~ 終ノ刻 岬頭 ~
達樹と皐月、それに村瀬が時計台についたとき、そこは奇妙な静寂に包まれていた。
図書室に入ったときも、彼らはその場が酷く静かだったことに驚かされた。舟傀儡の姿もなく、当然、他の怪物の姿も無い。ただ、部屋の中に転がっていた生首を除けば、随分と拍子抜けさせられたものだ。
だが、この時計台においては、それとはまた違った静けさを感じさせられた。誰もいない、持ち主にさえ忘れ去られた忘却の場所。恐らくは、建てられてからまともな回収さえ受けていない、年季の入った巨大な歯車たち。外の時計を動かしている様々な部品が、無情に時を刻み続けている。
鼻筋に漂ってくる、微かな油と埃の匂い。かなり古い作りの時計台だが、今もなお、壊れもせずに動いているようだった。まともに整備などされていないだろうに、なぜここまで動くことができるのか。やはりこれも、この洋館を建てた七守という一族の、霊的な力によるものなのか。
「ここかい、皐月? お前が階段のビジョンを見たという部屋は?」
達樹の問いかけに、皐月が無言のまま頷いた。時計台の辺りで彼女が感じた、石造りの古い階段の姿。それは、いったいこの部屋のどこにあるのだろう。
先ほどの図書室の一件からして、皐月の見た階段もまた、隠し通路になっている可能性が高かった。村瀬の話では、この部屋に入るための入口は一つだけ。図書館の三階から続く、階段に通じるものだけだというのだから。
ここは一つ、また皐月の力を貸してもらうことにするか。階段に続く通路が隠し部屋になっているならば、闇雲に探すよりも確実だ。
「皐月。お前の力を、また貸してはくれないか? この部屋で、お前が見たという石階段。そこに続くための道がないかどうか、探してくれ」
「うん、わかった。でも……さっきから、なんだか変な感じがするの……。振り子は外に繋がっている道を教えてくれたはずなのに、なんだか、そこには向かっちゃけいないような気がして……」
「向かってはいけない? しかし、外に繋がる道を探そうとして、お前はさっきの部屋のビジョンを振り子伝いに見たのだろう?」
「そうなんだけど……。ああ、もう! 自分でも、よくわからないよ!! こんなこと、私だって初めてなんだから!!」
左右に垂れた、二本の尻尾のような髪の毛を揺らし、皐月が癇癪を起こしたような声で叫んだ。別に、怒る必要があったわけではない。ただ、自分でもわからない妙な感覚に、苛立ちを隠しきれないだけだった。このホテルに漂う陰鬱な気。それによって、振り子の感覚が歪められているのではないかと思うと、それだけで妙に苛立ってしまう。
いけない。こんなところで怒っていても、父である達樹に叱られるだけだ。それに、美紅や宗助のためにも、今は自分が脱出のための鍵を見つけ出さねばならないのだから。
その場で深く息を吸い込んで、皐月は心を落ちつかせた。一瞬、古びた油の匂いと埃の匂いが気になったが、直ぐに気を取り直して意識を集中する。
薄暗い部屋の中、皐月は手にした振り子の指し示すままに、目を瞑ったまま歩き始めた。時折、振り子が左に曲がったところで、皐月は足を止めて様子を探る。そして、再び振り子が右回転を始めたところで、また歩き出して探索を開始する。
回転する歯車を避け、部屋の壁に沿うようにして、皐月は時計台の中を歩いていった。最後に、入口とはちょうど反対側の壁に差し掛かったところで、皐月は足を止めて壁と向き合った。
「ここよ、お父さん。この奥から、何か変な力を感じるわ」
「変な力か……。それは、危険なものなのかい?」
「わからない……。ただ、外に通じていることだけは確か。それだけは、たぶん間違いないわ」
振り子をしまい、皐月が少しばかり自信のなさそうな口調で言った。初めてのことが多過ぎて、幼い頭が判断をしかねている。そう、受け取れる表情だった。
仕方ない。皐月の言葉がどこまで真実なのかは、この壁を調べてみれば直ぐにわかる。その先に何が待っているのかは、もうこれは出た所勝負だ。あまり賢い選択ではないのかもしれないが、この雨の中、強引にホテルから外に出れば、そこは七人岬の勢力圏だ。
連中は、海の生き物を自在に操って攻撃を仕掛けてくる。このホテルの中にでさえ、相当な数の海洋生物や舟傀儡が存在した。恐らく、下手に外に飛び出せば、ここの数倍近い海洋生物を相手にすることになるかもしれない。それこそ、浜や入り江に済んでいる生き物の全てを、敵に回して戦うことになりかねない。
慎重に、壁の埃を落とすようにして、達樹は皐月の言っていた壁を調べていった。石造りの壁に、何か不自然な箇所はないか。レンガを組み合わせて作ったそれに、どこか仕掛けは施されていないか。一つずつ丁寧に調べてゆく。
「むっ……? これは……」
やがて、壁の中に一つだけ妙な色をしたレンガがあるのに気づき、達樹はそれをそっと指で触れた。見た目は他のレンガと同じだったが、埃の量がまったく違う。そこだけ、誰かが先に触れていたかのように、妙に埃が薄くなっている。そればかりでなく、レンガは壁から少しだけ飛び出しており、なにやら穴を塞ぐために、強引にねじ込んだように見えなくもない。
間違いない。きっとここが、皐月の言っていた階段への道だ。
飛び出したレンガに指をかけ、達樹はそれを半ば強引に引き抜いた。ずるずると石の擦れる音がして、レンガは思ったよりも簡単に抜けた。
壁の向こう側、レンガを取り払った奥から現れた物を見て、達樹が確信したように頷く。中から姿を現したのは、かなり古めかしい鉄製の輪。あの、図書室倉庫にあった隠し部屋への回転扉を起動させたものと同じものだ。
隙間の奥に手を伸ばし、達樹は鉄の輪をつかんで力強く引いた。輪は、やはり鎖によって何かに繋がれているようで、なにやら奥の方からジャラジャラと音がする。完全に鎖を引っ張り終えたところで、部屋の中に妙な音が鳴り響いた。
先ほど以上に、石が擦れるような音がする。三人は部屋のあちこちを見回していたが、その内、村瀬が部屋の壁が動いているのを見つけ、指をさして達樹に伝えた。
「なんと……。今度もまた隠し扉というわけですか……」
自分の任されたホテルに、未だ知らない部屋がある。そのことだけでも驚きだったが、それ以上に凄いのは、やはり皐月の力と達樹の洞察力だ。本来であれば、部外者に気づかれないように作られた隠し部屋。それをいとも容易く見つけてしまう辺り、彼らは普通の人間ではない。
感心している村瀬を他所に、達樹は皐月を連れ、部屋の奥へと足を伸ばす。そのとき、時計台の扉が音を立てて開かれ、達樹は反射的に霊撃銃を構えて振り返った。
「待って。私よ……」
そこにいたのは美紅だった。隣では、やはり達樹と同じように霊撃銃を構えた宗助が、こちら側に銃口を向けている。
「美紅か……。どうやら、宗助君共々、無事なようだな」
安堵の溜息を吐きながら、達樹は銃を降ろして美紅を迎え入れた。宗助もまた銃を降ろし、彼らは時計台の中央で合流する。そして、改めて奥にある部屋を除きこむと、その先に見える古びた扉に目をやった。
あの扉の奥が、いったいどこに続いているのか。それは、行ってみなければわからない。願わくば、そのままホテルの外に続いていて欲しい。未だ、岬頭の行方さえわからない状況では、いつまでもホテルの中に留まっているのは危険だった。
時計台の歯車が回る音と、五人の足が床を踏む音。規則的に響く無機質な音に包まれて、美紅たちは現れた隠し部屋の中へと足を踏み入れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
静かだった。
激闘の場となった玄関ホールには、合わせて五体の不気味な躯が転がっていた。
頭を斬り落とされた者、跡形も無く頭部を吹き飛ばされた者、そして喉元にナイフを突き立てられた者。最も酷い者に至っては、両腕を切断された上に、シャンデリアの下敷きになっている。全身からどす黒い血を噴き出して、それらの躯は静寂の中、動くことなく沈黙を続けている。
どれくらい、そうしていたのだろうか。躯の一つが、その指先をヒクヒクと痙攣させながら、ゆっくりと身体を起こして立ち上がった。身体に貼り付いていた護符は燃え、その喉元からはナイフが静かに吐き出される。傷口が塞がり、身体の自由を取り戻したところで、それは部屋の中央で大きく咆哮した。
けたたましいサイレンの様な、耳をつんざく不快な音。それをきっかけに、残る躯たちも次々と起き上がり、欠けた身体の部位を見る間に修復してゆく。
頭を失った者の首元が大きく膨らみ、その瘤の中から新たな頭部が出現する。腕を失った者もまた、肩口にできた瘤から腕が再生した。眼球や、その他の部分も再生を遂げ、五つの躯は今や完全に力を取り戻していた。
あそこまで酷く肉体を破壊されて、普通の生き物であれば、当然のことながら生きてはいない。そう、普通の生き物ならば。
終わりなき呪いの連鎖に組み込まれし存在、七人岬。彼らはその頭を倒さぬ限り、永遠に再生と殺戮を繰り返す。より強大な力を用い、その魂まで完全に消滅させなければ、何度でも起き上がり獲物を狙う。
岬の内の一体が、割れたテラスの窓ガラス目掛けて大きく跳んだ。続けて他の岬たちも、次々に玄関ホールを抜け出して外にでる。
岬たちにはわかっていた。自分たちの頭が呼んでいること。暗く、深い闇の底で、力を一つに束ねようとしていることを。
本当は、今すぐにでも獲物の後を追ってゆきたい。欠員を埋め、力の均衡を蘇らせるには、あの赤い目の女を殺すしかない。
だが、そうはいっても、頭の命令は絶対だった。それに、頭は別に、あの女を見逃すつもりはない。それがわかっているからこそ、残りの岬もまた頭の命令に従うのだ。
激しい雨と雷をものともせず、五つの影は玄関ホールを飛び出した。その先に見える荒れた海を瞳に移し、五体の岬はそれぞれが、荒らぶる波の中に姿を消した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
暗く、細長い階段を、美紅たちはひたすらに降りていた。
時計台の奥に現れた、謎の部屋。その先に見えた扉の向こう側には、螺旋階段が続いていた。
壁は全て石造りのレンガに囲まれて、外の明かりが入る隙間も無い。階段の脇にさえ灯りはなく、頼りになるのは村瀬の持っている懐中電灯のみ。夜目の効く美紅を除いては、全員が自分の足下に気をつけつつ、階段を下へ下へと降りて行く。
いったい、この階段はどこまで続いているのだろう。渦巻のように続く階段を下っている内に、咆哮感覚がなくなってきた。自分たちが、今、どちらの方角を向いているのか。もはや、それさえも定かではない。
やがて、下の方から冷たい風が吹いてきたとき、階段が途切れて辺りが急に広がった。
「ここは……洞窟、ですかな?」
開けた場所の天井を懐中電灯で照らしながら、村瀬が言った。そこは確かに巨大な一本の地下道となっており、右の方から先ほどの冷気が漂ってくる。真夏だというのに、気温もあまり高くはない。陽射しの当たらない、隔離された空間が、この場所の気温を一定に保っているのだろうか。
「なるほど、確かに洞窟ね。でも、自然にできた横穴……ってわけじゃ、なさそうね」
暗闇の中、赤い瞳を輝かせながら、美紅もまた辺りの様子を見回して呟いた。
洞窟の中は障害物の類さえなく、奥まで開けた場所が続いている。鍾乳石も、石筍もない。なにやら人工的な感じがして、美紅はこの場所が、あくまで洋館の一部であることを確信した。
「そう言えば、村瀬さん。あなたは図書室で、ホテルの地下に妙な通路があると言っていましたね。もしや、この場所が、その地下道で?」
達樹が村瀬に問う。彼もまた、この洞窟が自然にできたものではないことを、辺りの様子から感づいている。
「いえ、少し違いますな。ワインセラーから続く道は、あくまで地下通路として作られていました。ですが、それに比べると、ここは少し妙です。まるで、誰かが無理やりに、地下に穴を掘って作った道のようにも見えますな」
「無理やり、か……。恐らくは、これも洋館を建てた人間が作った物なのだろうが……」
村瀬の持った懐中電灯の照らす先、洞窟の更に奥に目をやって、達樹はしばし考え込んだ。
洞窟の奥は暗い。この先に何が待っているのか、本当にホテルから脱出できるのか、保障のようなものはなにもない。しかし、ここで立ち止まっているわけにもいかず、今さらホテルに戻るわけにもいかない。
どのみち、ここまで来たら進むしかないのだ。まずは、自分たちが生きてホテルを脱出し、戦うための体勢を整える。七人岬の頭領、岬頭と戦うのは、それからでも遅くない。
風の音と、水の滴る音が響く洞窟の中を、五人は無言のまま歩き出した。先頭は美紅で、その後ろから達樹と宗助が続く。皐月は彼らの後ろに隠れるようにして、最後に村瀬が美紅以外の人間の足下を懐中電灯で照らしながら着いてくる。
明かりの消えたホテルの中も暗かったが、洞窟の中は、それ以上に足下が見えない。その上、下から吹き上げる冷たい空気によって、思ったよりも身体が冷やされる。奥に進むに連れ、道は更に下へと続いているようで、濡れた石を踏むと滑りそうになる。
どれくらい進んだのだろうか。突然、美紅が足を止め、背中に背負った闇薙の太刀に手をかけた。達樹と皐月も何か感じているようで、互いに緊張した面持ちのまま、辺りの様子に意識を集中する。
ここに来てから、急に霊気が濃くなった。今までは何も感じなかったのに、急激に不快な感じが強まった。ちょうど、自縛霊が土地に霊気を溜め込むように、この先には強い負の霊気が渦巻いている。
美紅の足下で影が伸び、ざわざわと落ちつきなく揺れている。黒影もまた、この先にある強い陰の気に反応している。
「大丈夫か、美紅? 武器の補充が必要ならば、今の内に済ませておいた方がいい」
「ええ、そうね。それじゃあ悪いけど、ナイフの代わりをいただけるかしら? 七人岬相手に調子にのって、少しだけ投げ過ぎちゃったから」
「ナイフ、か……。銀はないが、真鍮ならある。使うか?」
「本当は銀がよかったんだけど……この際、仕方ないわね。いいわ。私の方で、ありがたく使わせてもらうわよ」
鈍い黄土色の輝きをしたナイフを受け取り、美紅はそれを腰にある鞘におさめた。
真鍮は、これもまた霊的な波動を伝えやすい金属として、時に退魔具の素材として用いられることがある。銀よりも伝導率は低いが、中には真鍮を極端に嫌う魔物もいるため、一概に性能の低い武器と割り切ることはできない。銀よりも安価なことも相俟って、大量生産しやすい武器として重宝されていた。
「こちらも、銃の準備をしておくか。君も水晶板を入れ替えておいた方がいい」
霊撃銃のグリップに木札を詰めながら、達樹が宗助に促した。装填した木札を媒体に、己の霊力を力と変えて発射する銃。宗助に渡した試作品とは違い、木札の種類を変えることで威力の調節も可能だ。もっとも、自分の力を弾に変えて撃ち出すため、強力な木札の連続使用はさすがにできないが。
木札を詰め替えた達樹の横で、宗助もまた自分の銃から水晶板を取り出して詰め替えた。取り出された水晶板は乳白色に濁っており、既にその輝きを失っている。七人岬相手に連射しすぎためだろうか。水晶の中に込められた霊力を使い果たした今、それは単なるくすんだ色をした石の板にすぎない。
達樹からもらっていた水晶板の替えは二枚。その内の一枚を装填し直して、宗助は美紅の後を追った。
水の滴る音と、風の吹き抜ける音。奥へ進めば進むほどに、それは徐々に強くなる。海が近いのか、それとも地下水の河でも流れているのか、どこからか水の流れる音も聞こえてくる。
曲がりくねった洞窟内を進んでゆくと、突然目の前が明るくなった。ぼんやりと、淡い光が広がる場所に出て、その場にいた全員が足を止める。彼らの目の前に現れた場所。そこは、巨大な空洞だった。
「なんだ、ここは……」
片手に銃を携えたまま、達樹が辺りの様子を見回した。天井には多数の鍾乳石が生え、その下には開けた場所が広がっている。壁には、これは明らかに人工的に削り出されたものだろう。燭台のような形をした多数の突起が生え、ご丁寧に、その上には火のついた蠟燭まで置かれている。
だが、それにも増して奇妙なのは、その大空洞に置かれた建物だった。古びた鳥居が七つ並び、その先には朽ち果てた社が建っている。既に、人が訪れなくなって久しいのか、外から見ただけでも相当に荒れ果てているのがわかる。
洋館から続く洞窟の先、巨大な大空洞に安置された社を見て、達樹はそこが例の巻き物に書かれていた神社であると悟った。七人岬を封じるために、≪七守≫と名乗る一族が建てたものだろう。辺りに漂う霊気は、その社の中から溢れ出てきているようだった。
七人岬が解き放たれてしまった今、この場に残る陰の気は、いわば残留物のようなもの。だが、それにしては、あまりに負の霊気が強すぎる。まるで、こちらをずっと待っていたかのように、押し殺された気が空洞内に充満している。
ここは、来てはいけない場所だったか。一瞬、そう思ったが、達樹も美紅も直ぐにその考えを否定した。
この神社が七人岬を封じるために作られたものであれば、必ず外へ通じる道が存在するはずだ。自分たちが通ってきた道は、恐らく社と洋館を繋ぐ連絡通路。外から社へ入るための入口が、どこかにかならずあるはずなのだ。
社へ続く赤い鳥居とは反対の方向に、巨大な口が広がっていた。吹き抜ける風の向きからして、美紅はそこが外へと繋がっていると確信する。間違いない。あの穴が、この大空洞と外とを繋ぐ唯一の道だ。
「あそこが出口ね。あの先は、きっと外に繋がっているはずよ」
壁面に空いた穴を指さしながら、美紅は油断なく大空洞の広場へと足を進める。本当は、こんな陰の気の渦巻く場所に、あまり長居はしたくない。が、慌てて動けば隙を生むことは、美紅自身がよく理解している。
皐月の振り子は、この大空洞へ続く道を、洋館からの出口として指示した。彼女の能力は、その潜在意識に働きかけ、道や物の在処を探すというもの。霊的な能力を兼ね備えた皐月が行えば、それは時に透視や念写、果てはナビゲーションのような役割まで果たすことが可能となる。
そんな皐月が振り子を用いて示した先に、なぜここまで強力な陰の気が渦巻いていたのか。答えは簡単だ。皐月の振り子でも感知できないくらい、気を洞窟内に押し込めていたからに他ならない。出口を探すことに意識を集中していた皐月は、当然ながら敵の察知という点では疎かになる。その盲点を突こうとしたのかどうかはわからないが、とにかく、この陰の気の根源は、今の今までその存在を隠し通すことに成功していた。
ここで焦れば、最後の最後で取り返しのつかないミスをすることになる。これほどにまで強烈な陰の気を、拡散を抑えて自由自在に制御する。それほどの力を持った者がいるのであれば、一時の油断はそれが即ち死へと直結する。
美紅と達樹、それに宗助と皐月に村瀬の五人。彼らが大空洞の中央まで辿り着いたとき、それは唐突に訪れた。
ぎりぎりと、金属の軋む音。古びた木製の扉が擦れる音が、大空洞の中に響き渡る。その場にいた全員の目が、七つの鳥居の向こう側にある古びた社へと注がれる。
社の戸が、まるで自動ドアのように勝手に開いた。瞬間、中から恐ろしいまでのどす黒い闇が、一斉に溢れ出して来る。黒い、煙のような空気が扉の向こう側から放たれ、それは一瞬にして洞内に拡散し宗助たちを包む。
美紅と達樹、それに皐月が、同時に口元を押さえて吐き気を堪えた。宗助もまた、あの黒い煙になにやら不穏な物を感じ、同じようにして口を覆う。霊感の類がまるでない村瀬でさえ、社の奥から溢れ出た空気に不快感を示して眉をひそめる。
暗い、先の見えない社の中から、コツコツという足音が聞こえて来た。闇の中から細い脚が現れ、次いで白いワンピースが姿を現す。社の中から現れたその者を目にしたとき、宗助は思わず大声で叫んでいた。
「志乃!!」
そこにいたのは、志乃だった。一点の穢れもない白いワンピースはそのままに、社の前に佇んで薄笑いを浮かべている。鳥居の向こう側にいる彼女は、まるで宗助に手招きでもしているかのような仕草を見せ、妖しく微笑みながら彼を誘う。
「志乃、無事だったのか! でも……なんで、お前がそんな場所にいるんだよ!?」
鳥居をくぐり抜け、志乃の下に走り寄ろうとする宗助。だが、そんな彼の腕をつかみ、美紅がそれを止めた。
「待って、宗助君。あの子……何か、おかしいと思わない?」
「おかしい? ま、まあ……そりゃ、俺だって、なんで志乃があんな場所から出て来たのか、わからないけどさ……」
「そうじゃないわ。あの子の全身から漂ってくる陰の気……あなたは感じないの?」
美紅の目が、向こう側の世界の住人と戦うときのそれになって、宗助を見つめていた。その、あまりの迫力に押され、宗助も改めて志乃を見る。
確かに、あれは志乃だ。それは間違いない。しかし、美紅の言っているように、どこか違和感のようなものを感じないわけでもない。
石段を降りる足音がして、志乃が徐々にこちらへと近づいて来る。鳥居の手前まで来たところで、彼女は足を止め、再び宗助に微笑んだ。
一瞬、自分の全身を駆け抜ける冷たい気に、宗助は思わず後ずさって身体を押さえた。背中から頭にかけて、無数の虫が這い上がって来るような不快感。あまりのことに、未だ震えが止まらない。ただ、志乃が笑っているのを見ただけだというのに、この感覚はなんだろう。
「なあ、美紅……。まさか……」
恐る恐る、宗助は隣にいた美紅の方へと顔を向け、震える声で彼女に尋ねる。それを見た美紅は何も言わずに頷くと、その赤い瞳を志乃に戻してゆっくりと答えた。
「そう……。あれが……あの子が岬頭よ……」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「馬鹿な! どうして志乃が、あの化け物どもの親玉なんだよ!!」
洞窟内に宗助の声が響いたのは、美紅の言葉を聞いた直後のことだった。
あの、志乃が七人岬の親玉。そんなこと、信じたくはない。まさか、会議室で別れた後、志乃も七人岬に襲われ、取り込まれてしまったというのか。だとすれば、あそこで彼女を突き放した自分の責任は重い。
もう、生き残っているのは自分しかいない。仲間は全員殺されて、化け物に変貌してしまった。
鳥居の向こうにいる志乃の姿を見て、宗助はがっくりと項垂れた。結局、自分は最後まで美紅に頼り、独り逃げ回っていただけか。そう思うと、仲間を奪った化け物に対する怒りより、自分自身に対する不甲斐なさの方が大きかった。
ところが、そんな宗助を目の前にして、なおも志乃は笑っていた。それだけでなく、氷のような微笑みはそのままに、白い息を吐き出しながらゆっくりと口を開く。
「どうしたんですか、先輩? そんな、悲しそうな顔をして……」
社の奥から溢れ出た闇とは正反対な、驚くほど済んだ声。それだけ聞けば、確かに目の前にいるのは宗助の知る志乃だ。
「先輩、もしかして、私が七人岬に殺されたと思ってます? だったら、大丈夫ですよ。私は別に、誰にも殺されていませんから」
いったい、どういうことだ。志乃は何を言っている。七人岬に殺された者は、七人岬に取り込まれるのはなかったのか。
美紅の言っていたことと志乃の言葉。その二つが噛み合わず、宗助は困惑した表情で志乃を見た。
「問答は無用よ、宗助君。あそこにいるのは、あなたのお友達じゃなくて岬頭。それだけは、間違いないわ」
闇薙の太刀の柄に手をかけて、美紅はじっと志乃のことを睨んでいた。赤い瞳から放たれる、刺すように鋭い視線。それを受けて、志乃もまた微笑むのを止め、冷徹な眼差しを美紅に返しながら言う。
「あなたですね。私の邪魔をして、岬の一人を消したのは……。おかげで椎名先輩を、こちらに引きこむことができなかったじゃないですか……」
「引きこむ!? どういうことだよ、志乃!!」
「そのままの意味ですよ。私は先輩たちと、ずっと一緒にいたかったんです。誰に邪魔されることもなく、先輩たちとの時間を永遠のものにしたかったんです」
宗助に問われ、志乃が淡々とした口調で答えた。一瞬、何を言っているのかわからなかったが、それでも志乃は関係なく、宗助や美紅を前に話を続けた。
「物心ついた時から、私は七森家の令嬢として正しく振る舞うように言われてきました。周りの人は、いつも色眼鏡でしか私を見ない……。お父様も、お母様も、私に七森家の娘としての仮面を被り、道化を演じさせることしか許さない……。自分らしさなんてもの、私には認められていなかった……」
その瞳に、どこか寂しげな色を漂わせながら、志乃は淡々と宗助に語る。今、初めて告げられた彼女の想い。志乃がそこまで思っていたなど、宗助は今の今に至るまで気づかなかった。
「そんな中、大学に入ってから、私は先輩たちに出会ったんです。そこは、私の知らない世界でした。皆、私のことを七森家の人間としてでなく、一人の女の子として扱ってくれました……」
大学の研究室で、初めて志乃と会った日のこと。それから、今は亡き他の仲間と一緒に、色々なところに出掛けたり、共同で作業をしたりした思い出。それらが走馬灯のように宗助の頭を駆け抜ける。
あの、楽しかった日々が、一夜にして悪夢に変わった。その原因は、目の前にいる志乃。本人の口から語られてもなお、宗助はそれを信じることができない。が、それでも志乃はお構いなしに、ただ自分の想いを語っていた。
「でも、私は気づいたんです。この時間は永遠じゃない。月日が経てば、先輩たちとの縁もやがては失ってしまう。私が求めた時間も、空間も、全て遠い過去のものとして消えてしまう……」
だんだんと、志乃の顔が遠くを見つめるようなときのそれに変わってきた。思い出に浸っている、というのとは少し違う。仄暗い、光を失った瞳のまま、彼女は自分自身の考えに酔っているといった方が正しかった。
「だから、私は決心したんです。七人岬の頭になって、先輩たちを七人岬に取り込ませれば、もう仲間を失わずに済むって。永遠に、終わることのない時間の中で、ずっと一緒にいられるって……」
「なに言ってんだよ、志乃! お前……本当に、そんな理由で化け物になっちまったのか!? 大輝も幹也も、それに蓮や千鶴や美南海たちも……本当に、お前が殺させたのか!?」
「そうですよ。もっとも、岬頭になったとしても、他の岬に殺す相手を指示することまではできません。だから、私は他の岬の身体の一部を切り取って、先輩たちに食べさせたんですけどね。椎名先輩の中にも、その力がちゃんと残っているはずですよ」
志乃がにやりと笑う。先ほど、宗助を誘うようにしていたときに見せた、妖しい笑みではない。その清楚な佇まいからは想像もできない、邪悪で歪んだ笑みだった。
「岬の身体を食べさせた……。ま、まさか……!!」
志乃の言葉に、宗助の声が、身体が震えた。彼の脳裏に、この地に初めて訪れたときのこと、あの砂浜での昼食の時間の記憶が蘇る。
志乃が作ってきたお弁当。彼女がそれぞれに手渡したおにぎりには、なにやら宗助の知らない具が入っていた。あのときは、魚の煮付か何かだと思っていたが、今思えば、あれが七人岬の肉だったのだろう。
以前、宗助と大輝を助けた際、美紅は宗助たちの身体に七人岬を引きつける何かがあると言っていた。志乃の言葉を信じるならば、それは宗助たちが食事を通して取り込んだ、七人岬の力の片鱗そのものだったに違いない。それぞれの怪物たちは、自分の体の一部を食した人間に狙いを定め、獲物を選別していたのだ。
それに、自分が美紅の使っていた武器を使えた理由。これもまた、志乃の言葉から説明がつく。
七人岬は妖怪の仲間。ならば、その肉を食べた人間もまた、その身に強力な霊気を宿すことになる。それは七人岬にとって、獲物の目印なのかもしれない。が、同時に宗助にとっては、霊木刀などの武器を振るうための力にもなる。
頭の中で、今まで疑問に思っていたことが全て繋がってきた。なぜ、七人岬が自分たちを狙うのか。なぜ、自分が美紅のような霊能力者が使う武器を使えたのか。なぜ、志乃だけが、あの船傀儡が跋扈するホテルの中で、たった一人でも無事でいられたのか。
「先輩、一人ぼっちになって寂しいですか? でも、悲しむことはなにもありません。里村先輩たちは、新しく生まれ変わっただけですから。椎名先輩も、こっちに来ればわかりますよ」
「嘘だ、そんなこと……。だったら、どうしてお前は、図書室で直ぐに俺を殺さなかったんだ!! 会議室のときだって、俺をあのデカイ半魚人に殺させることは可能だったはずだ!!」
「簡単です、そんなことは。私は先輩に、私の気持ちを知ってもらってから、こちら側に来て欲しかったんです。図書室では機会を失いましたけど、会議室では、ちゃんと伝えましたよね。私の気持ちを、私の唇を通して……」
ぞっとするほど冷たく病んだ瞳を、志乃が宗助に向けてきた。会議室での一件を思い出し、宗助の身体にあのときの感覚がよみがえってくる。思考を奪われ、全てを志乃に委ねてしまいたくなるほどに、全身を溶かされるような甘美な記憶。一瞬、自分を見失いそうになるほどに、それは強烈で抗い難いものだった。
あのときは志乃の考えていることが理解できなかったが、今ならばはっきりとわかる。志乃は、宗助のことが好きだった。だからこそ、ただ七人岬に取り込むのではなく、己の気持ちを伝えた上で、改めて仲間に引き入れようとした。
あのとき、自分が志乃の気持ちを受け入れていれば、彼女はまだ闇から抜け出すことができたのかもしれない。いや、それ以前に、自分がもっと早く彼女の気持ちに気づいていれば、志乃はこのような凶行に走らなかったのかもしれない。
この悪夢の原因は、全て自分にあったのではないか。氷の微笑を続ける志乃の前で、力なく項垂れる宗助。こうなったら、もうどうでもいい。ここで志乃の餌食となって、彼女と共に自分も闇に堕ちようか。それで他の人間が助かるというのなら、それもまた仕方がない。
だが、そこまで考えたとき、美紅が唐突に宗助の前に出た。深い闇を湛えた志乃の瞳。その視線から宗助をかばうようにして、真紅の瞳が志乃をにらみ返す。
「そこまでよ、宗助君。あの子の言っていることは、どうやら全部本当のことね。それだけは、間違いないわ。でも……あなたがその責任を感じる必要はない。あの子は自分の意志で、闇に身を委ねたんだから……」
闇薙の太刀の柄に手をかけたまま、美紅がは鳥居の前に立って身構える。彼女の影がざわざわと揺れ、その中に潜む犬神、黒影もまた、その精神を高ぶらせてゆく。
「あなた……自分が何をしたのか、本当に理解しているの? あなたのやったことは、自らを闇に落として、仲間を化け物の餌食にしただけよ」
鋭い視線をそらさずに、美紅は志乃に問いただした。もっとも、その程度で怯む志乃ではなく、彼女もまた平然とした表情のまま美紅に答える。
「ええ、わかっています。でも、私は別に、仲間を化け物の餌食にしたつもりはありません。私が椎名先輩や、他の人たちと一緒に過ごした時間を永遠にするには、こうする他になかっただけです」
「ふざけないで! あなたのやったことは、ただ、この場所に封じられていた化け物を蘇らせて、多くの人間を犠牲にしただけよ!!」
「犠牲? それなら大丈夫ですよ。椎名先輩をこちら側に引き込んだら、私はそのまま、海の底に潜ります。そこで、誰にも邪魔されないまま、皆さんとの時間を永遠にする……。他の人を殺して成仏する気はないですから、安心してください」
「海に潜る……? まさか、あなた最初から、そこまで考えて……」
「ええ、そうですよ。あなたも気づいているでしょう? 私の家の名字は、本来は七つの森ではなく、七つを守ると書く方の七守。私の先祖は、あの洋館や、この社を建てた者と同じ人間です」
図書室倉庫の隠し部屋にあった文献。達樹の見つけた巻物に書かれていた名前を、志乃は口にした。
志乃の話では、あのホテルの前身となった洋館は、そもそも彼女の親戚の持ち物だったという。恐らく、七守家から別れた一族の一派が、その名字を七森と変えながら生き残ったのが志乃の先祖。
本来であれば、七人岬を封じた一族である七守の血。その力を使えば、己の意識を残したままに、岬頭となることも可能だったのだろう。一度は怪物を封じた守り手が、数百年の月日を経て、自ら怪物になってしまうとは。なんともいえぬ、皮肉な話である。
「彼らが残したものを偶然発見して、私は今回のことを思いついたんです。最初は不安でしたが、まさか、こうも上手くいくとは思いませんでした。ただ……あなたの存在を除いては、ですけど」
志乃の瞳がカッと開かれ、威嚇するような視線を美紅に向ける。その長い黒髪がうねるようにして揺れ、闇が急速に広がってゆく。
今までは、内に封じていた恐るべき負の霊気。それを一度に開放し、志乃は己の下僕を呼び集める。洞窟内の潮溜りからぶくぶくと泡が立ち、そこから五つの影が飛び出してくる。影は志乃のまわりに集まると、そのまま彼女を守るようにして高らかに吠える。
黒板を引っ掻いたような、不快極まりない叫び声。耳をつんざくような咆哮が、洞窟内に響き渡る。
「あれは……」
志乃の前に現れた、彼女が呼び出したと思しき五つの影。宗助は、その姿に見覚えがある。
肩に醜い瘤を持った者。剣のように鋭く長い爪を生やした者。背中から肩口にかけて、多数の毛を生やした者。そして、赤い瞳をした俊敏そうな肉体を持つ者と、黄色い目をした酸を吐く者。
どれもこれも、あの玄関ホールで倒したはずの半魚人だった。中には頭や腕を斬り落とされた者もいるはずだったが、それらも含めて全て再生している。あの、中庭で完全に消滅させられた巨大な半魚人を除き、全ての岬がここに集結している。
やはり、あの程度のダメージでは、足止め程度が限界だったか。力の消耗の関係から、闇薙の太刀の力はやたらと開放するわけにいかない。それ故に、あくまで足止め程度に済ませたが、まさかここまで再生が早いとは。こればかりは、さすがの美紅も、ただ驚愕して目の前の相手を見つめるしかない。
志乃の周りに集まった岬が、彼女を取り囲むようにして身体を重ねる。それらを己の体内に吸収し、志乃の身体が瞬く間に肥大化を遂げてゆく。
話し合いの時間は終わった。岬と融合を始めた志乃の姿が、その全てを物語っている。
美紅は闇薙の太刀を引き抜いて、宗助と達樹もまた霊撃銃を取り出し構えた。その間にも、半魚人の身体を取り込んだ志乃は、徐々にその姿を歪な物へと変貌させてゆく。
「な、なんなの、あれ……」
村瀬の横にいた皐月が、震えながらその影に隠れて言った。今や、志乃の姿は完全に人のそれを捨て、恐ろしいまでの異形へと変化していた。
右手は腫瘍の塊のようになり、もはや原形を留めていない。左手には巨大な爪を備え、両肩には半魚人の顔がある。両脚の膝と、更には腹部にも顔があり、背中にはびっしりと鋭い棘が生えている。人の姿を失い魚のそれになった頭部には、二つの瞳が怪しい紫色に輝いていた。
この姿になってしまったからには、もう志乃にも本能を抑えることができない。両手両足、それに胴体部に融合した他の岬が求めるように、志乃もまた美紅に狙いを定め、七つの鳥居を駆け抜ける。
「来るぞ、宗助君!」
達樹が叫び、宗助は彼と同時に霊撃銃を構えて狙いをつけた。本当は、志乃を撃つのは気が引けたが、ここで撃たねば美紅がやられる。
達樹の霊気を、水晶板に込められた力を、それぞれの銃が光の弾に変換する。放たれた光は合体した岬の身体に命中し、激しい音を立てて炸裂する。
射程距離に難があるとはいえ、直撃させれば船傀儡程度は気絶させることのできる銃。七人岬が相手でも、牽制弾としては十分に有効。そんな霊撃銃の射撃ではあったが、志乃が変貌し、融合を果たした怪物には、まったく通用していないようだった。
光の弾の直撃を食らってなお、怪物はこちらに向かってくる。手で弾をはじくことなどしない。その全身を撃たれながら、それでも怪物は平気な顔で走り続ける。
このまま適当に撃っていても駄目だ。どこか、弱点を探し出して、そこを集中して攻撃せねば。達樹と宗助がそう思った瞬間、鳥居を抜けた怪物が高々と飛翔した。
その巨体からは想像できないほどの跳躍力を見せ、怪物は宗助たちの目の前に着地する。床が砕け、振動に足を取られ、宗助と達樹の態勢が一瞬だけ崩れる。
怪物の左手に備わった爪が、美紅を狙って振り下ろされた。空を斬る鋭い音がして、美紅は慌てて身体を反転させながら後ろに飛び退く。その隙に、宗助と達樹が再び仕掛けるものの、怪物はそれを面倒くさそうにして軽く払った。
怪物にしてみれば、恐らくは軽く触れた程度だったのだろう。だが、それでも達樹と宗助は、それぞれが巨大な腕の一撃を食らって吹き飛ばされた。
霊撃銃が、軽い音を立てて大地に転がる。全身を地面に叩きつけられ、痛みから身体がしびれた。
軽く触れても、これだけの破壊力だ。ならば、本気の一撃を受けたら、いったいどうなってしまうのか。その答えがわかっているだけに、あまり想像はしたくない。
咆哮と共に、志乃の変貌した怪物の腕が不気味に痙攣を始める。右腕の先についている肉塊がボコボコと膨らみ、その中から無数の深海魚が放たれる。
美南海の変貌した七人岬は、肩の瘤から二匹の魚を飛ばして来るだけだった。だが、志乃の右腕に融合した今、その全身は配下の魚を排出する能力に特化している。十匹近くの深海魚をまとめて放たれ、さすがの美紅も刀を振るって振り払うしかなかった。
このままではまずい。放たれる魚を斬り落としながら、美紅は自分の影に潜む黒影を呼び出した。黒い影が長く伸び、不定形な塊となって盛り上がる。四肢と、それから巨大な犬の頭を形成し、影は犬神としての姿を取り戻す。
「黒影、炎を!!」
続く二撃目の攻撃を、美紅は黒影の炎で相殺した。青白い炎に深海魚の群れが包まれて、なにやら焦げ臭い煙を放ちながら消滅してゆく。肉体を焼き焦がすことはないはずなのに、魂を焼かれただけで、ここまで不快な匂いがするものなのか。
破魔の炎を受け、黒い水たまりのようになって溶けてしまった魚たち。所詮は七人岬によって生み出された分身に過ぎず、その防御力は決して高くない。
刀を構え直し、美紅は岬頭に向かって走り出した。対する岬頭も、今度は左腕の爪を振り上げて、美紅に向けて真っ直ぐに突き出す。五本の爪は瞬く間に数メートルも伸び、美紅の首を狙って空間を切り裂く。
檜山蓮の変貌した、爪を操る七人岬。それを左腕に取り込んだことで、岬頭である志乃もまた、爪を伸ばす技を身に着けていた。
一撃で人間の首など簡単に斬り落としてしまう、恐ろしいまでの鋭さを持った五本の爪。全てを切り裂く力を持った凶刃を、美紅は横跳びに転がって避ける。
爪が大地を抉り、小石の爆ぜる音がした。続けて、今度は岬頭の膝にある顔が大きく口を開け、その中から強酸の塊を吐きかける。辛うじて、それもかわした美紅だったが、体勢を整えるだけで精一杯だった。
「この状況、ちょっとまずいわね……。こっちの武器の射程を読んで、近づけないようにするつもりか……」
石の溶ける音を背後に聞きながら、美紅は闇薙の太刀を構え直す。黒影の支援を受けられるとはいえ、美紅の戦いは基本的に接近戦が中心となる。それをわかっているからこそ、敵も美紅に対して執拗なまでに間接攻撃を仕掛けてくるのだろう。
巨大な脚を震わせて、岬頭が飛び上がった。たったの一蹴りで、大空洞の天井まで届かんばかりに飛翔する。普通の生き物として考えた場合、信じられないほどの跳躍力だ。
右腕の瘤をハンマー代わりに、岬頭は美紅を狙って腕を振るった。大ぶりな攻撃だけに、美紅は軽く後ろに飛んで回避する。が、巨大な一撃の威力は凄まじく、代わりに美紅のいた場所の大地が音を立てて砕け散った。
「美紅、いったん下がれ! 体勢を立て直さなくては危険だ!!」
吹き飛ばされたはずの達樹が、再び霊撃銃を拾い上げて叫んだ。木札を入れ替え、岬頭の頭部を狙って光弾を放つものの、やはりまったく効果がない。霊撃銃による外部からの衝撃など、強大な負の霊力を持った七人岬の融合体には、蚊に刺された程度の痛みしか感じない。
邪魔をするな。そう言わんばかりの表情で、両肩から生えた顔が達樹を見た。背中の棘が一斉に逆立ち、筋肉が激しく躍動する。それが攻撃の合図であることを察したとき、達樹は慌てて横に転がりながら身を翻した。
次の瞬間、岬頭の背中に生えた無数の棘が、一斉に達樹に向かって放たれた。邪魔者の達樹を串刺しにせんと、鳥居に、大地に棘が刺さる。攻撃を避けた際に帽子が外れ、放たれた棘は、それさえも一瞬にして串刺しにする。
後少し、反応が遅れていたならば、あの棘を全身に浴びて剣山のようにされているところだった。そう思い、額の汗を拭いたところで、達樹は脚に激しい痛みを覚えて呻き声を上げた。
太ももから流れ出る赤い鮮血。小さな棘の一つが、達樹の脚に刺さっていた。その大きさ故、致命傷には至らなかったが、それでも達樹は膝をつき、苦悶の表情を浮かべたまま銃を落とした。
全身の力が、棘を通じてどんどん奪われてゆく。霊的な毒針とでも言うのだろうか。棘から送り込まれる力で、自分の魂が徐々に削られてゆくのがはっきりとわかる。
「お父さん!!」
攻撃を食らい、血を流した達樹の姿を見て、皐月が声を上げて飛び出した。村瀬が慌てて抑えなければ、そのまま戦場に身を躍らせていた。
「来るな……皐月……」
脚から伝わる傷みを堪えながら、達樹はそう言うのが精一杯だった。残された全ての力を振るい、なんとか脚に刺さった棘を引き抜く。が、それが力の限界で、達樹は棘を握ったまま、がっくりと地面に倒れ込んだ。
駄目だ。全身の力が奪われて、思うように身体が動かない。感覚さえ徐々に失っているはずなのに、脚の痛みだけは酷くなってゆく。ムカデやスズメバチに刺されたような痛みが、断続的に響いてくる。
結局、道具職人でしかない自分は、美紅の援護さえできないのか。悔しさに身体が震えたが、今の達樹にはどうすることもできない。ただ、目の前で岬頭と戦う美紅を、倒れたまま見守るしかない。
巨大な爪の連続攻撃。それを器用に裁きつつ、美紅は反撃の機会を窺って太刀を振るう。だが、岬頭もまたさるもので、太刀の先端が掠った程度では怯みもしない。
本当は、一度に闇の力を開放して、全てを太刀に食らわせてしまった方がいい。いかに強大な力を持った岬頭でも、闇薙の太刀の貪欲なる闇には抗えない。問題は、闇を開放する際に、美紅も相当の力を消耗するということ。また、太刀を相手に突き刺さねばならないため、覚悟を決めて相手の懐に飛び込まねばならないということだろう。
左腕の爪を束ね、剣の様な形にし、岬頭は美紅の首を跳ね飛ばさんと振りまわす。その攻撃を太刀で裁きつつ、美紅もまた黒影の牽制を交えて反撃する。
肩から生えた巨大な顔。そこを目掛けて、黒影の口から青白い炎が放たれる。美紅を攻撃した反動で動けず、岬頭は炎の直撃を受けて悲鳴を上げる。
肩の頭を焼かれ、敵の身体が大きく仰け反った。その隙を逃さず、美紅は相手の胸元を狙い、一直線に太刀を突き出す。黒い、暗黒の気を纏った剣先が、分厚い胸板に向かって放たれる。
ガキッという音がして、美紅は手応えのなさに表情を歪めた。敵の身体を狙って放った渾身の突きは、その胴体部にある巨大な口によって受け止められている。剣先こそ折られなかったものの、鋭い刃が太刀をしっかりと捕え、離さない。
このままでは、逆に反撃をもらう。仕方なく、美紅は黒影を呼び寄せて、敵の腕に噛みつかせた。犬の頭部だけを残し、後は流動的な塊となった黒影が、鋭い牙を剥き出しにして襲いかかる。美紅を狙って降り上げられた腕は、その一撃の前に虚しく空振りとなる。
刃を押さえていた口が開かれ、美紅は素早く刀の先を引き抜いた。今度こそ、逃がしはしない。そう思って再び剣先を突き立てようとするものの、今度は脚にあった口が開き、美紅を狙って小さく吠える。
「まさか……酸!?」
膝の口から漂う異臭に、美紅は慌てて後退した。この至近距離で酸など使われたら、こちらには避ける術がない。発射する際、脚部の動きが止まることから、連続攻撃の最中には仕掛けてこないと思っていた。
美紅の判断は、確かに正しい。混戦の中では、己の動きを止めてしまう脚部からの攻撃は、確かに予測しやすく避けやすいものがある。が、今は敵も怒りに我を忘れている状態である。反撃されることなど構わずに、形振り構わぬ攻撃を仕掛けてきたということか。
もう、黒影を呼び戻している暇さえない。美紅は腰に装着したナイフを引き抜くと、片手でそれを岬の脚部目掛けて投げつけた。銀色の刃が膝の口に吸い込まれ、酸と反応して白い煙を上げる。それにも構わず、美紅は二本目のナイフを引き抜くと、今度はしっかりと狙いをつけ、膝の頭部の額を狙って投げつけた。
高貴な輝きを持った刃が、敵の肉を切り裂き黒い体液を撒き散らす。膝の顔を潰されて、岬頭は狂ったように暴れ出す。
剛腕が振るわれ、食らいついていた黒影が放り出された。大空洞の壁に叩きつけられ、黒影は不定形な塊となって崩れ落ちる。同時に、敵の胸板ががら空きとなり、美紅にとっては大きな攻撃の機会となる。
今度こそ外さない。赤い瞳が鋭く輝き、美紅は闇薙の太刀を岬頭の胸板に突き立てた。並みの刃など、容易に弾き返してしまいそうな強靭な身体。それにも関わらず、黒い闇を乗せた太刀の先端は、まるで紙でも貫くかのようにして岬頭の肉を切り裂いてゆく。
どす黒い体液が辺りに散って、美紅は勝利を確信した。そのまま更に力を込め、刀を奥深く刺し込んでゆく。敵の中枢まで貫いたところで、印を組んで刀の力を開放する。そのはずだった。
突然、何かに刃が阻まれる感触を受け、美紅の手があと一歩のところで止まる。岬頭の強靭な筋肉が、強引に刀身を締め付けて行く手を阻んだ。そう、理解したときには遅かった。
風の唸る音と、何かが自分の身体にぶつかる音。それを耳に聞きながら、美紅の身体が宙を舞った。
その身を大地に叩きつけられ、美紅が低く呻いて倒れる。攻撃を止められた次の瞬間に、敵の放った蹴りの直撃を食らってしまった。
視界がぼやけ、頭が揺れた。痛みに耐え、なんとか立ち上がろうとするが、脚に力が入らない。胃の中を生温かいものが逆流し、美紅の口から赤い液体が溢れ出た。
岩をも砕く、岬頭の強烈な一撃。いかに鍛え上げられた肉体を持つ美紅でも、これには耐えることができなかった。急所こそ外れたが、それでも肋骨の数本は確実に折れている。砕かれた骨の先端が心臓に突き刺さらなかったことが、唯一の幸いだ。
状況は、一瞬にして逆転した。満足に起き上がることもできなくなった美紅の前で、岬頭の頭部が振動を始める。不快な粘液を撒き散らしながら細長く伸びた首は、その鱗を体内に取り込むようにして、一糸まとわぬ志乃の上半身へと姿を変える。
「さあ、これで遊びはお終いです。大人しく、岬殺しの業を受け入れて、私の一部になりなさい」
首元から人間の上半身を生やした奇怪な姿。鬼神像を思わせる形状になったまま、志乃が美紅に向かって言った。
「冗談じゃ……ないわ……。誰が、あなたの一部……なんかに……」
震える脚に力を込め、美紅もまた立ち上がりながら志乃に告げる。例え武器を失い、戦う力を奪われようとも、その瞳だけは未だ死んでいない。
「往生際の悪い人ですね……。でも、心配することはありませんよ。あなたが岬になって欠員が埋まれば、次はあなたが椎名先輩に呪いを移す番になります。椎名先輩の中にある、岬の一部に引きつけられて……。そうすれば、あなたは直ぐに開放されますから」
「なるほど……。最終的な狙いは、あくまで宗助君ってわけね。だけど……残念ながら……あなたの思うようには、させないわよ……」
腰につけた鞘からナイフを引き抜き、美紅はそれを片手に志乃と対峙する。肉体は既に限界を迎えていたが、それでも美紅は諦めない。最後の最後まで、徹底して戦いぬいてやる。その意思を込めた瞳で志乃をにらむ。
だんだんと、志乃と美紅の間が縮まってきた。美紅は未だ構えを解かないが、そんな彼女を前にして、志乃は独り首を傾げている。美紅がここまで戦う理由。それが、どうしても理解できないようだった。
「なぜ、そうまでして邪魔するのですか? 私はただ、皆と一緒の時間を永遠にしたいだけ……。椎名先輩と、永遠に一緒にいたいだけなのに……」
「時間を永遠に、か……。そんなこと……本気で思ってるわけ?」
美紅の瞳が、軽蔑するような眼差しで志乃を見た。先ほどまでの、威嚇するような様子は既にない。どこか憐れみとも受け取れるような、寂しく儚げな表情になっていた。
「悪いけど……やっぱり私は、あなたの言っていることを認められないわ……。変化のない人生なんてない。一期一会、なんて……言うくらいだからね……。人は……出会いと別れを繰り返して……色々なものを乗り越えて、大きくなってゆくものよ……。あなたの言っていることは……単に、現実に背を向けて逃げているだけ……」
「逃げる? 今の私に、なにから逃げる必要があるんですか? これだけの力を持っていれば、逃げる必要なんて……」
「強がるんじゃないわよ! ただ、自分が無難に過ごせればいい? 皆との時間を永遠にしたい? そんなヤワな生き方……私はまっぴら御免だわ! 生きるってことは……戦うってことよ。戦って……傷ついたり、悲しいことも……たくさん経験するかもしれない……。でも……その度に、少しずつ前に進んでゆける……。それが……人間ってものじゃない?」
時折、咳込んで吐血しながらも、美紅は淡々と志乃に語った。それでも志乃は足を止めず、美紅に止めを刺さんと迫って行く。獲物の話など聞くつもりはない。そう言わんばかりに、左腕の爪を振り上げて美紅に迫る。
このままでは、美紅が志乃に殺される。皐月が目を伏せ、村瀬の顔にも諦めの色が浮かぶ。正に、爪が降り降ろされるその瞬間、洞窟内に乾いた音が響き渡った。
「止めろ、志乃……。もう、それ以上は……」
音の主は宗助だった。その手に霊撃銃を構え、ゆっくりと志乃に近づいてゆく。地面に叩きつけられた際に痛めたのだろうか。銃を握る腕は片手のみで、左手はだらしなく下に垂れているだけだった。
「椎名先輩? どうして、先輩まで邪魔するんですか? やっぱり、先輩もこちら側に来るのが怖いんですか?」
「ああ、そうさ。俺は怖い。ここで死ぬのも、他の人間が殺されるのを見るのもな」
そう言いながらも、宗助はひたすらに霊撃銃の引金を引き続ける。光弾が志乃の身体に炸裂するが、やはり効果はない。光の消えたその後には、鱗に覆われた岬の皮膚が無傷で残っているだけだ。
「でも……だからこそ、俺は戦うんだ。美紅の言っていた通り、生きるってことは戦うってことだ。辛いこと、悲しいこと、たくさんあるかもしれないけど……それに背を向けて逃げたら駄目なんだ! お前のやっていることは、未来に背を向けて、自分の時間を止めているだけだ!!」
「そんな……。先輩まで、どうしてそんなこと言うんですか? 私はただ、先輩たちと、ずっと一緒にいたかったから……」
「確かに、そうかもしれないさ。だけど……だったら、何でもっと早く、俺たちに相談しなかったんだよ! どうしてもっと、仲間を頼らなかったんだよ!!」
一瞬、時が止まってしまったかと思うくらい、激しく大きな声だった。洞窟の空気を震わせた宗助の言葉は、同時に志乃の魂をも揺さぶった。己の盲点を突かれたからか、それとも信じていた者に拒絶されたからか。その、どちらが彼女の心に響いたのかはわからない。
「人間は、独りじゃ生きていけないんだ。だから、仲間ってやつが必要なんだろ? 俺だって、仲間がいなけりゃ、ここまで来ることはできなかった。美紅が俺を助けてくれなけりゃ、とっくにホテルで殺されていた!!」
なおも引鉄を引きながら、宗助は志乃と美紅の間に割って入った。そのまま、美紅を庇うようにして、銃口を志乃の頭に向ける。それを見た志乃は一度だけ頭を下に向けたが、直ぐに肩を震わせながら、呟くように美紅の名前を繰り返した。
「美紅……美紅……美紅……。そうですか……。そこにいる女が、椎名先輩を誑かしたんですね? だったら……今、私がそれを断ち切ってあげます。そうすれば、先輩も私の言っていること、ちゃんと理解してくれますよね?」
瞳の色が、仄暗い闇を湛えた紫色に変わっていた。既に、瞳に人間の持つ輝きはない。光などなく、恐ろしいまでに深く暗い病的な目。それが自分の後ろにいる美紅に向けられたとき、宗助は込み上げる唾を飲み込んで覚悟を決めた。
もう、あれは自分の知っている志乃ではない。闇に取り込まれた彼女は、今や完全なる魔物と化した。ただ、己の欲望を叶えるために、他者の犠牲を何とも思わぬ恐るべき怪物に。
美紅を狙い、志乃が大地を蹴って走り出す。宗助の武器では止められないことを知っているのだろうか。銃口を向けられても、志乃はまったく怯むような素振りを見せていない。
だが、それこそが、宗助の狙っていたチャンスだった。敵は、こちらを舐めている。ならば、その隙を突いて攻撃すれば、状況を変えるきっかけになるかもしれない。
宗助の霊撃銃が、再び光の弾を放った。普通に当たっただけでは、それは大したダメージにならない。それ故に、宗助の狙う場所はただ一つ。美紅の投げたナイフが未だ刺さったままの、酸を吐く顔のついた右膝だ。
光の弾が、銀色のナイフに直撃した。ナイフの刃を形成する銀は、霊的な物質を流し易い。それは宗助の放った霊撃銃の弾とて例外ではなく、志乃は軽い悲鳴を上げて、思わず脚を押さえてしまった。
「今だ、美紅!!」
宗助の声と共に、美紅が痛みを堪えて大地を蹴る。その身体が宙を華麗に舞い、美紅は宗助と入れ替わるようにして、敵の目の前に着地する。
美紅の手が、苦悶する志乃の胸板に刺さった太刀を握った。今度こそ、正真正銘の最後だ。
残された全ての力を使い、美紅は敵の身体の中に、闇薙の太刀を更に奥深く突き立ててゆく。敵の背中が割れ、刃が貫通したことで、美紅は敵から離れて素早く複雑な印を結んだ。
「…………滅」
そう、美紅が口にした瞬間、刀から溢れ出た闇が志乃の全身に絡みついて食らい尽くしてゆく。黒い多数のヘビのような姿に変貌した闇が、志乃の身体を、頭を覆い、徐々にその中に取り込んでゆく。
「あっ……あぁぁぁぁぁっ!!」
巨大な半魚人の首から上に、その上半身を生やしたまま、志乃が断末魔の雄叫びを上げて叫んだ。それでも闇は留まるところを知らず、志乃の身体を食らい尽くす。貪欲に、魂の欠片も残さずに、志乃と他の岬たちを、まとめて闇が包み込む。
これは、浄化などではない。増してや、調伏でさえもない。刀の中に潜みし闇の力。その一端を開放し、あらゆる魂を闇に同化する儀式。目には目を、歯には歯を、そして闇には闇を。
強大な負の力に対し、より強力な負の力をぶつけ、最後には全てを暗黒の虚無に帰してしまう。それこそが、外法使い犬崎美紅の戦い方。闇を用いて闇を祓う、犬神憑きの家系のなせる技。
「椎名……先輩……」
その身が闇に取り込まれる最後の瞬間、志乃が宗助に手を伸ばして呟いた。が、その言葉を全て言い終わる前に、志乃は溢れ出る闇に取り込まれ、そのまま土塊となって崩れ落ちた。
七森志乃は死んだ。いや、死んだという表現でさえ、正しくないのかもしれない。闇薙の太刀によって食われた魂は、決して救われることはない。記憶も感情も、その全てを食らい尽くされ、闇に同化され、現世の理からも常世の理からも外れたものにされてしまうのだから。刀の闇の一部と化してしまった魂は、もう二度と元に戻ることはないのだから。
「ごめん、志乃……。でも、これでさよならだ……」
食事を終えた刀が転がったのを見て、宗助がそっと呟いた。あまりに悲劇的な終わり方だったが、込み上げる涙を、宗助はあえてぐっと堪えて飲み込んだ。
先輩として、友人として、なにより一人の男として、本当は宗助も志乃を救ってやりたかった。なぜ、こんなことになってしまったのか。どこで道を間違えてしまったのか。その答えを探したところで、志乃はもう宗助の下には戻って来ない。闇に憑かれ、異形の魔物と成り果てた彼女を救うには、こうして虚無の世界に帰してやる以外に方法はなかった。
これで、本当に全てが終わった。全ての戦いを終え、美紅は刀を拾い上げる。闇薙の太刀を背中の鞘にしまったところで、彼女もまた膝をついて倒れ込んだ。
「美紅!!」
霊撃銃を放り捨て、宗助が美紅に駆け寄った。慌てて抱き起こすと、その身体は思った以上に軽い。口元から赤い血を流す姿を見て、宗助は思わず彼女に向かって叫んでいた。
「美紅、死ぬな! こんなところで死んだら、今まで、なんのために戦って来たんだよ!!」
「ふふ……大丈夫よ、宗助君。私は……この程度で死んだりしないわ……」
美紅の手が宗助の頬に伸ばされ、そっと撫でた。力はないが、それでも瞳に宿る意思は死んではいない。今ならば、急いで病院に運び込めば、大事に至らずに済むだろう。
口元から流れる血を腕で拭い、美紅がふらつく足取りで立ち上がる。そんな彼女に肩を貸し、宗助もまた洞窟からの出口を見据えて立ち上がった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
それから先は、宗助もよく覚えていなかった。気がつくと、彼は美紅の身体を背中に背負い、洞窟の出口に向かって歩き出していた。
薄暗い洞窟の中、宗助は潮風の匂いを頼りに、外へと向かって脚を急がせる。その隣では、やはり村瀬が同じように、傷ついた達樹に肩を貸して歩いている。
やがて、目の前が明るくなったところで、宗助は悪夢が終わりを告げたことを改めて感じた。彼らの前に現れたのは、広大な海と昇る朝日。昨日の嵐はどこかへ消え去り、今は穏やかな波と柔らかい光だけが彼らを迎えている。
洞窟の入口に嵌められた、頑丈そうな木の格子。そこに取り付けられていた鍵に手を触れたとき、錆びついた鍵は宗助の前でボロボロに崩れ落ちた。
普通の人間には開けられない、霊的な封印。七人岬が倒され、全ての役割を終えた今、洞窟の入口を封じるための鍵もまた、役目を終えたということなのだろう。鍵が外れ、開閉の自由になった扉を開け、宗助たちは外界への一歩を踏み出した。
昇る朝日と優しい海風。それが、ここまで美しいとは、宗助は未だかつて思ったことはなかった。悪夢から抜け出し、無事に生き延びた感動を胸に、宗助は朝の空気を深く胸に吸い込んだ。
これから、自分はどうするべきか。その答えは、まだ見つかっていない。それに、今回の騒ぎに関しては、誰が後始末をするのかも不明だった。
七人岬が消えたことで、舟傀儡になった人々も元に戻っただろう。しかし、ホテルにつけられた傷跡は大きく、殺された仲間たちも帰っては来ない。この騒動を聞きつけたマスコミや警察が、果たしてどんな動きをするのか。そして、美紅や達樹は、それに対してどう動くのか。わからないこと、考えねばならないことは、まだたくさんありそうだ。
生きることは、戦うこと。志乃との戦いで、美紅はそう言っていた。ならば、自分も戦おうと宗助は思う。もっとも、独りで戦い続けるには、今の自分はあまりにも無力だ。だからこそ、この悪夢を乗り越えた仲間と共に進んでゆきたい。
「なあ、美紅……」
自分の背中に美紅のことを感じながら、宗助はしばし迷いながら彼女に尋ねた。美紅にはまだ、色々と訊きたいことが山ほどある。しかし、何から訊こうかと迷った挙句、最後は自分でも選べぬままに、口の方が動いていた。
「結局、あんた達って、何者だったんだ? 霊能力者って言ってたけど……本当は、そんな安っぽいものじゃないんだろう?」
「そうね……。強いて言えば、闇を用いて闇を祓う、赫の一族の末裔ってところかしら?」
宗助の言葉に、美紅がにやりと笑って言った。その言葉の意味がわからず、困惑している宗助を他所に、美紅は朝日の下で悪戯っぽく笑っていた。