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~ 寅ノ刻  邂逅 ~

 陽明館ホテルの一室で、宗助は独り夜の読書を楽しんでいた。


 志乃から宗助たちに割り当てられた部屋は、男と女で合わせて二つ。西側の、テラスに近い場所にある部屋だ。


 部屋のつくりは決して狭いものではなかったが、それでも男が四人も泊まると、さすがに窮屈に感じざるを得ない。もっとも、今は幹也と蓮が遊びに出ているため、部屋には自分と大輝の二人しかいない。これから宴会でも始めるつもりなのか、大輝はここに来る前に買い込んだ酒をせっせと並べている。


「なあ、宗助。お前、ちょっとあいつらを呼びに行けよ。もうすぐ宴会始めるから、さっさと戻って来いってな」


 宴の準備が整ったのだろう。大輝がベッドに腰を降ろし、宗助の読書を遮って言った。


「別に、俺が行かなくちゃならないってわけでもないだろ。酒飲みたいのは大輝の方なんだから、お前が呼びに行けよ」


「おいおい、そりゃねえだろ? 折角の、大学生活最後の夏だぜ? ここは一つ、楽しめるときに楽しんでおかないと、後で絶対に後悔するぞ」


「まあ、確かにそうかもな。でも、呼びに行くったって、一度に全員を探すのは無理だろ。幹也と蓮はBARで遊んでいるんだろうし、千鶴と美南海は、たぶん談話室で喋くってんじゃないか? 志乃は……あいつは、部屋に残ってるかもしれないけどな」


「はぁ……。仕方ねえな、どいつもこいつも……。こうなったら、手分けして声掛けるぞ、宗助。俺は幹也たちをとっ捕まえてくるから、お前は美南海と千鶴を頼む」


「ああ、わかったよ。ついでに、帰る途中で志乃にも声をかけておくさ」


 今しがた読んでいた本を枕元に置き、宗助は少々面倒臭そうにして立ち上がった。


 大輝は「自分も仲間を呼んで来るからいいだろう」という顔をしているが、宗助は厄介事を押しつけられただけということを知っている。幹也たちが遊んでいるであろうBARは、テラスを辿ればすぐ隣。その一方で、同じ階にあるとはいえ、談話室は宗助たちのいる部屋の正反対に位置している。


 結局、自分が遠い方にいる人間を呼びに行かねばならないのか。なんだかしてやられた気もするが、まあ別に構わない。どうせ宴会が始まれば、自分も一緒になって楽しむのだ。それに、大輝の言う通り、楽しめるときに楽しんでおくというのも悪くない。


 部屋の鍵を大輝に預け、宗助は大輝とは反対の西側廊下を歩いていった。客室を二つほど過ぎたところで、廊下は直角に曲がっている。そこを通り過ぎると、なにやら骨董品が置いてある部屋がいくつかある。


 志乃から聞いた話では、この洋館の持ち主は美術品の収集にも力を入れていたらしい。特に有名な芸術家のものはなかったが、気に入った物があると購入しては、部屋の中に飾らせていたようだ。


 絵画や彫刻、それに骨董品の値段など、宗助にはまったくわからない。だが、それらまで合わせて買い取ったとなると、やはり志乃の父の財力は相当なものがあったのだろう。そんな人間が、なぜこんな辺鄙な場所でホテルを経営しようなどと考えたのか。その辺は、宗助にもわからない。


 そこまで考えたとき、今まで何事もなく灯っていた電灯が突如として消えた。いきなり闇の中に放り出され、宗助はしばし困惑した顔を浮かべながら辺りを見る。


(なんだ……停電か?)


 志乃の話では、電気や水道に関しては、戦後にきちんと整備され直したとのことだった。増してや、ホテルとして使おうとしている洋館が、こうも簡単に停電するとは。


 これは、何か問題でも起きたのか。だが、こういうときこそ慌ててはいけない。停電になったところで、すぐに予備の電源が作動して電気が回復するはずだ。安全管理の面からも、こういった建物は二重三重に工夫がなされていることが多い。


 ところが、そんな宗助の考えに反し、電力は一向に回復しなかった。そればかりか、よくよく見ると、非常灯さえもついていない。こういった場合、最悪でも非常灯だけはきちんと点くようにできているのが普通なのだが。


 いったい、この事態はなんだろう。今、自分の周りでは何が起きているのか。何やら不穏な空気が動き始めたことを感じ、宗助はそっと立ち上がった。


 このままここで、丸くなっていても仕方ない。とりあえずは談話室に向かい、そこで美南海や千鶴と合流しよう。全てを考えるのは、それからだ。


 暗がりの中、宗助は手探りで廊下を歩く。多少は目が慣れてきたとはいえ、それでも何の明かりも無ければやはり先が見えない。目の前に何があるかわからないので、こうして壁沿いに歩く他に方法はない。


 壁に背をつけ、その感触を確かめながら進んで行くと、宗助はどこかで聞いた≪迷路の攻略法≫の話を思い出した。


 迷宮の中で迷ったら、とにかく壁伝いに歩くといい。壁伝いに歩き、再び同じ場所に戻ってくるようならば、そこは内壁だ。一方、うまく外壁と繋がっている場所に触れることができれば、後はそれに沿って進めば出口まで辿りつけるという。


 暗闇に閉ざされたホテルと迷宮では細かい状況が違うのだろうが、それでも同じ方法を使えば安全に先へ進めることは確かだ。多少、時間はかかるかもしれないが、このまま壁伝いに談話室を目指そう。


 ずるずると、いつもの半分以下の速度ではあったが、宗助は確実に談話室への距離を縮めて行った。途中、あまりの暗さに先が見えず、自分がどこまで進んだのかわからなくなってしまいそうになった。が、それでも諦めずに進んでいると、片手が何やら窪んだ場所に引っ掛かった。


「なんだ、これ?」


 思わず声に出し、宗助は窪みの中にある物に手を伸ばした。中に収まっていたのは筒状の物体。取り出して見ると、それはどうやら非常用の懐中電灯のようだった。


 地獄に仏とは、正にこのようなことを言うのだろう。この暗闇の中でも、とりあえず光さえ手に入れればなんとかなる。


 電灯のスイッチを入れ、宗助は放たれた光りで廊下の奥を照らしてみた。黄色く淡い光の先、廊下の角を曲がって少し行った場所に、薄ぼんやりと扉が見える。見覚えのある、赤茶色の扉。談話室への入口だった。


「やれやれ……。とりあえず、これでなんとか動き回ることはできるようになったかな」


 懐中電灯を手に入れたことで、宗助の心の中に再び余裕が蘇ってきた。ホテルに何があったのかは知らないが、とりあえずは一安心だ。そう思って一歩を踏み出そうとしたとき、宗助の耳に奇妙な音が聞こえてきた。



――――ズルッ……。



 何かを引きずるような、布と布が擦れるような音だ。訝しげに思い耳を澄ますと、またどこかで音がした。



――――ズルッ……ズルッ……。



 やはり空耳などではない。自分の目と鼻の先、談話室の扉とは反対側に、何かがいる。


 油断なく懐中電灯を構えると、宗助はそっと、今しがた自分が歩いてきた道を戻ってみた。懐中電灯を手に入れるまでは気づかなかったが、どうやら別の廊下に続く扉が開け放たれていたようだ。


(あの先は、確か石像の置かれていた廊下だったよな? まさか……誰かがこの暗闇の中で、石像でも火事場泥棒しようって考えてるのか?)


 ホテルの西側一階へと続く、石像のある廊下。そこにあった男の上半身だけの石像を思い出し、宗助は思わずそんなことを考えた。


 もっとも、いくらホテルの電源が落ちたとはいえ、いくらなんでも石像を火事場泥棒しようなどとは少々想像が飛躍し過ぎている。自分の考えがあまりに滑稽なことに気づき、宗助は頭を振って自分の頭に浮かんできたものを打ち消した。


 開け放たれた木の扉の向こう側を、宗助はそっと覗いて見る。懐中電灯の明かりで照らして見たが、特に何も変わったところはない。石像は宗助の正面に安置されたままであり、誰かが動かしたような痕もない。


 やはり、自分の思い違いだったのだろうか。念のため、もう一度だけ懐中電灯で照らしてみると、今度は宗助にもはっきりとわかった。


 暗闇の先、自分の脚を引きずるようにして歩く一人の男。服装からして、このホテルの従業員だろうか。その手はふらふらと宙に揺れ、なにやら低い唸り声のようなものを上げている。


 本当なら、今すぐ駆け寄って事情を説明してもらいたい。が、その従業員のあまりに奇異な様子を目の当たりにして、宗助はしばし躊躇った。


 あれはいったい何なのか。本当に、このホテルの従業員なのだろうか。そう考えている間にも、それは徐々に宗助の方へと近づいて来る。


 懐中電灯の電源を切っておけばよかった。そう思ったときには遅すぎた。宗助の目の前に現れた、従業員の姿をした者。それはまるで何かの獲物を見つけたように喜ぶと、口から大量の涎を垂らしながら、宗助目掛けて走り寄って来た。


「なっ……! なんなんだよ、あれは!?」


 叫んだところで、答えてくれる者などいるはずもない。そう、頭では理解していたが、思わず口から言葉が漏れてしまう。


 生気を失い、白眼が剥き出しになった二つの瞳。だらしなく投げ出された手と、その脚を引きずるようにしながらも、動きの遅さを感じさせない走り方。そして、涎にまみれた大きな口と、その中で蠢く異形の生き物。


 従業員の口から覗いたそれを見て、宗助は釣り餌のイソメを思い出した。目はなく、短い牙の生えた口と、ミミズともムカデとも言えそうなグロテスクな胴。そんな身体をした生き物が、従業員の口の奥から顔を出している。


 あれは人間ではない。少なくとも、あれに襲われるのは危険だ。確証はなかったが、本能がそう告げていた。ここで捕まれば、自分はあれに何をされるのかさえわからない。


 もう、相手との距離は目と鼻の先まで詰まっていた。このまま逃げても逃げ切れない。そう判断した宗助は、あえて相手を迎え撃つような姿勢を取った。


 ずるずるという嫌な足音と共に、向こうとこちらの距離が更に縮まる。それに合わせ、宗助は部屋の隅に置かれている、造花の刺さった花瓶に手をかける。


「う……あぁぁぁぁ……」


 従業員の姿をした怪物が吠え、宗助に手を伸ばした。が、次の瞬間、宗助は造花の入っていた花瓶を手に取ると、それを力いっぱい怪物に投げつけた。


 ガシャン、という激しい音がして、花瓶が辺りに破片を撒き散らす。直撃を食らった怪物は一瞬だけ怯み、その隙を突いて、宗助は石像のある廊下を飛び出した。


 扉を抜け、西側の大廊下に出たところで、宗助は今しがた自分が抜けてきた扉をしっかりと閉める。幸い、内鍵はこちら側についていたようで、宗助は慌てて鍵をかけ扉を封印した。


「はぁ……はぁ……。まったく、いったい何だってんだ……」


 気がつくと、思いのほか息が苦しかった。後少し遅ければ捕まる。正にそんなタイミングで逃げてきたのだ。呼吸が乱れ、肩が上がっていたが、今はそんなことなど二の次だった。


 あれはいったい何なのか。格好は従業員のそれだったが、あの死んだ魚のような目と、口の中で蠢く生き物だけは、忘れようにも忘れられない。


 まさか自分は、とんでもない事件に巻き込まれてしまったのではないだろうか。軽い気持ちで旅行に来たはずが、いつの間にか奇妙な世界に足を踏み入れてしまったのではないか。


 不安だけが大きくなる。今、自分が置かれている状況がわからない。たったそれだけのことなのに、この妙な不安感はなんだろう。



――――ズルッ……



 また、音がした。今度は扉の向こう側ではなく、自分のいる西側廊下からだ。


 まさか、ここにも先ほどの、従業員の姿をした怪物が潜んでいたのか。恐る恐る、音のする方に光を当ててみると、果たしてそこには先ほど同様の怪物がいた。


「くそっ、こっちにも!!」


 扉の向こう側には怪物。そして、こちら側にも怪物。いったい、いつからこのホテルは、怪物たちの巣になってしまったのか。


 こういった状況を、昔の人はどう言っただろう。前門の獅子、後門の狼だったか。いや、もしかすると獅子ではなく、虎の間違いだったかもしれない。


 どちらにせよ、追い詰められてしまったのは確かだ。迷っている暇など残されていなかったし、考えていても仕方がない。


 こちらに気づいた怪物が、先ほどと同じように宗助に向かって走って来る。全力で走れば逃げ切れない速度ではないが、それでもぼんやりと待っているわけにもいかない。


 懐中電灯を握り締め、宗助は自分の部屋に続く道を一目散に駆け出した。あれと戦おうなどという発想は、残念ながら考えにない。ただ、今は逃げることだけを考えて、一心不乱に廊下をかける。


 自分の息の音が、やけに重苦しく感じられた。少し油断をしただけで、あの怪物が後ろに迫っているのではないか。そう思うと、もう駄目だった。


 懐中電灯の光が照らす先に、こげ茶色をした重そうな扉が見えた。あれは確か、骨董品の置かれている部屋だったか。志乃に聞いた話を思い出しながら、次の瞬間には、宗助はドアノブを握り締めていた。


(頼む! 開いてくれ!!)


 西側の廊下は洋館の外壁に沿うようにして作られており、宗助の部屋まではそれなりに距離がある。それまでに、あの怪物を振りきって逃げられるという保証はない。


 骨董品置き場へ続く扉が、果たして本当に開け放たれているのか。保証はないが、ここで扉が開かなければ、あの怪物に追いつかれてしまう。


 ほとんど賭けに近い状態だったが、宗助は藁にもすがるつもりでドアノブを回した。



――――カチッ!



 軽い金属音と共に、ノブがくるりと回った。賭けに勝った。そう思った矢先、宗助は自分の首筋にかかる生温かい息を感じて振り返る。


「う、うわぁぁぁぁっ!!」


 そこにいたのは、他でもないあの怪物だった。白目を剥き出しにし、磯の香りが混ざる生臭い息を履きだして、その口の奥からは見た事もない軟体動物が顔を覗かせている。


 追いつかれた。そう気づいたときには、既に遅かった。


 妙にぬめりのある、それでいて冷たい手が、宗助の首にかけられた。瞬間、首の骨が折れてしまうのではないかと思えるほどに、それは宗助の首を絞め上げてきた。


「うっ……ぐっ……」


 自分の首に絡みつく手を、なんとか振り解こうと宗助はもがく。が、相手の力はかなり強く、しっかりと宗助の首に張り付いて離れない。


 だんだんと、意識が遠くなってきた。自分はこのまま、得体の知れない怪物に殺されるのか。そう思うと、心の中で途端に恐怖が大きくなってきた。


 死ぬ。自分がここで、何もできずに死ぬ。今までの暮らし、思い出、そんな物など初めからなかったかのように、全てが無に帰し消えてしまう。


「そんなのは……」


 宗助の手に、再び力が戻ってきた。その指先は震えながらも、しっかりと懐中電灯を握り締めている。


「そんなのは……絶対に嫌だ!!」


 その言葉が口から出るのと、懐中電灯の尻を怪物の頭に叩きつけるのが同時だった。


 ぐにゃっ、という柔らかい感触が手に伝わると同時に、宗助の首を絞め上げていた怪物の手が外された。むせ返りながらも呼吸を整え、宗助は油断なく怪物の方を振り返る。


 闇の中では、怪物が未だ健在だった。頭からは赤い血を流しているが、大した怪我ではない。恐らくは、意外な反撃に驚いて、思わず手を離してしまったというところだろうか。


 どちらにせよ、いつまでも相手にしていたらきりがない。こちらは丸腰同然だし、素手で敵う相手かどうかもわからない。


「うぅ……うぅぅぅぅ……!!」


 唸るような声を上げ、怪物が再び宗助に襲いかかる。間一髪、腰をかがめてその首筋に伸ばされた手をかわすと、宗助はそのまま全身の体重を乗せて、怪物に体当たりをお見舞いした。


「ぐぅっ!?」


 怪物が壁に叩きつけられ、ベチャッという嫌な音がした。が、すぐに何事もなかったかのようにして起き上がると、再び宗助に死んだ魚のような目を向けて来る。


 やはり駄目だ。素手で倒せるような相手ではなく、このままでは勝ち目もない。


 怪物が完全に起き上がるのを待たず、宗助は自分の後ろに開かれた扉の先へと飛び込んだ。この先は、確か人形だか鎧だかを置いていた部屋だっただろうか。その、どちらでも、今は構わない。とにかく、今はあの怪物から身を守ることが先決だ。


 怪物の手が、再び宗助の背に伸ばされる。間一髪、その手が身体をつかむよりも先に、宗助は扉の先へと逃げ込んだ。


「はぁ……はぁ……」


 扉に背を預け、宗助は肩で息をしながら、その場にゆっくりと崩れ落ちた。なんとか手の動く内に内鍵を閉め、これ以上は相手が入ってこられないように封印する。


 背中の方で、何やらガリガリと引っ掻くような音がした。恐らくは、あの怪物の物だろう。さすがにドアを破るだけの力はないのか、木製の扉を掻き毟る音だけが、虚しく闇の中に響き渡る。



――――ガリ……ガリ……ガリ……ガリ……。



 音はしばらく断片的に続いていたが、やがて諦めたのだろうか。何かを引きずるような音がして、それは徐々に宗助のいる場所から離れて行った。


「ったく……しつっこいんだよ……」


 吐き捨てるように言って、宗助は自分の首元に手をやった。先ほど絞められていた部分に指を這わせると、何やらぬるぬるした物が手についた。思わず指を振って払い落したが、どうにも気持ちの良いものではない。試しに鼻の先に指を近づけてみると、魚の死体のような匂いがして吐き戻しそうになった。


「それにしても……いったい、あれは何だったんだろうな……」


 暗闇の中、宗助は自分の首元についた妙な液体を拭きながら、誰に言うともなく呟いた。


 ホテルが急に停電し、気がつけば辺りは化け物だらけ。従業員も客も、得体の知れない怪物に変わっている。


 まったくもって、出来過ぎた話だ。安っぽいホラー映画の世界ならいざ知らず、現実にそんなことが起こるなど、さすがに頭が受け入れない。


 これは悪い夢だ。きっと、自分は疲れて変な夢でも見ているのだ。そう思って頬を摘まんでみたが、悲しいことに、痛みははっきりと感じられた。


 やはり、あれは現実か。だとすれば、これから自分はどうすればいい。助けを呼ぼうにも外部へ連絡する手段が手元にはないし、あの怪物と戦うにしては力不足だ。それに、怪物の数がどれだけで、ホテルの中にどれほどの生存者がいるのかも定かではない。


「くそっ……。とりあえず、いつまでも隠れていたって仕方ないな。何か、武器になるものでも探さないと……」


 あの怪物と真っ向から戦うつもりはなかったが、それでも身を守るくらいの武器は必要だろう。なにしろ、頭を叩かれようと、壁に叩きつけられようと、何ら苦しむ素振りも見せずに迫って来るような連中だ。血を流しても叫び声一つ上げなかったところをからして、もしかすると、痛みという感覚を失っているのかもしれない。


 懐中電灯で部屋の様子を窺いながら、宗助はゆっくりと立ち上がって歩きだした。


 部屋はかなりの広さで、宗助たちの泊まっている場所の二倍はあろうかという空間だ。もっとも、その壁際を中心に骨董品の類が並べられているため、実際にはそこまで広くは感じない。


「うへぇ……。なんか、薄気味悪い部屋だな、ここ……」


 部屋の中に置かれた物に目をやりながら、宗助は自分が逃げ込む場所を間違えたことを後悔した。部屋にはあちこちに人形が置かれ、そのどれもが宗助に冷たい視線を送ってくる。以前、この洋館の持ち主だった人間の趣味だろうか。主に日本人形を中心に、実に様々な人形が置かれている。


 アンティークドール。歴史的価値のある人形は、マニアの間では高値で取引されることがある。そんな話を聞いたことはあったものの、こうして見ると、やはり不気味だ。特に、あんな怪物から逃げ伸びたばかりということも相俟って、人形たちが今にも動き出して襲いかかってくるのではないかという錯覚に陥ってしまう。


 暗闇の中、自分を見据える無数の視線。どうにも先ほどから、どこかで誰かに見られているような気がしてならない。


 もう一度、辺りをぐるりと見回すようにして、宗助は懐中電灯を振り回した。その光が部屋の一角、ちょうど人間の子どもほどもあろうかという人形に向けられたとき、どこかで何かが動くような音がした。


 間違いない。この部屋には、自分の他にも何かがいる。途端に懐中電灯を握る手が汗ばんで、宗助の背中を冷たいものが伝わった。


 見たところ、部屋の中には先ほどの怪物はいない。では、宗助のまったく知らない未知の敵が潜んでいるとでもいうのだろうか。


 油断なく、相手の気配を逃さないように神経を張り詰めながら、宗助は懐中電灯で部屋の中を照らしてゆく。部屋の隅、人形に隠れて死角になっている場所を中心に、今度は隅々まで明かりを送る。


 また、何かが擦れるような音がした。今度は宗助の真後ろからだ。


 音のする方に振り向いて、宗助はすかさずその場所へと懐中電灯を向ける。暗闇の中、黄色い明かりに照らされて、音の主が姿を見せる。


「えっ……」


 次の瞬間、光の先に現れた者と見た途端、宗助は拍子抜けした表情になって言葉を失った。


 そこにいたのは、幼い一人の少女だった。歳は、十歳くらいだろうか。今まで闇の中にいたのが急に光りに当てられたためか、眩しそうにしながら片手で目元を覆っている。


 ここにいたのは、どうやら怪物ではなかったようだ。見たところ、目の前の少女が襲ってくるような気配もない。思わず安堵の溜息をついて、宗助はそっと少女に手を伸ばした。


「い、いやぁぁぁっ!!」


 突然、少女が悲鳴を上げて、宗助の手を振り払った。驚く宗助だったが、よくよく考えれば無理もない。このホテルに現れた、あの化け物。あんなものが跋扈している最中、突然自分よりも大きな相手に手を伸ばされれば、誰でも怖くなるというものだ。


「おい、待てよ!」


 逃げようとした少女の手をつかみ、宗助は懸命に事情を説明しようと試みた。が、それが返って逆効果だったのか、少女は更に泣き叫び、最後は宗助の手を引っ掻いてまで抵抗した。


「離して! 離してよ!!」


「だから、落ち付けって! 俺は別に、お前を襲って食ったりはしない!!」


 このままでは埒が明かない。そう思った宗助は、一度少女の手を離して叫んだ。


「なあ、わかるだろ。俺は化け物なんかじゃない。ちゃんとした、普通の人間だ」


 目線を腰の高さまで落とし、宗助はそっと少女に語りかける。その言葉に、少しは落ち着きを取り戻したのだろうか。少女もまた宗助の方を見ると、未だ多少の怯えを残しながらも、そっとこちらに近づいてきた。


「君、ここに隠れていたんだよな。ごめんよ、急に脅かしたりして……」


「うん……。お兄ちゃん、誰?」


「俺か? そうだなぁ……。旅行でこのホテルに来た、しがない貧乏学生ってところかな。まあ、部屋の鍵は閉めておいたから、とりあえずは大丈夫だと思うよ」


 本当は、大丈夫などと言える保証などない。これから先、どうやって逃げるかも決めていないのに、我ながら気休めのような言葉だとは思う。


 だが、それでも目の前にいる少女の不安を、少しばかりの拭うことができたのだろうか。緊張の糸が切れ、その顔に安心の色を浮かべると同時に、少女は宗助の胸元に飛び込んで来た。突然のことに多少慌てた宗助だったが、自分の胸元が少女の涙で濡れたところで、その頭を優しく撫でて抱きしめた。


「怖かったんだな……。でも、もう安心していいぞ。この部屋には、あの怪物は入ってこられないはずだからな」


 少女を抱いたまま、宗助は部屋の壁に崩れるようにしてもたれかかった。そのまま傍らに少女を抱き寄せると、その頭を優しく撫でながら肩を抱いた。


 あの怪物が何者で、なぜこのホテルに現れたのか。それは未だにわからなかったが、とにかく今は、この少女を守ることが先決だ。自分の身さえ守るのが危うい状況ではあるが、それでもこんなに幼い生存者を放って、自分だけ外に逃げ出すわけにもいかない。


 やがて、ひとしきり泣いたところで、少女も幾分かは気持ちが落ち着いてきたようだった。宗助は少女をそっと身体から離すと、改めてその顔を正面に見て語りかける。


「さて、と……。落ちついたところで、とりあえずは話をさせてくれないかな? 君、名前は?」


「皐月……」


「皐月ちゃんか。お父さんと、お母さんは、どこにいるの?」


「お父さんは、ホテルの中ではぐれちゃったの。お母さんは……私が生まれてから直ぐに、死んじゃった……」


「っと、ごめん……。なんか、悪いこと聞いちゃったね」


 折角話ができたのに、早くも地雷を踏んでしまったか。このまま母親のことを話に出しては、再び少女は沈黙してしまうかもしれない。


 気を取り直して、宗助は話題を変えてみることにした。子どもは嫌いではなかったが、扱いは決して上手くない。目の前の少女、皐月の機嫌を損ねないように気をつけながら、宗助は再び話を続けた。


「俺は椎名宗助って言うんだ。さっき、変な怪物に襲われて、この部屋まで逃げて来たんだけど……。君も、それから逃げてきたのかい?」


 皐月が無言のまま頷く。やはり彼女も、あの怪物から逃げ出して、この部屋に隠れていたのだろう。


「とりあえず、いつまでもここにいても、何の解決にもならないな。何か、武器になりそうな物を探して……それから、もっと安全な場所に逃げようか」


「安全な場所?」


「そうだよ。怪物に襲われてなければ、たぶん、俺の仲間が談話室にいるはずなんだ。とりあえず、そこまで行って……そこで仲間と合流できれば、少しは逃げ伸びるチャンスもあると思う」


「でも、外には変な怪物がたくさんいるよ……。建物の右側には、左側よりもいっぱいいる……」


 少女の声が、少しだけ震えた。


 建物の右側というのは、恐らく東側のことだろう。左側は、宗助たちのいる西の方だ。なぜ、右側に怪物がたくさんいると断言できるのかは定かではなかったが、場所によっては、ここよりも危険なところがあるようだった。


「心配するな。皐月ちゃんのことは、俺がちゃんと守る。だから、まずは一緒に部屋を出よう。こんなところに閉じこもっていたら、今に逃げ場を失ってしまうよ」


「うん、わかった……。だったら、私が案内する……」


 そう言うと、皐月は胸元から下げていたペンダントを取り外し、それを振り子のようにして宗助に見せた。


「案内するって……。君、このホテルに詳しいの?」


「そうじゃないの。でも、私にはわかるんだ。振り子に訊けば、どこが危ない場所なのかって……」


 目の前で揺れるペンダントが、懐中電灯の光に当たって鈍く光った。銀色の円錐の様な形をした物体がついた、少しばかり変わった形のアクセサリー。女の子がお洒落でつける物というよりは、催眠術師が使う振り子と言った方が正しい形をしていた。


「振り子に訊いて見るって……。それ、どういう意味だい?」


「説明は後。それに、本当のことを話しても、お兄ちゃんには信じられないだろうし……」


「はぁ……わかったよ。それじゃあ、俺は武器になる物を探すから、そこを動かないでいてくれよ。くれぐれも、勝手に外に出たら駄目だぞ」


 最後の方だけ念を押し、宗助は皐月の側から静かに立ち上がる。


 いったい、この少女は何者なのだろう。振り子に訊くと言っていたが、まさか妙な妄想にとり憑かれた、電波な考えを持った子なのだろうか。


(やれやれ……。こんなときに、妙な子と知り合いになったもんだよなぁ……)


 懐中電灯を片手に、宗助は人形を掻き分けながら心の中で呟いた。最後に、部屋の片隅で使われていないマネキン台を見つけると、その支柱を外して引っこ抜く。武器として使うには少々頼りなかったが、今の宗助には、これが自分の使える最も強力な武器だった。

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