~ 亥ノ刻 狂宴 ~
支配人室へ戻った宗助と皐月を迎えたのは、皐月の父である達樹と、このホテルの支配人である村瀬の二人だった。
部屋に帰るなり、皐月は今までに溜まっていたものを吐き出すようにして、そのまま父の懐へ飛び込んで泣いた。
「皐月! 無事だったか……」
娘の無事な姿を見て安心したのだろうか。達樹は皐月のことを受け止めると、しばらくその頭を撫でて、彼女が落ちつくのを待っていた。
「椎名宗助君、だったかな? こうして娘と再会できたのも、一重に君が彼女を見つけてくれたからだ。改めて礼を言わせてもらおう」
「いえ、そんな……。俺は、何もしてませんよ。全部、美紅がいたからできたことです」
謙遜ではなく、それは本心だった。美紅がいなければ、あの鎧の化け物から皐月を助けることも、美南海に化けていた半魚人を退けることもできなかった。自分を狙ってやってきた、巨大な七人岬。あれを倒すことだって、決して叶わなかったはずだ。
「美紅は……この先にある中庭で、七人岬の内の一体を倒しました。その上で、残りの六体を玄関ホールにおびき寄せて、全て迎え撃つそうです……」
「ふむ……。岬殺しの業というやつだな」
宗助の言葉に、達樹はそれだけ言って納得したような表情を浮かべた。美紅の知り合いである以上、達樹もまた七人岬について知っているのだろうか。それにしても、心配さえしないとは何事だろう。こうしている間にも、美紅は独りで七人岬と戦っているかもしれないのに。
「なあ……今なら、まだ間に合うはずなんだ。あんただって、幽霊だの妖怪だのといった連中と戦う力があるんだろ? だったら、今すぐ玄関ホールに行って、美紅を助けてやってくれよ」
このまま美紅を犠牲にして、自分だけ生き残りたくはない。だが、自分にはどうすることもできない以上、ここは達樹の力を借りるしかない。
宗助の言葉を聞いて、達樹がすっと立ち上がる。その手を皐月の頭に置いたまま、達樹はじっと宗助のことを見つめて口を開く。
「悪いが……それはできない相談だな。私と村瀬さんもホテルの中を色々と調べたが……どうやら、もうまともに生き残っているのは我々だけのようだ。ならば、ここは一刻も早く、脱出路の確保をする方が先だ」
「で、でも……いくらなんでも、たった一人で美紅を戦わせるなんて!!」
「確かに、そうかもしれん。しかし、我々には時間がないのだよ。それに、美紅はああ見えて、決して勝てない戦いを仕掛けるような娘ではないよ。彼女が独りで戦うと言った以上、何の策もなく敵を迎え撃とうとしているわけでもあるまい」
互いに長らく一緒に仕事をしてきたからだろうか。達樹の言葉には、確かな自信が感じられた。そこにあるのは、美紅に対する絶対的な信頼。彼女のことを信じているからこそ、その期待に答える行動をしようという強い意志。
もう、ここも安全ではなくなってきた。いくら鍵がかかっているとはいえ、こうしていつまでも立て籠っているわけにはいかない。
部屋のソファーの上に控えている村瀬に目配せし、達樹は彼に一枚の地図を広げさせる。白地の紙に描かれたそれは、他でもない陽明館ホテルの見取り図だ。
「さあ、皐月。すまないが、お前の力を貸してもらうときが来たようだ。あの地図を使って、このホテルから逃げるための道を探してはくれないか?」
皐月の両肩に手を置いて、達樹は彼女の目線の高さに腰を落として言った。初めは何を言われているのかわからなかった皐月だが、やがて、達樹の真剣な眼差しを受けて、彼が何を言わんとしているのかを理解した。
無言のままゆっくりと頷き、皐月は首から下げていた振り子を外して手に持った。もう、泣いている場合ではない。今までは助けられる側だったが、今度は自分が他の人達を助ける番だ。その想いを胸に、皐月は広げられた地図のを前に深く息を吸い込んだ。
意識を振り子の先に集中し、皐月の感覚が徐々に振り子と一体化してゆく。振り子と地図を通して、このホテルの様々な場所の詳細が、そのままある種のビジョンとなって、彼女の頭に流れ込む。
右は安全、左は危険。振り子の回転によって正否を見分ける能力を、皐月は生まれ持ってその身に宿していた。それは、今は亡き彼女の母親の力を受け継いだのか、それとも父である達樹の影響か。果ては、二人の力が合わさったが故に生まれた能力なのか、それは皐月にもわかっていない。
だた、他の人間とは違い、自分には自分の不思議な力があるのは確かだった。振り子に訊けば、全てがわかる。そう信じて、皐月はホテルの各部屋を、一つずつ丁寧に探してゆく。
やがて、三階の中央に差し掛かったときだろうか。今まで不規則に揺れていた皐月の振り子が、唐突に右側へと回り始めた。
「これは……」
時計回りは正の印。今、この場に限っては、安全な逃げ道があることを示すもの。が、皐月の振り子が示したそこは、何の変哲もない壁だった。
「妙だな……。何の部屋もない場所で、皐月の振り子が動くなんて……」
図書室前にある倉庫と、玄関ホールの間の部分。ちょうど、倉庫の間南に当たる部分に、達樹は不自然な空間を見つけて唸った。
四方を壁に囲まれて、およそ無駄としか思えないスペースを作りだしている。いったい、この不可解な空間はなんだろう。そうしている間にも、皐月の振り子は三階から離れ、とうとう四階にまで達していた。
ホテルの四階は、実にシンプルな作りになっている。階があるとはいっても、別に客室や従業員室の類があるわけではない。
四階にあるのは、古びた一つの時計台だった。この館を作った人間が、趣味で乗せたのだろうか。随分と古い作りのようで、未だに部屋中に置かれた巨大なゼンマイによって稼働している。既に使われなくなって久しい場所だったが、皐月の振り子はそこでも奇妙な反応を見せ、本来は部屋などないはずの場所で、くるくると右側に回って見せた。
いったい、これはどういうことなのだろう。訝しげな表情のまま、達樹は己の娘のことを改めて見る。精神を研ぎ澄まし、集中しているのだろうか。皐月は目をしっかりと瞑ったまま、ただひたすら、何かを念じて振り子に意識を送り込んでいる。
やがて、全ての階を調べ尽くし、皐月がゆっくりと目を開いた。なにか、脱出のためにわかったことはあるのか。達樹の問いかけに対し、皐月は少し困惑したような表情を浮かべ、達樹や宗助たちに向かって話し出した。
「ええと……実は、私にもよくわからないの。ただ、何か図書館みたいな部屋の近くで、古い本棚がたくさんある部屋のイメージが流れ込んで来たの」
「古い、本棚のたくさんある部屋?」
「うん。なんだか、あんまり使われてないみたいで、埃がいっぱい積もってた」
「そうか……」
皐月が言っているのは、恐らく三階で彼女の振り子が右に回った場所のことだ。古い本棚がたくさんあるということは、このホテルには自分はおろか、支配人の村瀬でさえ知らない部屋があるということか。
「それとね……。今度は四階なんだけど、なんだか階段みたいなものが見えたの。確か、時計台の奥のところだったと思う」
「なるほど……。いや、ありがとう、皐月。お前のおかげで、どうやら私もやらねばならないことが決まったようだ」
皐月の頭を軽く撫でながら、達樹はそっと立ち上がった。
古びた本棚の立ち並ぶ部屋と、時計台の奥に見えた謎の階段。その、どちらも調べてみる価値はありそうだ。できることなら、脱出のために役立つ何かが転がっているといいのだが。そう思い、達樹は傍らに置いてあったトランクを片手に、部屋の扉に手を伸ばす。
「とりあえず、まずは図書室へ向かおう。皐月が見たイメージのことも気になるし、時計台に上がるにしても、そこから向かわねばならなそうだからな」
異論はないだろう。そう言わんばかりの表情で、達樹は残る人間を見た。皐月も村瀬も、今は頼れるのが達樹しかいないのか、その言葉に反論を入れることはない。ただ、宗助だけが、やはり最後まで納得のいかない表情で、感情を押し殺しているように思われた。
やはり、美紅のことが気になるのか。そう、達樹が思ったとき、宗助は何かを決意した瞳で、その場に立ち尽くしたまま口を開いた。
「なあ、達樹さん。確かに、あんたの言っていることは間違っちゃいないと思う。脱出のための道を探すのは大切だし、それぞれが、できることをすべきだってのも理解できる。でも……それじゃあ、俺が納得できないんだ! 美紅に全てを押しつけて、自分は最後まで逃げ回るだけなんて……そんなのは、もう嫌なんだよ!!」
だんだんと、宗助の口調に熱がこもってきた。達樹はああ言っていたが、六体もの半魚人を同時に相手にして、美紅が無事でいられる保証はない。倒すことなど叶わず、せいぜい足止めがいいところ。そうわかっているからこそ、達樹もまた美紅とは別に、脱出のための道を探しているのではあるまいか。
「あんたは止めるかもしれないけど、俺はやっぱり、美紅を助けに行くぜ。大した力にはならないかもしれないけど……それでも、俺にだってできることがあるはずだ!!」
「ふむ……。だが、そうは言っても、君は一般人だろう? 我々のように、向こう側の世界の住人と戦うための力は持っていない。そんな君が、どうやって美紅の助けになる?」
「それなら、心配いらないさ。ここに来る前、美紅の持っていた木刀を使って、俺も舟傀儡とかいう連中と戦ったんだ。なんで、美紅の使ってた武器が使えたのかは知らないけど……とにかく、俺にだって戦うための力くらいはある!!」
「なんと……。君のような、何の訓練も受けていない人間が、霊木刀を使えるとは……」
さすがの達樹も、これには驚きを隠せないようだった。何の訓練も積んでいない人間が、いきなりの実戦で霊木刀を使いこなす。一見、普通の青年にしか見えないが、実は宗助には、恐ろしいまでの霊能力の才能があるということなのだろうか。
この青年を、本当にここで美紅の下に行かせていいものか。それならば、むしろ自分が行くべきではないのか。そう思った達樹だったが、宗助の意思は固かった。
それに、自分が美紅の下に行ってしまうことで、皐月や村瀬の方を危険に晒す可能性もある。万が一に備えることを考えると、やはり自分が美紅の下に向かうわけにはいかない。
「なあ……。悪いけど、あんたが使っていた銃、あれを俺に貸してくれないか? 美紅の使ってた木刀だって使えたんだから、あれだって俺にも使えるはずだ」
「霊撃銃か……。だが、あれは霊木刀と違い、ある意味ではより扱いが難しい武器だ。いくら君に素質があっても、そう簡単に使いこなせるものじゃない」
「だったら、何か他の武器でもいい。とにかく、美紅を助けるために、何か武器を貸してくれ!!」
「わかったよ。君がそこまで言うなら、もう私も止めん。私の銃を貸すことはできんが、代わりにこれを貸そう。まだ、試作品の段階だが、私の銃よりは扱いが簡単なはずだ」
そう言って、達樹は手にしたトランクを開けると、中から別の銃を取り出した。その作りは霊撃銃にも似ていたが、細部は微妙に異なっている。霊撃銃以上に金属部品の使用が多く、全体がどちらかと言えば一般に出回っている拳銃の方に近い形をしていた。
「こいつは改良型の霊撃銃だ。力の弱い人間や、訓練の終わっていない人間でも扱えるよう、霊力を込めた水晶板をグリップの部分に装填して使用する。これならば、ただ引鉄を引くだけで、君でも化け物の相手ができる」
「おいおい……。そんないいもんがあるんだったら、なんで最初から貸してくれないんだよ。お陰でこっちは、皐月ちゃんを見つけた後も、美紅に守られっぱなしだったってのに……」
「すまないな。だが、何度も言うが、これはあくまで試作品だ。水晶板の代わりは一枚しかないし、そもそもどこまでの威力が出るのか、武器としての安定性は、どの程度なのか……全てが未知数で、まだ試験も終えていない」
「なるほど……。つまり、どこまで役に立つかってのは、俺の運次第ってことか」
手渡された銃をまじまじと眺めながら、宗助はぽつりと呟いた。この銃が、自分と美紅の運命を切り開く新たな助けとなるか。それとも、何の役にも立たないガラクタとして、単なるお荷物となってしまうか。こればかりは、使ってみないことにはわからない。
達樹から、予備の水晶板も渡されて、宗助はそれを自分のポケットにねじ込んだ。なにはともあれ、武器は手に入ったのだ。これで美紅を助けに行ける。そう思うと、途端に宗助の身体を武者ぶるいが走った。
「それじゃあ、俺は行ってくる。皐月ちゃん……美紅は俺が必ず連れて帰るから。だから、それまでの間、お父さんや村瀬さんと一緒に、逃げるための道を探してくれ」
皐月に別れを告げ、宗助は達樹よりも一足先に、部屋の扉を開けて外に出た。
「美紅に会ったら伝えてくれ。我々は四階の時計台にいる。そこで落ち合おうと!!」
後ろから、達樹の叫ぶ声が聞こえてくる。宗助はそれに返事をせず、扉の隙間から見えた彼の方へ、軽く手を振って返し走り出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
玄関ホールの中央で、犬崎美紅は部屋のあちこちに転がる舟傀儡の姿を前にしていた。
あの、巨大な岬を倒してから、やはり残る岬は美紅へと標的を定めたようだった。その手始めとして、まずは大量の舟傀儡を、この玄関ホールに差し向けてきた。
だが、どれほど数を集めようと、所詮は単なる操り人形に過ぎない。本気を出した美紅と黒影の前には、彼らなど、いくら束になっても同じこと。
案の定、玄関ホールに押し寄せた舟傀儡の群れは、美紅と黒影の力によって全滅していた。死んではいないが、閃光玉や護符によって、完全に動きと止められてしまっている。復活して動き出すのは時間の問題なのだろうが、それでも、ここまでやられてしまっては、起き上がるまでに相当の時間がかかるだろう。
「さて……。雑魚の始末も終わったし、そろそろ本体が出て来てもいい頃よね? そう思わない、黒影?」
己の傍らにそびえる黒い影。巨大な犬の姿をしたそれに、美紅は同意を求めるようにして話しかけた。瞬間、ガラスの割れる激しい音がして、部屋の中に何者かが飛び込んで来る。テラスの窓ガラスを割って侵入して来た影は五つ。その姿を目にした美紅と黒影は、再び険しい表情に戻り、侵入者を油断なく睨みつける。
ガラスを割って入って来たのは、五人の青年たちだった。男が三人で、女が二人。その内の一人ずつは、既に衣服の殆どを失って半裸の状態だ。が、それを恥ずかしがるでもなく、彼らは美紅を見つけるなり、不気味に輝くその瞳を一斉に向けてきた。
玄関ホールに、ガラスを引っ掻いたような不愉快な奇声が響き渡る。その声に合わせ、青年たちの姿もまた、徐々に異形なる者へと変貌してゆく。
衣服を破り、その両腕と両脚を肥大化させ、青年たちの身体は一瞬にして鱗に包まれた怪物の物へと変貌した。そればかりではなく、眼球が反転し、顔が縦に裂け、鼻が身体の中へと飲み込まれて消えてゆく。女も男も髪の毛を全て失い、眼鏡をかけていたものは、それさえも床へ落として高らかに吠える。
美紅は彼らのことを知らなかったが、それは今までの戦いで、七人岬に取り込まれてしまった宗助の仲間たちだった。大輝に幹也、そして蓮と千鶴、美南海の五人。彼らは今や、完全に呪われし異形の怪物と化し、人を狩るだけの存在に成り果てた。その姿からは、もう人間であった頃の記憶さえ残っているのか定かではない。
(相手は五人……。岬頭は、まだ出てこないつもりかしら?)
生き残りの頭数と敵の頭数が合わないことで、美紅は少しばかりの不安を覚えて考えた。だが、頭がいないということは、考えようによっては好機でもある。岬頭の力がどれほどかは知らないが、さすがに六体もの岬をまとめて相手にするのはきつい。一体でも数が減ってくれれば、それに越したことはない。
背中に背負った闇薙の太刀を引き抜いて、美紅はそれを構え半魚人どもと対峙した。一度、引き抜いてしまったからには、もう遠慮も躊躇いもない。霊木刀でさえ決定打とならない七人岬相手では、この闇薙の太刀こそが、彼女の使える最強の武器となる。
「さあて……五人揃ったところで、一斉に名乗りでも上げるのかしら? それとも、これからまだ、最後の六人目が登場って展開になったりする?」
冗談交じりの口調で、美紅は五体の半魚人を挑発した。無論、それに対して人の言葉で返してくる連中ではない。互いに距離を少しずつ詰めながら、相手の懐に飛び込む機会を窺って近づいてゆく。
部屋の中に、唐突に響いた奇声。その声が、戦いの幕開けだった。
美紅が、黒影が、部屋の床を蹴って中に舞い上がる。対する半魚人たちもまた、各々の腕を大きく広げ、不気味な咆哮を上げて美紅を迎え撃つ。
最初に動いたのは、赤い瞳をした長身の半魚人だった。物干し場で殺され、呪いを移された、里村大輝の変貌したものだ。
美紅と半魚人。空中で互いの姿が交錯し、肉を切り裂く音が部屋に響く、再び床に脚をついたとき、その体勢を崩したのは半魚人の方だった。どうやら脇腹を切り裂かれたらしく、傷口を庇うようにして呻いている。
まずは一体、とりあえず動きを止めてやった。が、彼女が身体を起こそうとした瞬間、立て続けに左右から二体の半魚人が襲いかかる。右からは黄色い目をした、左からは黒い目をした半魚人が、それぞれの爪を武器に美紅へと迫る。
「任せたわよ、黒影!!」
自分の頭を敵の爪が捕える瞬間、美紅はそう叫んで前に飛び出した。敵の爪は虚しく空を切り、その一撃が玄関ホールの床に直撃する。爪の直撃を受けた床が粉々に砕け散り、赤い絨毯が無残にも切り裂かれた。
攻撃を避けられた半魚人が、忌々しそうにして美紅を見る。更なる追撃を加えようと迫る半魚人たちだったが、その一方、真嶋幹也の変貌した半魚人に、黒影が唸り声を上げて飛び掛かった。
黒い塊と抱き合うようにして、半魚人が玄関ホールの床を転がる。残った半魚人、檜山蓮の変貌した、長い爪を持ったそれが、その手についた爪を美紅に突き出すようにして放った。
シュッ、という鋭い音がして、爪が一瞬にして数メートルも伸びた。それは美紅の頬を掠め、彼女の髪の毛が数本、ホールの床に舞い散った。
あれの直撃を食らったら、さすがに命はない。恐らく、人間の首など、いとも容易く切断してしまうに違いない。
立て続けに、今度はもう片方の手の爪も伸ばし、半魚人が美紅の首を狩らんと迫る。だが、美紅は身体を大きく捻ってかわすと、その回転を利用して、横に薙ぐようにして相手を斬る。
どす黒い、およそ生き物の血液とは思えないような液体が、激しく床に飛び散った。それでも美紅は攻撃の手を休めず、左足で半魚人に痛烈な蹴りをお見舞いする。彼女の脚は敵の胴体をしっかりととらえ、直撃を食らった半魚人の身体が、受付のカウンターに叩きつけられた。
これで二体。そう思った矢先、美紅は自分の側方から強い殺気を感じ、慌てて後ろに飛び退いた。先ほどの爪の攻撃よりも、更に鋭く固い音。何かが床に刺さる音がして、美紅は先ほどまで自分がいた場所に目をやった。
そこにあったのは、鋭く尖った数本の針。後少し、反応が遅れていたならば、あのまま串刺しにされているところだった。
再び、空気を切り裂く音。身体を転がし、伏せるような体勢のまま、美紅は大理石で作られた柱の陰へと身を隠した。針が一斉に彼女を襲い、床が、柱が、瞬く間に針の山と化してゆく。針を飛ばして来ているのは、背中から肩にかけて無数の毛を生やした奇怪な半魚人だ。
恐らく、先ほどの攻撃は、あの肩の毛を針として飛ばして来たのだろう。どこかの漫画に出てくる妖怪少年ではあるまいし、体毛を針として飛ばして来るとは冗談がきつい。
「あなた……そんなに毛を飛ばしてばっかりだと、今にはげるわよ? 髪は女の命って、昔から言うでしょう?」
あの岬は、変身する前は女の姿をしていたものだ。柱の向こうで冗談交じりに言いながら、美紅は攻撃の止んだ一瞬の隙を突いて階段の方へと飛び出した。
このままバラバラに戦っていても駄目だ。美紅は未だ先ほどの敵ともつれ合っている黒影を呼び戻し、己の影の中に取り込んだ。連携攻撃を繰り出して来る相手には、こちらも連携で対処するしかない。そのためには、黒影を常に自分の影の中に潜ませ、互いの隙を補いながら戦ってゆく必要がある。
階段を駆け昇り、二階に続く踊り場へと出たところで、美紅の前に小柄な半魚人が飛び出した。あの、剥製の間でも戦った、魚を飛ばして来るやつだ。肩にできた醜い瘤を不気味に動かして、怒りに満ちた咆哮を上げて美紅を威嚇する。
「あら、また会ったわね。でも、その様子だと、あのときのお仕置きじゃ足りなかったようだけど……」
肩の傷が、軽く傷む。目の前の岬が放ってきた魚に、剥製の間でつけられたものだ。応急手当は済み、薬のおかげで傷みも随分と退いていたが、それでも痛いことには変わりない。
手負いにされたのは、こちらも同じだ。それほど決着をつけたいならば、今ここで全てを終わらせてやる。
敵の瘤が膨らんだその瞬間、美紅は手にした太刀を構え、一気に間合いを詰めるべく駆け出した。あの攻撃には、魚を放つまでに硬直するという欠点がある。その隙を狙って、美紅は相手との距離を一度に詰め、肩の瘤を狙って太刀を振るう。
水に濡れたスポンジを斬ったような、なんとも言えぬ気味の悪い感触。刀越しに伝わったそれを手に感じ、美紅は思わず嫌悪感を露わにした表情で敵を見る。同時に、半魚人の肩から瘤が落ち、それは床に粘液のようなものを撒き散らしながら、どろどろに溶けて崩れてゆく。
瘤の一つを斬り落とされ、半魚人が怒りに吠えた。そのまま左腕で美紅の頭を引き裂こうとするが、美紅は器用に腰を屈めてそれを避ける。次いで、バランスの崩れた相手の胴体を狙い、強烈な体当たりをお見舞いした。
玄関ホールに響き渡る、何かが落下して叩きつけられるような音。美紅の一撃で、瘤つきの半魚人は踊り場から転落し、固い床にその身を激しく衝突させた。
「さあ、次は誰が来るのかしら? こうなったら、とことんまで相手をしてあげるわ……」
ホールの二階の踊り場で、美紅が下にいる半魚人たちを挑発するように言った。玄関ホールの一階に集まった十の瞳。五体の半魚人のそれが、一斉に美紅を睨む。
やはり、この程度で倒れるような相手ではないか。長期戦になることを覚悟しながら、美紅は闇薙の太刀を構え直して敵を見据えた。
シャンデリアの明かりに照らされた、彼女の影がぬぅっと伸びる。壁の中から、黒影が頭だけ出したような形になったところで、美紅はホールの踊り場から、一階に向かって勢いよく跳躍した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
達樹と皐月、それに村瀬が図書室についたとき、そこは相変わらず静かだった。ここに来るまでもそうだったが、舟傀儡の動きがない。やはり、岬殺しの業を背負った美紅を狙うということで、こちらには仕掛けてこなくなったのだろうか。
どちらにせよ、これは達樹たちにとっては好機だった。敵の襲撃が無ければ、その分だけ探索も進めやすい。皐月の見たビジョンの謎を解いて、そこから脱出の道を探る。埃まみれの倉庫と謎の階段。今はその存在に賭けるしかない。
静まり返った図書室の中を、三人はそっと歩いて行った。二階に上がり、書棚の前に来たところで、皐月が小さな悲鳴を上げて達樹に飛びついた。
「お、お父さん……。あれ……」
そこにあった、丸く大きなボール状の物体。それが人の首だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
「酷いな、これは……。彼もまた、七人岬の犠牲者の一人というわけか……」
床に転がっていた首、斬り落とされた檜山蓮の頭部を見て、達樹が言った。この状況からして、彼は既に七人岬の呪いを移され、こちらの敵となった後だろう。自分の身を守るだけで精一杯で、彼のような若者を助けることのできなかった、己の無力さが恨めしい。
「見てはいけませんよ、お嬢さん。あなたには、あれは刺激が強すぎます……」
自分の口元をハンカチで抑えつつ、村瀬が皐月の目を手で覆った。そういう彼自身、人間の生首など見るのは初めてだ。子どもの手前、なんとか逃げ出さないようにはしているが、本当ならば今にもトイレに駆け込んで吐き戻したいところだった。
三階への階段は、部屋の壁を沿うようにして作られている。ちょうど、本棚の上に乗るような形で、階段がそのまま廊下へ繋がっている。
もっとも、廊下と言っても、実際には図書室にある本棚の上を歩いているだけに過ぎなかった。他の部屋と違い、この部屋だけは二階から三階までが一続きの空間になっている。そのため、三階というのは名ばかりで、実質的には単なる通路の意味合いが強かった。
村瀬の案内で、達樹は皐月を連れて三階へと上がった。そのまま図書室前にある倉庫へ案内され、二人は中へと脚を踏み入れた。
「うわぁ、なにここ……。なんか、凄い埃っぽい……」
開口一番、皐月が口元を覆って言った。倉庫の中には、これまた多数の本が積まれ、そのどれもが埃を被っている。中には随分と古い本もあるようで、達樹が手に取ると、パラパラと音を立てて埃が落ちた。
「皐月、ここかい。お前が振り子を通して見た部屋というのは?」
「ええと……たぶん、ちょっと違う。ここも埃っぽいけど、私が見た部屋はクモの巣とかあったの。それに、本も古いものばっかりで、ここよりたくさん埃が積もっていた気がする」
「そうか……。だとすると、この部屋ではなかったのか?」
娘の才能を、達樹とて知らないわけではない。皐月の能力、振り子を使って離れた場所にある物の存在や、物事の正否をわける力。霊的な探査能力だけで言えば、自分よりも数段上なのだ。
その皐月が、果たして部屋の見間違えなどするものだろうか。いくら幼い子どもとはいえ、否、幼い子どもだからこそ、その観察力は馬鹿にしてはいけないのだ。
「すいません、村瀬さん。このホテルに、この他にも倉庫のような場所はありませんか。その……この、図書室から入れる、本をしまっておくような場所などですが……」
「いえ……。私も社長からホテルの図面はいただきましたが、この他に書庫のような場所などは……」
「そうですか……。だとすると、ここではないのか?」
顎を押さえるように指を当てて、達樹はしばし考えた。やはり、娘の勘違いだったのだろうか。だとすると、残るは時計台の奥の階段か。もっとも、これも村瀬から渡された図面になかったことからして、皐月の思い込み、もしくは勘違いの線も捨てきれない。
探索は、最初からやり直しか。そう思って下を向いた達樹は、部屋の角にある本棚に、不自然なものを見つけて顔をしかめた。
本棚の手前だけ、埃がない。否、埃がないのではなく、まるで何か重たい物を動かして、床の埃が払われたようだった。
(まさか……)
本棚に近づき、達樹はそれを押してみる。無論、何の反応もない。本棚はぴくりとも動かず、しっかりと壁に固定されている。
「どうしたの、お父さん?」
父の行動を不思議に思ったのか、皐月が側に寄ってきた。それでも、達樹は娘の言葉に返事もせずに、じっと本棚に並べられた本を眺めて回った。
埃を被り、ホテルに改装されてからも、ほとんど外に出されていないであろう分厚い本。その中に、いくつか汚れの薄い物を見つけ出し、達樹はそれを引きずり出した。
一冊、二冊と、達樹の足下に本の山が積まれてゆく。やがて、その山が膝の高さ辺りまできたとき、達樹は本棚の裏に奇妙な輪を見つけて手を伸ばした。
それは、金属で作られた、扉の取っ手に使われるような輪っかだった。試しに引いてみると、輪は簡単に達樹の方へと引っ張られ、その先に繋がっている鎖がジャラジャラと音を立てて揺れた。
これはいったいなんだろう。こんな本棚の奥に、こうまでして手の込んだ仕掛けを作るとは、この洋館を作った人間は何者だったのだろう。
色々と気になることはあったが、達樹は鎖を引き終わった後の本棚を、改めて奥へと押してみた。
ずるずると、何かを引きずるような音と共に、本棚がゆっくりと回転を始める。四分の一ほど回したところで、達樹は本棚の奥に、新たな部屋があるのに気がついた。
あの、本棚の前の埃は、この仕掛けによって払われたのか、ようやく納得がいったが、同時に新たな疑問もわいてきた。
本棚の前の埃は、ここ最近になって払われたばかりのようだった。それはつまり、この数日の間に、本棚を動かして裏の部屋に行った者がいるということだ。
(謎の仕掛けに、七人岬か……。どうやらこの事件、随分と裏がありそうだな)
霊撃銃を構えたまま、達樹は油断なく本棚の裏にある部屋へと足を踏み入れた。皐月と村瀬もそれに続く。部屋は先ほどの書庫と同じくらいの大きさだったが、随分と薄汚く汚れている。カビと埃の入り混じった匂いが鼻をつき、そもそも明かりさえ存在しない。
「暗いですね……。万が一の時に備えて、懐中電灯を手放さずにいて正解でしたよ」
村瀬が、その片手に持った電灯をつけ、部屋の奥を照らし出した。部屋の壁は全て本で埋められており、その奥には本棚から零れ落ちた本が散乱している。埃の上には足跡のようなものが残っており、誰かがここの本を読んだ、もしくは持ち出したのは、疑いようのない事実だった。
ぎし、ぎし、という床の軋む音が、歩く度に聞こえてくる。先の倉庫とは違い、床板もかなり傷んでいる。隠し部屋として長らく放置されていたため、誰も手入れをしていないのだろう。
崩れ落ちた本の山。それらを掻き分けるようにして、達樹は汚れた本を一冊ずつ手に取り調べてゆく。表紙が古く、中には殆ど虫に食われたようなものもあり、タイトルが掠れて読めなくなっているものもあった。
どれくらい、調べていたのだろうか。山の中から取り出した一冊の本。いや、むしろ巻き物と読んだ方が正しいそれを見て、達樹は指先を震わせながら皐月と村瀬を呼んだ。
「おい、これを見てみろ……」
「なぁに、これ? なんか、ミミズみたいな字で、全然読めないよ?」
「おっと、そうだったな。皐月には、まだこういった文字を読むのは早かったか」
思わず先走ってしまったことを詫び、達樹が皐月の頭を撫でた。その横から、村瀬が申し訳なさそうに、達樹の持っている文献を除き見て口を開く。
「いや、すいません。お恥ずかしながら、私にも読めませんな……。それで、いったいこれは、どういったものなので?」
「これですか? こいつは七人岬について書かれた文献ですよ。昔、この地に七人岬が現れたとき、修験道を極めた一人の山伏がそれを封じたそうです。ほら、ここに、その時の絵が描かれているでしょう?」
黄ばんで、ところどころ穴の空いた紙を、達樹が指差して村瀬に見せた。皐月も首を伸ばし、そこに描いてある絵を眺める。文字まではわからなくとも、絵を見る限り、人間が半魚人のような怪物と戦っていることだけは理解できたようだった。
巻き物を床に広げ、達樹は懐中電灯の明かりを頼りに、それを淡々と読み続ける。時に、不要と思える箇所は省き、皐月や村瀬にわかるよう、要点だけをかいつまんで話してゆく。
達樹の話によると、この地にいた七人岬は山伏に退治されはしたが、完全に倒されたわけではなかったとのことである。
彼らの復活を阻止するため、山伏はこの地にある洞窟の奥深くに封印のための社を建てた。そして、そこにミイラと化した七人岬を運び込み、幾重もの霊的な結界を施し、陰の気が漏れないように抑え込んだのだ。
最後に山伏は、この地に残り七人岬の封印を守り続けることを約束した。そして、彼らは以後≪七守≫という姓を名乗り、代々に渡って土地の護り手として崇められてきたという。
やがて、大政奉還によって幕府が倒れると、七守の一族はこの地に巨大な洋館を建てた。そして、表向きは地主として土地を支配しながら、その影ではひたすらに、七人岬の封印を守ることを考えていたのだという。
全てを話し終えたとき、達樹は大きな溜息を吐いて、ゆっくりと巻き物を丸めてしまった。
この洋館が建てられた真の理由。七人岬が、なぜこのホテルの近くで復活したのか。そして、まるで世間の目から隠すようにして、このような部屋を洋館に設けていたこと。今まで疑問に思っていたことが、次々に頭の中で繋がってゆく。
やはり、娘の見たビジョンは間違ってはいなかった。このホテルには、未だ従業員たちも知らない、謎の部屋があるに違いない。だとすれば、時計台の奥に見えた階段というものも、もしかするとその一つか。
「行こう……。ここに書いてあることが本当なら、このホテルの全身となった館には、秘密の通路のようなものが存在しているはずだ。もしかすると、そこから脱出への糸口がつかめるかもしれない」
「秘密の通路……ですか。そういえば、今ではワインセラーとして使っている部屋の奥に、妙な地下通路があったような気がします」
「妙な地下通路だと!? なんだ、それは……」
「はい。たぶん、下水道か何かに通じるものだと思って、初めは気にもしていなかったんですがね。奥に大きな扉がありまして、どうしても開かないんです。鍵はとっくに外しているのに、金具が錆ついていたんですかね?」
「いや、違うな……。恐らくそれは、霊的な封印の一種だろう。力で開けることができないよう、何者かが扉に、一種の呪いのような細工を施したんだ」
そう、口では言いながら、達樹には扉に仕掛けを施したのが誰なのか、既に見当がついていた。
仕掛けを施したのは、恐らく七守と呼ばれる洋館の本来の持ち主だろう。自分たちの一族以外が、社に近づけなくするためか。それとも、非常の事態に備え、社から邪悪な者たちが洋館へと上がってこないようにするためか。
どちらにせよ、後は実際に調べるしかない。皐月が見たもう一つのビジョン、時計台の謎を探るべく、達樹は薄暗い部屋の中で帽子を被り直して立ち上がった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
玄関ホールでは、七人岬たちと美紅の死闘が続いていた。
黄色い目をした半魚人、真嶋幹也の変貌したそれが、美紅に向かって口から粘性の高い液体を吐きかける。目で見て避けられない攻撃ではなかったが、自分の後ろに着弾した液体の塊を見たとき、美紅の背中を冷たい物が走り抜けた。
大理石の床が、白い煙を上げている。赤い絨毯は一瞬にしてボロボロに破れ、その下にある石造りの床もまた、ふつふつと泡を立てて溶け始めている。
あれは酸だ。それも、並みの塩酸や硫酸などとは比べ物にならないくらい、強力で濃度の高いものだ。
再び敵の口が大きく開かれ、そこから液体が吐き出された。美紅はそれに合わせて跳び上がり、すかさず半魚人の頭を蹴り飛ばす。後ろで何かが焦げたような音がしたが、知ったことではない。
体勢を崩した半魚人相手に、美紅は手にした闇薙の太刀を叩きつけた。敵の胸板が鋭く切り裂かれ、どす黒い体液が溢れ出る。金属と金属を擦り合わせたような金切り声を上げて、敵が傷口を押さえてもだえ苦しむ。
このままなら押しきれるか。そう思って、更なる追撃を仕掛けようとした美紅だったが、その一撃は彼女の横から巨大な爪が伸びてきたことによって阻まれた。
首を狙い突き出された爪を、美紅は身体の軸をずらして回避する。次いで、今度はそのまま横薙ぎに払われた爪を、スウェイバックの要領で再びかわす。そして、回転の動きをそのまま生かして目の前の半魚人に蹴りを食らわせると、片手で床をついて絨毯の上に着地した。
「危ない、危ない……。あなた、その爪はさっさと切った方がいいんじゃない? あまり爪を伸ばし過ぎると、オカマだと思われて誤解されるわよ?」
爪を武器とする半魚人の元の姿は、眼鏡をかけた男だった。その男、檜山蓮の姿を思い出しながら、美紅は相手を誘うようにして挑発する。
爪が、一度に降ってきた。受付カウンターの裏に飛び込み、美紅はその攻撃を回避する。木の砕け散るような音がして、爪がカウンターに刺さり穴だらけにした。
やはり、あの爪だけは脅威だ。こちらの得意な間合いは接近戦だが、それは相手も同じ。しかも、武器のリーチそのものは、相手の方が長い。下手に懐に飛び込めば、こちらが逆に首と胴を切断され兼ねない。
ズボッ、という何かが突き抜ける音がして、美紅の真横を爪が掠めた。受付カウンターを貫いて、敵の爪がこちら側に到達したのだ。
このまま待っていても、今に追い込まれてしまう。こうなったら、爪の戻る一瞬にかけて、一気に飛び込んで間合いを詰めるか。
そう思った矢先、今度は赤い目をした半魚人が、空中から美紅に飛び掛かってきた。身体を反転させ、床を転がることで、美紅は辛うじてその一撃も避ける。慌てて体勢を立て直すと、敵の第二の攻撃は、すぐ目の前まで迫って来ていた。
(こいつ……速い!!)
闇薙の太刀を構え、美紅はその刀身で相手の爪による一撃を受け止めた。黒い気に包まれた刃が一瞬だけ揺れ、あまりの力に美紅の手がしびれる。
妖刀である闇薙の太刀が、力によって折れることはない。しかし、このまま正面から討ち合えば、こちらが確実に力負けする。その上、目の前の敵は五体の内でも、最も俊敏に動き回るような相手だ。下手に向こうのペースで戦えば、こちらが一方的に翻弄される。
こういった敵は、一度間合いを離した方がいい。太刀を覆う闇を一時的に開放し、美紅はそれによって相手を腕ごと吹き飛ばす。反動で体勢が崩れたところに、更に追撃の一撃を叩き込む。
半魚人の胸が切り裂かれ、その身体が受付のカウンターに直撃した。止めを刺したいところではあったが、さすがにそこまで敵も甘くはない。カウンターの後ろから、奇声を上げて三体の半魚人が同時に現れる。肩の棘を、口から吐き出す強酸を、そして瘤から出す奇怪な魚を武器に、それぞれが美紅に向かって攻撃を仕掛けてくる。
床に撒き散らされた酸が大理石を溶かし、鋭い棘が雨あられと美紅を襲う。階段の方へ向かって逃げると、その隙を狙い、今度は肩の瘤から放たれた岬の子分が美紅の脚に噛みつかんと飛来する。
「いいかげん、しつっこいわよ!!」
飛んで来た魚を太刀で一刀両断にし、美紅はポーチの中に手を伸ばす。中から取り出したのは、ピンポン玉サイズの金属球。あの、温室の戦いでも使用した、念を送って爆発させることができるものだ。
黄色い目をした半魚人が再び口を開け、美紅に強酸の塊を吐きかけようと身体を震わせる。だが、それこそが、美紅の狙っていた反撃の機会。横跳びの体勢のまま金属球を握り、美紅はそれを相手の口めがけて投げつける。
口から酸が放出されるよりも早く、美紅の投げた金属球は不思議な軌道を描いて敵の口内に飛び込んだ。全身を硬い鱗に覆われているとはいえ、口の中までは話が別だ。酸の発射を妨害され、敵はむせるような仕草を見せて動きを止める。
「砕……!!」
まずは一体。そう念じながら、美紅は開いている方の手で素早く印を結んだ。瞬間、金属球を飲み込んだ敵の頭が多く膨らみ、風船の破裂するような音を立てて粉々に吹き飛ぶ。
どす黒い体液が辺りに撒き散らされ、頭部を失った怪物はゆっくりとホールの床に倒れ込んだ。鰭や目玉、様々な頭の部位を砕け散らせたまま、床に倒れた怪物は、ひくひくと身体を痙攣させている。
とりあえず、これで一匹は仕留めることができたか。もっとも、まだ敵は四体も残っている以上、油断をするわけにはいかないのは確かだが。
玄関ホールに奇声が轟き、残る四体の半魚人が一斉に攻撃を仕掛けてきた。仲間が倒されたことで、怒っているのだろうか。だが、それはこちらも同じこと。七人岬によって殺されてきた人々の想い。それを無念のまま終わらせないためにも、美紅は闇薙ぎの太刀を構え直して迎え撃つ。
最初に仕掛けて来たのは、やはりあの一番動きの速い半魚人だった。立て続けに、途切れることなく繰り出される爪の攻撃は、近くに寄れば確かに脅威だ。
空気を切り裂く音が、自分の耳の直ぐ横で聞こえてくる。接近戦でまともに戦えば、こちらが押されるのは必至。ならば、先ほどのように間合いを離し、一気に畳み掛けるしかない。
「行け、黒影!!」
自分の影に潜む犬神に、美紅は敵の攻撃を避けながら叫んだ。右へ、左へと身を翻しながらも、その影からは巨大な犬の姿をした魔物が現れる。影から首を覗かせているだけだったが、それでも力を振るうには何ら問題はないのだろうか。
青白い、炎の塊を、黒影は美紅と戦う半魚人に向かって吐き出した。真下から迫るその炎を、敵の半魚人も紙一重で避ける。その隙に美紅は腰のナイフに手を伸ばし、それを引き抜いて相手の頭目掛けて投げつけた。
――――キュェェェェッ!!
ガラスを引っ掻いたような、鼓膜を破らんばかりの不快な声。美紅の投げた銀のナイフは見事に敵の目玉に刺さり、半魚人はたまらず傷口を押さえて後退する。
霊的な力を持つ存在にとって、銀製品は特に有効な武器の一つだ。場合にもよるが、銀というものは霊力を最も伝えやすい物質の一つに数えられる。美紅の手から放たれたナイフは、その刀身に美紅の力を乗せたまま、半魚人の目玉を貫き、体内に強力な美紅の気を注ぎこんだのだ。
これなら行けるか。再び刀を構え、黒影と共に仕掛けようとする美紅。ところが、そんな彼女の真横から、今度はあの鋭い爪が襲ってくる。ジャキッ、という音がして、美紅の頭の上を細く長い爪が通過した。
「ふう、間に合った……。もう少しで、首と身体が離れ離れになるところだったわね……」
一瞬の油断が、正に命取りとなる戦場。美紅は自分の心を改めて戒めると、爪を伸ばしてきた半魚人の方へ振り向いた。
伸縮自在の爪は、確かに恐ろしい武器となる。だが、闇雲に爪を伸ばして振るえば、それは同時に反撃の機会を許すことにもなる。
二発目の爪が伸びて来た瞬間を狙い、美紅は床を蹴って大きく跳躍した。爪が絨毯を切り裂き、床に突き刺さる音がする。その音を後ろに聞きながら、美紅は敵の放った爪の上に降り立つと、そのまま一気に走り抜ける。
一度放った爪は、当然のことながら戻さねば次の攻撃に使えない。その盲点をつき、美紅はあえて敵の爪攻撃を誘ってみせた。そして、床に刺さった爪の上を、一気に走って距離を詰める。慌てて爪を戻そうとする半魚人だったが、そのときには既に、美紅の足が顔の手前まで迫っていた。
「てぇやぁぁぁっ!!」
美紅の身体が再び宙を舞った。爪が戻ったその瞬間、完璧に相手のタイミングに合わせ、美紅の脚が横殴りに半魚人の顔を打つ。空中からの回し蹴りを食らって、敵は爪を完全に戻すこともできないままに、玄関ホールの床を転がった。
突然、上の方から奇声を感じ、美紅は太刀を片手に天井を見た。そこにいたのは、あの肩に瘤を持つ小柄な岬。右の瘤は美紅によって斬り落とされていたが、左は未だ健在だ。
このタイミングでは、敵は魚を飛ばしてくることはない。こちらの硬直を狙って仕掛けて来たのだろうが、それは美紅も承知の上。敵の爪が自分の喉笛をかき切る前に、美紅もまた刀を構えて宙に舞う。
白金色の髪がたなびき、赤い瞳が敵を捕えた。敵は腕を大きく振りかぶり、こちらを引き裂かんと爪を繰り出す。が、その一撃は美紅の影から伸びてきた、犬の頭によって阻止される。見ると、美紅と同じく宙へと飛翔した黒影が、いち早く敵の腕に噛みついていた。
黒影に攻撃を相殺され、今や敵は完全に丸腰。この間合いならば、もう外すことはない。
美紅の手に握られた闇薙の太刀が、大きく横に薙ぎ払われる。それは上から落下してくる半魚人の首を捕え、一撃の下に切り捨てる。
返り血をまともに浴びないよう身体を捻りつつ、美紅は片手をついてホールの床に着地した。少し遅れて、彼女が斬り飛ばした半魚人の首と、首を失った胴体が落ちて来る。既に戦う力はないのか、それらは床に落下した後、もう美紅や黒影に襲いかかってはこない。
これで二体。残るは爪と棘、それに俊足を誇る岬のみ。
腕についた黒い液体を払い落とし、美紅は残りの敵の姿を目で追った。赤眼の半魚人と、爪を使う半魚人。そのどちらも、まだ体勢を立て直していない。唯一、未だ致命傷を受けていない、棘を使う岬だけが、美紅を正面から見据えている。
棘使いが、その身体を丸めて低く吠えた。いったい、何をするつもりか。油断なく太刀を構えて相手の様子を窺う美紅。身体を丸めた敵の毛が逆立ち、その姿は一瞬にして棘付きの鉄球のような姿となる。
「ちょっ……冗談でしょ!?」
棘付きのボールとなった半魚人の身体が、回転しながら大きく跳ねた。あんな状態で、いったいどうやってジャンプしているのだろう。その理由を考えるよりも先に、巨大な魔弾が美紅を押し潰さんと飛来する。
黒影と美紅。白と黒の相反する姿をした二人が、左右に散って跳んだ。着地したボールは恐ろしいまでの回転力で、大理石の床を抉り、砕く。そのまま回転を止めることなく、敵は再び美紅の方へ向かって飛んでくる。
やはり、狙いはこちらか。だが、こちらとて退くわけにはいかない。直撃をまともにくらえば無事では済まないのだろうが、直線的な攻撃など、いくらでも対処のしようがある。
こちらに向かって跳ねてきたボールを、美紅は身を低くしながら床を転がることで避けた。互いの場所を入れ替えるようにして、ボールと美紅が交錯する。再び攻撃を避けられたボールは、やはり激しいスピンをしながら体勢を立て直して追撃してくる。
今度こそは、避けられない。美紅が身体を起こすよりも早く、棘付きボールが美紅に迫る。
だが、それこそが、正に美紅の狙っていたことだった。美紅の後ろから、その身を青白い炎に包んだ黒影が、やはり同様にして回転しながら飛び出した。棘付きの球と、炎の球。二つの球は真っ向からぶつかり合い、それぞれが反対の方向へ吹き飛んだ。
攻撃の反動で、黒影が美紅の影に溶けるようにして逃げ込む。やはり、衝撃が大きかったのか。が、それは敵も同じようで、球体の姿から元の半魚人に戻っていた。
あの岬を倒すのは今しかない。全身の針で防御を固められたら、その分だけ倒すのが困難になる。
黒影を自分の影に納め、美紅は闇薙の太刀を構えて床を蹴った。しかし、その刃が敵の首を刎ねようとした瞬間、美紅は後ろから恐ろしいまでの殺気を感じて振り返った。
目の前に、五本の鋭く長い爪が迫っていた。あの、爪を伸ばして剣のように振るう岬のものだ。辛うじて直撃は避けたが、今度ばかりは反応が少しだけ遅れてしまった。
「……っ!!」
美紅の頬を、熱く赤い一筋の滴が流れ落ちる。ほんの僅かだったが、敵の攻撃が美紅の肌を切り裂いていた。目標を失った爪は壁に突き刺さり、更なる爪が美紅を襲う。
今度こそ逃げられない。敵の腕が大きく振りかぶられ、爪を伸ばす体勢に入る。頭部への直撃は避けられるだろうが、この間合いでは確実に腕一本を失う。
やはり、無傷で勝利を収めることは、さすがに無理な話だったか。覚悟を決めて身体に力を込める美紅。その間にも、敵は不愉快な奇声を発し、勝ち誇ったような表情で美紅に迫る。
突然、扉の開く音が部屋中に響き渡った。一瞬、その場にいた全ての者が、その音に意識を奪われる。
こんな時に、新手の登場か。最悪の展開を予想した美紅だったが、それはすぐに、誤りだったと理解した。
開け放たれた、玄関ホールへと続く扉。聖堂とホールを繋ぐ巨大な扉の向こうから、銃を構えた宗助が飛び出してくる。
「宗助君!?」
予想外の展開に、これには美紅も目を丸くして叫んだ。彼は皐月と一緒に支配人室に行き、他の人間たちと共に脱出路を探しているのではなかったのか。それに、彼の手にしている銃は、いったいなんだ。一見して達樹の使う霊撃銃のようにも見えるが、細部はかなり異なっている。
「退け、化け物ども!!」
その声と共に、宗助の手に握られた銃が火を拭いた。銃弾ではない、何か光りの弾のようなものが発射され、それは爪を伸ばそうとしていた半魚人の頭部を直撃する。さすがに頭を撃たれては弱いのか、半魚人は壁に刺さった爪を引き抜いて、そのまま顔を押さえ後退した。
「大丈夫か、美紅。間一髪ってとこだったな」
未だ状況がつかめず、しばし惚けた表情をしている美紅の側に、宗助が駆け寄って言った。その瞳には、以前に彼が見せていた、絶望に負けそうになっていたときの色はない。力は弱くとも、それでも誰かを助けたい。そういった、確かな信念が込められているものだった。
「宗助君……。あなた、どうしてここへ?」
「どうしてって……やっぱり、あんたを一人だけ戦わせて、自分だけ逃げるのが嫌だったってだけさ。だから、俺は自分の意思でここへ来たんだ。達樹さんに武器を借りてね」
「なるほどね。でも、本当にいいの? 私と一緒に戦えば、その分だけ死ぬ危険性だって高くなるのよ?」
「それは承知の上さ。正直、今も怖くて仕方ないけどな。でも、ここまで来た以上、俺はもう逃げない。七人岬だかなんだか知らないが、最後まで戦い抜いてやるさ」
試作品の霊撃銃を構え、宗助がにやりと笑った。本当のところ、未だ絶望に打ち勝ったとは言い難い。これだけの怪物を前にして、果たしてどこまで戦えるか。恐怖心が完全に消えたかといえば、それは否だ。
絶望を、完全に打ち負かす方法などない。怖い物は怖いし、逃げたくなる気持ちは誰にでもある。ならば、自分のような人間にできることは、可能な限りそれに立ち向かうことだけだ。
残る三体の半魚人が、それぞれに立ち上がって宗助と美紅を視界に捕えた。彼らにとっては、宗助もまた獲物の一人。美紅を殺し、取り込んだところで、今度はその美紅に宗助を殺させる。そうやって、七人岬の呪いを成就させることこそ、怪物たちの目的なのだから。
「来るわよ、宗助君!!」
「ああ、任せろ!!」
美紅が叫ぶのと同時に、宗助は躊躇うことなく霊撃銃の引き金を引く。軽い振動が指先に伝わり、その銃口から青く輝く光の弾が発射される。
全身に毛を生やした半魚人。先ほど、黒影と相討ちになったそれが、大きく口を開いて美紅に迫った。最優先事項は、やはり美紅の抹殺。再びその背中に生やした毛を逆立てて身体を丸める体勢に入る。
「させるか、化け物!!」
半魚人が身体を丸め、球体になろうとしたその瞬間、宗助の放った霊撃銃の一撃が、怪物の胴体に直撃した。丸まろうとした矢先に出鼻をくじかれ、怪物の身体が大きく仰け反る。そのチャンスを逃さず、今度は美紅が闇薙の太刀を背中に納めて走り出す。
ポーチから、一枚の護符を取り出して、美紅はそれを銀のナイフで貫いた。次いで、仰け反った身体を起こそうとした怪物の身体に、その刀身を躊躇い無く挿し込む。銀色の刃で護符を直接身体に貼り付けられ、怪物が口から泡が毀れた。
闇薙の太刀は、その特性からして、食事にはそれ相応の時間がかかる。一匹ずつ太刀に食わせている時間などなく、また、闇の力の開放は、それだけで美紅に負担を強いる。
敵を倒すだけならば、なにも闇薙の太刀だけに頼る必要はない。霊的な力を注ぎ込まれた銀の刃と、並みの悪霊ならば数体をまとめて封印できるほどに強力な護符。二つの合わせ技を持ってすれば、七人岬であろうと封じ込めるだけの力を発揮する。
その力をナイフと護符に奪われて、三体目の岬がぐらりと揺れた。その身体がホールの床に倒れたところで、美紅は新たにナイフを抜き、その先に護符を装填する。
次はどいつだ。そう思って身構えたところで、今度は美紅に赤い目をした岬が飛びかかってきた。肩目を潰され、怒りに震えているのか、その顔は憤怒の形相に変化している。
「美紅、伏せろ!!」
宗助の手に握られた霊撃銃が、再び火を吹いた。放たれた光は片目に刺さった銀のナイフに、まるで吸い込まれるようにして命中する。たったその一撃だけで、赤眼の半魚人は悶絶しながら傷口を押さえる。刃に使われている銀が媒体となって、光の力を直接身体に流し込んでいるのだ。宗助の攻撃は牽制程度の威力しかないが、弱点を集中攻撃されれば話は別だろう。
二発、三発、続けざまに宗助は、銃の引き金を絞って敵の頭部を狙い撃った。本物の銃弾を放っているわけではないためか、不思議と反動は少ない。扱いやすさも幸いして、宗助の放った光の弾は、その全てが敵の頭に命中した。
これはチャンスだ。体勢を整えた美紅は、その手に持ったナイフを構え、敵との間合いを一気に詰めた。護符を貫いたナイフの先が、半魚人の喉元に向けられる。宗助の攻撃によって力を失っていた相手に、それを命中させるのは容易なことだった。
銀のナイフを通し、護符の力を半魚人の体内に直接流す。瞬間、白い煙が傷口から立ち上り、赤眼の岬は全身を痙攣させて床に倒れた。
「助かったわ、宗助君。あなた、結構やるじゃない」
四体目の敵を始末し、美紅が宗助に言った。
「でも、それにしてもいい腕よね? あなた、どこで銃の扱いを覚えたの?」
「…………駅前のゲームセンターだよ。そこにある射撃ゲームで、ベストファイブにランクインしたことがある……」
「へぇ、なるほどね。盛り場なんて興味なかったけど、今度、私も行ってみようかしら?」
「ああ、そうだな。もっとも……それは無事に生き延びて、このホテルを脱出してからの話だけど」
銃を構え、宗助は残る最後の一体に狙いを定めた。美紅も再び闇薙の太刀に手をかけて、最後の相手を正面に捕える。
残る最後の半魚人、伸縮自在の爪を武器とするそれが、美紅に向かって走り出す。伸ばした爪を剣のように構え、その先で美紅の首を狩らんと雄叫びを上げる。
敵の得意な間合いは接近戦。リーチを自在に操れる相手に対し、中途半端な距離で戦うのは自殺行為。それがわかっているからこそ、あえて美紅も手を出さない。こちらの有効射程距離に入るまで、まずは回避に徹して隙を窺う。
「俺が足を止める!!」
美紅に迫る岬に向かい、宗助が銃を構えて叫んだ。先ほどまでの戦いで、随分と使い方のコツもわかってきている。慎重に狙いをつけつつ、その頭部を狙うようにして、指にかけた引鉄を躊躇い無く引く。
閃光と共に発せられる発砲音。拳銃のそれにしては妙に軽い、空気銃のような音が部屋に響く。放たれた光は一直線に、走る敵の頭目掛けて飛んでゆく。
だが、確実に命中すると思われた宗助の光弾は、炸裂する直前で虚しくかき消えた。一瞬、何が起きたのかわからずに、思わず銃口を除きこむ宗助。壊れてしまったわけではないようだが、これでは敵の足を止めることができない。
「くそっ! もしかして、距離が遠過ぎるのか!?」
霊撃銃の射程距離。それを知った宗助は、苦い顔をしながら銃を睨んだ。
通常の銃弾を発射する拳銃と違い、霊撃銃の射程は短い。もともと、空気中に拡散しやすい霊力を弾に変えて発射するため、あまり敵との距離が離れると、その威力は一気に減退してしまう。
ましてや、宗助の使っている霊撃銃は、達樹から渡された試作品だ。自分の力を用いずとも、水晶板に込められた霊力だけを頼りに弾を撃てるが、威力の調整などは当然できない。素人でも使える武器だけに、臨機応変に対応するだけの汎用性は、残念ながら持ち合わせていない。
敵の爪が横薙ぎに振られ、大理石の柱に亀裂が走る。横に跳び、前転するような形で受け身を取ることで避けた美紅だったが、続けざまに新たな爪が、彼女の足下に突き刺さった。
このままではいけない。敵は今までの戦いから、美紅が至近距離での戦いしかできないことを知っている。爪の伸縮を繰り返し、中距離から攻められ続ければ、やがてはこちらのスタミナが尽きる。
それに、卓越した体術の使い手である美紅とは違い、宗助はあくまで一般人だ。もし、攻撃の矛先が宗助に向けられたら、そのときは彼を守る術がない。銃の腕以外は戦闘において素人の彼が、岬の攻撃をかわしきれるはずがない。
「時間がないわね……頼んだわよ、黒影!!」
次の攻撃が来る前に、美紅は己の影から黒影を呼び出した。黒い、流動的な物質の塊が飛び出し、それは瞬く間に手足を生やして犬の姿へと変化する。白銀の牙を口の中に覗かせて、黒影は低い唸り声を上げながら敵を威嚇する。
爪が、同時に降ってきた。左右合わせて十本の、伸縮自在の鋭利な凶器。一撃もらっただけで、致命傷は免れない刃の雨。立て続けに迫るその攻撃をかわしながら、美紅は黒影と宗助に向かって同時に叫んだ。
「黒影、援護を! 宗助君も、とにかく撃って!!」
敵に当てる必要はない。最悪の場合、ダメージなど与えられなくともいい。ただ、一瞬の間だけ、動きさえ止められれば。
黒影が、短い咆哮に合わせて炎を連射する。焼き尽くすようにして吐くのではなく、小型の火球を、投げつけるように連続して吐き出す。その隣では、宗助もまた霊撃銃を構え直し、光の弾を撃ちまくった。
火炎と光弾、二つの攻撃が同時に炸裂し、岬の攻撃が一瞬だけ止んだ。その隙を逃さず、美紅は爆炎に向かって走り出すと、闇薙の太刀を引き抜いて相手の懐に飛び込んだ。
長い爪は中距離において脅威になるが、同時に至近距離では取り回しが悪い。敵に爪を戻すだけの時間を与えず、美紅は手にした闇薙の太刀で、相手の腕を一刀の下に切り捨てる。
黒い、全てを貪欲に飲み込む気が、そのまま刃となって敵の鱗を切り裂いた。気は相手の魂を侵蝕しながら、長い爪の生えた腕を容易に斬り落とす。どす黒い体液が大量に吹きだし、白い大理石の床が瞬く間に染まってゆく。
まだ、この程度では終わらせない。美紅は刀を振り下ろした姿勢のまま、右脚を軸にして身体を捻った。白い、雌鹿のような美脚が宙を舞い、それは強烈な回し蹴りとなって敵を討つ。よろめいた敵に、美紅は駄目押しとばかりに、今度は下から刀で切り上げた。その一撃は残るもう一本の腕さえも斬り落とし、岬が咆哮を上げながら後ろに下がる。
これで止めだ。美紅と黒影の視線が重なり、黒影がホールの床を蹴って大きく飛翔する。主の命を受け、黒影は天井から吊り下がるシャンデリアへと飛び乗ると、それを繋ぎ止めている鎖を容赦なく噛み千切った。
鎖の外れる音と、ガラスの砕け散る激しい音。美しく輝く巨大な凶器が、両腕を失った岬に降り注ぐ。煌めく破片を撒き散らしながら、シャンデリアは下にいた半魚人の身体を押し潰す。その隙間からどす黒い液体が床に広がるのを見て、美紅は己の勝利を確信した。
「ふう……。とりあえず、なんとか振り切れたって感じね。足止めにしては、まあ上出来かしら?」
「よく言うぜ。ここまで滅茶苦茶に暴れておいて、足止めだなんてな」
「でも、これは本当の話よ。岬頭は、この中にもいなかった。放っておけば、こいつらもいずれは復活するでしょうし……早めにここを立ち去った方がいいわね」
「そうだな。今、達樹さんたちが図書室と時計台を調べてる。とりあえず、そっちに合流しよう」
闇薙の太刀と霊撃銃。それぞれの武器を納め、宗助と美紅は互いに向き合って頷いた。その隣では、やはり同じように戦いを終えた黒影が、無言のままゆらゆらと揺らめいている。
まだ、悪夢が終わったわけではない。岬の頭は、今もなお美紅を、そして宗助を狙っている。
これから先、図書室や時計台で彼らを待つものは何か。ホールの各所に倒れる岬の残骸を横目に、宗助と美紅は達樹たちの待つ図書室に向かって歩き出した。