~ 戌ノ刻 岬殺 ~
宗助が部屋を出ると、そこは驚くほど静かだった。ここを始めて訪れたときは、舟傀儡どもにおぞましい歓迎を受けたものだ。もっとも、今となってはその経験も、随分と昔のことのように思えてならない。
あの、玄関ホールの戦いで、舟傀儡達はその殆どが倒れてしまったのか。それとも、既に息を吹き返し、今もなおホテルの中を徘徊し続けているのだろうか。
そのどちらでも、今の宗助には関係ない。医務室に向かい、一刻も早く応急手当てに必要なものを探すこと。それだけを考えて、宗助はホテルの廊下をひた走る。
三階に続く階段に背を向け、宗助は談話室の扉を開いて中へと足を踏み入れた。相変わらず、物が散乱して酷い状態だ。壁に残る生々しい爪跡は、先ほどの半魚人によってつけられたものだろうか。美南海の顔が異形の者に変貌したときのことを思い出し、宗助は吐き気を堪えてその場を走り去った。
東側に続く扉を開け放ち、宗助は医務室に向かって走った。途中、図書室の扉が目に入り、大輝と志乃のことが頭をよぎった。
二人の無事は、まだ確認できてはいない。大輝と志乃は、果たして無事なのか。次から次へと不安な感情が押し寄せて、その度に押し潰されそうな気持ちになる。
(落ちつけ、椎名宗助……。今は、美紅を助けることが先だ……。それ以外は、何も考えるな!!)
止まった脚に力を入れ直し、頬を叩いて意識を前に向ける。迷っている暇などない。あのまま美紅を放っておけば、それは自分が最も見たくない未来を現実のものにするだけだ。
T字に別れた廊下の死角から、ずるずると何かを引きずるような音が聞こえてきた。最早お馴染となった、舟傀儡の這い回る音。玄関ホールの戦いで相当の数を失神させたはずだったが、やはりまだ二階にもうろついていたか。
低く唸るような声を上げながら、舟傀儡が曲がり角から姿を現す。ホテルの客に従業員。そのどちらもが入り混じった、節操のない集団だった。
「どけ! 今はお前達に構ってる場合じゃないんだよ!!」
霊木刀を構え、宗助は強引に舟傀儡の群れに突撃した。美紅に言われた言葉を思い出し、刀身に自分の力を流し込むイメージを想像する。電気のような、自分にもわからない不思議な力。それが腕から流れて行くのを頭に思い浮かべた瞬間、霊木刀に刻まれた梵字が赤く発光を始めた。
これなら行ける。なぜだか知らないが、自分にはこの武器を使う力がある。ならば、その力を使って、今度はこちらが連中に目に物を見せてやる。
迫り来る舟傀儡の腕をすり抜け、宗助は反撃とばかりに霊木刀の一撃を叩き込んだ。木刀の先端が敵の胴体を捕え、それが鈍い音を立てて当たったとき、宗助は自分の身体から何かが吸い出され、相手の中に流れ込んでゆくような感覚を味わった。
これが美紅の言っていた、相手の身体に気を流すという行為だろうか。意識して操るまでにはいかないが、今はとりあえず、この舟傀儡どもを倒せれば問題ない。
続けざまに襲ってくる舟傀儡に、宗助は渾身の力を込めて霊木刀の一撃をお見舞いした。相変わらず、身体の中から何かが吸い出されるような感じには慣れなかったが、それでも徐々にコツをつかんで来た様な気がする。もっとも、あくまで医務室への道を確保することが先決なため、いつまでも遊んでいるわけにはいかないが。
残りの敵は、こうなったら無視だ。正直、全部を相手にしていてはきりがない。ポケットから護符を取り出して、宗助はそれを真横にいた舟傀儡の額に貼り付けた。獣のような唸り声を上げ、舟傀儡の額から煙が上がる。その隙を突いて、宗助は強烈な体当たりをお見舞いすると、廊下の奥にいる舟傀儡を、まとめて将棋倒しにする。
「悪いけど、こっちは急いでるんでな。鬼ごっこは、他所でやってくれ!!」
倒れた舟傀儡に捨て台詞を吐き、宗助は更に廊下を走った。図書室前の扉を抜ければ、医務室はもう目と鼻の先だ。廊下が右に曲がっている箇所に見える白い扉、医務室の表記が書かれたそれを見つけ、宗助は扉の取っ手に手をかける。
軽い金属音を立てて、宗助の握った取っ手が回った。後ろからは舟傀儡たちの呻き声が聞こえるが、そんなことは関係ない。敵を無視して部屋の中に飛び込むと、宗助はしっかりと鍵をかける。
「ふぅ……。なんとか、間に合ったみたいだな」
つんと鼻を刺す様な消毒薬の匂い。医務室に漂う空気が、宗助の鼻腔を刺激した。安堵の溜息を吐いて辺りを見回すと、外の様子とは違い驚くほど静かだ。舟傀儡や、他の怪物がうろついている気配もない。この部屋だけは別世界のように、しんと静まり返っている。
なんにしても、これは好機だ。ここでまた別の怪物に邪魔をされたら、ますます美紅の下に帰るのが遅くなる。
薬棚をひっくり返し、宗助は使えそうなものがないか漁ってみた。とりあえず、血を止めるための包帯と、いくつかのガーゼは確保する。後は薬の類だが、残念ながら消毒薬くらいしか見当たらない。何か、止血剤のようなものがあれば都合はよかったが、そもそも宗助の知識では、どの薬がどんな効果を持っているのかさえも十分にわからない。
やはり、現実とはそう上手くできていないものだ。仕方なく、宗助は薬箱から頭痛薬の類を取り出して、それをポケットにねじ込んだ。鎮痛剤としてどこまで効果があるかは知らないが、少なくとも、ないよりはマシだろう。
とりあえず、これで応急処置に必要な道具は手に入った。気がつくと、外もいつの間にか静まり返っている。あの舟傀儡達は、こちらのことを諦めたのだろうか。だとすれば、こちらとしても好都合なのだが。
包帯とガーゼをその辺にあった袋に詰め、宗助はそれを自分の腰にくくりつけた。霊木刀を片手に部屋の扉を開けると、やはりそこも静寂に包まれている。先ほどの戦いが嘘のように、気絶して倒れている者を除き、舟傀儡たちの姿は消えていた。
敵の狙いは、自分のはずだ。それなのに、わざわざ舟傀儡が撤退したのはなぜだろう。まさか、これもまた、七人岬とやらの罠なのだろうか。
本当は、一刻も早く美紅の下に帰りたい。だが、こういったときだからこそ、返って慎重にならねば危険が伴う。
油断なく、霊木刀を両手で握り締めたまま、宗助はそろそろと壁に背をつけて歩き出した。いつ、敵が襲って来てもいいように、意識だけは集中している。ここで自分が倒れてしまっては、全てが水の泡だからだ。
先ほど、舟傀儡が溢れ出て来たT字の廊下。その部分に差し掛かったとき、宗助の耳が小さな足音を捕えた。
「なんだ!?」
思わず口にして、宗助は慌てて廊下の奥へと顔を向ける。あの足音は、舟傀儡のものではない。床を蹴る軽快なそれは、確かに生きた人間の足音だ。
こんなときに、寄り道などしている暇はない。そうわかっていても、宗助は自分の気持ちを抑えることができなかった。長く、一直線に続く廊下の先。その奥にある扉の向こうに消えた影を、宗助ははっきりと見たのだ。
「志乃……」
間違いない。あの後ろ姿は志乃のものだ。追うか、それとも追わざるべきか、一瞬だけ迷った宗助だったが、次の瞬間には足が勝手に動いていた。
負傷した美紅のために、応急手当に必要な医療品を届けること。それも大事だが、仲間を探すこともまた大事なことだ。七人岬が本格的に行動している今、ここで志乃と合流できなければ、二度と再び合うことはできないかもしれない。
もう、千鶴のときのようなことは御免だった。美南海や幹也のように、かつての仲間が怪物となって襲いかかって来るところなど、見たくはなかった。
物々しい装飾が施された、他の部屋とは違う巨大な扉。ちょうど、図書室に通じるそれと同じような作りのものを、宗助は手前に引く形で大きく開いた。
「志乃!!」
名前を叫ぶと同時に、部屋の中をぐるりと見回す。どうやらここは会議室のようで、部屋の隅には長机やパイプ椅子が折り畳まれて詰まれている。正面の壁には巨大なホワイトボードが設置され、ダンボールに入った紙資料のようなものも見て取れた。
いったい、志乃はどこへ行ったのか。部屋の隅へと顔を向けると、その先には見慣れた人の姿がある。白いワンピースと、少しばかり癖のある長い髪。他でもない、図書室で離れ離れになった志乃だ。
「大丈夫だったか、志乃……」
部屋の中が散らかっていることなど、今の宗助には関係ない。辺りに散らばったペンや紙を踏まないように避けながら、宗助は志乃の側へと駆け寄った。
「図書室では、本当にごめんな。別に、置いて行くつもりはなかったんだけど……あのときは、千鶴を追いかけるので精一杯だったんだ」
「別に、構いませんよ。椎名先輩は、誰にでも優しい人ですからね……」
肩で息をしながら語りかける宗助に対し、志乃は至って冷静な口調で返した。もしかすると、あそこで置き去りにしたことを怒っているのかもしれない。そう思った宗助だったが、続けて志乃が見せた反応は、彼の予想とは違っていた。
「あの、先輩。実は……私も先輩に、とても大事な話があるんです」
「大事な話? なんだい、それは?」
先ほどの、妙によそよそしい態度はどこへやら。普段のしおらしい口調に戻り、志乃は少しだけ俯いて宗助に言った。とりあえず、怒っているわけではないらしい。
「私、このホテルから逃げるための道を見つけたんです。そこだったら、怪物たちにも見つかりません。一緒に、そこを通ってホテルを出ましょう。今、直ぐにでも!!」
「本当か!? でも、今、直ぐにでもって……俺たちだけで、ここから逃げるつもりかよ……」
「そうですよ。私、何かおかしいこと言いましたか?」
首を傾げ、志乃が宗助の瞳を見つめてくる。その黒い瞳で見つめられると、そのまま中に吸い込まれそうな錯覚を覚えてしまう。図書室で再開したときは単なる≪吊り橋効果≫だと思ったが、それはどうやら誤りだったようだ。
今までに意識したこともないほどに、志乃の身体からは女としての魅力が溢れていた。こんなときに、いったい自分は何を考えている。そう、己の感情を律しようとしても、今の宗助には難しかった。
「先輩……。先輩は、私の気持ちがわからないんですね……。だったら今、ここで私が教えてあげます……」
そう言って、志乃の両腕がそっと宗助の首へと伸ばされる。細く、それでいて柔らかい腕を首の後ろに回されて、志乃の顔がどんどん宗助の方へと近づいて来る。
「ちょっ……! 志乃、何を……!?」
それ以上は、何も言うことができなかった。宗助が言葉を言い終わる前に、志乃の柔らかい唇が彼の口を強引に塞いだ。
「んっ……んんっ……」
志乃の腕が宗助の首に絡みつき、宗助は自分の自我が急速に崩壊してゆくのを感じていた。唇の隙間から舌を入れられたときには、思わず自分の目を疑った。
いったい何時から、志乃はここまで積極的になったのだろう。否、それ以前に、自分はここで何をやっている。どうにも頭がぼんやりして、意識を集中することができない。志乃の唇が自分の唇に押しあてられる毎に、だんだんと記憶が薄れてゆく。彼女の肌を通して、何か一種の麻薬のような力が注ぎ込まれてくる。
いけない。自分は負傷した美紅のために、医務室から医療品を持ち出したのだ。こんなところで、いつまでも志乃と一緒に油を売っている暇はない。
「や、やめろ、志乃! こんなときに、いきなりこんなことするなんて……お前、ちょっとどうかしてるぞ!!」
自分の身体に体重を預けてくる志乃を、宗助は強引に引き剥がした。瞬間、意識が急に鮮明となり、宗助は口元を拭って頭を振った。
「悪いな、志乃。残念だけど、俺は一緒に行けそうにないよ。この先で、俺のことを守ろうとして怪我をした人がいるんだ。その人のことを見捨てて逃げ出すなんて……そんなことは、俺にはできない」
「どうして!? 私は先輩に、これ以上苦しんで欲しくないだけなのに!! 私はただ、先輩と一緒に逃げたいだけなのに!!」
「ごめん……。だけど、俺のことを待っている人がいる以上、ここで逃げ出すわけにはいかないんだ。だから……その逃げ道からは、お前一人で逃げてくれ」
考えられる限り、最良の言葉だと宗助は思った。確かに、志乃が自分を思ってくれるのは嬉しい。こんなときでなければ、彼女の告白も素直に受け入れることができたかもしれない。
だが、残念なことに、今はそんなことをしている場合ではない。剥製の間で、今も美紅が待っている以上、一刻も早く彼女の下へと戻らねばならない。
踵を返し、宗助は志乃に背を向けて、会議室の扉に手をかけた。本当は、ここで彼女を置いてゆくべきではない。それは宗助にもわかっていたが、今は美紅のことの方が気になった。
抜け道を知っているなら、最悪の場合、志乃だけでもそこから逃げられるだろう。その抜け道がどこにあるのかぐらいは訊いておきたいが、今の志乃は宗助にそれを教えないに違いない。ならば、せめて彼女だけでも逃げ伸びてくれれば、宗助としては本望だった。
「わかりました……。でも、私は先輩のこと、そこでずっと待ってますから……。だから……なるべく早く、私のことを追いかけて来て下さいね……」
後ろから、志乃の寂しそうな声が聞こえてくる。宗助はその声に返事をすることなく、会議室の扉を開けて部屋を出た。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
剥製の間に戻ると、宗助はいきなり皐月に飛びつかれるという歓迎を受けた。
「おわっ! な、なんだよ、急に!!」
いきなり脚に絡みつかれ、宗助はバランスを崩しそうになって叫ぶ。が、直ぐに皐月の気持ちを察し、その頭に手を置いて優しく撫でた。
「ごめんよ、皐月ちゃん。でも、俺だって遊んでいたわけじゃないぜ。美紅の手当てに必要な道具は、ちゃんと持ってきたからさ」
そう言いながらも、宗助は先の会議室での一件を思い出し、妙に胸が痛かった。あれから、志乃は無事に彼女の見つけた逃げ道とやらを通り、このホテルから脱出できただろうか。もしも彼女が逃げる途中で、舟傀儡や七人岬に襲われたら。彼女の見つけたという逃げ道とやらが、まったく役に立たないものだったとしたら。
いや、止めよう。悪い方へ想像したところで、事態が好転するわけでもない。それに、本当はこの胸の痛みが、別のところにあるというのも知っている。
仲間の姿を見つけて仕方なく後を追ったとはいえ、成り行きから志乃とキスまでしてしまったこと。その際、一瞬ではあるが、彼女の魅力と自分の中の欲望に負けそうになったこと。負傷した美紅をそっちのけで、自分は何をやっていたのか。本意ではなかったにしろ、糾弾されれば返す言葉もないのは確かだ。
「どうしたの、お兄ちゃん? 何か、考え事?」
皐月が不思議そうな顔をして、宗助のことを見上げてきた。その声に呼び覚まされるようにして、宗助はハッと我に帰る。
「いや、なんでもない。それよりも、早く美紅の手当てをしないといけないな。あのまま放っておいて、もっと酷いことになったら大変だからさ」
半ば、誤魔化す様な形になったものの、宗助はなんとか自分を律して美紅の側へと駆け寄った。腰に結びつけた袋から包帯やガーゼを取り出すと、美紅は何も言わず宗助に微笑んだ。
「遅くなってすまない。なんとか、包帯とかガーゼは手に入れたけど……正直、後はろくなもんがなかった」
「大丈夫よ。これだけあれば、応急処置には困らないから。それじゃあ、治療をする間、ちょっとだけ後ろを向いていてくれる?」
一瞬、なんのことか宗助にはわからなかった。治療をする間、後ろを向いておけ。それはつまり、扉から敵が入ってこないよう見張れということか。
そう考えている間にも、美紅は背中に背負った棒を外し、外套の前を大きく開いて脱ぎ去ってゆく。黒く、重たい外套に包まれた中は、今までの重厚な外見に反して驚くほど軽装だった。
黒のタンクトップと、いかにも動きやすそうなショートパンツ。腰の左側にはポーチのようなものがついており、右側には鞘に納められたナイフが、四本ほどくっついてぶら下がっている。手も足も、その全身が黒子一つなく、脱色されたように白かった。
肩口から流れ出る血にガーゼを当てて、美紅はその傷口から溢れ出る血を止めていた。やがて、血がある程度止まったところで、彼女は改めて宗助を見ると、先ほどの言葉を繰り返した。
「さてと……。血も止まったことだし、後は包帯を巻いておかないとね。悪いけど、ここから先は後ろを向いていてくれない? さすがに服を着たままじゃ、うまく手当てができそうにないから」
治療が終わるまで、少しだけ後ろを向いておくこと。先ほどの言葉の意味を理解し、宗助の顔が瞬く間に赤くなる。皐月が怪訝そうな顔をして見上げてくるのも相俟って、宗助は慌てて後ろを向いた。
後ろの方から聞こえてくる、布の擦れるような音。恐らく、美紅が服を抜いだり包帯を巻いたりしている音なのだろう。なんだか妙に意識してしまい、全身の血が頭の方に昇って来るのを抑えきれない。
いったい、これは何の罰ゲームだ。美紅のことを放って、会議室で志乃と二人きりになっていたことへのあてつけか。さすがに、そのときの様子を知らない美紅が、そこまでするとは思えないが……どちらにせよ、生殺しに近い行為には違いない。
やがて、後ろから「もういいわよ」と声をかけられて、宗助はようやく振り向くことを許された。彼の目の前にいた美紅は、その肩から胸にかけて白い包帯を巻いている以外は、特に変わった様子は見られない。随分と酷い怪我をしていたように思われたが、血が止まってしまえば、こんなものなのだろうか。
「美紅……。その……もう、傷の方は平気なのか?」
恐る恐る、宗助は手当の済んだ美紅に訊いてみた。もしかしたら、彼女はこちらを気遣って痩せ我慢しているのでは。そう思ってみたものの、美紅は首を横に振って、宗助の言葉を否定した。
「心配してくれるのね。でも、さっきも大丈夫だって言ったでしょう。血が止まれば、後はこの程度の怪我なんて大したことないわ」
「そうか……。だけど、やっぱり痛みくらいは残るだろ? もし、まだ傷が痛むんだったら、この薬も使ってくれ。頭痛薬みたいだけど、たぶん痛み止めとして使えると思う」
「ありがとう。それじゃあ、遠慮なく貰っておくわ」
そう言って、美紅は宗助の手から薬を受け取ると、水も使わずにそれを口に放り込んで飲み干した。噛み砕いてはいないようだが、まさか自分の唾だけで飲み込んだのか。なんというか、外見に反して、相変わらず彼女はたくましい。
「それじゃあ、皐月ちゃんも見つかったことだし、改めて今後のことを考えましょう。あなたの仲間も見つけないといけないし、脱出路も探す必要があるからね」
「ああ、そうだな。でも、その前に、こっちからも少し質問させてもらっていいか?」
美紅の言葉を半ば遮るような形で、宗助は逆に尋ねて返した。
最初に怪物に襲われてから、宗助はひたすらその魔の手から逃げ続けてきた。その過程で、なにやら得体の知れない化け物や、かつての仲間の姿を借りた半魚人にまで遭遇した。
このホテルで、一体何が起きているのか。七人岬とは何で、そもそも美紅や皐月、それに宗助自身に秘められた力とは何なのか。全てを知ることができなくとも、今一度状況を整理しておく必要があると感じていた。
「なあ、美紅。あんたが言っていた、七人岬ってやつだけど……あれ、なんとかして倒すことはできないのか?」
「倒す? 七人岬を?」
「ああ、そうさ。あんたほどの力があれば、連中と戦って、討ち倒すことだって可能なはずだ。確かに、あんな半魚人みたいな化け物を七匹もまとめてやっつけるのは難しいかもしれないけれど……一匹ずつ始末すれば、なんとかなるんじゃないのか?」
「一匹ずつ、か……。確かに、それができればね……」
七人岬。その名の通り、半魚人の姿をした七匹の化け物。確かにまとめて相手をするのは辛いかもしれないが、一匹ずつ始末すればなんとかなりそうなものだ。幸い、美紅の他にも達樹のように戦える人間は存在する。自分も美紅ほどではないが霊木刀を使えるようだし、あの美紅の影から飛び出してきた、黒い犬のようなやつもいる。
全員の力を合わせれば、戦って敵わない相手ではない。そう言いたげな宗助だったが、美紅の表情は暗かった。
「残念だけど、それはできない相談ね。七人岬は、あなたが言うように一匹ずつ倒せるような相手じゃないわ。確かに、戦って倒せないわけじゃないけど……それをすれば、今度はこちらの危険も増すの」
「どう言う意味だ、それ?」
「岬殺しの業って言ってね。七人岬は、その人数が常に七体でないとバランスが取れないの。だから、もしも仲間が倒されたら、その欠員を埋めるために、連中は形振り構わない行動に出るわ。自分たちの仲間を消した相手を執拗に狙って……残りの全員が、まとめて襲いかかってくるのよ」
「なんだって!? それじゃあ、分断して一匹ずつ始末することなんて、絶対にできないじゃないか!!」
なんということだ。美紅の言葉を聞いて、宗助は思わず声を張り上げていた。
美紅の力と、それから自分たちの力を全て合わせれば、あの七人岬という怪物だって倒せるかもしれない。そんな唯一の希望は、早くも簡単に崩れ去った。
七人岬は、常に七体で行動する魔物。その頭が一つでも減れば、それは彼ら全体のバランスを崩すこととなる。そして、バランスを失った彼らは、再びその力の均衡を取り戻そうと、今まで以上に躍起になって襲いかかってくるのだ。自分たちの仲間を葬り去った、その張本人を新たな岬として取り込むために。
やはり、人の力で怪物に抗うなど、端から無理な話だったのか。どれだけ足掻き、どれだけ戦ったとしても、七人岬を倒す方法はない。彼らの手から逃れるためには、なんとかその目をごまかして、このホテルから脱出する以外に道はないのか。
もう、逃げるしか方法はない。頼みの綱が断ち切られ、宗助は力なく下を向いた。せめて、あの会議室で、志乃に脱出路だけでも訊いておくべきだったか。そう思ってみても、既に後の祭りだ。
こちらは未だに、脱出のための方法さえ見つかっていない。窓も扉も、外に通じる出入り口は、一部を除いて全て封印されている。ガラスを割って逃げ出すことも考えたが、外に出たからといって、七人岬の追撃が終わるわけでもない。最悪、森を抜けている際にでも襲いかかられれば、そちらの方がより一層危険だ。
自分たちには、もうどうすることもできないのか。諦めにも似た感情が宗助の頭をよぎったが、その一方で、美紅の瞳はまだ死んではいなかった。炎のように赤い瞳に確かな決意を宿しながら、宗助の肩にそっと手をおいて彼を見つめた。
「そんなに悲観的にならないで。一応、七人岬を倒すための方法が、まったくないってわけじゃないから」
「本当か!? でも、連中を一匹ずつ始末するのは、難しいって話だったんじゃ……」
「ええ、確かにそうね。ただ、七人岬にも色々いてね。やつらにも、階級みたいなものがあるのよ。岬頭……連中を統括する頭領みたいなやつを倒せば、残りのやつらも力を失うわ」
「頭領か……。それって、何か目印みたいなもんでもあるのか?」
「いいえ、ないわ。だから、後は残りの七人岬と、全部対峙してみなければわからない。ただ、岬頭は他の岬に比べても強い力を持っているから、会えば直ぐにわかるんだけど」
重要な話のわりにはやけに軽い口調で、美紅は宗助に言ってのけた。七人岬の頭領、岬頭。それを倒せば、この悪夢も終わる。問題なのは、七体の半魚人の内、いったい誰が岬頭なのかということだ。見た目で判断できない以上、全ての半魚人と対峙してみなければわからないのだろうが……それだけの余裕が、果たして今の自分たちにあるのだろうか。
どちらにせよ、最悪な状況なのは変わりない。仲間の数は確実に減り、七人岬は徐々にその目的を遂げつつある。彼らの目的が全て果たされてしまえば、それは即ち新たな惨劇の始まりだ。
七人岬は新たな獲物を求め、次なる殺戮ゲームを開始することだろう。その先にあるのは、延々と続く終わりなき呪いの連鎖。己の呪いを相手に移し、今度は移された者が誰かを殺す、果てなき鬼ごっこ。
こんなものは、もうここで終わりにしなければならない。そのためには、美紅や達樹、それに自分も含めた、奴らと戦える力を持った人間を結集させる必要がある。
とりあえず、今は支配人室に戻り、達樹たちと合流しよう。互いに目を合わせ、無言のまま頷く宗助と美紅だったが、それは部屋の外から聞こえてきた唸り声によって遮られた。
「ね、ねえ……。今の、なに?」
皐月が怯えた表情で、宗助の服をきゅっとつかんで言った。列車のブレーキ音にも似た、耳障りで不快な音。だが、その音はガラスや金属を引っ掻いたにしては、妙に低く太い。
新手が接近してきていることを感じ取り、美紅は宗助から返された霊木刀を握って意識を集中した。身体の痛みは、今は気にしている場合ではない。そう思った矢先、壁が抜けたかと思われる程に凄まじい音を立てて、部屋の扉が大きく揺れた。
「な、なんだ、いったい!?」
先ほどの唸り声が、扉の向こう側から聞こえてくる。それに合わせ、扉を叩く音が更に強くなり、その振動は部屋の床や天井さえも揺らしてゆく。
「危ない! 伏せて!!」
バァン、という何かが弾けたような音がして、廊下に通じる部屋の扉がいきなり吹き飛んだ。間一髪、宗助は皐月を抱えて身を屈め、扉の直撃をやり過ごした。
壁にぶつかった扉が、木屑を撒き散らしながら床に落ちる。天井と床、その双方からくる埃に目を細めながら、美紅と宗助はゆっくりと顔を上げて前を見る。
「なっ……あれは……!?」
宗助の顔が、一瞬にして恐怖の色に染め上げられた。扉を失った入口の向こう側、ホテルの廊下のあるはずの場所には、今までの常識を覆すようなとんでもないものが立っていたのだから。
魚のような顔に、鱗に覆われた全身。頭部から生えた鰭と、首元で不気味に躍動する鰓。肌は不快にぬめりのある液体に包まれ、両手と両足の先には鋭い爪がある。あの、美南海が変貌したのと同じような、半魚人の特徴を兼ね備えている。それだけなら、何の問題もない。
宗助が圧倒されたのは、なによりも、その半魚人の背丈だった。今までは身の丈が自分と同じくらいの怪物にしか出会わなかったが、この半魚人は裕に三メートルを越える長身だ。その上、全身は筋肉の塊のようで、厚い胸板がこちらからでも確認できる。腕も足も太く、その一撃は本気になれば、ヒグマでも殴り殺せるのではないかと思わせる程に屈強だ。
みしみし、という嫌な音がして、半魚人の両腕がつかんでいる壁が悲鳴を上げた。相手はその巨大故に、この部屋に入ってくることができないでいる。が、先ほどの扉を吹き飛ばした力を見る限り、このままでは壁の方も持ちそうにない。
――――バキッ!!
とうとう壁が、音を立てて破壊された。砕かれた壁の破片が白い砂煙のようになり、その向こう側から巨大な腕が姿を現す。その手の先にある指の一本一本は、大口径バレルのような太さを誇っている。
「まったく……。レディの着替えの途中に、強引に入ってくるなんて節操がないわよ」
壁を破壊し、雄叫びを上げながら侵入してくる怪物に、美紅は皮肉を込めて言い放った。もう、着替えはとっくに終わっているだろう。思わず突っ込みたくなった宗助だったが、彼が何かを言う前に、美紅が自分の着ていたコートを怪物の頭目掛けて投げつけた。
突然視界を奪われ、怪物に一瞬の隙が生まれる。その間に、美紅はガラスを失った窓枠に足をかけると、そのまま外に飛び出した。
「ちょっ……マジかよ!?」
ここは二階。そして、外は草の生い茂る中庭。上手く飛び下りれば怪我はないのかもしれないが、それでも美紅は既に肩を負傷している。そんな身体で飛び下りて、果たして本当に大丈夫なのか。
怪物が、美紅のコートを剥ぎ取って大きく吠えた。まずい。腕の中に皐月がいる以上、こちらは満足に動けない。
天井まで届く巨大な腕が、宗助を叩き潰さんと振り降ろされた。が、その腕が宗助と皐月を捕える直前、一陣の黒い影が二人を包んで舞い上がる。
一瞬、何が起きたのか、宗助自身にもわからなかった。ただ、皐月と二人で黒いカーテンのようなものに巻かれ、窓から外に放り出された。
中庭の芝の上に投げ出され、宗助がその衝撃に呻いた。いったい、自分と皐月に何が起こった。霞む目を凝らして首を上げると、そこには自分の身体から離れる、黒い影のようなものが揺らめいていた。
「上出来よ、黒影。まさに、間一髪ってところだったけどね」
球体のような形に丸まった黒い影を、美紅がその手で軽く撫でながら言う。撫でられた影はそのままゆっくりと大地に降り、その内部から犬の頭と四本の脚を伸ばして膨れ上がる。
先ほどの影は、美紅の操る黒い犬の力だったのか。見たところ、自分も皐月も怪我はなさそうだ。もっとも、あれだけの高さから飛び降りて顔色一つ変えない美紅に関しては、相変わらず恐ろしい体術の使い手だと感心せざるを得ないが。
「ったく……無茶してくれるぜ」
服に着いた泥を払いながら、宗助は皐月と一緒に身体を起こした。悪態は吐いていたが、本気で彼女を責めていたわけではない。むしろ、あの一瞬でこれだけの判断を下すことなど、自分には決して真似できるものではないと感心していた。
パラパラと、頭の上から何かが振ってくるのを感じ、宗助は皐月を抱えたままその場を離れた。今しがた自分がいた場所を見ると、そこにあったのは砕かれた窓枠の破片。次いで、あの不愉快な奇声と共に、青黒い色をした巨大な塊が振ってきた。
大地を揺らす振動に、宗助は思わず足を取られそうになってよろめいた。あの、全身が筋肉の塊のような半魚人が、宗助たちを追ってきたのだ。
今までの相手とは違う、圧倒的な力と殺気。もしや、これが美紅の言っていた、岬頭というものなのか。
巨大魚人。そう形容した方が正しそうな怪物が、大きく腕を広げて雄叫びを上げる。戦いが避けて通れないことを察し、美紅もまた霊木刀を構えて対峙する。
「やれやれだわ。なんだか知らないけど、随分と頭の悪そうなやつが出て来たこと」
全身筋肉の半魚人を見て、美紅が苦笑しながら言った。だが、半魚人はそんな挑発などまったく気にせず、その腕を振り上げて真っ直ぐに宗助を狙う。風が唸り、空気の震える音を聞いて、宗助はたまらず顔を背ける。
「させるな、黒影!!」
美紅の命令を受け、黒影が犬の姿のまま怪物に飛び掛かった。腕や足に噛みついたところで、あの怪物の動きを止めることはできない。それがわかっているのか、黒影は怪物の頭に覆い被さると、頭頂部に向かって白銀の牙を容赦なく突き立てた。
声だけで、ガラスが割れるのではないかと思わせるような凄まじい奇声。宗助を狙っていた腕を大地に叩きつけ、巨大な半魚人が黒影を振り払おうと暴れまわる。対する黒影も懸命に怪物の頭に張り付いていたが、やはり力では敵の方が上だ。
巨大な手につかまれて、黒影はそのまま中庭の壁に叩きつけられた。べしゃっ、という水風船の潰れたような音がして、黒影は犬の姿から、どろどろした不定形の塊へと変形してしまった。
(狙いは宗助君ってわけか……。だったら、なんとかこっちに気をそらせて、その間に彼らを逃がすしかないわね……)
相手のパワーは確かに脅威。壁をも容易くぶち破る怪力の前には、さすがの美紅でも苦労させられることは必死である。その上、敵の狙いが宗助ならば、彼を守りながら戦う必要もある。
七人岬は、己の狙った獲物に対し、執拗なまでの追跡を繰り返す。時に、互いに連携し、狩りの順番を待つようなことがあったとしても、最終的に全ての獲物を狩ろうとすることだけは事実だ。
あの怪物は、恐らく宗助を狙っている七人岬なのだろう。なぜ、ここになって急に現れたのかが気になったが、今は考えている余裕などない。
腰のポーチから金属球を取り出して、美紅はそれを敵の頭目掛けて投げつけた。幸い、反応は鈍いのか、さして狙いをつけずとも球は敵の頭に命中した。
低い唸り声を上げながら、怪物がゆっくりと美紅の方を振り返る。邪魔をするな。そう言わんばかりの表情で、灰色に淀んだ瞳をこちらへ向けて来る。
「さあ、来なさい。相手をしてあげるから」
霊木刀を構え、片手を挑発するようにして振って見せる。いつの間にか、傍らには黒い影が集まって、それは再び巨大な犬、黒影の真の姿を形成する。
怪物が吠え、美紅と黒影が同時に地面を蹴った。大砲の一撃にも匹敵するようなパンチが繰り出され、先ほどまで美紅と黒影がいた場所を大きく抉る。黒影と共に左右に散った美紅は、すかさず壁を蹴って霊木刀を叩きつける。
刀身に刻まれた梵字が光り、叩きつけられた部分から白い煙が上がる。早くも美紅の攻撃が決まったか。そう思われたが、怪物は何ら変わらぬ表情で、鬱陶しそうに霊木刀ごと美紅を振り払った。
振るうだけで、場合によっては辺りの物を吹き飛ばすほどの馬鹿力。なんとか受け流そうとしたが、さすがにこればかりは無理だ。
衝撃を抑えきれず、美紅の身体が中庭を転がった。死角から黒影が襲いかかるが、怪物はそれさえも全く意に介せず、やはり五月蠅そうに払いのける。拳を叩きつけられた部分が崩れ、黒影は頭から下だけがどろどろの液体のような姿になって地面に落ちた。
こんなやつが相手では、正面からぶつかってもまるで敵わない。なんとか油断を誘い、弱点のような部分を攻撃できないものか。そう考えながら立ち上がった瞬間、美紅のことを再び巨大な腕の一撃が襲う。
「くっ……」
体勢を立て直している暇などなかった。横薙ぎに払われた腕の一撃は、起き上がった美紅の身体を寸分狂わぬ位置で捕えている。それでも、辛うじて反応が間に合ったのだろうか。直撃は避けたものの、かわりに腕に激しい衝撃を感じ、美紅は思わず手にした霊木刀を取り落としていた。
中庭の草の上に、真っ二つに折れた霊木刀が転がっていた。本来、陰鬱な闇の力を持つ者にとっては、触れるだけでも憚られるという特殊な武器。その力を持ってしても、怪物の一撃には耐えられなかった。ほとんど強引に、ただその力だけを頼りに、敵は美紅の持っていた霊木刀を、たったの一撃でへし折ってしまった。
万事休す。丸腰になった状態で、美紅はじりじりと壁際へ追い詰められ始めた。怪物の向こう側を見ると、そこには震える皐月を抱える宗助の姿がある。本当ならば、こうして自分が敵を引きつけている間に逃げてもらいたいところだが、残念なことに、中庭の出口は美紅の後ろ側に位置している。
温室へ逃げたところで逃げ切れない。中庭から逃げるには、怪物の前を通る必要がある。どちらにせよ、皐月を連れた今の宗助には難しい話だ。ならば、残された手段はただ一つ。自分がこの怪物を倒す他にない。
ホテルの壁に伸びる太いパイプに、怪物がゆっくりと手を伸ばした。渾身の力を込めて引き剥がすと、パイプからは大量の水が溢れ出す。恐らくは、給水管か何かだったのだろう。パイプを壁から引き剥がした怪物は、それを片手に大きく吠えて、二、三度振りまわしながら感触を確かめた。
あのパイプを武器に、こちらに止めを刺そうということか。それに対し、こちらは切り札である霊木刀を失った状態。ポーチの中には閃光玉や護符の予備があるが、この怪物相手に通用するとは思えない。腰に着いているナイフにしても、致命傷を与えるには至らないだろう。下手をすれば、そもそもナイフの刃先が通らない可能性さえある。
これはいよいよ、こちらも覚悟を決めるべきか。そう思った矢先、怪物の振るう鉄パイプの一撃が美紅に襲いかかった。慌ててかわしたものの、滅茶苦茶に振るわれるため軌道が逆に読めない。受け止めて返すにしても、さすがにあの力と体格の差は、体術だけで補えるものでもない。
「黒影、炎を!!」
美紅の言葉を受けて、黒影が大きく吠えて炎を吐いた。背中から、青白い炎の直撃を受けて、怪物の身体が一瞬だけ傾く。が、すぐさま黒影の方へ腕を伸ばすと、それを強引に振るって炎をかき消した。
黒影の吐く破魔の炎は、あらゆる者の魂を焼き尽くす。それは七人岬であろうとも例外ではないはずだが、今回ばかりは敵の体力があまりにも高すぎた。
黒影が唸り、怪物との間合いをじりじりと詰める。迂闊に飛び掛かれば酷い目に遭うため、どうしても慎重にならざるを得ない。そして、そんな黒影を嘲笑うようにして、怪物は再び美紅の方へと向かってゆく。
中庭の草が踏みにじられる音を聞きながら、美紅は静かに呼吸を整えながら思った。
こいつは馬鹿だ。力任せに暴れ回るばかりで、目先のことしか見えていない。本当は、宗助を殺して呪いを移したいのだろうが、それを邪魔する美紅でさえも、怒りで我を忘れて殺そうとする。こんなやつが身内にいたのでは、他の岬達も、さぞかし頭が痛かったことだろう。
これは岬頭ではない。七人岬の頭領は、もっと狡猾で残忍なやつのはずだ。ならば、この怪物をここで倒すことが、果たして本当に正しいのか。
迫り来る鉄パイプの攻撃を器用に避けながら、美紅はしばし躊躇った様子で考えた。だが、このまま戦っていても勝ち目はないのは明白。ならば、後のことは後で考え、今は敵を倒すことに集中せねばならない。
もう、躊躇っている余裕はなかった。更なる危険を呼び込むことになったとしても、ここで死んでは元も子もない。
背中に背負われた一振りの棒。梵字の書かれた布に封印されたそれに、美紅は手をかけて解き放つ。スラリ、という音と共に飛び出したのは、銀色の刀身を輝かせた一振りの刀。柄と、それから鞘の部分を布で覆っており、今は刀身だけが剥き出しになっている。
「さあ、行くわよ化け物! 私にこれを抜かせたからには……食われる覚悟、できてるんでしょうね?」
そう言うが早いか、美紅の手にした刀の刃から、徐々にどす黒い気のような物が溢れ始めた。それは瞬く間に刀身全体を覆い尽くし、雨の中、黒い炎のように揺らめいている。
いや、炎などと呼んでしまうには、その黒い気はあまりも禍々し過ぎた。どちらかといえば、黒いミミズかヘビが刀身に絡みつき、そのまま獲物を求めて蠢いている。そんな感じなのだ。
「挟み撃ちにする! 仕掛けるわよ、黒影!!」
美紅が、黒影が、ほとんど同時に宙を舞った。黒い身体の巨大な犬と、黒い影を宿した刀を振るう者。その両方から同時に攻め込まれ、怪物の動きが一瞬だけ止まる。
「消えろ、化け物! 闇薙の太刀の力、その身で味わうがいいわ!!」
黒影に気を取られた一瞬の隙を突き、美紅の手にした刀が怪物の身体を引き裂いた。華奢な日本刀など、軽く弾いてしまいそうな屈強な身体。鱗に包まれた巨体が、いとも容易く切断される。
刀の刃で斬っているのではない。あの、刀を覆う黒い気で斬っているのだ。遠目から見ていただけだったが、なぜか宗助にはそう思えた。美紅が刀を振るう度に、あの黒い気が貪欲に獲物を求めて蠢き、揺れる。敵は力ばかり強くて鈍いのか、今や美紅に一方的に斬りつけられるだけの様となっている。
これで止めだ。美紅は黒影と目で合図し、互いに持てる最大の一撃を放って見舞った。黒影の吐き出した炎が怪物の頭を焼き、次いで、美紅の放った強烈な突きが、怪物の身体を貫通する。
豪雨の中、怪物が断末魔の悲鳴を上げて咆哮した。美紅は刀を刺したまま怪物から離れると、その赤い瞳に意識を集中し、なにやら複雑な印を組む。そして、彼女が最後の印を組んだとき、その口から毀れた言葉と共に、刀から闇が溢れ出した。
「滅……」
そう、美紅の口から言葉が出た瞬間、刀から溢れた闇が怪物を襲いだした。黒いヘビともミミズとも取れるそれは、まるで貪り食うように、怪物の身体を蹂躙してゆく。湧き上がる闇は怪物の腕を、脚を、果ては頭部に至るまで、余すところなく食いつくしてゆく。
あれは浄化などではない。事の成り行きを見守っていた宗助は、そのあまりに禍々しい光景に言葉を失っていた。
一言で言うならば、あれはその名の通り、まさに食事と言うに相応しいものだった。刀の中に封じられし闇が、怪物の魂を食らってゆく。闇の力を、より強大な闇の力で覆う……否、吸い取るようにして、巨大な半魚人の力を奪ってゆく。
闇薙の太刀。それは、犬崎美紅の家に代々伝わる、彼女の切り札とも言える妖刀だった。あらゆる魂を貪欲に求め、全てを己の闇に同化する呪われし刀。それは持ち主である美紅でさえも例外ではなく、長時間の使用は命の危険を伴うもの。今まで刀を抜かず、あくまで達樹の作った退魔具だけで戦っていたのは、彼女なりの理由があった。
闇を用いて闇を祓う。それが美紅の、本来のやり方だ。彼女の使う力は危険だが、それは時として、向こう側の世界の住人たちと戦う際に大きな力となる。普通の霊能者では束になっても敵わないような強大な相手。そんな者たちを、文字通り完全に無に帰してしまうことさえ可能となる。
やがて、全ての食事を終え、刀だけがその場に転がった。後に残されたのは、土塊と化した怪物の残骸。かつては七人岬と呼ばれ、宗助たちを執拗に狙ってきた者のなれの果て。
「二人とも……大丈夫だった?」
中庭の隅に身を隠していた宗助と皐月。その二人に、美紅はそっと手を差し伸べた。刀は既に、背中の鞘に戻してある。鞘に入っている間は、あれがどす黒い気を拭き出すこともない。
「ああ、なんとかね……。でも、あんたも人が悪いな。この土壇場になるまで、あんな武器を隠していたなんてさ」
「隠していたんじゃないわ。ただ、今回は気安く使えなかっただけよ。舟傀儡相手に刀で斬り殺すわけにもいかないし、そもそもこれを使うのは、私もかなり消耗するの。だから、戦いが長引くことを予想して、最初から使わないでおいたのよ」
「なるほどな。それで……こうやって倒しちまったってことは、やっぱりあいつが七人岬の頭領だったのか?」
「いいえ、違うわ。本当は倒したくなかったんだけど、この場合は仕方なくよ。あれは七人岬の頭領なんかじゃない。やつらの頭は、まだ他にいるわ」
未だホテルを覆う陰鬱な空気。雨はまだ止まず、夜明けは訪れないことを知り、美紅は少しだけ下を向いて宗助に言った。
「二人とも……これ以上は、私と一緒にいると危険に巻き込まれるわ。だから、早く支配人室に向かって、そこで達樹さんと合流して」
「達樹さんと? でも……あんたは一人でどうするつもりなんだよ!?」
「私はもう、岬殺しの業を背負ってしまったからね。連中は、今に標的を私一人に絞って、一斉に攻撃を仕掛けてくるわ。そいつらを迎え撃たなきゃいけないから、あなた達が一緒だと邪魔になるのよ」
「そんな……。それじゃあ、あんたは俺達と一緒に逃げられないのか!?」
絶望的な、美紅からの一言。彼女の口からそれを聞いたとき、宗助は自分の無力さを改めて呪いたくなった。
あの、巨大な七人岬が現れたとき、またしても自分は何もすることができなかった。そして、自分の代わりに戦った美紅は、岬殺しの業を背負って怪物に追われる身となった。
自分を狙っていた岬が滅んだ以上、これからは宗助が七人岬に狙われることはない。だが、その代わりに美紅が全ての呪いを引き受けて、岬の餌食にされてしまう。
こんな結末が、本当に許されるのか。他人に全てを押しつけて、自分だけ悪夢から逃走する。そんなことは、いくらなんでもできるはずがない。
やはり、自分も最後まで美紅と一緒に戦おう。例え、偽善と言われてもいい。これ以上は、美紅に危険を引き受けてもらうわけにはいかない。
自分の気持ちを伝えるべく、宗助は刀をしまった美紅にそっと近づいた。だが、美紅はそれを無視して皐月の側へ歩み寄ると、その頭を軽く撫でながら優しく語りかけた。
「それじゃあ、私はちょっとだけ最後のお仕事をしてくるわね。皐月ちゃんはその間に、このお兄さんと一緒に逃げなさい」
「えっ……」
「大丈夫。私はこれから、黒影と一緒に悪い妖怪をやっつけなくちゃいけないの。その間、皐月ちゃんを守ることはできないから、代わりにお父さんや、このお兄さんに守ってもらいなさい」
「うん、わかった……。でも、絶対に帰って来てね。悪いやつ、全部やっつけたら……また、一緒にお風呂に入ってくれる?」
「ええ、勿論よ。今度は休憩のためにホテルに立ち寄るんじゃなくて、ちゃんとした温泉にでも行きましょう」
そう言って、皐月の頭からそっと手を離し、美紅は独り中庭の出口に向かって歩き出した。その姿を見て慌てて追う宗助だったが、美紅は彼に背を向けたまま、先ほどとは違う厳しい口調で制止した。
「どうしたの、宗助君? もしかして……私と一緒に、戦うなんて言うつもりじゃないでしょうね?」
「だったら、どうだってんだ? 言っておくけど、俺はあんたを一人で死地に行かせて、自分だけ逃げるつもりはないぜ。今までの借りも返さずにさよならなんて、俺自身が納得できねえな」
「そう……。でも、心配は要らないわ。私には闇薙の太刀もあるし、黒影もいる。本気で戦えば、残る六人の岬だって、しっかり無に帰してあげるわよ」
「黒影って……もしかして、あんたの操ってる黒い犬か? 前から気になってたけど……あれ、いったい何なんだ?」
「そうねぇ……。わかりやすく言うと、犬の姿をした下級神ってところかしら? 犬神って言ってね。普段は私の影に潜んでいるんだけど、こうやって戦うときになると、私の命令で実体化するのよ」
美紅が、自分の足下を指差して宗助に説明した。その言葉に合わせるようにして、美紅の隣にいた黒影が、どろどろと溶けて彼女の影と一体化する。
「そういうわけだから、私のことは気にしないで。残る岬は玄関ホールに誘導しておくから、あなたたちは、それ以外の場所から脱出してね」
「それ以外の場所って……お、おい! 美紅!!」
宗助の言葉を最後まで聞かず、美紅は言うことだけ言って走り去った。慌てて手を伸ばす宗助だったが、そこに美紅の姿は既にない。自分と皐月、それに中庭を濡らす雨の音と聞きながら、宗助はただ、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。