~ 丑ノ刻 遭遇 ~
宗助たちがホテルに戻ったとき、そこのロビーは思いの他に静かだった。
明治の初期に建てられ、戦前まで幾度かの改築を経て使われてきた洋館、陽明館。それを買い取り、更にホテルへと改装したのが、今現在の陽明館ホテル。
もっとも、ホテルに改装されたとはいえ、その殆どは以前に使われていた洋館のときのままだ。玄関ホールだけ見ても、白く太い石の柱が巨大な天井を支えている様は圧巻である。なんというか、漫画や小説の中の世界にしかない、貴族の屋敷にやってきたような気分にさせられる。
柱に支えられた天井からは巨大なシャンデリアが吊り下げられ、ホール全体に高貴な輝きを放っていた。恐らく、改装の際に付け替えられた物なのだろうが、それでも雰囲気を出すには十分だ。
ホールの右手にある大扉からは食堂、左手にある扉からは、多くの客室を備える洋館の西側へと行くことができる。部屋の左右には赤い絨毯を敷かれた階段も見え、それが受付の後ろに控える、二階の踊り場へと続いている。
何から何まで、映画の中にあるような洋館だ。学生生活最後の夏、こんな場所で明治時代の華族様のような気分を味わうのも悪くない。そんなことを考えながら、再び宗助がロビーの中を見渡したときだった。
今まで辺りの様子を何気なく眺めていただけの宗助の目に、突然、奇妙な客の姿が飛び込んできた。ロビーに備え付けの椅子の上で、何やら本を読んでいる。
この暑い真夏の最中、黒い外套で全身を覆っている奇妙な女。年齢は、ちょうど宗助たちと同じくらいだろうか。目元をサングラスで隠し、傍らにはこれまた黒い日傘を置いている。その、更に横に置いてあるのは、白布に巻かれた奇妙な棒。あの中身がいったい何なのかは、ここから見ただけではわからない。
こんな真夏の太陽が照り付ける日に、あのような格好をして暑くないのだろうか。思わずそんな考えが頭をよぎる。が、それ以上に奇妙だったのは、その女の肌と髪の色だった。
彼女の肌は、まるで雪のように白かった。海辺で志乃の背中を見たときも色白だと感じたが、あれはそれ以上だ。なんというか、まるで脱色されたような色で、見る者を妖しく魅了する何かがある。
髪の色は、これまた肌の色と同様に薄かった。もっとも、こちらは完全な白髪とまではいかず、どちらかと言えば白金色に近い。本来は腰の辺りまで伸びているであろう白金の川は、彼女の頭の後ろで綺麗に結ばれまとまっていた。
およそ日本人離れした外観と、季節外れの格好。いったい、あの女は何者なんだろう。そう思い、少しばかりの好奇の視線を向けたとき、宗助は唐突に自分の心臓を何かで射抜かれたような感覚に陥った。
こちらを見据える鋭い視線。眼光とでも言えばよいのだろうか。先ほどの女が、こちらを威嚇するような目で睨んでいた。サングラスに隠されて目つきまではわからなかったが、それでも十分すぎるほどの威圧感だ。
(っと……。これは少し、失礼なことしたかな?)
こちらを睨んで来た女に、宗助は軽く頭を下げて目を逸らした。
まずい。こちらが変な目で見ていたことを、相手に気取られてしまった。まさかとは思うが、この後、何やら因縁をつけられて絡まれたらどうしようか。そのときは、誠心誠意謝るしかないだろう。
「椎名先輩、何してるんですか? 皆、もう自分の部屋に戻りましたよ」
「えっ……。あ、ああ。悪い、ちょっとぼんやりしてた」
声のする方を向くと、そこには蓮が立っていた。どうやらあの女のことを見ている間に、他の皆は既に部屋へと戻ったらしい。
「七森から聞きましたけど、風呂はホテルの東側にあるみたいです。二階にはコインランドリーもあるみたいなんで、水着とか洗いたかったら、そこを使って欲しいって言ってました」
「へえ、そんな物まであるんだな。ところで、風呂ってもう入れるのか?」
「たぶん、大丈夫だと思います。でも、あまり遅くなると混雑するから注意しろって言われましたよ。大浴場とかないんで、いくら客が少なくても、夕方になると混むかもしれないって」
「ああ、わかったよ。それじゃあ、まずは部屋に戻って、それからひと風呂浴びて来るとするかな」
床に置いた鞄を拾い、宗助は適当に肩を回しながら歩き出す。途中、やはり先ほどの女が気になって目をやったが、女は何事もなかったかのようにして本を読んでいる。
結局、こちらの取り越し苦労だったのだろうか。まあ、特に何か絡まれることもなかったから、結果的には問題ない。
ホテル西側に続く扉を開け、宗助と蓮は玄関ホールを立ち去った。その後ろで、本のページに手をかけていた先ほどの女の肩が少しだけ揺れたことに、二人はまったく気づかなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
冷房の効いたホテルのロビーで、犬崎美紅は今しがた読んでいた本を畳み、静かに立ち上がった。
「待たせたな、美紅」
彼女の前に立つ、やたらと背の高い男が言った。
全身をかっちりとしたスーツで固め、いかにも生真面目な雰囲気が漂っている。真夏に黒い外套を羽織っている美紅ほどではないにしろ、御世辞にも涼しげな格好とは言い難い。片手には、なにやら頑丈そうなトランクを持っており、傍から見てもずっしりと重そうだった。
「なんとか、一部屋だけは取ることができた。予約なしの来訪だったので、どうなることかとは思ったが……まあ、無事に泊まれることになって、何よりだよ」
そう言いながら、男は手にした鍵を美紅に手渡した。このホテルの客室の鍵だ。
渡された鍵の番号を見ると、予約できた部屋は随分と奥まった場所にあるようだった。案内図を見ると、果たして彼女の予感は正しく、鍵番号と同じ部屋は、東側の三階にある際奥の部屋だった。
本当は、もう少し広い部屋がよかったのだが仕方がない。この際、予約なしで部屋が取れたことだけでも、幸いと思わねばならない。
渡された鍵を外套のポケットに入れ、美紅はロビーの脇で遊んでいる小さな少女に目をやった。男の方もそれに気づいたのか、やはり少女の方へと顔を向けると、少しばかり大きな声で彼女の名前を呼んだ。
「こら、皐月。いつまでも遊んでいないで、早くこっちに来なさい」
怒っているというよりは、諭しているような口調だった。男に呼ばれ、少女はその側へと駆け寄ってくる。両脇に結んでいる髪の毛が、何かの尻尾のようにして揺れた。
「お父さん、お部屋取れたの?」
皐月と呼ばれた少女が、男の顔を見上げるようにして尋ねた。
「ああ、取れたよ。もっとも、一日だけの滞在だけどね」
「なぁんだ、つまんないの。折角海まで来たのに、泳げないんだ……」
「こらこら、我侭言うんじゃない。ここには少し休憩するために来ただけで、別にリゾートに来たわけじゃないんだぞ」
「はぁい……」
少しばかりむくれた顔をして、皐月がわざとらしく顔を背けた。それを見た美紅は腰を落として目線の高さを合わせると、皐月の頭に軽く手を置いて語りかけた。
「ごめんね、皐月ちゃん。私も、皐月ちゃんのお父さんも、お仕事ばっかりで遊んであげられなくて」
「うん……」
「でも、今日くらいは、お仕事関係なしにゆっくりしたいわよね。私もちょっと疲れたし……なんだったら、これから二人で一緒にお風呂に入らない? この時間、人はあまりいないと思うから、上手くいけば二人の貸し切りよ」
「えっ、本当!?」
美紅の言葉を聞いて、皐月の顔に光が戻った。美紅は皐月の頭から手を降ろすと、そのまま自分のサングラスを外して懐にしまう。サングラスの向こう側から現れた瞳は、血の様な赤い色に染まっていた。
赤い瞳と白い肌。まるで幽霊のような外観だったが、皐月は別に驚かない。
皐月は知っているのだ。美紅の、冷たく透き通るような肌が、本当は誰よりも温かいということを。血のように赤い瞳の奥には、優しい心が隠れていることを。
だから、皐月は恐れない。例え美紅の姿が普通の人間と違っていても、本当の彼女を知っているから。
「ねえ、皐月ちゃん。私はお父さんと、ちょっとお話しがあるの。だから、悪いけど先にホテルの部屋まで行っててくれるかな?」
先ほど、外套のポケットにしまった鍵を取り出して、美紅は皐月の目の前にそれをぶら下げて見せる。皐月は満面の笑みで鍵を受け取ると、ロビーの椅子に乗せておいた小さなリュックサックを背中に乗せた。
「大丈夫、皐月ちゃん? もしも迷いそうなんだったら、無理はしなくてもいいけど……」
「平気だよ! 私だって、もう十歳だもん。一人でホテルの部屋に行くくらいできるわよ!!」
両手を腰に当て、皐月が自信満々な顔をして言ってのけた。それでも心配そうに見つめる美紅の顔を見て、皐月は更に言葉を続けた。
「それにね……。もし、迷子になりそうだったら、この鍵に訊いてみればいいもんね。私がそういうの力を持ってるって、美紅お姉ちゃんも知ってるでしょ?」
ホテルの鍵をつまみ、皐月がにやりと笑う。そう言われては、美紅もこれ以上は何も言えない。
ロビーをパタパタと駆ける足音と共に、皐月は渡された鍵の部屋を探しに二人の前を去って行った。やがて、その後ろ姿が扉の向こうに見えなくなったところで、今まで黙っていた男の方が徐に口を開いた。
「いや、済まないな。なんだか見苦しいところを見せてしまった。去年までは素直なところもあったのに……まったく、ここ最近は随分と生意気になったもんだ」
「あら、別にいいじゃない。皐月ちゃんだって女の子なんだし、これからもっと多感な時期を迎えるのよ。少しくらい自立心がないと、今に変な男に食われちゃうわ」
「おいおい、勘弁してくれ。皐月はまだ小学生だぞ」
「小学生でも、女は女よ。放っておいても耳年増になっていくものだし、恋愛にだって興味を持っていくんだから……。いつまでも箱入り娘みたいな扱いしていたら駄目よ、達樹さん」
「ふっ……。まるで母親だな。まあ、あいつの気持ちを考えれば、そういった人間が身近にいてくれた方が、私としても助かるがな」
そう言って、その男、鳴沢達樹は静かに言葉を切った。
達樹の妻は、既にこの世にはいない。仕事柄、常に危険と隣り合わせなこともあるが故に、妻の死そのものに関しては珍しいこととも思ってはいなかった。
退魔具師。俗に悪霊や妖怪、祟り神などと呼ばれる存在と、戦うための道具を作る者。達樹の家系は代々、その退魔具師を生業としていた。
この世界には、科学では未だ解明できない死後の世界というものが存在する。その世界――――達樹や美紅は、向こう側の世界と呼んでいる――――に住まう者達は、ときに現世を生きる人に牙を向き、襲いかかって来ることがある。
それらの脅威から人々を守るための道具を作るのが、退魔具師である達樹の仕事だ。もっとも、単に道具を作るだけでなく、ときには自分が作った道具を用いて戦いに赴かねばならないときもある。職人のような位置づけではあるものの、霊能者としては、何でも屋に近い職業だと達樹は思っていた。
そんな達樹の妻が亡くなったのは、これまた仕事の上での事故だった。達樹とは違い、生粋の霊媒師だった妻は、かつて悪霊に憑かれたとされる少女の祈祷を引き受けて帰らぬ人となった。なんでも、互いに精神と精神をぶつけ合い、最後は相討ちに近い形で息を引き取ったという。
悪霊を退治し、一人の少女を救う代わりに、妻はその短い生涯を終えた。まだ、皐月が生まれて間もない頃の話だ。以来、達樹は独りで皐月を育て上げ、同時に己の作る退魔具を、より攻撃的な物に発展させていった。
達樹とて、祈祷に向かう妻の身を案じなかったわけではない。現に、あのときも、自分の作った護りの札を何十枚と持たせていた。
だが、それでもなお、悪霊の力が強かったのだとすれば、妻の死の責任は自分にもある。攻撃こそが最大の防御。守ってばかりでは逃げ場を失う。そんな単純なことさえも気づかずに、最愛の妻を死に追いやってしまった自分が憎らしかった。
本当は、皐月を仕事で連れ回すようなことなどしたくない。自分の仕事は常に死と隣合わせ。その上、表の世界を生きる人間からは決して人々からは認知されない仕事だ。
できることなら、皐月を親戚にでも預けてしまった方が楽だったろう。しかし、そのことを口にすると、常に達樹は今のパートナーである美紅に叱られるのだった。
美紅は達樹よりも一回り以上若く、普通の娘であれば大学にでも通っていそうな年齢である。が、その力は確かに本物で、達樹は元より今は亡き彼の妻をも凌ぐ。彼女曰く、自分は代々外法使いの家系であり、魔を滅することだけに特化した力を持っているのだとか。故に、幼少の頃から厳しい訓練を受け続け、若くして向こう側の世界の住人を祓うことを生業としているのである。
初め、達樹にとって、美紅は単なる顧客の一人に過ぎなかった。そんな彼女と今のような関係になったのは、美紅が達樹の仕事に首を突っ込んできたためである。
≪こんな小さな子を残して戦いに出て……もし、自分に何かあったら、どうするつもりなの!?≫
あの日、仕事の現場に乱入して来た美紅に、怒鳴られたことが頭に蘇る。彼女はその側に幼い皐月の手を引き、もう片方の手には禍々しいまでの気を放つ日本刀を持っていた。そして、瞬く間に目の前の敵を叩き潰すと、改めて達樹に自分をパートナーにするよう申し出たのだ。
いったい、美紅が何を考えて自分に近づいてきたのか。未だわからないところもあったが、それでも達樹は美紅のことを相棒として信頼していた。少なくとも、彼女が皐月のことを大切に思い、寂しい想いをさせないようにしているということだけは、本心だったのだから。
「なあ、美紅」
皐月の後ろ姿を見送った美紅に、達樹が改めて尋ねた。
「お前は私が皐月を仕事で連れ回すこと、本当はどう思っているんだ?」
「連れ回す? まあ、確かにそういう言い方もできるけど……私は別に、構わないと思っているわよ。なにしろ、私たちのやってることは、仕事が仕事だからね。皐月ちゃんには少しでも、お父さんである達樹さんと一緒にいて欲しいのよ」
「なるほど、そういうことか。しかし、皐月を仕事で連れ回せば、場合によってはあの娘を危険に晒す。そう、君は考えないのか?」
「だからこそ、私がいるんでしょ。戦うのはこっちの仕事。達樹さんは、それの後方支援。依頼料は二人で折半するってことで、最初から話がついてるじゃない」
懐からサングラスを取り出し、それで再び目元を覆いながら美紅が答えた。
皐月を仕事に同伴させること。それは美紅なりの、皐月に対する思いやりだったのかもしれない。彼女がなぜ、皐月にこうまでして入れ込むのか。それは達樹にもわからなかったが、少なくとも、美紅の本音を改めて聞かされたような気はした。
「ところで……話は変わるんだけど」
「なんだい? また、何か仕事の件で相談かい?」
「まあ、そんなところね。さっき、このロビーにいた人達、達樹さんは覚えてる? たぶん、旅行で来ている学生グループか何かだと思うんだけど……」
「学生グループ? いや、すまないな。こちとらチェックインの関係で、あまり周りに気を配っている余裕がなかった」
「そう……。だったら、まあ別に構わないんだけど……」
美紅の視線が、少しだけ下を向いて床に落ちる。右手を軽く握り、隠すようにして口元に当てる。
自分の見たもの、感じたものに、何か腑に落ちない点があるとき、美紅は決まってこういう仕草を達樹に見せる。恐らくは、彼女の癖なのだろう。ただ、なまじ常人よりも霊的な物に敏感な美紅が見せるだけに、達樹も心なしか不安にならざるを得なかったが。
「どうした、美紅? もしかして、その客に何か気になる点でもあったのか?」
「それが……ちょっと、私にもよくわからないのよね。あの人達の中から、確かに強い陰の気を感じたんだけど……それが誰の者なのかまでは、残念ながら見破れなかった」
「見破れない? 君がそんなことを言うなんて、珍しいこともあるものだな」
「まあね。でも、仕方ないことだとは思うわよ。最初、ここに来たときからなんだけど、影が妙にざわついて仕方ないの。この浜というか、入り江というか……とにかく、この辺一体になんとなく、陰気で薄暗い気が漂っているのよ」
「ふむ……。まあ、それは私も感じていたがね。しかし、それでも別に、おかしなことはないんじゃないか? 見たところ、この建物も随分と古そうだ。明治時代から建っている洋館を改装したホテルだそうだが、だとすれば、幽霊の一匹や二匹が住みついていても不思議ではない」
「そうね。まあ、もしも私の部屋に出てきたら、そのときは一撃で吹き飛ばしてあげるわよ」
「ふふ、頼もしいな。では、その言葉に甘えさせてもらうとして、今日は久しぶりにゆっくり休ませてもらうとするかな」
達樹が手にしたトランクを片手に、そう言いながら歩き出した。その後に、美紅も追いかける形で続く。
仕事の帰りに、しばしの休息を求めて訪れた穴場のホテル。だが、後に美紅は知ることとなる。このときの自分の不安が勘違いなどではなかったこと。そして、その不安の正体こそが、周到に仕組まれた恐るべき計画の一端であることに。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
陽明館ホテルの浴室は、客室の多い西側とは反対側の東側にあった。客室から遠いのが少し難だが、それでも美紅たちにはあまり関係なかった。
美紅や達樹が泊まっている部屋は、その浴室の上、東側の三階にある部屋だった。一階まで降りるのが多少面倒臭いとはいえ、西側の外れの部屋から浴室に向かうよりは楽だ。たった一泊しかしないことを考えると、部屋の狭さもあまり問題にならない。
美紅と皐月が浴室に辿り着いたとき、そこには誰もいなかった。やはり、予想した通り、まだ風呂に入るには少しばかり早い時間だったからだろう。ホテルの風呂にしては多少小さい気はしたが、ここが元々は単なる洋館だったことを考えると、大浴場のような物まで要求するのは贅沢が過ぎる。
「お姉ちゃん! 私、先に入ってるね!!」
そう言うが早いか、皐月は着ていた物をあっという間に脱ぎ捨てて、生まれたままの姿になる。その様子を微笑ましく見つめながら、美紅もまた重たいコートを脱いで服のボタンに手をかける。
漆黒の、まるで拘束具のような外套から解き放たれ、やがて美紅もまた生まれたままの姿となった。その肌は絹のように白く、一点の淀みもない。黒子さえも見当たらず、知らない者が見たら、彫刻か何かと見紛うかもしれない。
先天的白子症。原因こそ不明だったが、美紅の家系は代々が純粋なアルビノとして生を受ける。どれだけ他の家の血が混ざっても、こればかりは変わらない。赤い瞳と白い肌、それに白金色の髪の毛を持ち、同時に強い霊能力を授かっている。
真昼の太陽の下を歩けぬ代わりに、闇と戦う力を得る。美紅自身、それが己の一族に課せられた、運命のようなものだと思っていた。人知れず、闇に紛れ、影となって邪悪なる向こう側の世界の住人から人界を護る。それこそが、外法使いと呼ばれる自分の定めなのだ。
「何やってるの、お姉ちゃん! 早く来てよ!!」
曇りガラスの向こうから、皐月が美紅を呼ぶ声がする。バスタオルを身体に巻いたところで、美紅もまた浴室に足を踏み入れた。
「へぇ……。ちょっと小さいと思ってたけど、随分と素敵なお風呂じゃない。なんだか、ちょっとしたヨーロッパ旅行の気分にさせられるわね」
浴室の椅子に腰かけながら、美紅はそう呟いてタオルを濡らした。もっとも、実際にはヨーロッパになど行ったことはないため、これはあくまで美紅の想像である。
「皐月ちゃん。湯船に入る前に、ちゃんと身体を洗わないと駄目よ。ここのお風呂は、皆が使う場所だからね」
「はーい、わかってまーす! それよりお姉ちゃん。今日は私が背中を洗ってもいい?」
「えっ……。まあ、別に構わないけど……」
「やったぁ! それじゃあ、代わりにお姉ちゃんが、皐月のことも洗ってね。一緒に洗いっこしようよ!!」
浴室中に響くような声で叫びながら、皐月がはしゃぐ。ここに他の客でもいたら、多分に迷惑になっていたことだろう。
(この子……やっぱり、お母さんみたいな人が欲しいのかもね……)
石鹸を擦り付けたタオルで皐月の身体を洗いながら、美紅はふと考えた。
皐月の母が亡くなったのは、皐月が物心つく前の話だ。以来、皐月は父である達樹と一緒に、各地を転々とするような生活を送っていたらしい。
母親もおらず、仕事の関係から同じ土地に長く留まることも少ない。結果、友人にも恵まれず、いつも寂しい想いをしてきたはずだ。
そんな皐月の前に現れた美紅は、彼女にとって、正に母親のような存在だったのかもしれない。否、母親だけでなく、時に友人として、時に姉として、皐月は美紅のことを欲していた。
「ねえ、お姉ちゃん……」
身体についた泡を流したところで、皐月が美紅のほうをまじまじと見つめて訊いてきた。
「私も大きくなったら、お姉ちゃんみたいな綺麗な人になれるかな……」
「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。でも、皐月ちゃんだって、今でも十分に可愛いわよ」
「うーん……。けど、やっぱり私も早く、お姉ちゃんみたいな大人になりたいな。私も大人になったら、お姉ちゃんみたいに、おっぱいも大きくなるのかな?」
「ふふ、大丈夫よ。皐月ちゃんだって、今にきっと素敵な女の子になるはずだもの。もう少し大人になったら、胸だってすぐに大きくなるわよ」
顔についていた泡の欠片をタオルで拭い、美紅は皐月に答えた。お世辞などではなく、その言葉は美紅の本心だ。
以前、達樹の見せてくれた、皐月の母親だった女性の写真。その姿は女性の美紅からしても羨むほどに、モデル顔負けのスタイルを誇っていた。
あの母親の血を受け継ぐ皐月ならば、今に周りの男を虜にするような美少女になるだろう。そう、確信してはいたものの、皐月の気持ちを考えると、美紅はその理由まで話す気にはなれなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
入相の鐘が鳴るような時刻になると、それから宵の闇が訪れるのは早かった。
真夏とはいえ、既に夏至はとうに過ぎている季節。日に日に太陽の出ている時間は短くなり、それに伴って夜の時間が長くなる。秋分を迎えていないため、まだそれほどの実感はないが、昼の時間は確実に減っていた。
夜のホテル、誰もいないはずの屋外プールにて、何やら楽しげな声が聞こえてくる。この時間、プールの使用は禁止されていたが、そこには確かに二つの人影があった。
「ねえ、一馬。やっぱり、ちょっとまずいんじゃない?」
声の片方は女のものだ。暗闇の中、微かな月の灯りだけを頼りにプールサイドから恋人の姿を探している。
「大丈夫だって! 相変わらず、里奈は心配性だな」
もう一つの声は男だった。プールの中、暗く光りの射さない水から身体の半分を覗かせて、恋人に手を振っている。
「でもぉ……。ここって、今の時間は使用禁止なんじゃないの? ホテルの人に見つかっちゃったら、どうするの?」
「だから、大丈夫だって言ってるだろ? こんな時間に、どうせ屋外プールの方まで見周りなんかしやしないさ。それに、もしも立ち入り禁止にしたいなら、シャワー室まで鍵をかけて入れないようにしておけばいいじゃないか。それをやってなくて、こうやって僕達がプールに入れているんだから、管理不行き届きなのはホテルの方じゃないの?」
殆ど屁理屈のような理屈を口にしながら、男の方は再び水に潜った。こうなると、もう彼女には止める術がない。半ば諦めたような形で、仕方なくプールサイドにある椅子に腰を降ろす。
それにしても、我が恋人ながら、一馬は本当に物好きだ。こんな人気のないプールに、半ば不法侵入のような形で入って泳いで、いったい何が楽しいのだろうか。高校時代は族をやっていたなどという武勇伝を語る一馬のこと。やはり今でも、背徳的な何かに惹かれる部分があるのだろうか。
まあ、それでも、たまにはこんな感じで危ない空気を楽しんでみるのもありだろう。それに、一馬とてこのままプールで泳いで終わりにするつもりもないはずだ。
誰もいない深夜のプールサイドで、月明かりの下、たった二人で愛し合う。そんな危険な夜の過ごし方も、普段とは違う場所だからこそできることだろう。
空に輝く月を眺めながら、里奈はふと、そんなことを考えた。が、次の瞬間、なにやら黒い雲が流れだし、徐々に月を覆い始めた。
このままでは、完全に灯りを失って暗闇に包まれる。途端に不安になったのか、里奈は慌ててプールの中にいるであろう一馬の名前を呼んだ。
「ねえ、一馬! なんだか雲行きが妖しくなってきたんだけど……一度、プールから出た方がいいんじゃない?」
返事はない。そういえば、先ほどから水の音がまったく聞こえない。一馬がプールで泳いでいるならば、その音が聞こえてもよさそうなのに。
「ちょっと! ふざけないで、出てきてよ! 怖がらせようったって、そうはいかないんだからね!!」
やはり、返事はない。一瞬、恋人がふざけているだけかと思った里奈だったが、急に心配になってきた。
まさか、足をつるなどして、そのまま溺れてしまったのではあるまいか。そう思い、里奈がプールサイドから中を覗きこんだとき、暗い水面が音を立ててゆっくりと持ち上がった。
「なぁんだ、一馬。心配させないで……」
それ以上は、言葉にならなかった。プールの水を突き破り、自分の前に現れた者。その姿を見た里奈は、完全に言葉を失ってしまっていた。
暗闇の中、爛々と光る二つの目。赤とも黄色にも見えるそれは、細面の顔の左右で不気味に輝いている。鼻はなく、口の中には鋸の刃のような歯がびっしりと生え、頭の上には鰭のような物もある。首元には鰓のような器官があり、それが呼吸に合わせるようにして、ビクビクと規則的に脈打っていた。
「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」
もう、言葉を口に出している余裕さえなかった。出るのはただ、闇を切り裂く鋭い悲鳴のみ。抜けそうになる腰をなんとか奮い立たせると、里奈は一目散にシャワー室へと続く扉目掛けて走り出した。
プールの中から出てきた者は、自分の恋人などではなかった。では、あれはいったいなんだろう。魚の頭を持ち、それでいて人間のような身体。あれは、あれは……。
――――半魚人。
その言葉が里奈の脳裏を掠めたとき、彼女は自分の脚に何かが絡みつくのを感じ、そのままプールサイドに倒れ込んだ。
「痛っ……!!」
転んだときに、膝を擦り剥いたらしい。その痛みに耐えて足首の方を見ると、何やら海藻のようなものがプールから伸び、彼女の脚に絡みついていた。
「ひぃっ……ひぃぃぃぃっ!!」
半分泣き顔になりながら、里奈は自分の脚に絡みついた海藻を振り解こうと手をかける。が、海藻はしっかりと彼女の脚に食らいついており、なかなか外れてくれようとはしない。
こうしている間にも、あの半魚人が襲いかかって来るかもしれない。そう考えると、もう駄目だった。
「一馬ぁ! 助けて、一馬ぁ!!」
恋人の名を懸命に呼び、泣き叫ぶ里奈。だが、プールから出て来たのが恋人ではなく怪物だった時点で、希望がないのは知っている。
一馬は、あの半魚人に殺されてしまったのだろうか。こちらがふと目を離した隙に、暗い水の底に沈められてしまったのだろうか。
もう駄目だ。そう思った矢先、里奈の前に新たな人影が現れた。
とうとう、あの半魚人が襲いにきたのか。果たして、そんな里奈の予想は外れ、目の前にいたのは一馬だった。
「一馬……。よかった……」
恋人が無事だった。それだけで、里奈の顔にいくらかの希望が戻った。自分一人では逃げられないが、一馬に助けてもらえば逃げられる。だが、そう考えた里奈の前に、一馬は不気味な唸り声を上げながら近づいてきた。
「う……あぁぁぁ……」
白目を剥き出しにし、口からはだらしなく涎が垂れている。同じく垂れ下がった両手が、風に吹かれるようにして揺れている。
「一……馬……?」
訝しげに思い、再び恋人の顔を覗きこむ里奈。次の瞬間、そんな彼女が悲鳴を上げるよりも先に、一馬は海藻に足を取られて動けない里奈を、いきなり押し倒すようにして襲いかかった。
「ちょ……なにするのよ、いきなり!!」
プールサイドに強引に抑えつけられ、里奈はもがいた。しかし、一馬の腕はしっかりと里奈の腕を押さえつけており、抗うことは許されなかった。
既に瞳の光りを失った一馬の顔が、ゆっくりと里奈の方へ向けられる。その口が開かれ、中にある物が見えたとき、里奈は今度こそ我慢できずに盛大な悲鳴を上げて泣き叫んだ。
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
そこにあったのは、里奈の見た事もない生物だった。一馬の口の中、無数の触手を持ったイソギンチャクのような生き物が、その先端をうねらせながら蠢いている。開かれた口からは生臭い香りが漂って、それだけで里奈は胃の中にある物を全て吐き出しそうになった。
「はぁぁぁぁ……」
生気を失った一馬の顔が、里奈の顔に被せられた。半ば強引に奪うようにして、一馬は里奈と唇を重ねる。
瞬間、里奈の口の中に、ぬるっとした物体が滑り込んできた。湿って、生臭く、そして柔らかい。それが先ほど見た生き物であるとわかったとき、里奈の精神は限界を迎えた。
「んんっ……んぐぅぅぅぅっ!!」
口で口を押さえつけられたまま、里奈は声にならない悲鳴を上げた。その間にも、彼女の口の中に入り込んだ生き物は、ずるずると喉の奥へと這って行く。
やがて、生き物の全ての飲み込んでしまったところで、里奈はようやく解放された。完全に気を失ってしまっているのか、彼女が目を覚ます気配はない。
だが、そう思われた矢先、彼女の身体がビクンと痙攣して跳ね起きた。その瞳には、既に先ほどの光はない。一馬と同じく白目をむき、完全に理性を失った状態で、低い唸り声を上げながらふらふらと歩き出す。
「うぅ……あぁぁぁ……」
およそ、人間らしい感情の全てを失った二つの影が、ゆっくりとシャワー室の方へ向かってゆく。そして、扉の向こうに二人の影が消えたところで、プールの中にいた半魚人が甲高く吠えた。
――――キュキュキュキュキュキュキュキュキュ……!!
自動車が急ブレーキを踏んだときにするような、耳障りな音が怪物の口から放たれた。その音に呼応するようにして、プールから伸びた海藻たちは、徐々にホテルの壁を覆ってゆく。窓を、扉を、あらゆる外へ抜け出る手段を封じたところで、海藻はようやく成長を止めた。
深夜のプールが再び静寂を取り戻す。月は完全に黒雲に覆われ、闇の中、異形の者が水中からその姿を露わにする。
初めに現れた者に続く形で、それらは続々とプールの中から姿を現した。時を同じくして、今度は海の方からも、巨大な怪物が姿を見せる。
プールと海。その双方に現れた怪物の頭は、合わせて七つ存在した。小さい者は子ども程の背丈だが、大きい者は身の丈が三メートルはあろうかという巨体をしている。
夜の帳が降りた世界で、異形の者達の目が一斉に輝いた。それこそが、彼らが奏でる地獄の序曲の幕開け。これから陽明館ホテルを襲うであろう、恐るべき惨劇の開始を告げる合図だった。