて光栄ですわ」
ドレスの裾をつまみ、的確な角度でお辞儀をする。普段のお転婆ぶりからは想像つかないほど、その仕草は優雅であった。
公爵も感心の吐息を漏らす。
「いや、さすが姫君ですね。なんて素敵なレディであることか」
「お褒めに預かり恐縮です。そちらは公爵子息の───」
そう言いかけて、チェリーは口を噤んだ。否、驚きに言葉が出てこないのである。公爵の隣にいる少年は姫を見て、微笑んだ。
それに彼女はハッとする。
「あ、あんたリー…むぐっ!」
「初めましてチェリー姫! 私はリーフ=エアと申し上げます。以後お見を知きりを」
チェリーが叫ぶ前に、彼女の口を塞いだ少年。さわやかな笑顔に、チェリーはまだ目の前の光景が信じられなかった。
「ふむ。では我々は向こうで話そうか。リーフ、といったな。チェリーを頼むぞ」
「はい、陛下」
王とフォーリッジは立ち去る。チェリーは公爵子息と残された。
「ん〜〜〜!」
「え? あっと。忘れてた忘れてた」
「ぷはっ!」
彼はチェリーの口にあてがっていた手を離す。チェリーは大袈裟に咳き込み、深呼吸を繰り返した。
そしてもう一度、目の前の少年を見つめる。身なりのせいかずいぶん違って見えるが、間違えるはずがない。
何度も顔を合わせたのだから。
「……あんた、本当に」
チェリーはかすれた声で尋ねた。
「リーフ……なの?」
彼はチェリーの髪を一束掬う。チェリーの瞳に映る、愉快そうに口角を上げる少年。
「そうですよ、姫君。いや、チェリー」
彼女は耳を疑った。
何度も見た顔。
何度も聞いた声。
何度も、何度も。そう、町へ出かける度に。
町での友達。名前はリーフ。それ以外、何も知らなかった。知る必要がなかった。
だけど、お世辞にも綺麗とは言えない衣服に、悪い言葉使い。一般庶民だと思っていた。だから安心してチェリーは仲良くなった。
「…なんで…」
「お互い様だろ?」
先ほどの高貴な笑みではなく、イタズラな笑顔。それは彼女の知ってる表情で。
「初めまして姫。久しぶりチェリー」
リーフはそう言った。
町娘だと思ったら、一国の姫で。
庶民だと思ったら、公爵子息で。
嘘をついていたのではなかったのだから、裏切りではない。
しかし、チェリーの心には、確かな痛みがはしった。