~ 酉ノ刻 連戦 ~
骨董品の鎧が多数置かれた奇妙な部屋。その部屋の中を、宗助は無心に走り抜けた。横にいる鎧の化け物など、今は相手にしている場合ではない。美紅に言われた言葉通り、宗助は部屋の片隅で震えている少女の下へと駆け寄った。
「大丈夫か。また合ったな」
怯える少女の頭を撫で、宗助が言った。部屋の外で聞いた悲鳴の通り、やはり少女は皐月だった。
「お、お兄ちゃん……。それに……美紅お姉ちゃんも一緒なの?」
「ああ、そうだよ。助けに来るのが遅れてごめん。でも、もう大丈夫だからな」
震える皐月の肩を抱き、宗助は後ろで戦っている美紅の方へと目をやった。鎧に霊木刀がぶつかる激しい音がして、その度に怪物がゆらりと傾く。が、それでも決定打にはならないようで、怪物はすぐに体勢を立て直して美紅に迫る。
あの鎧が、美紅の力を妨げているのか。それとも、純粋な防具として、木刀程度の攻撃は跳ね返してしまうのか。そのどちらであれ、美紅が苦戦していることに変わりはない。皐月のことも気になったが、やはり宗助は、独り怪物に立ち向かう美紅のことが心配だった。
「美紅! 今、行く!!」
片手に護符を握り締めたまま宗助が叫ぶ。この護符が、あの鎧の化け物にどこまで通用するからはわからない。それでも、ここで何もせずに、美紅の力に甘えているばかりでは情けない。
そう思い、護符を片手に飛び出そうとした宗助だったが、美紅は彼の方を睨みつけてそれを制止した。
一瞬、動きが止まったその瞬間を狙い、鎧の手甲の部分がはじけ飛ぶ。内部から多数の海洋生物が連なってできた触手が伸び、美紅の頭を狙って繰り出される。
「危ない、美紅!!」
宗助の声が、鎧の置かれた部屋の中に響き渡る。その声が発せられるよりも更に早く、美紅は身体を大きく逸らし、敵の攻撃を回避する。そのままバク転のような動きで体勢を整えると、鎧の中に引っ込もうとした触手に狙いを定めた。
攻撃を避けられた海洋生物の群れが、再び鎧の中に収まって行く。あの鎧がある以上、打撃は決して有効打にはならない。霊木刀で霊的な力を叩き込もうにも、鎧によって敵の全体に力が拡散してしまえば、せいぜい痺れさせる程度が席の山だろう。
相手はあくまで群体生物。一匹ずつ潰すわけにもいかず、かといって力を拡散させるわけにもいかない。その、どっちつかずのジレンマに、あの温室での戦いでは苦しめられた。
だが、今の相手はあの時とは違い、その身を鎧に包んでいる。確かに防御力という点では勝っているのだろうが、それは同時に決定的な弱点をも生み出す。
触手が腕の中に引っ込むその瞬間、美紅は間髪入れずに霊木刀による強烈な突きを繰り出した。それは触手の逃げ込んだ先、鎧の手甲があった部分に、吸い込まれるようにして見事に決まる。霊木刀の切っ先が鎧の隙間から内部に入り、溢れ出た海洋生物が床に落ちて不気味に身体をくねらせる。
「はぁぁぁぁぁっ……!!」
敵の腕に霊木刀を突き刺したまま、美紅は大きく息を吐きだして力を送った。その赤い瞳がより一層赤く輝き、白金色の髪の毛が、自身の発する気によって大きく逆立ってゆく。霊木刀に刻まれた梵字が熱く、激しく発光し、そこから送り込まれた強大な力が鎧の内部にいる生き物たちに伝わってゆく。
美紅の身体から送り込まれる、強大な霊能力。その力を受けて、鎧の化け物の腕が急激に震え始めた。ボコボコと、まるで何かが沸騰しているかのように、不規則にあちこちが痙攣を始める。その隙間からは多数の海洋生物が溢れ出し、床に落ちるのを待たずに破裂して死んでゆく。
温室で戦ったときとは違い、今の敵は鎧に全身を包まれている。それは確かに外部からの攻撃を防いではいたが、同時に内部からの攻撃に脆くなっていた。
これが、単なる群体であれば、霊木刀の攻撃も効果が薄かっただろう。表面にいる数体を叩いたところで、倒せるのはあくまで表面にいた生き物だけ。霊的な波動も拡散してしまい、一撃で全てを叩き潰すことは難しい。
だが、これが鎧の中に収まっている相手ならば、話はまったく別だった。腕の部分に刺し込まれた霊木刀を通じ、美紅の力は中に固まっていた生き物全体に及ぶことになる。形を変えて逃げ出そうにも、鎧の中にいては、それも叶わない。防御力を上げることで逃げ場を失った怪物たちは、内側からの攻撃には脆かった。
このまま力を流し込み続ければ、敵の全てを破壊できる。そう思い、更なる力を霊木刀に送る美紅だったが、果たして敵もそこまで甘い相手ではなかった。
ズルッという、何かが剥がれ落ちるような音がして、鎧の腕がすっぽりと抜けた。どうやら、全身に美紅の力を流し込まれる前に、腕だけを切り離して捨てたようだった。
さすがに、一筋縄ではいかないか。霊力の放出を抑え、美紅は再び気の流れを自然な状態にして霊木刀を構える。そして、未だ部屋の隅に固まっている宗助に目配せすると、皐月を連れて部屋を出るように促した。
「宗助君! こいつは私に任せて、早く皐月ちゃんを連れて逃げなさい!!」
「で、でも……。たった一人で、そんな化け物とあんたを戦わせるなんて……」
「いいから早く! そこの扉を開けて、隣の部屋に逃げ込んで!!」
そう、叫んだ矢先、再び触手が美紅の頬を掠めた。今度は切り離した腕とは反対の、まだ無事な方の腕を伸ばして攻撃してきたようだった。
油断大敵。そう、自分の心に言い聞かせながら、美紅は呼吸と体勢を整える。先ほどの一撃で、敵もこちらの狙いがわかったはずだ。鎧の隙間を狙って攻撃してくることがわかってしまった以上、相手もそう易々と弱点を狙わせることはないだろう。
部屋の奥にある、廊下に続く入口とはまた別の扉。その向こう側に宗助たちが消えたことで、美紅は軽い笑みを浮かべながら敵を見据えた。
こうなれば、もう遠慮をする必要はない。美紅の赤い瞳が、獲物を狩るときの肉食獣のそれに変わる。闇の者と一対一、こうして対峙するときの美紅に、情けや容赦などというものは存在しない。
敵の腕から伸びた触手が、再び美紅に向かって放たれる。一直線に彼女の顔を狙ってきたそれは、美紅が横に攻撃を避けたところで、今度は薙ぎ払うようにして襲いかかって来る。
右へ、左へ、一見して滅茶苦茶に振り回しているようだが、その動きは的確に美紅の位置を捕えていた。知性の欠片もない化け物だというのに、戦闘においては優れた本能でも持ち合わせているというのだろうか。触手が空を切る音がするたびに、美紅もその身を左右に翻して攻撃をかわす。
このままでは、直に追い詰められる。目で見て避けられない攻撃ではないが、なんとかして活路を見出さねばならない。
迫り来る触手の一撃を、美紅はとうとう霊木刀を振るってはじき返した。瞬間、その先端から美紅の力が流し込まれ、触手は結合を解かれて大小様々な海洋生物に戻ってゆく。床に撒き散らされたそれらの生き物は、しばらく痙攣した後に、やがて薄気味の悪い粘液を吐きだして絶命する。
だが、それだけの威力の一撃を食らってもなお、敵は一向に弱る様子を見せなかった。やはり、あの温室で戦ったときと同じだ。全体に強力な一撃を流し込んで、一度に始末しなければきりがない。
触手が再生したのを見て、美紅は苦々しい顔をしながら武器を構え直した。普通の浮遊霊程度であれば、とっくに消滅させるだけの霊気を送り込んでいる。それにも関わらず未だ動けるとは、この手の敵を相手にするのは本当に面倒臭い。
鎧の奥で何かが蠢く音がして、敵の右肩が急激に膨らんだ。先ほど失ったはずの右腕の部分、そこに残されていた鎧の残骸が完全にはじけ飛び、中から一際太い触手が姿を見せる。
このまま鎧を剥いでゆけば、戦いは温室のときと同じ結果となる。確かに鎧は邪魔なのだが、あの鎧がある内は、敵を一網打尽にするチャンスでもある。
右と左、今度は両方の触手が一度に襲ってきた。同時攻撃とは考えたものだが、それでも美紅にとってすれば、単調な一撃の一つに過ぎない。腰を屈め、自分の真上を触手が通過するのを見て、美紅は好機とばかりに前に踏み出す。
ところが、彼女が前進したその瞬間、後ろで物が激しく倒れる音がした。敵の攻撃がそれて、部屋に置いてある骨董品でも倒したのか。そう思って構わず前に出た美紅だったが、次の瞬間、自分の後ろから迫る殺気を咄嗟に感じ取り、慌てて左に転がった。
ガッという、何かが地面にぶつかる音。今しがた自分のいた場所へと目をやって、美紅は己の判断が誤りではなかったことを改めて痛感した。
触手の先に握られたもの。それは部屋にあった長刀と、同じく壁にかけられていた一振りの刀。どちらも刃のついてない模造品、もしくは刃を落とした品なのだろうが、それでも使い方によっては十分に脅威だ。斬ることは叶わなくとも、叩く、薙ぎ払う、突くなど、こちらを攻撃する術はいくらでもある。
あんなものを持ち出して来るとは、いよいよ七人岬たちも、形振り構わなくなってきたか。己の邪魔をする者であれば、獲物でなくとも殺しにかかる。自ら手を下さない辺り、最初に狙いを定めた獲物にこだわる節はあるのだろうが、今までのような甘い戦い方は通用しない。
これはさすがに、本気で勝負をつけに行かねばまずそうだ。そう思った矢先、敵の駆る刀の一撃が美紅を狙って放たれた。触手の先に握られた刃が、真っ直ぐに美紅の喉元を狙って繰り出される。
白銀の刃が、空気を切って頬を掠めた。その先端が肌に触れることはなかったものの、美紅は自分の真横を通り過ぎたそれから、十分過ぎるほどの剣圧を感じ取っていた。
あんなものを食らったら、それこそただでは済まないだろう。続けざまに放たれる長刀の一撃を、美紅は身体を低く屈めてやり過ごす。それでも、敵の攻撃はまったく止まず、今度は再び刀の先端が美紅を狙って突き出される。
金属が床にぶつかる音がして、狙いを外した刀が跳ね返された。その瞬間、美紅は刀が完全に上に持ち上げられる前に、霊木刀で触手の先端を斬り落とす。刀を握っていた触手が断ち切られ、握り手から残された海洋生物たちが、ぽろぽろと力を失って離れてゆく。
まずは一つ。これで相手の武器を潰してやった。勝利への一歩を確信した美紅だったが、それでもなお、敵は諦めることを知らないようだ。取り落とした刀を拾おうとする美紅の前に、今度は長刀を突き出して邪魔をする。先ほどのように薙ぐことはせず、ひたすら突きを繰り出して、有効な間合いに近づけない美紅を翻弄する。
「このっ! 雑魚の癖に、生意気な真似をして!!」
次々と繰り出される槍の先。その全てを絶妙なタイミングで避けつつも、美紅は反撃の機会をつかめないままに叫んだ。このまま時間を稼がれて、あの刀を拾われたらおしまいだ。こうなったら、一か八か。気を極限まで研ぎ澄まし、反撃のチャンスを生み出すしかない。
霊木刀をゆっくりと降ろし、美紅は大きく息を吸い込んで意識を集中させた。部屋に流れる様々な気。その中でも、相手の放つ黒く淀んだ気の流れを感じ取り、自分に向かって放たれる一撃の軌道を先読みする。
赤い瞳がカッと開かれ、美紅の視線が怪物の放った槍の先を捕えた。己の鼻先目掛けて飛んでくる鋭い先端を、美紅の両目はしっかりと捕えている。まるで、時間が止まってしまったかのように、今の美紅には周囲の時の流れが極めて遅く感じられた。
「せいっ!!」
掛け声一番、美紅の狙い澄ました蹴りが、敵の繰り出した槍の先端を跳ね飛ばした。美紅はそのまま身体を大きく回転させ、手と膝をついて着地する。上段蹴りなどといった生易しいものではない。俗に言う、サマーソルトキックというやつだ。
普通の人間であれば、一撃食らっただけで昏倒しかねないような強烈な蹴り。思わぬ反撃を受けて、怪物の手から長刀が吹き飛ばされる。そして、その隙を見逃して休んでいるほど、今の美紅は甘くはない。
次なる触手の一撃が来るその前に、美紅は一気に相手との間合いを詰めて駆け寄った。敵の攻撃が唸りを上げて美紅を襲うが、それも予想の範囲内。美紅は霊木刀を持っていない左手を軸に身体を倒し、そのまま独楽のように脚を回転させて敵の足下を薙ぎ払う。次いで、倒れた相手が起き上がるよりも更に早く、床に転がっている金属球を拾い上げて立ち上がった。
鎧の攻撃から、皐月を守るために投げつけた金属球。美紅の霊気を込めて放てば、印を組むだけで爆発させることも可能な優れ物。温室の戦いでは決定打にならなかったが、攻撃の補助としては使い方次第で十分に役立つ。
鎧の化け物が、その身体を奇妙にくねらせながら起き上がる。普通の人間では、到底真似できない不可解な曲がり方。それも、全てはあの中身が多数の海洋生物からなる群れとわかれば納得がいく。
相手が起き上がり、体勢を立て直そうとしたその瞬間、美紅の手から放たれた金属球が鎧の顔面を捕えた。顔を覆うようにして被っていた、黒い覆面のような強固な顔当て。金属球は、その部分に吸い込まれるようにして命中し、鋭い音を立てて仮面が落ちる。
仮面の中、兜の隙間から除く物を見て、美紅は思わず不快感を露わにした表情で霊木刀を構えた。兜の中で蠢く物は、人間の顔などでは決してない。そこにあるのは、七人岬の力を宿した薄気味悪い海洋生物の群ればかり。あるものは上下に、あるものは左右に、そしてあるものは中から外へと出入りし、鎧の中で一つの形を作り出している。
狙うなら、あの場所しかない。そう思った次の瞬間には、美紅の腕を足が動いていた。
敵の両腕から、美紅を狙ってしつこく触手の攻撃が放たれる。顔と、それから脇腹を掠めたが、その攻撃が美紅を捕えることはない。敵の攻撃の中にある安全地帯、流れの中の道とも言うべき場所を、美紅は今までの戦いから見抜いていた。
霊木刀の梵字が赤く輝き、その刀身が怪物の頭に突き刺さる。ぬめりのある不快な感触がしたが、それにも怯まずに、美紅はさらに奥へと霊木刀の切っ先を力任せに押し込んで行く。
「消えろ、化け物!!」
そう叫びながら、美紅の瞳が再び赤く輝いた。髪の毛が逆立ち、外套の襟が気の流れに揺れ、霊木刀に刻まれた文字が激しく発光する。
床が揺れ、空気が震え、怪物の中に美紅の力が注ぎ込まれる。首の部分だけを外して逃げるかと思われたが、さすがに身体の芯を形成している部分は抜けなかったのだろうか。
海洋生物たちの群れが逃げ出すよりも早く、美紅の放った気は霊木刀を通じ、怪物の全身に行き渡った。青白い、稲妻のような発光を伴いながら、それは瞬く間に鎧の中にいる全てのものに伝わってゆく。
全身が沸騰している。正に、そう形容するに相応しい状態となり、鎧の中で何かが弾ける音がした。腕の先から伸びた触手が右に左にと暴れ回るが、それが美紅に当たることはない。
触手は攻撃のために伸ばしたのではなく、怪物の見せた最後の足掻き。強烈な陽の気の流れに苦しみ、最早自分で自分の力を制御できていない。
やがて、怪物のあちこちで小さな爆発音が聞こえ、そのたびに無数の海洋生物たちが辺りに撒き散らされた。今や、触手も完全に崩れ去り、後に残るのは生臭い死臭を漂わせる生き物たちの残骸のみ。
これで止めだ。そう言わんばかりの表情で、美紅は最後に駄目押しの一撃を流し込んだ。怪物の身体が一際大きく震え、最後のその胴体部から、風船の破裂するような音が響いて動かなくなる。鎧の隙間と、それから脚部。二つの箇所から残りの死骸を吐き出して、やがて怪物は完全に動きを止めた。
脱け殻となった鎧が、乾いた音を立てて崩れ落ちる。霊木刀の切っ先に引っ掛かった兜を放り投げ、美紅が、勝利を確信したときだった。
突然、隣の部屋から何かの激しく割れるような音がした。続けざまに、今度は皐月のものと思われる悲鳴と、宗助が何やら叫んでいる声も聞こえてくる。
隣の部屋で、いったい何があったのか。それを考えている余裕は美紅にはなかった。
霊木刀を片手に、美紅は隣の部屋へと続く扉を勢いよく開け放った。倒した怪物の亡骸はそのままに、部屋の片隅に追い込まれている宗助と皐月を庇うようにして部屋に飛び込む。
「何があったの、二人とも!?」
霊木刀を握ったまま、美紅は奥にいる二人にそう訊いた。が、その答えが既に出ていることは、自分の目の前にいる異形の者を見た瞬間に理解した。
両肩に醜い瘤のようなものを抱えた、オレンジ色の瞳をした半魚人。それが大きく口を開いて吠えた瞬間、美紅もまた霊木刀を構えて床を蹴った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
宗助と皐月が部屋を出たとき、そこに待っていたのは沢山の剥製たちだった。一瞬、本物の野生動物が目の前に現れたのかと思い、皐月が怯えて宗助の袖をつかむ。宗助はそれを優しく諭すと、そっと立ち上がって辺りの様子を窺った。
前の部屋が鎧の間なら、ここはさしずめ剥製の間とも言うべきか。壁には鹿の頭が置かれ、部屋の中央にあるのは熊だ。隅の棚に乗っているのは、これは鷲か鷹だろうか。
こんなものまで置いてあるとは、さすがに金持ちの持っていた洋館だけある。いや、もしかするとこれも、志乃の父親が趣味で置かせたものなのかもしれない。どちらにせよ、宗助には理解できない、金を持っている人間だけの嗜好ということは確かだが。
「大丈夫かい、皐月ちゃん。今まで、独りで怖かっただろう?」
傍らの皐月を気遣い、宗助は彼女の目線の高さまで腰を落として語りかけた。その言葉に、皐月もようやく落ち着きを取り戻したのだろうか。返事こそ返さなかったものの、小さく頷いて宗助に答えた。
ここで皐月を見つけられたのは、単なる運の良さか、それとも神の導きか。どちらにしても、もう二度と再び彼女を危険の中に晒してはならない。この地獄のようなホテルの中で、今まで舟傀儡にもされずに逃げ伸びて来たのが奇跡に等しいのだ。
この子だけは、自分と美紅で絶対に守り抜く。その上で、他の仲間も探し出して、必ずこのホテルから脱出して見せる。
駄目だと思われた皐月が生き延びていたこと。そのことが、宗助に新たな希望を与えていた。ひとしきり落ちついたところで、宗助は皐月に再び語りかける。あの、談話室で行方不明になった、美南海のことを訊いてみるのだ。
「なあ、皐月ちゃん。君と一緒にいたお姉さん……佐藤美南海って言うんだけど……。その人とは、一緒じゃなかったのかい?」
皐月が無事なら、美南海もどこかで無事であって欲しい。そう願った宗助だったが、皐月は力なく首を横に振るだけだった。
「あのお姉ちゃんは……変な怪物に連れて行かれちゃったの……。いきなり窓が破られて、人間なのか、魚なのか、よくわからないのが入って来て……」
「そ、そんな……。それじゃ、美南海は……!?」
「わからない。怪物は私じゃなくて、お姉ちゃんだけを狙っているみたいだったの。いきなり襲われて、部屋の中を滅茶苦茶にされて……それからのことは、よく覚えていないの……」
だんだんと、皐月の声が小さくなっていった。美南海と一緒に談話室にいた際、そこで怪物に襲われた恐怖。その記憶がまざまざと蘇り、再び不安な気持ちが湧き上がってきたのだろう。
「ごめんさない……。私、自分が逃げることばっかり考えて……。お姉ちゃんが怪物にさらわれたのに、なんにもできなくて……」
非力な自分が、怪物相手に敵うはずがない。美南海を目の前で連れ去られても、それは誰の責任でもない。そう、わかっていても、今の皐月には耐えられなかった。
自分の目の前で怪物に人がさらわれたこと。そして、それが宗助の仲間であったこと。同じように襲われたのに、自分だけ無事に逃げのびてしまったこと。例え幼い少女であっても、皐月は皐月なりに責任のようなものを感じているようだった。
話をしている間に、とうとう限界が来てしまったのだろう。皐月の目に涙が浮かび、彼女はそれから程なくして、宗助の胸の中で泣きだした。
こんなに小さな女の子に、別に責任の有無を問おうとは思わない。だが、自分の言葉が皐月を追いこんでしまったのは事実であり、宗助はなんとも気まずい気持ちになって彼女の背中をさすってやった。
皐月の話が本当なら、美南海は今頃、既に殺されてしまっているのではあるまいか。もしもそれが本当ならば、幹也と千鶴に次いで、自分は更に仲間を一人失ったことになる。
もう、これ以上は我慢できない。七人岬だかなんだか知らないが、あんな化け物に、ここで食われてたまるものか。
未だ泣き止まない皐月を腕の中に抱えたまま、宗助はふっと正面の窓ガラスに目をやった。刹那、そのガラスを何かが叩き、窓の向こう側に人のような物が姿を現した。
「なっ……なんだ、いったい!?」
ここは二階。何の力も持たない人間が、いきなり窓ガラスにへばりつく。そんな常識を無視したことが、果たして本当に起こり得るだろうか。
否、このホテルに限っては、もう常識など通用しないのかもしれない。全てを化け物に支配された死のホテル。呪いの洋館とも呼んだ方が相応しい場所においては、常識と非常識の物差しも通用しない。
ガラス窓の向こう側にいた者が、拳の一撃で窓を叩き割って入ってきた。見覚えのある服装に、宗助は思わず自分の目を疑った。
「み……美南海……」
噂をすれば、なんとやらだ。宗助の前に現れたのは、他でもない美南海本人だった。もっとも、今の彼女は美南海の姿をしているだけで、本当の彼女ではないのかもしれない。天真爛漫な笑顔は失われ、その顔に浮かぶのは不吉に歪んだどす黒い笑みだけだ。
肩についたガラスを払い、美南海がすっと立ち上がった。その二つの瞳が宗助を捕えた瞬間、彼女の瞳孔が大きく開かれる。
橙色の、蝋燭の火を連想させる色。およそ、普通の人間の目とは思えない色に、美南海の瞳が輝いた。瞳と同時に開かれた口の中には、鋸の歯を思わせる鋭い牙。首元が横にぱっくりと割れ、中から鰓のような器官が顔を覗かせる。
いったい、これはなんなのか。今、目の前で何が起きている。その全てを理解するよりも早く、宗助の前にいる美南海の身体が風船のように膨らんだ。
布の破れる音と、ボタンの弾ける音。着ていた服が破れ去り、その中から現れたのは、鱗にまみれた醜悪な身体。鼻が陥没し、顔が左右に裂け、その頭頂部から鋭い棘の生えた鰭が顔を見せる。両腕と両足、それに胴体までもが人間ものではなくなって、最後には両肩に、これまた醜い腫瘍のような瘤が形成される。
「あ、あれよ! あれが部屋に襲ってきて、お姉ちゃんをさらっていったの!!」
「どういうことだ!? なんで、美南海をさらった化け物が、美南海の姿になってるんだよ!?」
皐月の言葉に、さすがの宗助も今回ばかりは困惑を隠せない。美南海が怪物にさらわれ、殺されてしまったとして、それでは今ここにいる美南海は何者だ。まさか、幹也の時と同じように、怪物に姿形を真似されたのか。それとも、美南海の肉体共々、全てが怪物に取り込まれてしまったとでも言うのだろうか。
変態を終えた怪物が、奇声を上げて大きく吠えた。その瞬間、両肩の瘤が急激に肥大化し、宗助たち目掛けて中から何かを発射した。
「危ない!!」
皐月を抱えたまま、宗助は剥製の置かれた部屋の床を転がった。横を見ると、そこには鋭い牙を生やした、深海魚のような魚が跳ねている。もしや、先ほどの攻撃は、あの魚を飛ばして来たのでは。そう思った矢先、再び敵の瘤が膨らみ、宗助と皐月を狙って何かを放つ。
「くそっ! なんだよ、これは!!」
体勢を立て直すこともせず、宗助は皐月と共に再び床を転がって避ける。飛ばして来たのは、やはり深海魚の類だろうか。先ほどと同じく鋭い牙を兼ね備えた、いかにも凶暴な面をした魚だった。
この魚を飛ばすのが、あの半魚人の攻撃なのか。もっと近づいて、爪や牙で攻撃すればいいものを、いったい何を考えている。
こちらを甚振って遊んでいるのか、それとも他に策があるのか。どちらにせよ、このままやられているわけにもいかない。宗助は皐月から離れて立ち上がると、側にあった猛禽類の剥製をつかみ、それを怪物に投げつけた。
身体の中身を抜いてしまった剥製は、見た目に反して思ったより軽い。巨大な翼を持った鳥のはく製は、見事な軌道を描いて怪物の頭に命中する。さすがに、この反撃は考えていなかったようで、怪物が唸り声を上げながら後ろに下がった。
粉々になった剥製を踏みつけながら、怪物が頭についた埃を払うようにして宗助を睨む。橙色に光る瞳の色が濃くなって、宗助は相手を怒らせてしまったことを後悔した。
まずい。このまま正面から戦っても、到底敵う相手ではない。美紅にもらった護符があるとはいえ、ここはひとまず逃げる方が先だ。
皐月を後ろに隠すようにして、宗助はじりじりと部屋の奥に下がってゆく。この部屋の出口は合わせて三つ。一つは先ほどの鎧の間に通じる扉で、もう一つは怪物のすぐ側の扉、残る一つが以前に皐月と初めて出会った、人形の間へと続く扉だ。
残された道を考えると、逃げる先は一つしかない。あの、不気味な日本人形の転がる部屋に再び入るのは気が引けたが、そんなことを気にしている場合ではない。
ここは一つ、相手の隙を突いて、なんとか逃げ出さねばならないか。そう思って新たな剥製に手を伸ばしたところで、鎧の間への扉が勢いよく開け放たれた。
「何があったの、二人とも!?」
扉の向こうから、霊木刀を携えた美紅が飛び出して来る。相変わらず、その身体には傷一つない。さすがと言うかなんと言うか、彼女の強さにはいちいち舌を巻かされる。
霊木刀を構えた美紅と、体勢を立て直した半魚人。互いの瞳が交差した瞬間、対峙する双方が相手を己の敵と認識して床を蹴る。
半魚人の、鋭い爪の一撃。窓ガラスを容易に破り、下手をすれば人間の首など容易くもいでしまいそうな攻撃が、美紅の頭を狙った繰り出される。その爪先を、空中にいながらにして、美紅は強引に首をねじることで回避する。
敵の腕が自分の真横をすり抜けた瞬間、美紅の頬を物凄い風圧が襲いかかった。それだけでなく、さすがに回避しきれなかったのだろうか。外套の肩を爪が掠め、布の避けるような音がした。
「美紅!!」
後ろで宗助の叫ぶ声がする。しかし、それに構っている暇はない。肩を掠めたことなど物ともせずに、美紅は手にした霊木刀から、強烈な突きを繰り出した。
――――キィッ!!
蝙蝠の鳴き声にも似た、不快で耳をつんざくような声。美紅の一撃を食らい、半魚人が窓の方へ吹き飛ばされる。が、さすがにそのまま落ちるほど間抜けではなかったようで、敵は素早く手足を伸ばすと、その鋭い爪を窓枠に引っ掛けて持ち堪えた。
このままでは、怪物が再び部屋に入って来る。そうはさせまいと、美紅は駄目押しの一発として、さらなる一撃を胴体に叩き込もうと前に踏み出す。
もっとも、そんな彼女に攻撃を許すほど、半魚人も甘くはなかった。その肩口にある不気味な腫瘍が膨らんだのを見て、宗助が再び美紅の後ろから叫ぶ。
「危ない! 避けろ、美紅!!」
皐月を傍らに抱えたまま宗助が叫ぶ。その声に合わせるようにして、半魚人の肩にある瘤から二匹の魚が発射される。鋭い牙と、色の無い白色の目。それはさながら、半魚人の子分と言ってもさしつかえない。
迫り来る二匹の魚を、美紅は霊木刀を横に構えることで防ぎきった。魚の牙が霊木刀に食い込んで、その刀身を食い千切らんと暴れ回る。それらを手刀ではたき落としたところで、半魚人が窓枠から美紅に向かって飛びかかってきた。
巨大な爪と鋭い牙。その二つを交互に繰り出して、半魚人が美紅を襲う。談話室に残されていた爪後は、恐らくはこの怪物が残したものだろう。だとすれば、こんなやつの一撃を食らってしまったら、さすがの美紅でもただでは済まない。
体勢を立て直したことで、状況は怪物優勢に変わっていた。その手に備えた爪を武器に、怪物は美紅を狙って腕を振りまわす。一撃こそ大ぶりなものの、すかさず次の攻撃が来るために、なかなか反撃の機会を見いだせない。部屋が狭いことも相俟って、今度は美紅の方が追い詰められ始めた。
ガッという音がして、剥製の熊の首が吹き飛んだ。攻撃を避けた美紅の代わりに、半魚人の爪の一撃とまともに浴びたのだ。
このまま戦っていても、いずれはやられる。体力、スピード共に、まともにやり合えば敵の方が数段上だ。
次の攻撃が来る一瞬が、反撃のチャンスだと美紅は思った。横薙ぎに繰り出される爪の一撃を、美紅は大きく身体を仰け反らせて回避する。そして、そのまま倒れそうになる自分の身体を強引に起こし、更なる攻撃が来る直前に、全身の体重を乗せて突きを繰り出した。
額に霊木刀の一撃を受け、半魚人が奇声を上げて後退する。剥製をぶつけられても平気だった頭から、白い煙が立ち上る。やはり、相手も霊的に強い負の気を抱いているためか、霊木刀による攻撃は効果があるようだった。
「逃げなさい、宗助君! 皐月ちゃんを連れて、早く!!」
怪物が怯んだ隙を突いて、美紅が宗助に促した。言葉で返すことはせず、宗助はただ、それに頷いて答える。その腕の中に抱いていた皐月の手を取って、人形の間へと抜ける扉へと手を伸ばす。
脱出のチャンスは今だ。そう思って扉に手をかけた瞬間、宗助は自分の背中に冷たい物を感じ、ふと美紅のいる方を振り向いた。そして、その向こう側にいる怪物と目が合った瞬間、恐怖は確信に変わり、否応なしに宗助の足を止める。
怪物が、こちらを見て笑っていた。どう見ても魚としか思えない顔に、果たして本当に表情があるのか。そう問われれば返答に困るのだろうが、それでも今の宗助には、目の前にいる怪物がにやりと笑ったように見えて仕方がなかった。
怪物の肩にある瘤が、大きく揺れながら膨らみだす。あの、魚のような生き物を発射するための予備動作だ。
この軌道は、美紅を狙ってのものではない。この部屋の中で最も無力で非力な存在、即ち、宗助の側いる皐月のことを狙っている。
「危ない!!」
敵の狙いにいち早く気づき、美紅が霊木刀を振るって魚を払い落とした。だが、それこそが、怪物の真の狙い。仲間を守らせることで隙を生ませ、美紅の注意を自分から逸らせる。正に卑劣極まりない、闇の住人が好みそうな手立てだった。
半魚人の瘤が膨らんで、魚が立て続けに発射された。一匹、二匹目までは捌ききったが、今度ばかりはさすがに反応が追いつかない。続く三匹目は辛うじて避けたものの、最後の四匹目に至って、とうとう美紅は肩口を大きく噛みつかれてしまった。
「くっ……!!」
不気味な深海魚のような姿をした魚が、その口に生えた鋭い牙を美紅の身体に突き立てる。それは彼女の着ていた外套さえも突き破り、しっかりと肩口に食い込んで離さない。
痺れるような痛みを感じ、美紅の手から霊木刀が零れ落ちた。その瞬間、今度は怪物の腕が横薙ぎに振られ、美紅はその身体を吹き飛ばされて、激しく壁に叩きつけられた。
「美紅!!」
美紅の身体が、ずるずると壁に沿って崩れ落ちる。その手に握られていた霊木刀が、軽い音を立てて宗助の方へと転がって来る。
まさか、美紅まで殺されてしまったのではあるまいか。一瞬、不安に思った宗助だったが、辺りに血が飛び散っていないことを見て、彼女が死んだわけではないということだけは確信した。
邪魔者を排した半魚人が、徐々にこちらに近づいてくる。その顔には、自分より弱い者達を甚振って楽しむ、強者の余裕のようなものさえ感じさせる。
あの怪物は、こちらを殺そうとしているのではない。獲物を甚振り、動きを止めて、それから別の場所でじっくりと料理するつもりなのだろう。美南海や千鶴をさらったときのように、宗助をこの場から連れ去って、彼に成り変わろうというのだろうか。
半魚人との距離が更に詰まり、宗助はいよいよ覚悟を決めた。敵の狙いは自分だ。ならば、ここは皐月だけでも逃がし、自分がこの怪物と対峙するしかない。
「来いよ、化け物……。お前の狙いは俺だろう? だったら……俺だけを殺せばいいだろう!!」
人間の言葉など、どだい理解できるとは思えない。そんな怪物相手ではあったが、それでも宗助は啖呵を切った。勝機があるわけではない。恐怖がないわけでもない。ただ、怪物の目をこちらに向けて、皐月に逃げる機会を与える。それだけだ。
宗助の声に、怪物が首を傾けながら迫ってきた。橙色の瞳の中に宗助の姿をしっかりとらえ、その爪先を向けて低く唸る。
今、怪物の意識は、自分に集中している。皐月を逃がすのであれば、このチャンスを逃すわけにはいかない。そう思い、皐月から離れて距離を取った宗助だったが、機会を窺っていたのは、なにも宗助だけではなかった。
突然、怪物の後ろから、黒く濃い色をした影が襲いかかった。その影は怪物に覆い被さろうとした瞬間、巨大な犬の頭のような形に変化する。影は美紅の足下から伸びており、窓の外から見える夜の闇よりも、更に深く暗い色をしていた。
「行け、黒影!!」
美紅の声に合わせ、黒い影が飛翔する。巨大な犬の頭が大きく吠え、半魚人の肩口に噛みついた。
銀色の牙が、半魚人の肩にある瘤に激しく食い込む。瘤の中から海水のような液体が吹き出し、それは瞬く間に天井へと届く。
さすがの怪物も、これには耐えられなかったようだ。爪を振り回し、奇声を上げて、黒影を振り解こうと身をよじる。だが、黒影もさるもので、決してその牙を敵から離そうとはしない。
その顔に苦悶の色を浮かべながら、半魚人が徐々に窓際に後退していった。肩口に噛みついた魚を引き剥がし、美紅はふらつく足取りで立ち上がる。
魚を剥がした左手を見ると、そこは赤い血に濡れていた。それだけでなく、右手の指の先端からも、同様に血が滴り落ちている。
魚の牙は彼女の着ていた外套を破り、その向こう側にある肉も切り裂いていた。思ったより出血が酷い上に、壁に叩きつけられたときの衝撃も相俟って、未だに視界が揺らいで見える。
もう、霊木刀を拾っている暇さえない。黒影が作ってくれた数少ないチャンス。それを最大限に生かすため、美紅は痛みを堪えて走り出す。右脚を軸にして身体を捻り、左脚の踵を真横から敵に叩きつける。
蹴りの衝撃に、半魚人の身体がぐらりと揺れた。休む暇を与えず、美紅は更に左脚を大きく上に振り上げて、敵の頭を蹴り飛ばす。顎の部分に強烈な一撃を食らい、怪物はその身体を窓の外へと大きく仰け反らせる形になる。
これが最後だ。美紅は渾身の力を込めて、怪物に強烈な体当たりを食らわせた。黒影が肩から離れ、怪物の身体が窓の外に放り出される。その身体は外の闇に吸い込まれるようにして消え、何かが地面にぶつかる鈍い音がした。
敵を振り切り、美紅は割れた窓から外の様子を窺った。窓の外からは中庭が覗けて見えたが、敵の姿はない。既にどこかへ逃げてしまったのか、影も形も消えていた。
とりあえず、これでなんとか皐月と宗助を守りきったか。そう思った瞬間、美紅は全身の力が抜けて、がっくりとその場に膝をついた。
壁にもたれかかるようにして倒れた美紅の側へ、宗助と皐月が近寄ってくる。なんとか笑って返してみたものの、やはり疲労が激しい。連戦に続く連戦で、さすがの美紅も体力の限界を感じざるを得なかった。
「美紅!!」
美紅の手を取ったその瞬間、宗助は彼女が酷い怪我を負っているのに気がついた。
「これは……酷い傷だ……」
「平気よ、この程度。ただの……かすり傷だから……」
そういう美紅の顔が、既にまったく平気ではない。皐月を安心させようと手を伸ばしたところで、美紅は軽く呻いて肩口を押さえる。
「美紅……なんでだよ……。なんで、あんたはここまでするんだよ! 自分には全然関係ないってのに……どうしてそうまでして、俺を守るんだ!!」
傷つき倒れた美紅の姿を見て、宗助はたまらず叫んでいた。皐月と再会できたときに希望が蘇った気がしたが、やはり自分には無理だ。誰かの力に頼り、誰かを犠牲にして生き残ることなど、到底できるはずもない。
美紅は言った。このホテルを覆う異常な空気は、七人岬が宗助たちを狙っているからだと。ならば、ここで自分が死んでしまえば、もう誰も傷つかずに済むのではないか。
玄関ホールで千鶴が連れ去られたときの想いが、再び頭をもたげてきた。あの様子からして、もう美南海も怪物の仲間にされてしまったのだろう。それは幹也もしかりであり、連れ去られた千鶴もまた、まともな姿で再開できるとは思えない。
「なあ、美紅……。もう、あんたは十分に戦ってくれたよ。だから……後は俺のことなんて放っておいて、皐月ちゃんと一緒に逃げてくれ。敵の狙いが俺だっていうなら……俺がここで連中の犠牲になれば、ホテルの人たちも助かるんだしな……」
死ぬのが怖くないわけがない。しかし、そうでもしなければ、今に全員が皆殺しだ。そう思って美紅に告げた宗助だったが、代わりに返って来たものは、彼の頬を打つ彼女の手だった。
「……っ! いきなり、なにすんだよ!!」
「なにって……それは、こっちの台詞よ。ここまで来て、自分が死ねば皆が助かるから、後は勝手に逃げろって? 冗談じゃないわ。そんなの、ただ現実に目を背けて逃げているだけじゃない。下らない事故犠牲の精神で、誰かを守った気になって、それで満足? 笑わせないで!!」
「なっ……。別に俺は、そんなつもりじゃ……」
「この際、はっきり言っておくけどね……あなたがここで死んだって、なんの意味もないわよ。七人岬は、その全員が己の獲物を狩り終えたところで、新たな七つの獲物を見つけて暴れ出すの。あなたが死んで、あなたの仲間の全員が七人岬になった時点で、今度はあなた自身が化け物になって、どこかの誰かを殺すのよ。それでもいいの?」
七人岬の呪いの連鎖。決して断ち切れぬ死のゲームの繰り返し。そのことを、美紅は早口で宗助に向かってまくしたてた。
「誰かのために……誰かが死ぬことなんて……そんなの、絶対に正しいことじゃない……。大勢を守るために、一人を犠牲にすればいいなんて……そんな考え……私は認めない……」
だんだんと、美紅の呼吸が荒くなってくる。痛みに抗い、無理やりに話しているからだろう。皐月の手前、これ以上は宗助も言い返す言葉が見つからない。
「わかったよ、美紅……。でも、無理だけはしないでくれ。俺はやっぱり、あんたに死んで欲しくない。だから、今度は俺があんたのことを助ける番だ」
そう言いながら、宗助はすっと美紅の前で立ち上がる。そして、彼女と皐月に背を向けると、床に転がっていた霊木刀を拾い上げた。
「さっきは悪かったな。確かに、あんたの言う通り……ここで俺たちが全滅しても、七人岬の呪いってやつは消えないんだろうな」
扉を前に、美紅に背を向けたまま、宗助は淡々とした口調で続けた。その言葉は、何かを割りきろうとしているようにも、恐怖を押し殺そうとしているようにも受け取れる。
「だったら、俺だって最後まで足掻いてやるさ。確かに、脱出は絶望的なのかもしれないけど……それでも、最後まで戦ってみせるさ」
首を少しだけ後ろに向け、宗助は美紅と皐月の方をちらりと見た。その声は、徐々に落ち着きを取り戻している。先ほどまで絶望の色に沈んでいた瞳も、なんとか生気が蘇ったようだった。
「薬と……それから、何か手当に使えそうなものを取って来る。確か、この階に医務室があったはずなんだ」
「そう……。でも、残念だけど、あなたにその木刀は使えないわよ。それは、私みたいな強い力を持った霊能者でなければ……」
そこまで口にして、美紅は思わず目を丸くしながら、宗助の手に握られた霊木刀を見て言葉を切った。
霊木刀の梵字が、うっすらと赤く輝いている。あの文字に反応するということは、宗助にもまた向こう側の世界の住人に通じる素養があるということだ。それは即ち、彼もまた霊木刀を振るうだけの力があることを意味している。
それにしても、霊能者としての修業を積んだわけでもないのに、あそこまでの輝きを見せるとは。なぜ、どうして宗助が力を持っているのかは気になったが、細かいことは、この際どうでもよい。
残念ながら、今の自分は動けない。このまま御荷物になるわけにもいかず、美紅は全てを宗助に賭けてみることにした。
「それじゃ、悪いけど頼んだわよ。その武器、使い方わかるかしら?」
「いや、さっぱりだ。なんか、適当に振り回してぶっ叩く以外に思いつかねえ」
「今は難しいことは考えないで。ただ、その木刀に自分の力を注ぎ込むイメージ……それだけを考えて、武器を振るいなさい」
「ああ、わかったぜ。上手くいくかどうかわからないけど、なんとかやってみる」
霊木刀を肩に抱え、宗助は扉の取っ手を回しながら美紅に言った。決して自信があるわけではなかったが、美紅のお墨付きをもらった分だけ心強い。
自分の力が、果たしてあの舟傀儡や、七人岬に通用するのか。未だ不安な部分はあったものの、それでも宗助は決意を固め、剥製の間の扉をゆっくりと開け放った。