~ 逢魔ヶ刻 序章 ~
暗く深い海の底より、それは静かにやってくる。
彼らの頭は常に七つ。
増えることもなく、欠けることもない。
己が代わりとなる者を探し、彼らは人々の血を求める。
古の封印が解かれしとき、常世は再び混沌と化す……。
空が泣いていた。
巨大な黒雲から降り注ぐ雨が大地を打ち、獣の雄叫びにも似た音を立てて風が駆け抜ける。時折、稲妻が空を照らし、打ち寄せる波は魔物の手の如く岸壁を削る。
風と、雨と、それから潮。あらゆる物に蹂躙されながらも、それは確かにそこにあった。
古く色褪せた、しかし未だしっかりと原型を保つ石の鳥居。かつては赤銅色をしていたであろうその全身は、既にあちこちが剥げて見る影もない。ある時は風雨によって、またあるときは押し寄せる波によって、いつしか鳥居は安置されたときの面影を失ってしまっていた。
足下をフジツボのような生き物に覆われ、今や正面に掲げられている額束に書かれた文字は、微かに七と社という数字が読める程度。参拝客は既にいなくなって久しいのか、鳥居に続くまでの道は、鉄の門と鎖によって封印されている。
だが、それでもなお、鳥居は崩れることなくその場に在り続けた。どれほど強い雨が降ろうとも、どれほど強い風が吹こうとも、そして、どれほど強い波が襲いかかろうとも、その鳥居を崩すことは決して叶わない。
太古の昔より、海を眺め、海と共に在った大鳥居。その奥に続く形で、岸壁を這うようにして一本の道がある。殆ど人が一人通れればいいような、極めて細く足場の悪い道だ。
鳥居から続く道には、手すりもなければ転落防止用の柵もない。使われなくなって長いのか、場所によっては足場が酷く崩れ、安定していない場所もある。
そんな道を抜けて更に奥に進んだ場所に、巨大な洞窟が口を構えていた。人の背丈の数倍はあろうかという入口は、見る者に奈落の底へ続いているかのような錯覚を与える。中はかなり広くなっているようで、この風雨にも関係なく、常に冷たい風が外へと吹きだしている。
洞窟の入口には巨大な格子状の柵がはめ込まれ、中に入ろうとする者の侵入を防いでいた。策を形作る木の一本一本が、それだけで人間の腕の二倍程の太さを持つ。かなり古くに作られた物のようだが、あの鳥居と同じく、それもまた朽ちることなく洞窟の入口を塞ぎ続けていた。
柵の端には、一応、その中へと入るための扉のような物もある。もっとも、その扉もまた、巨大な南京錠と鎖によって完全に封印されていた。赤く錆びついたそれは、既に合鍵を持ってしても開けることはできないだろう。これを壊して中に入るような酔狂な人間も、やはり同様に存在しない。
いったい、いつ、誰がこんなものを作ったのか。今となっては、それを知る者もほとんどいない。この場所が手つかずの場所になってから、誰一人として鳥居をくぐり、ここまでやってきた者などいなかったのだから。
風がますます強さを増し、それに伴って波も高くなる。稲妻の光る間隔が徐々に短くなり、嵐は更に強く、激しくなってゆく。
海神の怒りだ。昔の人間なら、そう表現しただろう。それほどまでに、今日の嵐は凄まじい。風によって運ばれてくる大波は、ときにその一部を洞窟の中にまで侵入させてくる。洞窟の中に入った波は決まった筋を描き、やがて暗闇の奥へと姿を消す。
このような日に外に出るのは、間違いなく自殺行為だろう。風に飛ばされるか、それとも波に飲まれるか。どちらにせよ、よほどの命知らずでなければ、海に近づく者などいるはずもない。
だが、そんな外の様子に反し、洞窟の中は静かだった。時折、規則的に水の垂れる音がするものの、それ以外は静寂と暗闇が全てを包んでいる。
封印された入口より先に進むと、そこは一本の長い長い通路になっていた。昔、この場所に鳥居が安置されたときには、この洞窟も数多の人が訪れていたのだろうか。今となっては、それを知るための術もない。
やがて、薄暗い一本道を抜けて出ると、最後には巨大な空間が広がっていた。
天井からぶら下がるのは、全て天然の鍾乳石。未だ人の手によって荒らされていない、美しい白色を保った物が多い。悠久の時をかけて作られたそれは、まさに自然の織り成す芸術そのものである。
大空洞のあちこちには、ところどころに潮だまりのような物ができていた。中にはかなりの大きさを誇るものもあり、ちょっとした池のようにも見える。風もなく、沢が流れ込んでいるわけでもないのに、その水面は微かに揺れている。
少しばかり詳しい者が見れば、それらが全て、海へと通じているのがわかっただろう。海底の奥深く、決して人の踏み入ることのできない場所から、この洞窟には無数の小さな道が伸びていたのだ。
誰もいない、時の彼方に忘れ去られた、何人も立ち入れない禁忌の場所。そんな言葉が似合う洞窟の中を、淡い橙色の光が漂っていた。光は時折、風に揺られて形を変えたが、直ぐに元の姿を取り戻す。微かな水と風の音の他には何も聞こえない洞窟の中を、煌々と照らし続けている。
――――ピチャッ……。
突然、今までの水音とは異なる、奇妙な音が洞窟に響いた。鍾乳石の先端から、水が滴り落ちる音ではない。無論、洞窟内を吹き抜ける、冷え切った空気の音でもない。
――――ピチャッ……。
また、音がした。今度はよりはっきりと、洞窟の中にそれは響いた。
濡れた、平たい物を叩きつけるような音。規則的に聞こえてくるそれは、人間の足音であることは明白だった。
いや、果たしてそれは、本当に人のものだったのだろうか。こんな洞窟の奥深く、昼か夜かもわからない時間に、たった一人で歩き回る者。そんな者が、本当に真っ当な人間と呼べる者なのだろうか。
それが本当に人間であるかどうか。そんなことは、誰にもわからなかった。この場にいるのは、それただ一人。後はおよそ生き物の気配さえもなく、ただ暗黒の闇が広がっているだけなのだから。
洞窟の最深部、例の海に繋がる池がある広場まで来ると、それはふと足を止めた。目の前に突き出た握りこぶしほどの突起を見つけると、懐から蝋燭を一本出して火をつける。
そこは、天然の燭台のような物だったのだろうか。それとも、太古の昔にこの場所を見つけた者が、岸壁を削りだして作った物なのか。
片手に持った蝋燭の火を他の蝋燭に分け与えながら、それは岩の出っ張りの上に、その蝋燭を置いて行く。一本、二本と蝋燭が置かれる度に、漆黒の闇に包まれていた洞窟内は、やがて淡いオレンジ色の光に包まれるようになっていた。
大空洞の外壁を一周するような形で、それは全ての突起に蝋燭を置いて回った。途中、大きな潮だまりに行く手を阻まれるようなこともあったが、際どい位置に作られた燭台の上にも、それは余すことなく蝋燭を置いて回っていた。
煌々とした灯りに照らされて、洞窟の中の様子が露わになる。今までは暗闇と水の音、そして風の音しかなかった場所が、その全容を現した。
改めて見ると、洞窟の中は想像以上に広かった。天井までの距離は、およそ数十メートル。太昔、この地球上を跋扈していた巨大な竜たちが塒にしていたとしても、まったくおかしくないほどの大きさである。
天井から生えているのは、無数の鍾乳石。乳白色をした大小様々なそれが集まっている様は、下から見上げているだけで、こちらに向かって襲いかかって来そうなほどの迫力がある。
あれは実は鋭い牙で、ここは怪物の口の中だ。そんな錯覚を与えてしまうほどに、美しく均整の取れた、それでいて見る者を威圧するなにかも持ち合わせている。
だが、それにも増して奇妙だったのは、その洞窟の中に置かれた物だった。
大空洞の中央に向かい、真っ直ぐに伸びている一本の道。道幅は決して広くはないが、それでも人間が数人まとめて渡るだけの広さはある。
その道の上に、まるで奥への道しるべのように、赤い鳥居が置かれていた。鳥居の数は七。その額束には、それぞれ一から七までの数字が振られ、奥に向かうほどに大きくなっている。
鳥居はかなり古くに作られたものらしく、その一部は既に白く濁った色になっていた。鍾乳石から滴り落ちる、石灰分を含んだ水を受け続けたためだろうか。そんな鳥居をくぐって更に奥に進むと、そこにあったのは古びた社だった。
木製の、どこにでもありそうな日本の神社。決して大きくはないが、造りはしっかりとした物だ。もっとも、やはりそこは普通の神社ではないのだろうか。賽銭箱のようなものは見当たらず、そもそも人が手入れをしている様子もない。長きに渡り、この洞窟内に放置されてきた。そんな印象を与えるものだった。
蝋燭を片手に、さきほどまで洞窟の岸壁に灯りを備え付けていた者がゆっくりと歩き出す。向かう先は、鳥居の向こうにある古びた社だ。
七つの鳥居の置かれた、少しばかりなだらかな坂になった道へと足を踏み入れたとき、ゴオッという音がして風が通り抜けた。後ろから、叩きつけられるようにして風を受け、それが手にしている蝋燭の火が激しく揺れる。
しかし、その一方で、風を受けたそれは、まったく意に介さずに神社への歩を進めていた。途中、何度か着ている服の袖を風が揺すったが、やはり動じる様子はない。
神社へと向かうそれが着ているのは、淡いベージュのような色をした一枚の外套だった。ちょうど、上から被る雨合羽のような形をしており、目元まで覆うフードによって、それの顔は半分ほどが隠されている。そのため、それが男なのか、女なのかまでは窺い知ることができない。
やがて、それは七つ目の鳥居を抜け、社の入口へと辿り着いた。入口には古びた閂が架けられていたが、それ以外には鍵のような物も見当たらない。
蝋燭を乗せた燭台を持っているのとは反対の手で、それは無言のまま閂に手をかけた。
固い。長きに渡り、使われていなかったからだろうか。木製の閂が錆ついているとは考えにくいが、それでも片手で外せるような物ではない。
しばらくの間、それは閂を前後に揺らしたり無理やり引き抜こうとしたりしていたが、やがて諦めたのだろうか。その手を外套の中に引っ込めると、持っていた燭台を足下に置いた。
ほぅっ、という音と共に、それの口から白い息が漏れる。洞窟の外では未だ雨が続いているのだろうが、それとは関係なしに、この洞内は常に肌寒い。真夏でも気温は二桁を越えることがなく、真冬になれば簡単に氷点下を迎える。肌を刺すような冷たい空気が、季節に関係なく充満している。
燭台を足下においたそれは、フードの奥で一瞬だけ何かを決意するような顔を見せた。そして、今度は両手を閂に伸ばすと、力に任せて横に引き抜こうとする。
――――ズル、ズル、ズル……・。
徐々にだが、それの力に負けて、社の扉を封印していた閂が動き始めた。一度動き出してしまえば、後は楽なのだろうか。時折、何かに擦れたり引っかかったりするような音を立てながらも、やがて閂は取り外され、社の扉は全ての戒めから解放された。
扉の封印が解けたことを確認し、それは足下の燭台を拾って扉の前に立った。そのまま自分の片手を伸ばし、ゆっくりと社の扉を開けて行く。
ぎりぎり、という何かが軋むような音がして、社の扉が開け放たれた。瞬間、今まで以上に冷たく、陰湿な空気が溢れ出し、それらが辺りに広がってゆく。
空気に色などありはしない。気体に感情など存在しない。だが、それならば、この社の奥から溢れ出て来た気はなんだろうか。まるで己の意思を持っているかのように、どす黒い色をして全てを飲み込んでしまうかのように、ぐるぐると渦巻きながら広がってゆく、この空気の流れは。
喩えるなら、それは正に死者の臭いと言うに相応しいものだった。しかも、ただの死臭などとはわけが違う。何十年、否、何百年もの昔から、この場所に閉じ込められてきた死の香り。暗く、冷たい洞窟の奥に閉じ込められ、決して陽の光を拝むことを許されなかった者たちの、怒りと悲しみの叫びだ。
社の奥から溢れ出る黒い空気が、蝋燭の火を歪めてゆく。だか、それでも、蝋燭を手にしたその者は、静かに、しかし確かな足取りで社の中に足を踏み入れていった。
洞窟の中とは違い、社の中はどんよりとした空気が漂っていた。洞内の空気は冷気を含んでいたが、それに比べ、ここは幾分か温かい。もっとも、人肌の様な柔らかい温かさではなく、どちらかと言えば、幽霊の好みそうな生温かい空気だ。
社の中には神棚のようなもの以外に何もなく、神器も供物も存在しなかった。しかも、その拝殿さえ簡素なもので、辺りにあるのは社の屋根を支える太い柱ばかりだ。
ここは拝殿。目指すべき場所は、ここではない。目的の物は、更に奥。本殿にあることを、それは知っている。
蝋燭を片手に、それは何の躊躇いもなく、神棚の奥に回って行った。それが社の中を歩くたびに、古びた床が耳障りな悲鳴を上げて音を立てる。まるで、大昔にこの地で果てた亡者たちが、彼らの世界に引きずり込もうとしているかのような音だった。
やがて、拝殿の奥に辿りつくと、それの前に大きな扉が姿を現した。拝殿の入口にあった扉とは違い、今度は南京錠によって固く封印が施されている。しかも、それだけではなく、扉には神社の御神木に巻きつけるような注連縄までかけられている。
中でも特に奇妙だったのは、その注連縄の作りだった。注連縄には紙垂と呼ばれる稲妻形をした紙をつけているのだが、その紙垂が、全て上向きに付けられていた。
普通、紙垂はその名の通り、注連縄から下に向かって垂れるようにして付けるのが正しい。では、この逆さまの紙垂は、いったい何を意味するのだろう。
注連縄が神域を守る役割、言わば外界の穢れが神域に入り込むのを防ぐ役割を持っているのであれば、この逆さまの注連縄は、正にその逆の役割を持っていた。即ち、外から穢れた者が入って来るのを拒むのではなく、中から穢れた者が出てくるのを防ぐための役割を果たしているのだ。
やはり、目的の物はこの奥にある。逆さまの紙垂を見て、それは己の考えが正しかったことを確信した。
フードの奥で、それの口元がにぃっと三日月の形に歪む。懐からバールのような物を取り出すと、それは渾身の力を込めて、扉を封印する南京錠に叩きつけた。
漆黒の闇の中、金属と金属がぶつかり合う、規則的な音だけが響き渡る。時に激しく、時に鋭く、それは何度も扉を封印する南京錠を叩きつける。最後には、とうとう叩き壊すことを諦めたのか、扉の隙間にバールをねじ込ませると、強引に金具を破壊して封印を解いた。
「はぁ……はぁ……」
扉を壊し、本殿への道を開いたそれが、肩で息をしながら立っていた。フードの奥に隠された瞳が、髪の間からぎょろりと覗いている。もう片方は前髪に隠されて見えなかったが、それだけに不気味なものがあった。
封印が壊されたことで、今の自分を阻むものは何もない。それはバールを放り出すと、再び足下に置いてあった燭台を拾って歩き出す。目の前にある注連縄を乱暴に剥ぎ取ると、それは今しがた自分で鍵を壊したばかりの扉を開け、ゆっくりと本殿へ続く道に足を踏み入れた。
瞬間、ぬるっとした感触が足に伝わり、それは自分の足下を確かめた。腰をかがめて指を伸ばしてみると、その先についたのは苔だった。
こんな洞窟の奥深く、光さえまったく射さない場所に、どうしてここまで苔が繁茂しているのだろう。この社の中に閉じ込められていた陰鬱な気を吸って、ここまで広がったというのだろうか。
どちらにしろ、今の自分には関係のないことだ。足下に生い茂った苔で滑らないように気をつけながら、それは本殿へと続く道を、更に先へと進んで行く。
苔に覆われた本殿までの道は、ほんの少しだけ傾いていた。普通に歩いたのでは気がつかない程度の傾斜だが、五感が必要以上に鋭敏になっている今では、そんな些細なことさえもしっかりと感じとることができる。
足場の悪く、細い通路を、それは蝋燭の灯りだけを頼りに進んで行った。通路の奥からは、磯のような匂いに混じり、なにやら冷たく重たい空気が流れてくる。
先へ進めば進む程、その空気はますます濃さを増してゆく。自分はゆるやかな坂を昇っているはずなのに、まるで深海の奥深くへ沈んでいるのではないか。そんな錯覚を抱いてしまう。
暗い、暗い洞窟の奥。忘れられた社の中の、更に先。苔むした本殿への道が終わったところで、それは静かに足を止めた。
空気が重い。胸が苦しい。辺りに漂う陰鬱な気が、粘性の高い油のように身体にまとわりつく。
それの手にしている蝋燭の先が、ぐにゃりと歪んでねじ曲がった。
間違いない。この場所こそが、目的の物が眠る場所。人知れず、何百年もの時を封じられてきた、深海の魔物が眠る場所。
それは手にした蝋燭を掲げ、辺りの様子を窺った。煌々とした灯りに照らされて、拝殿よりも更に狭い本殿の姿が露わとなる。
そこにあったのは、実に不気味な光景であった。
本殿の中に安置されていたのは、合わせて七体の奇妙なミイラ。最も大きな物では身の丈が裕に三メートルを越え、逆に小さな物となると、子どもの背丈ほどしかない。作られたのはかなり古いようで、この社ができた際に、そのまま本殿に安置された物のようだった。
だが、それにも増して奇妙だったのは、そのミイラたちの姿そのものだった。
ミイラの顔は、どれも人間のそれをしていない。丸く大きな目と縦に長い顔。それに、鋭い牙が特徴的な、異形の姿を成していた。
深海魚。正にそう表現するに相応しい、余りにも異様なミイラの顔。人の身体に魚の頭を貼り合わせたにしては、随分と生々しい作りだ。継ぎ目なども見当たらず、更によく見ると、身体のあちこちには鱗や鰭のようなものまでついている。
いったい、このミイラは何なのだろう。太古の昔にこの地球上を支配していた、人とは異なる先住者のものだろうか。それとも、何らかの突然変異によって生まれ出た、未だ人間の知らない生き物たちなのだろうか。
部屋を照らしていた蝋燭が再び揺れた。燭台を手にしたそれが、部屋に置かれたミイラをぐるりと見渡す。そして、一番右端に置かれたミイラに手をかけると、その肘から生えている鰭を、何の躊躇いもなく折取った。
乾燥したミイラにしては、やけに湿っぽく生々しい感触が伝わった。ミイラとなった今もなお、息を殺して生き続けている。そう思わずにはいられないほど、折取った鰭の感触は不気味だった。
一つ、また一つ、それはミイラの鰭を折っては取り、街灯のポケットに入れて行く。中央に鎮座するミイラだけを除き、残る六体の身体の一部を奪ったところで、それはポケットから一本のナイフを取り出した。
本殿を照らす灯りを受けて、銀色の刃が静かに輝く。蝋燭の火をその身に写し、刃は音もなく使い手の左腕の上を滑った。
「……っ!!」
刃先が腕の上を通り過ぎた瞬間、燭台を持っていた手に鋭い痛みが走った。見ると、手首の辺りには、新たに一筋の赤い線が刻まれている。その筋は瞬く間に広がって、やがて本殿の床に赤い滴が零れ落ちた。
己の手首を切ったナイフを放り投げ、燭台を右手に持ち返ると、それは中央に鎮座するミイラに傷ついた手をそっと差し出す。手首から零れ落ちる鮮血はミイラの額を濡らし、口の中へと注ぎこまれる。
どれほど、そうしていただろうか。ミイラの口が血の色で赤く染め上げられたとき、その瞳が微かに輝いた。紫色の、決して抜け出ることのできない底なし沼のような色で、燭台を手にしたそれを静かに見つめている。
洞窟の外で、再び大きな雷が鳴った。雨は更に激しさを増し、それに呼応するようにして波が叫ぶ。洞窟に吹き込む風が亡者の唸り声のような音を立て、社の中の空気もまた、今まで以上に重く、不気味に蠢きだす。
次の瞬間、中央に鎮座するミイラの手が、突如として大きく開かれた。
動けるはずなどない。生きているはずなどない。それなのに、赤い血を捧げられた魚人のミイラは、鋸の刃のような牙が生えた口を開いて咆哮する。
風を鋭く切る音がして、ミイラの腕が目の前にいた者の胸を貫いた。まるで、障子紙でも破くかのように、それはいとも容易く人の身体を突き抜けた。
蝋燭を乗せた燭台が本殿の床に零れ落ち、ジュッという嫌な音を立てて光りを失う。完全なる闇に閉ざされた部屋の中で、かつて人であったそれは己の血の匂いを感じながら、満足そうに笑みを浮かべた。
本作品は一部に暴力的な表現を含みますが、これは作中の暴力行為その他を推奨するものではありません。
また、一部の人間が反社会的な行いを働いたり、超常的な存在によって登場人物の一部が理不尽な死を遂げる描写があります。
これらの描写に対して政治的道徳観、及び宗教的価値観から不快な思いをされる可能性がある方は、これより先の内容を読むことを控えるようお勧めいたします。