~ 申ノ刻 擬態 ~
宗助が廊下の角を曲がると、そこには追い詰められている千鶴の姿が合った。
「千鶴!!」
名前を呼んだが、返事を聞いている暇などない。今、こうしている間にも、千鶴の方へ数体の舟傀儡がにじり寄ってくるのが見える。
懐から護符を取り出し、宗助はそれを片手に千鶴の下へと走った。舟傀儡の手が千鶴に伸ばされ、その肩をつかもうとした瞬間、宗助は相手の顔面に美紅からもらった護符を貼り付ける。
喉の奥から奇妙な声を発し、舟傀儡が頬から白い煙を上げて倒れた。続けざまに、宗助は襲いかかってきた二体目の舟傀儡に回し蹴りを食らわすと、相手の倒れるのも確認せずに、千鶴の手を取って走り出した。
「逃げるぞ、千鶴! このままじゃ、追い詰められる!!」
未だ悲鳴を上げている千鶴の手を、宗助は強引に引っ張って廊下を走る。舟傀儡の間をすり抜け、曲がりくねった廊下をひたすらに走る。
どこへ行こうかなど、このときは考えてもいなかった。ただ、千鶴を連れて、舟傀儡の群れから逃げなければいけない。安全な場所を確保するにしても、まずは後ろから追って来る連中を振り切るのが先だ。
千鶴と宗助、二人の足音がホテルの廊下に響き渡る。いくつかの客室の横を通り過ぎたところで、宗助は頬を撫でる磯の香りに、何やら嫌なものを感じて立ち止まった。
「これは……」
吹き抜けのある、二階へと続く階段の前。三階で、この吹き抜けの辺りを通ったときも、同じような匂いを嗅いだことがある。あのときは、壁や天井に舟傀儡の元となる生き物たちがべったりと張り付いており、宗助と大輝に襲いかかってきたはずだ。
もう、このホテルには安全な場所などないのではないか。どこへ逃げても怪物だらけ。進むも戻るも、どちらも地獄。例え、どれだけ足掻こうとも、最後には怪物の力に屈して仲間とされる。そんな諦めにも似た感情に、ともすれば押し潰されそうになってしまう。
だんだんと、磯の香りが近くなってきた。それにつれて、ざわざわと何かが蠢く音や、舟傀儡の近づいてくる足音もする。
手持ちの護符は、既に七枚を切っていた。ここで無駄遣いしてしまっては、後々になって危機を招く原因となるかもしれない。相手の数がどれだけいるかわからない以上、闇雲に護符を使うのは得策ではない。
こうなったら、もう一つの道具を試すしかないだろう。大丈夫だ。護符だって、美紅の言った通りに力を発揮した。ならば、宗助に託されたもう一つの道具、泥団子のような閃光玉も、きっと役立つに違いない。
廊下の正面を曲がった先からも、舟傀儡が近づいて来る音が聞こえてきた。宗助は意を決して飛び出すと、ポケットから泥団子を取り出して舟傀儡の群れに投げつける。床にぶつかった泥団子は真っ二つに割れ、次の瞬間、その割れ目から眩いばかりの白銀の閃光が迸った。
「……っ!?」
あまりに激しい光り、宗助は思わず片手で額を覆うようにして目を庇った。やがて、光が収まったところで、宗助は後ろで震えていた千鶴を呼んで走り出す。光の去ったその後には、舟傀儡たちが身体を震わせ、力なく地面に倒れているだけだった。
西側の廊下は長く曲がった作りをしている。一本道なのには変わりないのだが、外壁に沿うようにして作られているため、必要以上に長く感じてしまう。
右へ、左へと曲がる内に、とうとう疲れてしまったのだろうか。客室の前で、千鶴が力なく床にへたり込んでしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ……。私……もう、走れない……」
荒い息に混ざって、後ろから千鶴の情けない声が聞こえてくる。普段の気丈な彼女からは、想像もできない弱々しい声だ。極度の恐怖と緊張に晒され続けた結果、彼女の持っていた女の部分が強く出てしまったのだろうか。そこまでは、さすがに宗助にもわからない。
仕方なく、宗助は千鶴に合わせて足を止めた。先ほどの一撃で、舟傀儡の連中は全てのびてしまっているはずだ。完全には倒せていないのだろうが、少なくとも、そう直ぐには起き上がって来ないと思いたい。
とりあえず、今は千鶴を休ませることの方が先決だろう。そう思って彼女に手を差し伸べた宗助だったが、千鶴の態度は冷たかった。
「どうして……どうして、私たちがこんな目に遭わなきゃいけないのよ! なんで、私たちばっかりが……!!」
宗助の手を払いのけ、千鶴はひたすらに泣いていた。この、悪夢のような現実から、逃れる方法が果たしてあるのか。未だ脱出の術さえ見つからないまま、どんどん出口の見えないトンネルに入り込んで行っているような不安感。その重圧は、千鶴の心を少しずつだが確実に壊し、冷静な判断力と思考力を奪っていた。
「千鶴……。君が泣くのは勝手だけど、それじゃあ何も解決しないよ。今は、俺たちで少しでも協力し合って、脱出経路を探す方が先だろ?」
「そんな……そんなこと言ったって……」
「それに、俺や君だけじゃなくて、他にも探さなくちゃいけない仲間だっているじゃないか。蓮や大輝とも合流しないといけないし、美南海だって、まだ見つかってないんだ。だから、ここで俺たちが立ち止まったら、その分だけ他の人を危険な目に遭わせることになる。それは、わかってくれるだろ?」
半ば諭すようにして、宗助は千鶴にゆっくりと自分の考えを説いて聞かせた。気が強く、時に天邪鬼な性格の持ち主である千鶴が、こちらの言うことを全て素直に聞くとは思えない。だが、ここで彼女を放っておけば、なにをしでかすかわからない。
考え得る中で、宗助のできる最良の方法だった。こんなとき、ここに幹也がいてくれれば、どれだけ助かったことだろう。曲がりなりにも、彼は千鶴の恋人だ。一見、尻に敷かれているようではあったものの、彼女もなんだかんだで幹也のことは認めているからだ。
懐中電灯を手に、宗助は無言のままその場で立ち上がる。もう、これ以上は限界だ。一休みするとはいえ、あまりぐずぐずしていては、今に舟傀儡が力を取り戻して追って来る。
「行こう、千鶴。これ以上は、もう俺も待てない。あまり一カ所に長居すると、また化け物たちに追いつかれる」
返事はない。やはり、宗助では千鶴の不安を取り除き、彼女に話を聞いてもらうことなどできなかったのか。
諦めにも似た感情が、宗助の中に広がった。その途端、天井の蛍光灯が急に明滅し始め、廊下の電気が一斉に点いた。
「これは……。もしかして、美紅がやってくれたのか?」
ホテルの電源を復旧させると言って、宗助と大輝の前から去った犬崎美紅。彼女の言葉を思い出し、宗助は美紅が目的を果たしたことを理解した。
電源が確保され、これ以上は暗闇に怯える必要もなくなった。危険は完全に去ったわけではないが、少なくとも、宗助たちにとってこれは好機だ。これで、物陰からの奇襲を気にせずに、ホテルの中を進むことが可能となる。
安全な場所を確保するなら今だ。そう思い、今しがた来た道を引き返そうとした宗助だったが、千鶴は違う考えのようだった。彼女はふらふらと廊下を進んで行くと、その先にある玄関ホールへの扉に手をかけた。そして、宗助が止めるよりも先に、その扉を勢いよく開け放った。
「千鶴……! どこへ行くつもりだ!?」
扉の向こうに吸い込まれるようにして、千鶴の姿が廊下から消えた。まずい。いくら明るくなったと言っても、このホテルが舟傀儡の巣窟であることに変わりはない。あのまま彼女を一人で行かせれば、今にまた化け物に襲われないとも限らない。
電源が復旧した以上、もうこれは必要ないだろう。宗助は懐中電灯を放り出すと、護符を片手に慌てて千鶴の後を追った。扉を開けた先、ホテルの玄関ホールに飛び出すと、そこには執拗に出入り口の扉を叩いている千鶴の姿があった。
扉を叩き、蹴り、最後は全身の体重を乗せて体当たりを繰り返す千鶴。か弱い女性の力で、あのような重たい扉が開くものか。どうやら千鶴は、自分の置かれた状況だけでなく、自分の力まで理解できないほどに混乱しているらしい。
ガンガンと扉を叩き、大声で叫び続ける千鶴の側に、宗助はそっと近寄った。そして、未だ扉を叩くことを止めない彼女の腕をつかみ、少々強引にこちらを振り向かせた。
「やめろ、千鶴。そんなことをしたって、その扉は開きはしないよ……」
「なによ! そんなこと言ったら、どうやってここから逃げるのよ! この扉を開ければ、後は外に逃げるだけじゃない!!」
「だから、それは無理だって言ってるんだ。あの、窓を覆う海藻の群れ……。あれがしっかりと張り付いて、このホテルのあらゆる出入り口を塞いでしまっているんだぞ」
「そんな……。だったら、これからどうやって逃げればいいのよ! あんな得体の知れない怪物に殺されて死ぬなんて……そんなの、私は絶対に嫌よ!!」
宗助の胸を叩き、千鶴は殆ど半狂乱になりながら泣いていた。こんな状況に長時間晒されれば、それも無理のないことだろうとは宗助も思う。が、ここで千鶴の泣き言を聞いていても、事態は一向に好転しない。あまりぐずぐずしていると、今にこの玄関ホールにも敵が集まって来る可能性がある。
せめて、この場に幹也がいてくれれば。そんな考えが、宗助の頭をよぎったときだった。
玄関ホールに隣接する食堂の扉が、音を立てて開かれた。宗助も、千鶴も、その音を聞いて扉の方へと顔を向ける。まさか、とうとうこの部屋にまで、舟傀儡の群れが押し寄せて来たのか。そんな不安が頭に浮かび、宗助は手にした護符を握り締めて扉の向こうを睨みつける。
ヒタ、ヒタ、という何かが床を歩く音。脚を引きずるような音ではないことからして、舟傀儡ではない。
では、あの音の正体はいったいなにか。宗助と千鶴が緊張した面持ちで見つめる中、二人はその答えを直ぐに知ることとなった。
「み、幹也!!」
そこにいたのは幹也だった。食堂の扉を開け、そこから玄関ホールへと続く出入り口のところで、彼は足を止めてじっとこちらを見つめている。舟傀儡にされている様子も無く、その動きはやけにしっかりとしていた。
あれだけ探し回っていた仲間の一人が、ここに来てようやく見つかった。思わず安堵の溜息が洩れそうになったが、宗助は緩みそうになる自分の精神をなんとか律し、改めて扉のところにいる幹也を見た。
おかしい。いくら舟傀儡ではないとはいえ、あの幹也の格好はなんだろう。上半身は裸で、靴さえもはいていない。ズボンも酷く敗れ、殆ど全裸に等しい姿をしている。その、特徴的な茶色い長髪からは水が滴り、辺りの床に小さな染みを作っていた。
あれは、本当に自分の知る幹也なのか。宗助がそれを確かめようとした瞬間、彼が動くよりも早く、千鶴が幹也の側に駆け寄っていた。
「待て、千鶴!!」
そう叫んで、腕を伸ばしたときには遅かった。千鶴は瞬く間に宗助の側を離れ、扉の向こうから現れた幹也の胸の中に飛び込んだ。服が破れていることや、その身体が酷く濡れていることなど関係ない。とにかく、この極限の環境の中で、恋人に再会できたということだけで舞い上がってしまっていた。
「馬鹿! もう……心配したんだから! 一人で怪物に向かって行くなんて……あんた、本当に馬鹿よ!!」
幹也の腰に手を回したまま、千鶴は泣きながら叫び続けた。今まで心の奥底に溜まっていた様々な感情。それらが一度に溢れ出し、彼女にも止められないようだった。
自分の胸の中で泣き叫ぶ千鶴の背中を、幹也はそっと抱き締める。普段であれば、これも幹也の優しさとして素直に受け入れることができただろう。だが、千鶴と違い宗助だけは、今の幹也に対する疑念の色を隠せなかった。
「千鶴、離れろ!! そいつは幹也じゃない!!」
護符を片手に、宗助は叫びながら幹也に向かって走り出す。幹也が千鶴を抱いた瞬間、宗助は確かに見たのだ。彼の瞳が怪しい黄色に光り輝き、その口元が三日月の形を描いて歪むのを。彼の首筋が不規則な痙攣を繰り返し、そこに奇妙な亀裂が走るのを。
疑念は一瞬にして確信に変わった。あれは幹也などではない。幹也の皮を被った何か、もしくは幹也に化けた、まったく別の異質なる者。
あれに千鶴を襲わせてなるものか。ここまで来て、目の前で仲間を失う場面を見せつけられるなど、そんなことだけは絶対に嫌だ。
右手に握り締めた護符を突き出すようにして、宗助は千鶴を抱いている幹也に突進した。が、次の瞬間、何か強烈な力が横薙ぎに宗助を襲い、彼は布の擦れる低い音と共に、玄関ホールの床に転がった。
「……っ! なんだよ、いったい……」
護符を取り落とし、頭を二、三回ほど振って、宗助はなんとか起き上がる。先ほど、何かがぶつかったためだろうか。右肩が妙に痛く、痺れが腕にまで残っている。
揺らぐ視界をなんとか元に戻し、宗助は再び幹也を睨んだ。その途端、彼の顔には見る間に驚愕の色が浮かび、やがてそれは、恐怖の感情が入り混じったものとなる。
宗助の前に立っていた者。それは決して彼の知る真嶋幹也などではなかった。茶色い長髪が特徴的な頭はそのままに、右腕だけが一回りほど巨大な怪物のそれに変化している。無数の鱗に覆われ、指先に鋭利な爪を備えたそれが、しっかりと宗助の方に向けられている。
「幹也……お前……」
それ以上は、何も言葉が出なかった。いったい、幹也はどうなってしまったのか。あれが幹也ではないのなら、本物の幹也はどこにいるのか。最悪の場合、その答えは……できれば、あまり考えたくはない。
黒板を引っ掻いたときに出るような甲高い奇声を発し、千鶴を抱いたまま幹也が吠えた。その声に、宗助だけでなく千鶴までも、幹也の異変に気が付いたようだった。
「ちょ……み、幹也? あんた……いったい……」
恐怖にひきつった顔のまま、千鶴が恐る恐る幹也の顔を見る。そこにあったのは、確かに彼女の知る幹也の顔。だが、その首から下の肉体は、いつしか不気味な半魚人の物に姿を変えていた。
「ひっ……!!」
自分の身体に貼りつく、不快な粘液と生臭い匂い。あまりに急なことで、千鶴自身、何が起きたのかを理解できない。そして、そんな千鶴のことを強引に抱え上げると、幹也は実に悠々とした足取りで、食堂の中へと戻って行った。
「ま、待てよ、化け物! そいつを……千鶴を離しやがれ!!」
このままでは、千鶴が化け物に連れ去られる。さらわれた彼女が、この先どのような目に遭うか。そんなことは、宗助でなくとも容易に想像できる。
これ以上、化け物の隙にさせてなるものか。護符と、それから閃光玉をそれぞれの手に持ち、宗助もまた食堂に向かって走り出す。だが、彼が食堂に踏み込もうとした瞬間、今度は多数の舟傀儡が、半魚人と入れ替わるようにして現れた。
先ほどの奇声は、まさかこの舟傀儡たちを呼ぶためのものだったのでは。だとすれば、あれが美紅の言っていた、七人岬というやつか。
敵の数は、ざっと見ただけでも十体以上。これだけの舟傀儡を退けて、果たして千鶴を捕えた半魚人の下まで行くことができるか。否、それ以前に、これだけの舟傀儡を相手に、自分自身の身の安全さえ守れるのかどうか疑わしい。
「くそっ……。万事休すってやつかよ……」
護符を握り締める手に力が入り、梵字の書かれた紙に皺が寄る。自分に美紅のような力があれば、もっと簡単に仲間を助け出すことができるのに。そればかりか、このホテルを覆う七人岬の包囲網をくぐり抜け、共に脱出することさえ可能だろう。
非力な自分が悔しかった。仲間を連れ去られ、それでも何もできない自分が情けなかった。もっとも、そんな宗助の気持ちなどお構いなしに、舟傀儡たちは徐々に宗助との間合いを詰めて来る。その身に宿した七人岬の下僕である海洋生物。それを植え付け、宗助をも主の下へ連れて行こうと、不気味な咆哮を上げて近づいて来る。
迷っている暇などなかった。こうなったら、最後の最後まで戦うしかない。絶望に負け、ここで全てを諦めてしまうのは簡単だが、それでは自分たちを守るために、自ら危険の中へと飛び込んで行った美紅に申し訳が立たない。
「この野郎!!」
美紅にもらった泥団子をつかみ、宗助はそれを舟傀儡の群れに向かって投げつけた。床にぶつかった瞬間、それは激しい銀色の光を放ち、舟傀儡たちが瞬く間に倒れて行く。
これで完全に倒せたわけではない。そうわかっていても、今の宗助には十分だった。どのみち、相手を殺すことはできないのだ。七人岬の呪いが解けたとき、憑依されていた者たちの肉体が破壊されていれば、それは即ち彼らの死を意味する。殺人という、最も重たい罪の一つを、自ら被って生きることになってしまう。
こんな状況下で、自分はまだ人殺しになりたくないなどと考える余裕がある。相変わらず、酷く甘い考えだと宗助は思った。これが大輝なら、まずは自分の身の安全を優先して、舟傀儡だろうとなんだろうと、全て薙ぎ倒して道を開こうとするだろうに。
先頭の集団が倒れたことで、宗助はその奥に広がる食堂へと目をやった。これなら行ける。一瞬だけそう思ったが、その考えは、食堂の奥から新たな舟傀儡が現れたことで簡単に消え去った。
駄目だ。相手の数が多過ぎて、このままではきりがない。その上、敵は食堂からだけでなく、とうとう他の扉からも姿を見せ始めた。
聖堂に続く、玄関ホールから開かれた扉。二階の踊り場から廊下へと通じる、部屋の中央に位置する扉。そのどちらからも、舟傀儡の群れが姿を見せる。果ては、宗助がここに来るときに使った西側廊下に通じる扉からも、舟傀儡が現れた。
先ほどの一声で、まさかあの怪物は、ホテル中の舟傀儡を呼び集めたのではあるまいか。そう思えるほどに、部屋の中には多数の舟傀儡が溢れていた。
踊り場の上にいるのを含めると、正面には六体。西側の廊下から現れたのが三体で、食堂からも、新たに四体の舟傀儡が姿を見せている。全部で十体を越える舟傀儡を前にしては、さすがの宗助も迂闊に飛び出すわけにはいかなかった。
自分の背中に玄関ホールの扉が当たる感触がして、宗助はいよいよ逃げ場を失ったことを理解した。なんとか活路を見出したくとも、あの閃光玉は既にない。護符に頼るにしても、これだけの数を相手にしては、いちいち近づいて貼り付けるだけでも一苦労だ。その上、枚数だって決して十分ではない。
このまま自分は、ただ舟傀儡の仲間にされ、果ては七人岬とやらの生贄にされる他にないのか。仲間も守れず、誰一人救えず、逃げることさえもできないで。
悔しい。しかし、現状を考えると、もうどうしようもない。舟傀儡の手が一度に伸ばされて、宗助はいよいよ最後の時が来たと思い目を伏せる。こんな結末は望んではいなかったが、これで悪夢から解放されるというのであれば、それもまた仕方ないことなのかもしれない。そう、頭の中で割り切ろうとしたときだった。
「伏せろ!!」
突然、聖堂に続く扉の奥から声がした。美紅のものでも、宗助の知る仲間のものでもない。もっと野太い、中年を思わせる男の声だ。
開け放たれた聖堂の扉の向こう側から、ピンポン球サイズの物体が投げ込まれる。それは舟傀儡の群れの中に着地すると、激しい光を放って爆発する。
(閃光玉!?)
片手で目元を覆いながら、宗助は思わず心の中で叫んだ。あの、美紅から貰った閃光玉は、大輝から全て自分に託された。ならば、美紅以外でそれと同じ武器を使う者とは、いったい何者なのだろう。
扉の奥から、閃光玉を投げ込んだ張本人が、ゆっくりと姿を現した。黒いスーツとソフト帽に身を固め、片手には頑丈そうなトランクを持った男。年齢は、美紅よりもかなり上だろうか。男は残りの舟傀儡を帽子のつば越しに見据えながら、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
玄関ホールに、男の靴が床を叩く音だけが響き渡る。難を逃れた舟傀儡たちが、その音に反応して唸り声を上げながら後ろを向く。獲物を狩る邪魔をするな。そう言わんばかりの表情で、舟傀儡たちの口が一斉に開いた。
地の底にいる亡者の呻き声。そう形容するしかないような雄叫びを上げて、舟傀儡が男に襲いかかる。狩りの邪魔をされた怒りからか、その動きは普段のものよりも早い。
だが、そんな連中の様子を目の前にしても、男は微動だにしなかった。ただ、無言のまま左手に持った獲物を構えると、それを躊躇い無く舟傀儡に向けて引鉄を引く。
部屋の中に、なにやら鋭く乾いた音が響き渡った。金属と金属がぶつかる音にも、雷が落ちたときのそれにも似ている。その音と同時に、男の右手に握られた獲物、不可思議な形をした拳銃から、銀色の光が放たれて舟傀儡をしとめた。
二発、三発、男はその場を動くことさえせずに、舟傀儡を撃ち倒す。ある者は頭部を射抜かれ、またある者は胸部を撃たれ、とうとう最後の一体までが、何もできないまま崩れ落ちた。
「大丈夫かね?」
全ての敵を始末し、男はゆっくりと宗助に近づいてきた。本来ならば、助けてくれたことに感謝をするべきところなのだろう。もっとも、今回ばかりは宗助も、簡単に礼を述べる気持ちにはなれなかったが。
舟傀儡は、七人岬によって操られている人間だ。その人間の肉体を殺してしまえば、呪いが解けた際、操られていた者もまた死ぬことになる。いくら怪物と化しているからといって、拳銃で撃つなどやり過ぎだ。いくら正当防衛だったとはいえ、これでは単なる虐殺ではないか。
「あ、あの……。あなたは……」
この男はいったい何者か。懐疑的な目で見つめる宗助だったが、男の方は、至って冷静なままだった。
「いや、すまない。どうやら驚かせてしまったみたいだね。だが、まずは君が無事でなによりだよ」
「そりゃ、どうも。でも……それにしても、ちょっとやり過ぎじゃないのか、あんた? いくら化け物だからって……人の形をしたものを、いきなり銃で撃ち殺すなんて……」
「撃ち殺す……? ああ、申し訳ない。説明もなしにあんなものを見せたんじゃ、確かにそう思われるのも無理はないだろうがね」
そう言いながら、男は先ほど自分が倒した舟傀儡の側へ近づくと、その身体を起こして宗助に見せた。
白目を剥き、だらしなく涎を垂らしている、舟傀儡のなれの果て。思わず目を背けたくなった宗助だったが、ふと、その亡骸に不自然なものがあるのに気がついた。
(銃創が……ない!?)
自分の目の前で額を、胸を撃ち抜かれた舟傀儡。その身体には、不思議なことに傷一つない。そればかりか、よくよく見ると一滴の血も流れていない。これはいったい、どういうことか。
「私は別に、こいつらを殺すつもりはないよ。ただ、ちょっと眠ってもらっただけさ」
「眠ってもらっただけ?」
「そうだ。こいつらは舟傀儡と言って、ある魔物に憑依された存在を体内に宿され、それに操られているだけだからね。人間の肉体がフィルターになってしまうから、完全に呪いを解いてやるのは難しいんだが……強力な霊気をぶつけることで、中に巣食う蟲どもを気絶させるくらいのことはできる」
「気絶……!? ってことは、あんたも美紅みたいな霊能者なのか!?」
「おや、君は美紅にあったのかね? それは話が早い」
舟傀儡の身体を放り出し、男がゆっくりと立ち上がって言った。先の話からして、男はどうやら美紅の知り合いらしい。ならば、これだけの舟傀儡を一度にまとめて倒してしまったのも、十分に頷けることである。
「自己紹介が遅れたな。私は鳴沢達樹という。本職は、こういった化け物と戦うことではなく、戦うための道具を作ることだがね」
「椎名……宗助です。助けていただいて、どうもありがとうございました」
「別に、礼には及ばんよ。私は向こう側の世界の住人と戦う者として、当然のことをしたまでだ」
その男、鳴沢達樹が、拳銃のグリップから何かを取り出しながら返した。本来は、銃弾を詰めたマガジンを設置する場所であろう銃の握り手。その中から出てきたものは、なにやら木製の板に梵字が書かれた不思議なものだ。
達樹は取り出した板を投げ捨てると、ポケットから代わりの板を出して銃に詰めた。板にはやはり梵字のような物が書かれていたが、こちらは先ほどのものとは違い、赤い文字が書かれていた。
霊撃銃。これの制作者でもある達樹は、この銃のことをそう呼んだ。通常の銃弾の代わりに、弾として使い手の霊力そのものを使用する。物理的な攻撃としては使えないものの、先のように、邪悪な霊気をまとった相手には絶大な効果を発揮する。
マガジンの代わりに用いられる木の札は、霊力を弾に変換するための道具だ。最初は赤い文字が刻まれているが、使用を繰り返すと黒くなる。黒く変色したものは使えなくなるため、その場で使い捨てることとなる。また、札によっても威力が増減し、強大な札ほど消耗も激しい。
先ほど、達樹が舟傀儡に放ったのは、その中でも最も威力の低いものだった。こちらの力も消耗せず、比較的安定して連射も可能なのだが、その辺を漂う浮遊霊程度しか消滅させられない。舟傀儡のように、人間や海洋生物の肉体をフィルターとしている者が相手では、気絶させる程度が精一杯である。
もっとも、あまりに強力な一撃を放っては、それは憑依されている人間の霊体にまで後遺症を残す可能性があった。どの道、全ての舟傀儡を倒して進む必要はない。それならば、適度に痛めつけて気絶させるくらいが、連中との戦闘を切り抜けるには調度いい。
「とりあえず、ここを離れるぞ。連中、気絶しているだけだからな。あまり時間をおくと、また起き上がって襲ってくる」
「わ、わかりました……」
「それと……もし、君が知っていればで構わないのだが……小さな女の子を見なかったかね?」
「小さな女の子……ですか?」
達樹の言葉を聞いて、宗助の頭の中に皐月の姿が思い浮かんだ。談話室が何者かに襲撃されてから、皐月には再開できていない。部屋には血痕が残っていなかったことから、無事だとは思いたいが……正直なところ、保証はない。
美紅の話では、狙われているのは宗助とその仲間だ。皐月は七人岬とは関係ない以上、殺されるということはないだろう。もっとも、彼女に自分の下僕を植え付け、舟傀儡として襲わせてくることはあるかもしれない。あの、幹也の姿を借りていた半魚人のことを考えると、連中はそのくらいのことも平気でやりかねない。
「すいません……。実は、途中まで一緒だったんですけど……ここに来る前に、離れてしまいました」
「そうか……。いや、別に君が気にする必要はないよ。それよりも、まずは早くここを離れよう。どこか安全な場所に避難して、全てはそれから考えればいい」
そう、口では言っているものの、達樹の顔はどこか不安げだった。自分の探している者の安否が確認できないことで、やはり少しばかり動揺しているのだろうか。その気持ちは、宗助にもわからないではない。
自分が不甲斐ないせいで、次々と色々な人を失って行く。今の宗助には、その事実がどうしても耐えられない。
美紅は言った。七人岬は、宗助たちにターゲットを絞って行動していると。では、自分がここで七人岬の餌食になれば、このホテルの人間は解放されるのではないか。自分が未だ生き続けているからこそ、悪夢が終わらないのではないか。そんな、悲観的な考えが頭に浮かんだ。
折角助けてもらったが、もう、これ以上は誰かを巻き込みたくない。そう思い、宗助が達樹の申し出を断ろうとしたときだった。
何かが呻くような声と、激しく物がぶつかり合う音。聖堂に続く扉の奥から、その二つが同時に聞こえて来た。何事かと思い、互いに音のした方へ目をやる達樹と宗助。それに合わせるようにして、扉の向こう側から舟傀儡が吹き飛んでくる。
べシャッという鈍い音を立てて、舟傀儡の身体が玄関ホールの床に転がった。次いで、扉の向こう側から、赤い瞳と白金色の髪をした女性が姿を現す。黒い外套に身を包み、背中には梵字の書かれた布を巻きつけた、一振りの棒を背負っている。右手に持った霊木刀に刻まれた文字が、その瞳と同じ赤色に輝いていた。
「美紅……。無事だったのか」
目の前に現れた女性、犬崎美紅の姿を目にした宗助は、ほっと安堵の溜息をついた。あれからずっと別行動をしていたが、やはり美紅は強かった。宗助の心配など他所に、こうして無事に戻ってきた。
「お久しぶりね、宗助君。それに、達樹さん」
打ち倒した舟傀儡を気にも留めず、美紅は宗助たちに近づきながら言った。先の言葉からして、彼女と達樹は、やはり知り合いということなのか。
「二人とも、お取り込み中に悪いけど……まずは、このホテルを脱出する方法を考えましょう。電気も回復させたことだし、全てはこれからよ」
呆気にとられている宗助を他所に、美紅は銀色のマスターキーを片手に言ってのけた。相変わらず、余裕さえ感じさせるようなその態度。こんな状況下において、ここまでのタフさを見せつける。いったい、彼女の神経構造は、どんな作りをしているのだろうかと勘繰ってしまう。
とにもかくにも、これでようやく事態はこちら側に好転した。千鶴や、他の仲間のことを考えると、本当は一刻も早くあの怪物の後を追いたかった。
だが、ここで自分が先走っても、結局は美紅たちの手を煩わせるだけだ。あまり気乗りしない部分もあったのだが、それでも今の宗助には、彼女たちに従って行動する以外に道はなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
厨房の地下、ワインの香りが漂う部屋に、いくつかの影が蠢いていた。その一つは眼鏡をかけた優男、もう一つは比較的体格の良い短髪の男。二人とも、薄明かりしかない地下のワインセラーの中で、その瞳の色を不気味に光らせている。短髪の男の瞳はどす黒い血の様な赤。眼鏡の男の瞳は、これは白目がないと言った方が正しいか。見つめるだけで吸い込まれる程に深い、仄暗い闇を湛えている。
だが、それにも増して恐ろしかったのは、そのワインセラーの影に佇む最後の影だろう。青く光る巨大な瞳をしたそれは、全身に鱗を生やし、背中から肩にかけて無数の棘を生やしていた。毛のように細いその棘は、一つ一つが鋭い凶器そのものである。耳まで裂けた巨大な口の中には、これまた鋸の歯のような、鋭い牙がびっしりと群生している。
ワインセラーの階段を、何かが降りてくる音がした。それに合わせ、女性の叫び声のようなものも聞こえてくる。その場にいた全ての者が階段の方へと目をやる中で、一階の厨房に通じるそこから、一人の男が姿を現した。
その頭に茶色い長髪を湛えながら、首から下は醜い半魚人そのものの姿。方には暴れる女性の身体を担ぎ、その腕もまた太く屈強な半魚人のそれに変化している。玄関ホールで千鶴をさらった、変わり果てた姿の幹也だった。
千鶴の罵声を何ら問題とせず、幹也の姿をしたそれは、乱暴に千鶴のことをテーブルに叩きつけた。木製のテーブルに肩を打ち、投げ出された千鶴が軽く呻いた。
「ねえ、なんなのよ……。幹也……あんた、いったいどうしちゃったのよ……」
怯えながらも、千鶴は必死にかつての恋人であった男に懇願していた。これは何かの間違いだ。幹也が自分に、こんな酷いことをするはずがない。展示室で、自分の身の危険も顧みず、こちらを助けてくれたのだから。
そう、千鶴は信じていたものの、幹也の顔をしたそれにはまったく関係のないことだった。幹也の顔をした、それでいて幹也ではない存在。それは部屋の奥で待っていた二人の男に目配せすると、不敵な笑みを浮かべて千鶴を見下ろした。
震える千鶴の下に、ワインセラーの影から二人の男が現れる。その顔を見た千鶴は、困惑した表情を浮かべながら、現れた者達の顔を交互に見比べた。
「里村先輩? それに……檜山先輩も……!? いったい、なんのつもりなの!?」
顔見知りの男二人が現れたことで、千鶴は思わず彼らの名前を叫んでいた。が、その言葉に興味など示さずに、大輝と蓮の二人は千鶴の手足を乱暴につかむと、そのままテーブルの上に押さえつけた。
「ちょ……な、なにするのよ!! 離して……離してよ!!」
いきなり身体の自由を奪われ、千鶴は慌てて叫び、暴れた。しかし、相手の力は予想以上に強く、抗おうにもまともに抵抗することさえ叶わない。
やがて、水の滴るような音と共に、部屋の奥から最後の一体が姿を現す。その者の姿を目の当たりにした千鶴の顔が、一瞬の内に恐怖にひきつったときのそれに変わった。
青色に輝く巨大な瞳と、全身を鱗に包んだ異形の怪物。展示室で襲ってきた、あの半魚人と同じものだ。
半魚人の不気味な顔が、押さえつけられた千鶴のことを見降ろしてきた。その口から放たれる臭気に、千鶴は思わず顔を背けて身をよじる。涎が垂れて頬を濡らしたときには、無意識の内に背中に鳥肌が立っていた。
半魚人が、その背中から生えた棘を抜いて握り締めた。その先端を千鶴の喉笛に向け、半魚人は一気に棘を振り下ろす。
プスッという、空気の漏れたような音がした瞬間、千鶴の顔が苦悶の表情に変わったまま硬直した。背中を仰け反らせ、全身を痙攣させたまま、千鶴はゆっくりと自分が人としての生を終えることになるのを感じていた。
首に刺さった棘を通じて、どす黒い何かが身体の中に流れ込んでくる。それは徐々に千鶴の魂とも言える部分を侵食し、人間らしい感情の全てを奪ってゆく。
不思議なことに、痛みや苦しみは殆どなかった。むしろ、安らぎにも似た心地よさが彼女の中を駆け廻り、全てを闇に委ねてしまおうという気にさえなってくる。
やがて、針を突き刺した半魚人が完全に土塊と化したところで、千鶴はテーブルの上からゆっくりと起き上がった。その瞳は既に人の物ではなく、魔性の力を湛えた濃い青色。群青色とも呼べる輝きを放ちながら、彼女は他の三人の男たちを見てにやりと笑った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
明かりの戻ったホテルの廊下を、宗助は美紅と共に歩いていた。外では未だに雷が鳴り止まず、強い雨が降っている。幸いにして舟傀儡には遭遇していないが、それでもなお、あの七人岬たちが虎視眈々と宗助たちと狙っているのは確かだ。
「ねえ、宗助君。ちょっと、聞いていいかしら?」
その顔は正面に向けたまま、美紅が後ろを歩く宗助に尋ねてきた。
「あなた……どうして私に着いて来ようと思ったの? 生存者を探す仕事をするよりも、達樹さんと一緒に逃げ道を探した方が安全かもしれないのに」
「それは……」
美紅の言葉に、宗助はしばし返答に困って言葉を切った。
あれから、支配人室で村瀬と合流した三人は、それぞれが互いに手分けして残りの生存者を探すことにした。達樹はホテルのことに詳しい村瀬と共に、娘である皐月のことを探す。その一方で、美紅は残りの部屋を全て調べ、宗助の仲間を探して回る。それぞれが探索を終えた後に、再び支配人室で合流しよう。そう約束して部屋を出た。
どちらにしても、危険なことには変わりない。ただ、あくまで舟傀儡に追い回されるだけの皐月を見つける仕事とは違い、美紅の仕事は自ら危険の真っただ中に飛び込むようなものだ。七人岬から狙われている身としては、本当は達樹に同行する方が正解なのかもしれない。
だが、頭ではそうわかっていても、宗助にはどうしても自分だけ逃げる気になれない理由があった。
談話室で行方不明になった美南海と、玄関ホールで連れ去られてしまった千鶴。そして、未だ安否の不明な蓮や大輝に、図書室で別れた志乃のことも気がかりだ。
あの、玄関ホールでの一件からして、恐らく幹也は既に人ではなくなってしまったのだろう。その彼に連れ去られた千鶴もまた、無事でいるという保証はないに等しい。ならば、せめて残った仲間たちだけでも、なんとか自分の手で助けたい。それが今の宗助が願う、たった一つのことだった。
偽善と笑われてもいい。もしかすると、自分はまったく役に立たないかもしれない。例え、そうであったとしても、ここで何もせずに逃げるのはごめんだ。
理由は不明だが、七人岬は自分たちに狙いを定めている。このホテルを封鎖したのも、ホテルの人々を化け物に変えたのも、全ては宗助たちを逃がさないため。ならば、自分のせいでここまで迷惑をかけたまま、一人だけ逃げるというのは気が引けた。
「なあ、美紅……。俺には、確かにあんたのような力はない。でも、このまま仲間を見捨てて自分だけ逃げるなんて、そんなことは嫌なんだ。だから、仲間を探すなら、俺にも手伝わせて欲しい。そうしないと、俺の気持ちが収まらないんだよ」
自分の心の内をさらけ出すようにして、宗助は美紅にまくしたてた。その言葉を聞いて、美紅は少しだけ後ろを振り返りはしたものの、すぐに視線を正面に向けて言葉を返した。
「なるほどね。まあ、私としても、敵の標的と一緒に行動していた方が、ある意味では都合がいいわ。あなたを守れる可能性は高くなるから、必ずしも間違った選択とは思えないしね」
「すまないな。本当は、美紅だって何の関係もない人のはずなのに……なんか、迷惑のかけっぱなしだ」
「別に、気にする必要はないわよ。こういった類のことは、私たちが解決しなきゃいけない仕事なの。このまま七人岬なんて化け物をのさばらせておくことは、私にとっても不本意だから」
あくまでこれは仕事だ。そう、割り切っているような口調だった。それは、宗助に対する気遣いなのか、それとも美紅の本心か。少なくとも、彼女のお荷物にはなりたくない。そう思い、宗助は手にした護符をしっかりと握り締めた。
二階へと続く西側の階段を昇りながら、宗助は未だ見つかっていない美南海のことを考えた。談話室が何者かに襲われて以来、彼女とはまったく再会できていない。もし、生きているのだとすれば、いったいどこに隠れているのだろう。
美紅の見立てでは、彼女は二階のどこかに隠れているのではないかということだった。客室の多い三階とは違い、二階には何やら骨董品を置いてあるような部屋がいくつかある。今では単なる展示スペースとなっているようだったが、身を隠すには格好の場所だ。
二階で行方をくらましたのであれば、できれば同じ階から動いていて欲しくはない。そう思いながら石像の置かれた廊下を抜け、宗助と美紅は再び談話室前の廊下へと辿り着いた。。
開け放たれた談話室の扉が、二人の前で音を立てて揺れていた。思えば、ここを離れてから随分と長い時間が経過したような感じがする。実際には、そこまで時間が経っているわけではないのだろうが、怪物から逃げ続けた宗助にとっては、既に丸一日ほどの時間が過ぎ去ったようにも感じられた。
談話室の扉を背に、宗助と美紅は廊下を左に曲がって進んで行った。この先には、例の骨董品を置いてある部屋がいくつか存在する。調べるのであれば、まずはそこから調べよう。それが美紅の提案だった。
廊下を歩く二人の足音だけが、誰もいないホテルの中に響き渡る。先ほどから、舟傀儡の一体にも遭遇しないというのはなぜだろう。辺りを包む静けさに不穏なものを感じ、宗助と美紅が警戒しながら角を曲がったときだった。
突然、廊下の先から何かの倒れるような音がした。それに合わせ、今度は小さい少女の悲鳴も聞こえてくる。
「あれは……もしかして、皐月ちゃん!?」
そう、美紅が言って駆けだすのと、宗助が前に出るのが同じだった。声は廊下の先に見える、扉の向こうから聞こえてくる。人形の間ではなく、その隣。未だ宗助たちの入ったことのない、もう一つの部屋の方だ。
部屋に鍵がかかっているか否か。そんなことを調べている暇などない。美紅は扉の取っ手を強引に捻り、蹴りを食らわせて開け放った。幸い、鍵はかかっていなかったようで、扉は激しい音と共に開かれた。
「ここは……」
部屋の中に一歩入るなり、宗助はその場に置かれた様々な骨董品を見て呟いた。そこにあったのは、壷や絵画の様なありふれたものではない。ちょうど、五月人形が着ているような、戦国時代の品を思わせる鎧と兜だった。
これもまた、元の持ち主の趣味ということだろうか。それとも、志乃の父が洋館を買い取り、その後に鎧を飾ったのだろうか。
その、どちらでも、今の宗助たちには関係なかった。部屋に飾られた鎧の中でも、とりわけ大きな一品。その鎧が、こともあろうか動き出し、部屋の隅に追い詰められた少女を襲っていた。
「な、なんだよ、あれ……。鎧が勝手に動くなんて……そんなのありかよ……」
あまりに異常な光景に、宗助は呆気にとられて立ちすくむ。だが、その一方で、美紅は冷静に相手の身体を観察し、その隙間から見える物を見て霊木刀を構えた。
鎧の隙間からはみ出した、奇妙に蠢く多数の生物。それは、あの温室で美紅を襲った、海洋生物の群れと同じもの。あれが再び一つになって、今度は鎧を身にまとったということか。
どちらにせよ、厄介な相手であることに変わりはない。美紅は外套のポケットから金属球を取り出すと、それを鎧の頭に向かって勢い良く投げつけた。
金属と金属がぶつかり合う甲高い音。美紅の放った球体は兜の部分に阻まれて、そのまま彼女の足下に転がってくる。ただ、相手の注意を引きつけるには十分だったようで、鎧がふと動きを止めてこちらを向いた。
「宗助君。あなたは皐月ちゃんを連れて逃げて。こいつは私がなんとかするわ……」
深く息を吸い込んで、美紅は鎧と対峙する。霊木刀に刻まれた文字が赤く光り、その刀身に彼女の霊気を宿してゆく。
こんなところで、まさか鎧武者のお化けとやり合うことになるとは思わなかった。落ち武者の霊などはお化け屋敷につきものだが、いくらなんでも冗談がきつい。だが、今さら戦わずに逃げたところで、この場を切り抜けることなど叶わない。
「さあて……。鎧を着て、少しは強くなったのかしら? 温室での雪辱戦ってことなんでしょうけど……それは、こっちも同じことよ!!」
あの温室で、最後の最後に気を抜いて、身体にまとわりつかれた記憶が美紅の頭に蘇る。こちらにも油断があったとはいえ、あんな不快な思いをさせられたのだ。連中にとってはリベンジのつもりかもしれないが、それは美紅にとっても同じこと。
床を蹴り、瞬く間に相手との距離を詰めた美紅の一撃が、鎧の怪物に炸裂する。霊木刀による強烈な突きを受け、怪物はその巨体を激しく部屋の床に叩きつけた。