姫君の憂鬱
†姫君の憂鬱†
限られた者しか入ることが許されない王宮。そこへチェリーを抱いて帰ってきたブリーズを見て驚く使用人は、最早少なかった。
我が姫君が護衛に捕まるのは、日常茶飯事とまでになっていたからである。
それを偶然見掛けたチェリーの兄、ビオレはお転婆な妹と多少強引な騎士の姿に、ただただ苦笑いをこぼした。
姫の部屋。其処に着くと、ブリーズは彼女をやっと降ろす。 チェリーは口を尖らせ、自分をここまで連れてきた騎士を睨んだ。それに気付いているのかいないのか、ブリーズは全く素知らぬ顔である。チェリーは眉間にシワをよせ
「嘘つき。私、二度とあんたの言うこと信じない」
と、吐き捨てるように言った。靴を荒々しく脱ぎ、天蓋付きのベットに寝そべる。柔らかい羊毛の布団が、彼女の動きに合わせて沈んだ。
ブリーズは呆れた眼差しを向けるが、何も言わない。チェリーはそれにまたムッと頬を膨らませた。
「なによその顔。…あ、分かった。ブリーズ妬いてるんだ。私がリーフと一緒にいたから。ね、そうでしょ?」
はやしたてるように言うチェリー。ブリーズはため息を小さく吐いて、天蓋のレースを開いた。チェリーは面白そうに目を細めている。
「姫君、あなたはどうしてそうなのですか」
「どういう意味よ」
「…………」
「無言でため息つくの止めて」
どうやら彼はチェリーを怒らせるのが余程上手いらしい。それが無意識なのか故意なのかは定かではないが。
チェリーは傍らにあった枕を抱きしめ、寝たままブリーズを見上げる。絡む視線。何かを探るような彼の蒼い瞳に、チェリーは首を傾げた。
「……チェリー様」
ブリーズはたっぷりの間をあけて、重たい口を開く。チェリーは次の言葉を待った。
「あのリーフという少年は、貴女の知り合いですか?」
予想より何でもない質問に、チェリーは拍子抜けする。しかしブリーズの表情は真剣そのものであった。それに多少尻込みながらも、
「知り合いっていうか……、町での友達?」
と答える。
「友達……。一体どこの者です? 出身は? 年齢は? 住所は?」
一度にたくさんの問いをするブリーズ。彼女はそれに戸惑いつつも、何でそんなことを聞くのか、逆に尋ねた。
当たり前だろう。そんなに個人情報を聞きたがるなど、普通に考えたらおかしい。
ブリーズは伏し目がちにチェリーを見つめ、こう呟いた。
「見覚えがある、ような気がします。いつ何処でかは、よく分かりませんが」
ずいぶん曖昧な返答である。チェリーはますます怪訝な顔をした。
「町で見たんじゃないの? 言っておくけど、私はリーフの名前くらいしか知らないからね」
そっけない姫の言葉に、ブリーズは片眉をあげた。不可解、といったところであろう。
「名前だけ? あんなに仲良くしていたのにですか?」
「あ、やっぱり妬いてる」
「チェリー様!」
赤くなるブリーズに、彼女は冗談よと口角をあげた。明らかにからかわれている。そう感じたブリーズは、盛大なため息を吐いた。ため息ばかりの彼に、チェリーは少しばかり目を細める。
初々しい若草色の瞳。それに似合わないやや挑発的な流し目は、彼女に色香を纏わせた。長いプラチナブロンドが、真珠のような首筋を這う。ブリーズは唾を飲んだ。
――今まであまり意識してなかったが……。
そう、チェリーは美人なのだ。それこそ、他国の王子から求婚される程に。そのお転婆さえ直せば、なんて麗しい姫だろう。
「ブリーズ?」
チェリーの声に彼はハッとした。彼女は小首を傾げ、上目使いに我が護衛を見上げる。チラホラと見える鎖骨が艶めかしい。
一度意識してしまったブリーズは途端に気まずくなり、わざとらしく咳払いをした。ベットに寝そべるチェリーから視線をはずし、
「とにかく、今後あの少年のことで何か分かることがあったら教えて下さい」
と、早口に言う。
――だから何も知らないって言ってるのに。
次はチェリーがため息をつく番だ。彼女は正直、リーフについてどうかしたいと思っていない。顔と名前以外知らないが、実際に仲は良いのだ。それに余計な詮索はしたくない。
顔を合わせれば、気兼ねなく世間話なんかをする。お互い詳しい内情は聞かない。姫という正体を隠してるチェリーにとって、そんな仲は心地好い距離であった。
「……どこ行くの」
そんなことを思いながら、寝台から離れるブリーズに向かい、小さく声をかける。その呼び掛けに彼は振り向かず、
「執務に戻ります」
と言い、部屋から出ていった。閉まるドアの音が、やけに大きく感じる。足音が遠ざかるのを聞くと、チェリーは肩をすくめた。
◇
あれから数日。ブリーズの目もあって、チェリーはここのところ全くと言っていいほど町に行っていなかった。
ピアノ、ダンス、マナー、etu……。稽古ばかりの毎日に、チェリーのストレスは溜るいっぽうである。
自室のベットで本を読んでいたチェリーは、目線をそっと窓の外へと移した。
灰色の空。どんよりとした重々しい雲がゆっくりと流れている。その様子から、風が強いことも把握でき。いつもの晴天がまるで嘘のように、気持ちまで沈む天気模様である。
彼女も例外ではなく、盛大なため息をついた。
再び視線を手の中に戻す。文字がひたすら並べられた本。物語の内容は悲恋のロマンスだ。暇潰しで読み始めた本だったが、すっかりのめりこんでしまっている。
――でも、余計に憂鬱になるわね。
両想いのふたり。数々の障害が彼等を襲う。周りの反対。不治の病。欠けた記憶。愛だけで乗り越えるには、辛すぎる。
まだ半分ほどしか読んでいないため、結末は分からない。だけど願わくば、全ての人が笑えるハッピーエンドを。彼女はそう心のなかで祈る。
「…報われない…」
チェリーは小さく呟いた。
命をかけた、世紀の大恋愛?
……よく云う。結局はエゴだ。傷付いて、傷付けて、それで何が残る?
欲しいのでしょう?
奪われたくないのでしょう?
独りは嫌なのでしょう?
だから愛しつづける。
――ああ、違う。それはあくまで私の醜い部分。
フィクションで作られたヒロインに己を重ねるなど、なんて愚かな行為。
そんなことを考えていると、不意に窓を叩く音が響いた。冷たい雫の旋律。ああ、本当になんて憂鬱な天気なんだろう。彼女の眉間に皺が寄る。
もともと、雨なんて滅多に降らない国だ。嫌な予感がしてならないのは、きっとチェリーだけではないはず。そしてそういう事に限って、当たってしまうのだ。
部屋を振動させるノックの音。彼女はゆっくりと起きあがり、扉を見つめた。
「チェリー様、ブリーズです。お入りしてもよろしいですか?」
恨めしい、だけど愛しい騎士の声。チェリーはホッとし、肩の力を抜いた。読みかけのページにしおりを挟み、入室の許可を下す。
しかしドアの奥から現れたのは、意外な人物だった。
「…お父様?」
ブリーズの一歩手前に立つ、初老の男。それは紛れもないこの国の王、そしてチェリーの父であった。
チェリーは彼の突然の来訪に、驚きを隠せない。王は休む暇もないくらい忙しい身だ。そう、愛娘に会う時間だってなかなか取れないはず。
――それなのに、一体なぜ?
疑問に思う反面、彼女は理解していた。
時間を潰してまで、来た理由。きっと何か、大きな用事でもあるのだろう。
――なんかあったかな?
舞踏会なら前にやったばかりだし、レッスンだってそこまでサボっていない。
思いあたる節など───。
「チェリー」
低く穏やかな、だけどどこか威厳がある声色。彼女は自分のもとへ近寄る我が父を、黙って見つめる。王の後ろのブリーズは、心なしか浮かない表情をしていた。
「明日、私の客が来るんだ」
王は言う。
「……客?」
「そう。古くからの知り合いだ。そして、その息子も連れて来るらしいんだ。私も以前会ったが、その息子とやらがまた才気溢れる子でね。まだ十六という若さだが、大人顔負けの教養を持っているのだ」
少しずつ、チェリーは父の言いたいことが予想できてきた。しかしそれは彼女にとって有難迷惑な話で。
出来れば外れてほしいと祈る。
「身分もそこそこだし、どうだ? 一度会って」
「お父様」
言い終わらないうちに遮った。
「会えと言うなら会うわ。だけど、前に言った通り私はよくも知らない人と婚約するつもりはない。見合いなら御免被るわよ」
強い眼差しを向けるチェリー。王はしばらくそれを受けていたが、唐突にため息を吐き出した。その反応に、チェリーの頬が微かにひきつる。
王はそんな彼女に、しゃがれた声で言い放ってみせた。
「チェリー、今まではそなたの我儘を聞いてきた。しかしそうこうしてるうちにお前は十八歳。そろそろ正式な婚約者を決めたいのだ」
分かるだろう?と目を細める。その最もな正論に、チェリーは言葉を詰まらせた。
自分の身分くらい痛いほど分かっている。こんな言い分、いつかははね退けられるだろうと思っていた。それが、今きてしまったのである。
黙っている娘に、王は顔を歪ませた。本当は強制したくない。可愛い娘だ。ただでさえ他の男に差し出すなど、嫌なのに。
「…ブリーズ、お前はどう思う?」
「えっ」
突然話をふられたブリーズは、返答に困った。まさかここで聞かれるとは思ってもいなかったのだろう。
しかし、それよりもチェリーのほうが心臓を高鳴らせていた。彼は一体、なんと答えるだろう?
ブリーズは突き刺さるふたつの視線を浴びながら、はっきりとした口調で言った。
「私は、護衛の身分。姫君が幸せならそれでいいのです」
「……そうか」
――否定は、しないのね。
分かっている。彼の性格上、止めるわけないのだ。分かってはいるが、やはりチェリーは少なからずショックであった。
悲しむな。
傷付くな。
口唇を噛み締め、彼女は必死に自分へ言い聞かせる。
「明日だ、チェリー。…会って、くれるな?」
チェリーは小さく頷いた。
窓を叩く雫が、大粒になっている。空はますます暗くなり。流れる雲の速度が、風の強さを物語っていた。
「だから雨は嫌いなのよ」
誰に言うわけでもなく零した彼女の声は、風雨のノイズに掻き消された。