~ 子ノ刻 夏色 ~
木漏れ日の降り注ぐ森の中、一台のバンが走っていた。舗装されているとはいえ、道は一本。少々大型のバンにとっては、十分な広さとは言い難い。
案の定、車が角を曲がるたびに、ピシピシという枝のぶつかる音がした。好き放題に葉を伸ばした森の木の枝が、車に当たってしまうのだろう。
「なあ、大輝。随分と走ってるみたいだけど、目的地にはまだ着かないのか?」
車の揺れる音と木の枝が鳴らす音を横耳に、椎名宗助は車を運転している里村大輝に尋ねた。
「まあ待てよ。どうせ道は一本なんだし、迷うことなんてないって。折角、大学最後の夏休みだってんだから、少しは旅の余韻ってやつを楽しめよな」
ハンドルを握る手と、正面に向けた顔はそのままに、大輝が宗助に答えた。
「旅の余韻ねぇ……。まあ、確かにそれも、一理あるか」
助手席に座ったまま、宗助は大きく伸びをして後ろの席に首だけを向ける。後部座席に目を向けると、そこには自分の後輩達が、銘々に談笑している姿が見てとれた。
中央の座席であれこれと好き勝手に喋っているのは佐藤美南海。宗助と同じ大学の、同じ研究室に所属している一年生。とにかく人懐こいのが特徴で、誰にでも気兼ねなく話しかけることができるのが長所だった。
現に今も、自分の先輩たちと相手に、まるで昔からの友人のように話ができている。それでいて、相手に不快感を与えないというのだから、この辺りの会話術は宗助も見習いたいと思わざるを得ない。
そんな美南海の横で、彼女と会話に華を咲かせているのが坂本千鶴。なんというか、典型的な女の子といった感じで、男と女で見せる態度や話し方がまるで変わる。
女相手には仲良くできるが、男相手にはつっけんどん。女子だけでお茶をしたり食事に出かけるのが大好きで、それらの空間に男が混ざろうとするのを極度に嫌う。
ああいうのは、将来、絶対にワイドショー好きのおばさんになる。もしくは、ご近所さんとの井戸端会議で数時間でも平気で話せるようなおばさんか。どちらにせよ、あまり良い印象のする未来ではない。もっとも、それを口にしたが最後、彼女の友人全てを敵に回すことになるために、宗助も黙ってはいたが。
「やれやれ……。しっかし、お前たち本当に喋んの好きだよなぁ。これだけ長い時間車の中にいて、よくもまあネタが尽きないもんだぜ」
一番後ろの座席に座っている二人の男の内の一人、茶髪で長髪な、いかにも軽薄そうな男がぼやいた。
「なによ、別にいいじゃない。なんだったら、幹也も隣にいる蓮と一緒に、何か話してればいいでしょ!?」
先ほどまでの、楽しげな口調はどこへやら。ちょっと口を挟まれただけで、こうも棘のある言い方に変化する。正直、宗助はこんな千鶴の態度を苦手としている部分もあったが、それでも面と向かって嫌悪感を露わにしようとは思わなかった。
本当は、千鶴が不器用なだけであること。そのことを、宗助自身も知っている。だからこそ、あえて何も言わないで、見守るような接し方を心得ているという部分もある。
なにより、先ほど怒鳴られた幹也という男、あれでも千鶴の彼氏である。本名は真嶋幹也といって、宗助よりも一学年下の三年生。遊び人で有名だが、同時に惚れた女には頭が上がらないという弱点もある。軽薄そうな顔をしていて、あれで結構純粋なのかもしれない。
その一方で、千鶴は幹也よりも更に学年が下の二年生。当然、本来であれば千鶴の方が敬意を持って接しなければならないはずなのだが、先のあの態度を見る限り、それはない。
典型的な、デコボコカップルだと宗助は思った。不器用で、自分の好きな相手に対しても高圧的になってしまう女と、女好きだが本当に好意を持っている相手はただ一人という男。なんだかんだで、あれはあれで仲が良いのだろう。
そんなことを考えながら、宗助は後部座席に座っている最後の一人に目をやった。
檜山蓮。丁寧に切り揃えられた髪と、夏でも決して着崩すことのない服装。それに、眼鏡と本がトレードマークの、典型的なインテリだ。美南海と千鶴が喋り続けるこの車内でも、独り黙々と本を読んでいる。
これほど揺れている車の中で、本など読んで酔わないのか。見たところ、蓮は周りの声にも車の揺れにも動ずる様子はない。だとすれば、これは実に恐ろしいまでの集中力と言えよう。
揺れる車内で、宗助は目を凝らして蓮の読んでいる本の題名を見た。そこには黒く太い文字で、≪邪馬台国の起源≫とだけ書かれている。題名からして、どうやら古代日本に存在したとされる邪馬台国が、九州にあったのか、それとも本州にあったのかを論じている本なのだろう。
普通の人間だったならば、こんな本には興味さえ持たない。古代国家が日本のどこにあろうと、現代を生きる人間にとってはさして関係のないことだ。真実がわかったところで、せいぜい中高生の歴史の教科書が少しだけ改訂されるくらいに過ぎない。
だが、そんな内容であったとしても、宗助たちにとっては実に興味深い話だった。
宗助たちが所属しているのは、K大学の文化人類学研究室。民族史や神話、伝説、それに都市文化や文明の影響といった、人類の後天的に生み出したあらゆる文化的な物が研究の対象になる。当然、中には古代史に興味を持っている人間もいるわけで、蓮もそんな人間の一人である。
ちなみに、今この車に乗っているのは、全員がその研究室の仲間だ。もっとも、この旅は大学の研究などとは関係なく、単に夏休みを利用した旅行に過ぎない。研究室に所属する人間が減り、その雰囲気が半ばサークル化していたことも相俟って、仲間内でこうした緩い活動をすることも多かった。
(それにしても、俺もとうとう今年で卒業なんだよなぁ……。こうやって、研究室の仲間と一緒に旅行ができるのも、これでお終いかもしれないな……)
頭の中でそんなことを考えながら、宗助は少しばかりの寂しさを覚えて顔を正面に戻した。瞬間、視界が急に明るくなり、宗助は思わず片手で自分の額を遮るような仕草を見せた。
「わぁ、海ですよぉ!」
最初に声を上げたのは美南海だった。
森を抜け、通りが急に広くなったところで、宗助たちの前に海が姿を現した。その海に沿って、開けた道が白い建物の方まで続いている。窓を開けると、風に乗って潮の匂いが車の中まで入ってきた。
「おい、見えたぜ。どうやらあれが、七森の紹介してくれたホテルらしいな、宗助」
片手をハンドルから離して、大輝が道の先にある建物を指差した。
「へぇ、あれが七森の言っていたホテルか。確か、あいつの実家なんだっけ?」
「そう聞いてるぜ。なんでも、元々は他の人間が持っていた洋館を、わざわざ買い取って作ったらしい」
「それは俺も聞いたよ。でも、他の人間の持っていた洋館を買い取ったって……随分と簡単に言うな、お前。それ、そんなにさらっと流して言うことじゃないだろ」
「んなこと知るかよ。それに、七森のやつがお嬢様育ちだってことは、お前だって知ってんだろ? あいつの実家がどれだけ金持なのかは知らないけど、洋館の一つや二つ、ぽーんと買っちまうような家なんだろうな」
海沿いの道に車を走らせながら、大輝はそう言ってハンドルを軽く左に切った。軽い揺れを感じながら、宗助は、「まあ、それもそうか」と勝手に一人で納得した。
宗助たちの研究室に所属しているのは、自分も含めて十人ほど。その内、大学院生のメンバーは、今はこの場に参加していない。元より院生は半分助教授に近い立場でもあるため、こういった遊びに誘えるような相手とは、ちょっと違っていた。昨年までは大学生として一緒に研究していた先輩もいたが、立場が変わればつき合い方も変わってくる。
自分と、大輝と、それから幹也。そして、蓮に千鶴に美南海。これらのメンバーに、先ほど大輝の口から出た七森志乃を加えると、研究室の仲間が勢揃いする。
今回の旅行の発案者は志乃だ。彼女の家は金持ちで、代々資産家の家系である。もっとも、彼女自身は決して取り澄ましたところなどなく、どこにでもいる普通の大学生と変わりない。彼女自身、家の威光を振りかざして我侭を言うようなところもなかったし、周りの人間も彼女を特別視するようなことはしていない。そちらの方が、彼女もまた居心地がいいようだった。
そんな志乃であるが、やはり金持ちの娘なのだろうか。自分の実家が新しくホテルをオープンしたとかで、早速そこに研究室の仲間たちを誘ってきた。なんでも、父親に頼んで宿泊料をただにして貰ったらしく、大輝などは真っ先に話に食い付いた。
実家のホテルに、お泊まり会感覚で友人を泊める。確かに少しばかり、一般人の感覚とはかけ離れた考えだと宗助も思う。が、それでも、こちとらしがない貧乏学生。宿泊料がただになるだけでも、嬉しくないはずがない。
結局、なんだかんだで話はまとまり、研究室の一同で志乃の実家のホテルにお邪魔することになってしまった。申し訳ない気持ち反面、やはりどこか嬉しい気持ちの方が大きいのも事実だ。
なにしろ、志乃の実家のホテルは、この夏にオープンしたばかり。多少辺鄙な場所にあるということもあり、客は決して多くない。これから先、人気が出れば予約を取るのさえ難しくなるのであろうが、今はまだ、そこまで客数も多くない。
要するに、穴場ということだ。騒がしいツアー客の集団もおらず、ナンパに明け暮れるサーファーもいない。ホテルの前のビーチも使いたい放題と、これでもかというくらいに好条件が揃っている。
大学生活最後の夏を、まさかここまで理想的な場所で過ごせるとは思っていなかった。そう考えただけで、宗助は志乃の実家への感謝の気持ちが膨らんできた。
(あいつの父さんには、後できちんとお礼を言っておかないとな……)
そう考えた矢先、宗助たちを乗せた車が静かに止まった。
「おい、着いたぜ」
車を止め、キーを抜き取った大輝が急かすようにして言う。その言葉に従って車を降りると、宗助たちを爽やかな海の風が迎え入れた。
「ああ、気持ちいいな。やっぱ夏は、海に限る」
狭苦しい車内から解放されたからだろうか。幹也が大きく伸びをして、大袈裟に外の空気を吸っている。その隣では、千鶴が真夏の太陽に目を細めながらも、やはり丘に吹き上げる海風を堪能していた。
「それじゃあ、とりあえず皆でホテルまで荷物を運ぼうぜ」
大輝が車の後部ドアを開け、中から荷物を取り出して言った。
「ああ、そうだな。でも、もうちょっと待ってみたらどうだ。たぶん、迎えかなんかが来るんじゃないか?」
「んなことぁ、言われなくてもわかってるよ。たぶん、志乃のやつが迎えに来るだろうから、それまでに荷物を少しでも降ろしておこうぜ」
そう言いながら、大輝は黙々と車に積まれた荷物を降ろして行く。宗助もそれに倣って荷物を降ろそうとしたが、いち早く美南海が滑り込んで荷物を取った。
「ああ、駄目ですよぉ! こういうのは下っ端の役目なんですから、先輩たちは休んでて下さい」
一抱えもありそうな荷物を降ろしながら、美南海は宗助を制して言う。その小柄な身体つきからは想像もできないが、なかなかどうして、彼女は力持ちらしい。普段、焼き肉屋でアルバイトをしているだけあって、体力には自信があるようだ。
「まあ……確かに、お前の言うことも一理あるけどさ。でも、やっぱり女の子に力仕事させるってのは、どうかと思うし……」
「先輩、それ男女差別ですよ。男も女も関係なく、こういうのは後輩がやるってお約束なんです」
「男女差別ねぇ……。だったらなおのこと、俺や大輝が手伝ってもいいような気が……」
「いいえ、駄目ったら駄目です! どうしてもって言うなら、あそこでイチャついてるバカップルと、本の虫にやらせてからにして下さい!!」
自分の胸にしっかりと荷物を抱え、美南海は睨む様な視線を幹也たちの方に送った。その視線と、なにより声に気づいたのか、今度は千鶴がこちらにやってくる。両手を腰に当てたまま、彼女は開口一番に美南海に向かって叫んだ。
「ちょっと、佐藤さん! 先輩として、今の台詞は聞き捨てならないんだけど!!」
「そんなこと言われったって、私は事実を言ったまでです。里村先輩や椎名先輩に仕事させて、自分たちだけ先に海を堪能しようなんて、ずるいですよ」
「うっ……。ま、まあ、確かにその辺は、認めなくちゃならないかもしれないけど……。でも、やっぱりさっきの言葉は聞き捨てならないわ! いったい、どこの誰がバカップルだって言うのよ!!」
最早、完全に頭に血が昇ってしまっているのか、千鶴には周りの様子など見えていない。こと、幹也との関係になると、千鶴はいつもこうだ。お似合いだと言われても怒るし、馬鹿にされても怒る。そんなに嫌なら別れればいいと言うと、それはそれで否だという。
要するに、単なる照れ隠しなのだろう。そのことは周知の事実なため、もう誰も千鶴に意見はしない。美南海も適当に千鶴に謝ると、そのまま蓮や幹也たちを巻き込んで荷物を車から降ろしていった。
(まったく……。相変わらず、見ていて飽きない連中だよ)
心の中で呟きながら、宗助はふと駐車場に置かれた看板に目をやった。まだ、建てられて新しいのか、潮風にやられている様子はない。看板には一言、≪陽明館ホテル≫とだけ書かれており、他にはホテルまでの道を示す赤い矢印が描かれている程度だ。
陽明館。どことなく、戦前の雰囲気をそのままに残す名前に、宗助は何故か懐かしいような、奇妙な感じを抱いていた。
そう言えば、ここに来る前に志乃から聞いた話がある。なんでも、このホテルになった洋館は、元々は志乃の家の親戚に当たる人が持っていた物らしい。
もっとも、親戚と言っても、志乃はおろか彼女の父親でさえ名の知らない遠い親戚だ。そんな親戚の家ではあったが、志乃の家にひけを取らない資産家であったことは確かだ。戦前から地主をやっていたらしく、この洋館も、ある種の別荘のようなものだったらしい。
たかだか別荘で、ホテルにもできてしまうほどの洋館を建てる。いったいどれほどの財力があれば、そんなことが可能になるのか。貧乏学生の宗助からは想像もできないが、さぞかし金持ちだったに違いない。
そんな志乃の親戚であったが、戦後の財閥解体の流れには逆らえず、この洋館を手放すことになってしまった。そして、持ち主を転々としながらも、最後は誰も住まないままに放置され、権利書だけが所有者の手元に残っているような有様だったという。
だが、土地の所有者が亡くなったことで、この洋館もいよいよ管理する者がいなくなった。そこに目をつけた志乃の父は、ここぞとばかりに洋館を買い取り、ホテルへと改装したのだという。元々は七森の一族が持っていた洋館なだけに、きちんと手元に買い戻したい。そんな想いもあったのだろう。
戦前より海辺に建つ、明治から昭和初期にかけての空気を残した白い建物。志乃の話では、未だ整理のつかない図書室の奥に、古い本が山のように積まれているらしい。
これはもしかすると、文化人類学を研究する者としても面白い掘り出し物が見つかるかもしれない。そんな期待に胸を膨らませたところで、宗助は目の前の道を白いワンピースを着た女性が駆け下りて来るのに気がついた。
「ごめんなさい、先輩! 遅くなりました!!」
麦わら帽子を風に飛ばされないように抑えながら、その女性は肩で息をしながら宗助に言った。
「別に平気だよ。俺達も、今ここに着いたばかりだからさ。それより、志乃こそ大丈夫なのか? 随分と慌てて来たみたいだけど……」
目の前の女性、七森志乃が額に汗を浮かべているのを見て、宗助が心配そうに顔を覗きこんだ。
お嬢様育ちだからなのかは知らないが、志乃は他のメンバーに比べて身体が弱い。美南海のように力仕事ができるわけでもなく、千鶴のように痴話喧嘩で熱くなることもない。
ただ、そのことを指摘されると、志乃は返って無理をする。こと、お嬢様育ちだからと言われると、より一層むきになるのを宗助は知っている。
きっと、志乃は自分のことを変な色眼鏡で見て欲しくないのだろう。それがわかっているからこそ、宗助はあくまで一人の人間として、志乃とつき合うように心がけていた。
「私のことなら大丈夫です、椎名先輩。それよりも、皆と一緒に荷物を運ばなくていいんですか?」
「っと、そうだな。あんまりサボってると、確かに大輝のやつに怒鳴られるかも……」
志乃に言われ、宗助もそそくさとその場を去ると、自分の荷物を持って立ち上がった。
たかだか学生の旅行、しかもホテルに泊まるにしては、やけに大荷物だ。しかし、それも仕方のないことだと宗助は思う。なにしろ、これから海で遊ぶための物を、それぞれが山ほど自分の鞄に詰め込んできているのだから。
海から吹く潮風を背に受けながら、宗助たちは志乃の案内でホテルへと続く道を登って行った。これから先、このホテルで楽しい夏が待っている。このときは、その場に居合わせた誰しもが、そう思って疑わなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
部屋に荷物を置き、ひとしきり休んだところで、宗助たちはそれぞれに着替えて海に出た。
夏といえば、やはり海。しかも、今日は幸いにして、ビーチに他の客の姿が殆どない。大学の夏休みは長く、混雑する帰省のシーズンを外して来られたことも幸いしたのだろうが、それにしても人がいない。ここまで広々としていると、なんだかそれだけで、この場所が自分たちだけに開放されたプライベートビーチなのではないかと思えて来てしまう。
「はぁ……。やれやれ、疲れたなぁ……」
一通り海を堪能したところで、宗助は濡れた頭をかきながら、自分たちが刺したパラソルのある場所に戻った。
見ると、遠くでは未だに大輝や幹也が千鶴や美南海と戯れている。普段は乗りの悪い蓮も、今日は残る二人に合わせているのだろうか。いつもの冷静な様子とは反対に、それなりに楽しんでいるようだ。
「あの、椎名先輩……」
パラソルの下、砂浜に敷かれたシートの上に腰かけている志乃が、宗助にタオルを手渡しながら話しかけてきた。
「椎名先輩は、みんなと一緒に遊ばないんですか?」
「ああ、俺か? いや、一緒に遊ばないってことはないんだけど……なんか、ちょっと疲れちゃってさ。車の中でもあんまり水を飲まなかったし、ちょっと熱中症になりかけてんのかも……」
「だ、大丈夫ですか!! どこか、気分が悪いとかありません!?」
「そんなに驚くなよ。別に、そこまで驚くほどのことじゃないしさ。何か飲んで、ちょっと休めば直ぐに復活するだろ」
志乃の隣に置かれたバスケットの脇、幾本にも並んだ缶ジュースの内の一本を手にとって、宗助はそれを一気に飲み干した。
頭の中に響く軽い痛みと、全身に水が染み渡ってゆくような高揚感。身体が水分と塩分を欲しているときは、たった一本のスポーツドリンクだけで、こうまで癒されるものなのか。
「それはそうとさ、志乃。お前はみんなと一緒に、海で泳いだりしないのか?」
中身を飲み干した缶を自分の横に置き、宗助が尋ねた。一方の志乃は、少々決まりが悪そうにしながらも、宗助だけには聞こえる程度の声で答えた。
「私は、あまり身体が丈夫じゃありませんから……。一応、ワンピースの下には水着を着て来たんですけど……」
「けど? 別に、ちょっと遊ぶくらいなら平気だろ? 俺みたいに、後先考えないではしゃいだら、ぶっ倒れるかもしれないけどさ」
「そ、そうじゃないんです。ただ……私、日にあまり焼けない体質なんで……。強い陽射しに当たっていると、小麦色になる前に赤く腫れちゃうんです」
「なるほど、そういうことか。だったら、まあ無理は言えないよな。一応、ここに日焼け止めクリームとかあるみたいだけど……水に濡れたら、落ちちゃうしな」
シートの上に置かれたオレンジ色のボトルに目をやって、宗助は申し訳なさそうな顔をして志乃に言った。
人間、体質によっては日焼けせず、ただ赤く腫れるだけの者もいる。肌の中にあるメラニン色素が少ないと、そういった酷い焼け方をするらしい。宗助自身は経験がないのでわからなかったが、なんでも背中が焼けた場合、痛みと痒みで満足に眠れないこともあるというから笑えない。
この分だと、志乃は海で仲間と一緒に遊ぶことは無理か。そう思った宗助だったが、意外なことに、志乃はそんな宗助の前ですっと立ち上がると、着ていたワンピースを何の躊躇いもなく脱ぎ去った。
「ちょっ……志乃!?」
下に水着を着ているとはいえ、それでも知り合いの、しかも確実に美人の類に分類されるであろう者が、目の前で服を脱いだ。それだけで、宗助はなんだかもどかしいような、どこか恥ずかしい気持ちにさせられた。
だが、それにも増して宗助の目を釘付けにしたのは、ワンピースを脱いだ志乃の姿そのものだった。
青年誌の巻頭を飾るグラビアアイドルのような胸はないが、志乃の身体は十分にバランスが取れている。同年代の人間の中では、間違いなくスタイルが良い方に入る。
それだけでなく、志乃の着ている水着もまた、随分と大胆なものだった。
彼女の着ていたのは、ワンピース同様の白一色に染められたビキニタイプの水着。前から見ても十分に刺激的なのだが、後ろは更に目に毒だ。なにしろ、首元と背中で結ばれている紐以外には、その背中を隠すものが何もないのだから。
日焼けは嫌だといいながら、なぜ志乃は、こんな大胆な水着を着てきたのだろう。どうにも本心がわからない宗助だったが、そんな彼に構うことなく、志乃は日焼け止めのクリームが入ったボトルを宗助に突き出した。
「あの……椎名先輩。すいませんけど……私の背中に、これ、塗ってもらえませんか?」
「えぇっ!?」
「あっ、もしかして、迷惑でしたか? だったら、謝りますけど……」
「いや、別に迷惑ってこともないけど……。でも、本当にいいのか?」
いくら肌を守るためとはいえ、男の手で直に身体に触れられるのだ。女同士ならいざ知らず、これには抵抗を覚える女性もいるのではないか。
しかし、そんな宗助の言葉など耳に入らないのか、志乃は「私は気にしません」とだけ告げて背中を向けて来た。そうまで言われては、宗助としても仕方がない。ボトルの中のクリームを取り出すと、それを掌の上で広げ、志乃の背中に優しく塗っていった。
「先輩、ちゃんと塗ってくださいね。塗り残しがあると、そこだけ赤く腫れてしまいますから」
「わ、わかってるよ。たぶん、これで大丈夫だと思う……」
随分とぎこちない動きだったが、それでもなんとか志乃の背中に日焼け止めを塗り終えた。最後に、志乃自身が両手と両足、それに顔に日焼け止めを塗ったところで、今まで波打ち際で遊んでいた大輝たちも戻ってきた。
「おい、宗助。お前、な~に志乃ちゃんと二人でイチャついてんだよ! さては……二人とも、既にそんな関係だったってか?」
「大輝……。頼むから、周りに誤解を与えるような台詞を言うのはやめてくれ。志乃だって、困ってるだろ?」
「へいへい、そりゃ悪ぅございましたね。それよりも、お前達……いつまでも休んでないで、ちょっとは夏を楽しめよ。今からみんなでビーチバレーするんだけど、一緒にやらないか?」
「ビーチバレーか。俺は別に構わないけど……志乃は?」
「私も大丈夫です。海に入らないなら、そこまで日焼け止めが落ちる心配もありませんし」
「よしっ! それじゃあ早速、二手に分かれて始めようぜ。最後にボール落としたやつは、傘とシートをホテルまで持ってくってことでいいよな?」
夏の暑い陽射しのせいか、それとも雄大な海がそうさせるのか。今日の大輝は、いつにも増して乗りがいい。今にも独り、ビーチボールを持って走り出さんばかりの勢いだ。
ところが、そんな彼の意思に反し、やはり身体は正直だったのだろうか。ボールを片手に砂浜へ繰り出そうとしたそのとき、大輝の腹が音を立てて鳴り出した。
「おいおい。ビーチバレーやんのもいいけど、それより先に、何か食った方がいいんじゃないのか?」
「そうだな。それじゃあ、まずは腹ごしらえして、皆で楽しむのはそれからだな」
先ほどまで、我先に太陽の下へと飛び出そうとしていたのはどこへやらだ。大輝は時にこうした調子のいいところを見せるが、それでも彼を憎む気にはなれない。これはこれで、後輩からも慕われており、女の子からもそれなりに人気があるのだから。
「お昼ご飯、こっちで用意しましたから」
そう言ってバスケットを開けたのは、他でもない志乃だった。ここに来るとき、志乃がホテルから運んで来たバスケット。中身は何かと思っていたが、どうやら弁当を作って持って来ていたようだった。
「おう、気が効くな、七森。もしかして、ホテルの人に頼んで作ってもらったのか?」
「いいえ。これは私が作ったんです。私……あまりお料理は上手じゃないんですけど……。それでも、さすがにホテルの皆さんの手を借りるのも気が引けて……」
「ああ、そういうことね。まあ、俺は別に、美味けりゃなんでもいいんだけどさ」
相変わらず、単純な男だ。目の前でバスケットの中身を覗き込んでいる大輝を見て、宗助はそう思った。その間にも、志乃はバスケットから手作りの弁当を取り出して、それぞれに配って回っていた。
おにぎりと、それから卵焼きやショウガ焼きなどが入った、扱く一般的な作りの弁当だ。お嬢様育ちの志乃が作ったにしては意外なものだったが、変に気取って高価な物を使っていないところが宗助は気に入った。
味に関しても、まったく問題ない。料理は上手くないなどと言っていたが、なかなかどうして良い腕前ではないか。少なくとも、ここまで手の込んだ弁当を作ること自体、宗助には到底真似できそうにない。
夏の潮風に当てられながら、宗助は手にしたおにぎりに大きくかぶりついた。具に使われているのは、魚の煮付けか何かだろうか。少々味が濃い気もしたが、軽く汗をかいて塩分を欲している今の身体には調度よかった。
(それにしても……志乃って、意外と才色兼備なんだな……)
水着姿の志乃の背を見て、宗助はふと、そんなことを考えた。
実家はホテルを経営しており、料理も上手くてスタイルも良い。多少、引っ込み思案なところが欠点ではあるものの、それ以外は、殆ど完璧と言ってもいいくらいだ。
「どうしたんですかぁ、椎名先輩? 先輩が食べないなら、この卵焼き、私がもらっちゃいますよぉ?」
突然、横から美南海に声をかけられて、宗助はハッとした表情をして我に返った。自分の手を改めて見ると、つい先ほど、志乃の背中に日焼け止めを塗っていたときの感触が蘇る。それを美南海に知られるのが妙に恥ずかしく思え、宗助は慌てて卵焼きを口に放り込むと、殆ど噛まずに飲み込んだ。