表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/16

~ 未ノ刻  死闘 ~

 聖堂前の廊下から外に出ると、犬崎美紅は途端に激しい雨の洗礼を受けることとなった。その、あまりに強く肌を打つような雨に、美紅は少々辟易したような顔をして木の影に移動した。


 ここはホテルの中庭。この先を抜ければ、支配人の村瀬が言っていた温室がある。そこの地下にある電算室に行けば、ホテルの予備電源を起動させることも可能だろう。


 壁際を這い、軒下に身を隠すようにして、美紅はそろそろと中庭を進んでいった。ふと、上を見上げて見ると、あれは西側に置かれた客室だろうか。いくつもの窓がこちらを見降ろしているのが目にとまった。


 七人岬の力により、ホテルの窓や扉は全て封印されているはず。が、しかし、なぜか中庭に通じる扉も窓も、岬の操る海藻の手が及んでいない。先ほど、美紅がこの中庭に入ろうと扉に手をかけたときも、何の苦労もなく取っ手を回すことができた。


 きっと、連中は知っているのだろう。中庭に出たところで、このホテルからは逃げられない。だから、塞ぐ必要のない抜け穴など、最初から塞ぐ必要はない。そういうことだ。


 まったくもって、いちいち腹立たしいと美紅は思った。こちらの行動を全て先読みし、暗闇の中、余裕で狩りを続ける七つの悪魔。ホテルの宿泊客や従業員を下僕に変え、己はさして慌てることなく、強者の余裕さえ漂わせて狩りを楽しむ。


 闇に堕ちた向こう側の世界・・・・・・・の住人が、こぞって殺戮を楽しむこと。本能的なものもあるのだろうが、それでも美紅は、連中のそういった行動が大嫌いだった。


 人間は、闇の住人達に狩られるだけの獲物ではない。今はこちらの力を侮り、大きく構えているのだろうが、それが誤りだったということを、この先の戦いで証明してやる。


 程なくして温室の前に辿り着き、美紅は村瀬から預かったマスターキーで扉を開けた。棒状の鍵を鍵穴に押し込むようにして入れると、確かな手ごたえがあって鍵が外れた。鍵の複雑な構造に関しては美紅もわからないが、どうやら本当に、この鍵でホテルにある殆どの扉を開けられるようだ。


 温室の扉を開け放ち、美紅はその中に一歩を踏み入れた。途端に蒸す様な空気が彼女を包み、何もしていないのに、早くも額に汗が浮かぶ。


 電源が復旧していない以上、温室の暖房もまた、機能を停止しているはずだ。それにも関わらず、こうまで暑いのはいったいなぜか。恐らくは、空調設備さえも停止して、暖められた空気が部屋に籠ってしまったからだろう。


 ゆっくりと、辺りの様子を窺いながら、美紅は温室の奥へと足を進めて行く。部屋の中は至るところに奇妙な植物が生えており、それが時折、死角を作って彼女を阻む。


 美紅の目は、暗闇の中でも光を必要としていない。しかし、こうも植物が多くては、物陰から奇襲を仕掛けられないとも限らない。あの、支配人室での一件がある以上、夜目が効くとはいえ油断は禁物だ。


 温室の奥、ちょうど南国にある巨大なシダのような植物が置かれた場所で、美紅はその脚をふと止めた。


 見られている。先ほどから、この部屋のあちこちから、こちらの様子を窺っている何かがいる。


(舟傀儡……ってわけじゃ、なさそうね)


 霊木刀を握り締め、美紅は深く息を吸い込んで精神を集中させた。風の流れや水の流れ、果ては霊気の流れまで、それらの動きの全てを全身で感じ取れるよう、感覚を極限まで研ぎ済ませてゆく。


 可視と不可視。霊能者達の間では、そう呼ばれて使い分けられている状態のことだ。普段は感覚をあえて鈍く抑え、余計な力の消耗を抑えている。同時に、その辺を漂う浮遊霊の類がいちいち視界に入ってこないよう、調節するための役割もある。


 その一方で、可視の状態とは、これは逆にあらゆる霊的な存在を視認し、果てはその居場所までをも突き止めることができる状態のことだった。当然、力の消耗が激しく、長時間可視の状態を継続することを好ましくない。だが、今回のように、暗闇でこちらの隙を窺う敵の存在を感知するには役に立つ。


 今、このホテルの全体は、七人岬の放つ暗く陰鬱な気で覆われている。木を隠すなら、いや、この場合はを隠すなら森の中と言った方が正しいだろうか。陰の気の溢れ返ったこのホテルにおいては、例え美紅でも可視の状態に持ってゆかない限り、敵の居場所を正確に把握することが難しい。


 部屋の空気と感覚を一体化させ、美紅は自分を狙う何者かが、徐々に近づいて来ているのを感じていた。敵は時に天井を、時に壁を、這うようにして近づいてくる。その動きは酷く直線的で、それでいて急に方向を変えたりするのだから始末に悪い。


 いったい、相手は何者なのだろう。その答えは、美紅の目の前に置かれた太い水道管のような物が、一瞬だけ軽い金属音を立てて震えたことではっきりした。


「そこか!!」


 暗闇の中、美紅の赤い瞳がカッと見開かれる。それは同時に正面に伸びたパイプの姿を捕え、美紅はそこに渾身の力を込めて霊木刀を叩き込んだ。


 木刀と金属がぶつかる鈍い音。それはパイプを通し、部屋の天井や床全体に広がってゆく。そして、終いにはバルブの一つが大きく吹き飛び、美紅の足下に転がってきた。


 吹き飛んだバルブの更に奥。温室中に張り巡らされた水道管の中から、何やら奇妙なものが溢れ出す。それは決して水などではなく、よりおぞましく不快な姿をした生き物たち。あの、西階段の吹き抜けで宗助たちに襲いかかった、海洋生物の群れだった。


「なるほど。舟傀儡の本体は、こんなところに隠れてホテルの中を移動していたのね。どうりで、ホテルの中を歩いているだけじゃ、なかなかお目にかからないわけだわ」


 霊木刀を構え、美紅が自嘲気味に笑いながら言う。七人岬が海洋生物を操ることは知っていたが、ここまで人間の作った施設を利用し、死角から攻撃を仕掛けてくるとは思わなかった。舟傀儡にしても同様で、どうやらこちらも認識を少しだけ改める必要がありそうだ。


 給水管から溢れ出た海洋生物の群れが、徐々に重なり合って一つの塊になってゆく。ゴカイやナマコ、ホヤなどの生き物が集結し、やがてそれは美紅の背丈ほどにまで盛り上がる。最後はその側面から新たに触手状に絡み合った生き物たちが伸び、それは瞬く間に人のような姿へと変貌した。


「雑魚が集結して、一つにまとまったってわけか……。さすがにこれは、ちょっと厄介そうな相手ね……」


 目の前で異形の怪物へと変貌した海洋生物の群れを見て、美紅は霊木刀を構えながら呟いた。一体ずつでは大した力を持たない者たちでも、こうして終結すれば強力な力を持つ厄介な敵となる。群体生物とでも呼ぶのだろうか。集結した生き物たちは、その全てが同じ意識を共有しているかのように、一糸乱れぬ動きで一つの怪物の姿を形成していた。


 触手のように揺れる腕を大きく振りかぶり、海洋生物の集合体が、その腕を美紅に向かって放った。しなるようにして空を切ったそれは、振り降ろされた瞬間、元の数倍の長さまで伸びて美紅を襲う。


「くっ……!!」


 間一髪、身を低く屈めて避けることで、美紅は怪物の放った一撃を辛うじてやり過ごした。が、しかし、そんな美紅が体勢を立て直すよりも早く、怪物は美紅に向かって続けざまに攻撃を仕掛けてくる。


 右腕、左腕、そして最後には背中から新たな触手を伸ばし、怪物は美紅のことを追い詰める。様々な生き物が集まってできた、薄気味悪い触手の束を、美紅は時に身を翻し、時に霊木刀で払うことで、なんとか裁いて切り抜ける。


 シュッという音がして、今度は怪物の脚から触手が伸びた。気がついたときには、それは美紅の脚に絡みつき、彼女を引きずるようにして温室の床に転ばせる。続く、二撃目の攻撃が顔を狙ってきたことで、美紅はその動きに合わせて霊木刀を容赦なく振るった。


 その刀身に刻まれた梵字を赤く輝かせながら、霊木刀が怪物の腕を叩き斬る。刃などなくとも、注ぎ込まれた美紅の霊力そのもので、怪物の霊的な結合を強引に断ち切るだけの力はある。


 切り落とされた腕の先端がバラバラに解けて、無数の海洋生物が辺りに散らばった。どうやら死んではいないらしく、それらの生き物は慌てて本体に向かい走って行く。そして、再び本体に吸収されると、同時に切り落とした部分に新たな生き物たちが集結し、瞬く間に傷を回復する。


 やはり、この程度では効果がないか。群体で来る以上、例え身体の一部が欠損したとはいえ、それが致命傷になることはない。その身を形作る全ての生き物を殺さぬ限り、この怪物が倒れることは決してない。


 再生した怪物の腕が、再び美紅の顔に向かって振り降ろされた。脚の戒めを解く間もなく、美紅は顔を横に逸らして攻撃を避ける。が、その隙を見逃さず、怪物はここぞとばかりに全身から触手を放って美紅を絡め取ってきた。


 左腕と左脚、それに武器を持っている右腕まで封じられ、美紅は一転して窮地に立たされることとなった。彼女の四肢に絡みついてきた生き物たちの群れは、その全身から不快なぬめりのある液体を放ちながら、ますます拘束を強めてゆく。およそ、貧弱な海の生き物たちが集まったとは思えない程の力で、美紅の腕を、脚を絞め上げて強引に開く。


 完全に動きを封じられた美紅の前で、怪物の身体がぐにゃりと揺れた。その身体の中心を大きく縦に裂き、内部から巨大なナマコのような生き物が顔を見せる。それは不気味に身体をくねらせながら、床に抑えつけられた美紅の口元を狙ってゆっくりと身体を伸ばしてきた。


(このままだと、ちょっとヤバいかもね……。仕方ないけど、ここはあの子の力を借りるしかないか……)


 青黒いナマコのような生物が、徐々にその身体を伸ばして美紅に迫る。どうやら、あれを美紅に寄生させることで、舟傀儡の一人として操ろうとしているらしい。


 あんな気味の悪い生き物を、口移しで身体の中に入れられるなど御免だ。逸る気持ちを抑えつつ、美紅は全身の精神を自分の影に集中させる。この温室を覆う暗闇よりも、更に深く暗い影。外法によって生み出されし、彼女の使役する最強のしもべへと意思を伝える。


 次の瞬間、温室の暗闇を切り裂いて、美紅の影が背中からぬうっと伸びた。光りのない、全てを闇に閉ざされた空間では、当然のことながら影などできるはずもない。しかし、それにも関わらず、美紅の背中から伸びた影は、部屋の天井まで届かんばかりの勢いで高く伸びている。


 天井から覗き込むようにして、影の中に二つの目玉が現れた。それは金色の輝きの中に凶暴なまでの禍々しさを秘め、美紅を捕える怪物をしっかりと睨みつけている。そして、その目玉を中心に、影が空間を突き破るようにして急激に盛り上がる。


 狼の如き鼻先と、その下に並ぶ白銀の牙。盛り上がった影は巨大な犬の頭となり、その視界に怪物の姿を捕えて大きく吠えた。


 咆哮が、部屋の空気を、壁を震わせる。それは怪物の身体さえも揺さぶって、数匹の生き物が結合を解いてボタボタと落ちた。ただ、一声叫んだだけなのにも関わらず、その霊的な圧力は、怪物を一気に怯ませるだけのものを持っていた。


 影から飛び出した犬の顔が、更にその奥から迫り出して全身を露わにする。夜の闇よりも深い闇。そう形容するに相応しい身体が、流動的に揺れている。四つの脚と一本の尾、それに凶暴さを剥き出しにした頭部だけ見れば、それは野犬か狼の類に見えなくもない。


 もっとも、その大きさは虎ほどもあり、身体は液体とも気体ともつかない物体で形作られているようだった。金色に輝く瞳は怒りに震え、己の主と敵対する者全てを威圧する。白銀の牙を剥き出しにし、大きく開かれたその口の奥には、なにやら青白い光がちらちらと見え隠れしている。


「やれ、黒影こくえい!!」


 そう、美紅が叫ぶのと、影から現れた巨大な犬が吠えるのが同時だった。黒影と呼ばれた巨犬の口から、雄叫びと共に青白い炎が吐き出される。それは瞬く間に怪物を包み込み、美紅を捕えている触手ごと焼き払う。


 全身を炎に焼かれ、怪物は身をよじって苦しんだ。美紅の腕や脚に巻かれていた拘束は解かれ、結合力を失った生き物たちがボタボタと床に落ちる。それは本体も同様で、青白い炎に包まれたまま、力なくその場に崩れ落ちた。


「ふう……。助かったわ、黒影」


 傍らに降り立った巨大な黒い犬の頬を、美紅はそっと撫でながら立ち上がる。巨犬は美紅を一瞬だけ気遣うような仕草を見せたが、直ぐに正面に向き直ると、再び牙を剥き出しにして威嚇の姿勢を取った。


 美紅と黒影。赤と金の瞳が、それぞれに目の前で蠢いている怪物の姿を捕える。表面を焼かれ、それでもなお、怪物は再び身体を作り直して立ち上がる。辺りには、これは先の炎で焼かれた生き物たちだろうか。七人岬の力を失い、ただの海洋生物に戻ったそれが、力なく震えながら床に散っていた。


「さすがに、そう簡単にはやられないようね。でも……私とこの子を本気にさせたのが、あなたたちの運のつきよ」


 霊木刀の切っ先を相手に向け、美紅は蠢く怪物に向かって言い放った。彼女の使役する巨大な犬。その口から吐き出される炎は、あらゆる霊的な存在を焼き尽くす。決して肉体を傷つけることなく、それでいて善も悪も関係なく、魂だけを一遍も残さずに灰にする。


 怪物が再びその身体を作り直し、触手のような腕を伸ばした。美紅も霊木刀を構え直し、黒影も唸り声を上げて相手に飛び掛からんと身構える。


「さあ、第二ラウンドの始まりね。悪いけど、ここで決着をつけさせてもらうわよ」


 そう言うが早いか、美紅と黒影の足が同時に床を蹴った。赤と金の二つの光が闇を切り裂き、霊木刀を振るう音が部屋の中にこだました。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 暗闇に閉ざされた図書室の中で、宗助は志乃と一緒に身体を休めていた。


 幸い、この部屋にはまだ化け物どもが入ってきている様子はない。ちょうど都合よく、部屋にはいくつかの椅子や机も置いてある。この悪夢に覆われたホテルの中で、しばしの休息を取るには都合のよい場所だった。


「大丈夫か、志乃? その……どこか、怪我なんかしてないか?」


 パイプ椅子に腰かけ、胸元を覆うようにして身体を丸めている志乃に、宗助は優しく声をかけた。その言葉に、志乃はただ首を縦に振って返事をする。


 宗助の知る限り、志乃はそこまで身体の強い人間ではない。その上、どちらかと言えば気の弱いところがあり、化け物と何度も対峙して落ちついていられるほど精神も強くない。そんな彼女にとって、今回の事件は想像を絶するものがあったに違いない。冷静になれ。そう口で言われても、なかなか現実を受け入れることはできないだろう。


 薄暗い図書室の中で、宗助と志乃は懐中電灯の灯りだけを頼りに向かい合った。お互いに、何も喋ることはない。ただ、今は少しでも気を休め、ここから脱出するための道を探さねばならない。


「あの……椎名先輩……」


 突然、志乃が宗助に向かって口を開いた。怯えるような視線と、震える声はそのままに、彼女は淡い光の中で、じっと宗助を見つめてくる。


「なんだい、志乃? やっぱり、どこか怪我でもしていたのか?」


「違います。ただ……椎名先輩は、私のことをどう思っているのかと……」


「どうって……それ、どういう意味だい?」


 こんなところで、いきなり何を言い出すのだろう。暗がりのためか、それとも少しだけ俯いた姿勢になっているためか、志乃の表情がよく見えない。


「私、そんなに身体も強くありませんし……もしかしたら、先輩のお荷物なんじゃないかって思うんです。だから……もし、先輩の邪魔になっていたら……それは、嫌だなって思いまして……」


「なんだ、そんなことか。それだったら、全然平気だよ」


 パイプ椅子の背もたれに体重を預け、宗助は両腕を頭の後ろに回しながら言った。その言葉を聞いた志乃の顔が、少しだけ明るくなって上を向く。


 薄明かりの中、いつもとは違った雰囲気で見つめているからだろうか。彼女の顔が、どことなく神秘的な魅力を放っているような気がして仕方がない。癖のかかった前髪の奥にある二つの瞳。その眼差しを妙に意識してしまい、宗助は慌てて顔を逸らした。


 いったい、自分は何をやっているのだろう。確かに、志乃は宗助の知る中でも美人の部類に入る人間だ。しかし、よりにもよってこんなときに、彼女の顔に見入ってしまう必要などないだろうに。


 高ぶる気持ちを抑えながら、宗助は以前に蓮から聞いた≪吊り橋効果≫なるものの話を思い出した。なんでも、吊り橋のような恐怖感を覚える場所に置かれると、人間は時に恐怖から来る精神の高揚を、恋愛のそれと勘違いしてしまうことがあるらしい。そのため、肝試し等で恐怖を乗り越えた人間同士が、そのまま恋人になってしまうこともあるのだとか。


 自分と志乃が置かれている状況を考えると、宗助は今の自分たちの間にあるものが、その≪吊り橋効果≫なのではないかと思えてきた。これだけ恐ろしい思いをして、しかも薄暗い部屋に男女が二人きり。これが単なる肝試しなら、自分も志乃に惹かれていたかもしれない。


 だが、残念なことに、これは肝試しでもなんでもない。悪夢は現実となって宗助たちに襲いかかり、今も無数の怪物たちが、このホテルの各所を徘徊している。


 この図書室も、いつまで安全かわからない。それに、一カ所に留まっているだけでは、仲間の捜索も脱出路の確保もままならない。


 本当は、志乃のことを考えると、もう少しだけ休んでいたかった。後五分。それだけ休んだら、志乃を連れてこの部屋を出よう。そう、宗助が考えたときだった。


 突然、誰もいないはずの図書室に、何者かの悲鳴が聞こえてきた。声はこの部屋ではなく、どうやら下の部屋からしているようだ。


「おい、志乃。今の聞いたか!?」


「は、はい。でも……」


「お前はここを動くな。下の階は、俺が見てくる!!」


 そう言うが早いか、宗助は懐中電灯をひったくって走り出した。このホテルの図書室は、一階と二階に分かれている。その一階に通じる階段を通して、再び甲高い悲鳴が聞こえてくる。


 一階へ続く階段を駆け下りながら、宗助は自分の額に脂汗が浮かんでくるのを感じていた。志乃を暗闇の中に置き去りにするのは忍びなかったが、今はそんなことを言っている場合ではない。あれがもし、自分の知る人間の声だったら。そう考えると、ここで見捨てて逃げ出すことは、さすがに宗助にもできなかった。


 階段の板が抜けるのではないか。そう思わせるような勢いで、宗助は一階へと躍り出た。一階は思いの他明るく、その明かりの先には見慣れた二人の人影がある。一人は懐中電灯を、もう一人は、これは先端に火のついたマーカーだろうか。急ごしらえの松明を片手に、ずるずると壁の方へ追い詰められていた。


「千鶴! 蓮!!」


 懐中電灯の光が照らす先、そこに自分の仲間の姿を目にし、宗助は思わず叫んで駆け寄った。二人を庇うようにして立ち塞がると、その前には数体の舟傀儡が姿を現した。


 蓮と千鶴は、この連中から逃げて図書室までやってきたのか。だとすれば、先ほどの悲鳴は千鶴のものだろう。恋人の幹也が同行していないことが気になったが、今はその理由を問うている場合ではない。


 見たところ、蓮も千鶴も武器らしい武器を持っていない。当然と言えば当然なのだが、そのような状態で複数の舟傀儡に囲まれることは、それだけで十分に危険である。


「この野郎!!」


 次の瞬間、宗助は側にあった椅子をつかみ、それを舟傀儡に投げつけていた。椅子の直撃を受けた舟傀儡が倒れ、敵の意識が一瞬だけこちらに向く。その隙に、宗助は蓮と千鶴のいる場所へと駆け寄ると、二人を庇うようにして舟傀儡の前に立ちはだかった。


「大丈夫か、二人とも」


「なんとかね……。そう言う椎名先輩こそ、丸腰じゃないですか。これから先、どうやって連中から逃げるつもりです?」


 蓮が眼鏡の位置を直しながら、宗助の横に並ぶようにして言ってくる。その間にも、舟傀儡たちは再び体勢を整えて、虚ろな表情のまま向かってくる。


 部屋の中にいる敵は、ざっと見ても五体ほど。正直、これだけの舟傀儡を相手に、正面から戦って勝てるという保証はない。


 先ほどは勢いに任せて椅子を投げてしまったが、あんなことを何度もすれば、操られている人間の身体を不必要に傷つけてしまう。美紅の話では、彼らを倒しても問題の根本的な部分は解決しないとのこと。ならば、余計な戦いであれこれと消耗してしまうのは、今後のことを考えても得策ではない。


 やはりここは、隙をついて二階へ逃げるしかないだろう。幸い、図書室の二階はまだ敵の手が及んでいない。ここはひとまず二階へ逃げ、志乃と一緒に図書室を出よう。そう思い、宗助が二階へ続く階段へと目をやったときだった。


 木製の板が軋む音と共に、志乃が階段を降りて来ていた。あれほど待っていろと言ったのに、この騒ぎの中、なぜ下へ降りて来てしまったのか。やはり、闇の中に一人残されるのは、彼女にとって耐えがたいことだったのだろうか。


「馬鹿! 来るんじゃない!!」


 なおも階段を降りようとする志乃に、宗助が叫ぶ。それは宗助に一瞬の隙を作らせ、舟傀儡の接近を許してしまうこととなる。


 低く、唸るような雄叫びを上げ、舟傀儡の手が宗助の首に伸びる。気がついたときには既に遅く、その指先は宗助の首を、肩をしっかりとつかみ、そのまま床へと押し倒す。


「くっ……! しまった!!」


 自分の上にのしかかってきた舟傀儡を、宗助は懸命に押しのけようと暴れてもがいた。だが、やはり力では相手の方が上であり、叩けども蹴れども振り払えない。


 舟傀儡の口が大きく開かれ、その中から薄気味の悪いゴカイのような生き物が姿を現した。それは宗助の口元まで身体を伸ばすと、黒く小さな牙を広げて宗助を威嚇する。両目がないにも関わらず、宗助はその生き物が、舟傀儡の口の中で不気味に笑っているように見えた。


 このままでは、自分もやがて舟傀儡の仲間にされてしまう。その上で、美紅の言っていた妖怪――――確か、七人岬とかいったか――――そいつらの下に連れて行かれ、生贄にしようというのだろう。


「この野郎……! いいかげんに、離れろよ!!」


 こうなったら一か八かだ。宗助はポケットの中を弄ると、そこから美紅にもらった護符の内の一枚を取り出した。本当に効力があるのかは疑問だが、この状況で頼りになるのは、後はこの護符しかない。


 ろくに狙いさえもつけず、宗助は護符を舟傀儡の顔に貼り付けた。その瞬間、相手の頬から白く嫌な匂いのする煙が立ち上り、舟傀儡は奇声を上げて宗助から離れた。


「や、やった……?」


 正直、自分でも信じられなかった。護符を貼られた舟傀儡が、口から涎を撒き散らしながら悶絶している。護符の貼り付いている頬からは白い煙が上がり続け、それが舟傀儡を苦しめているというのは、誰が見ても一目瞭然だった。


 美紅からもらった、謎の梵字が書かれた護符。半信半疑で使ってはみたものの、その効果は彼女の言った通りのものがあった。やはり、彼女の言っていたことは全て真実で、護符の効力は本物だったのだ。


 これなら行ける。残りの護符を手に立ち上がり、宗助は目の前にいる舟傀儡たちを睨みつけた。残る護符は、大輝から貰った物も含めて九枚ほど。加えて、これはまだ試してはいないが、泥団子のような道具もある。美紅の話では、こちらは目くらまし用の閃光弾ということだ。


 武器としては少々心許ないが、護身としては十分だ。これを使って連中を退け、まずは全員で安全な場所まで逃げる。図書室の二階とて完全に安全とは言い切れないのだろうが、少なくともここにいるよりはマシなはずだ。


 だが、宗助が護符を握り締めて舟傀儡に立ち向かおうとした瞬間、その隣で甲高い悲鳴が上がった。


「い、いやぁぁぁっ! こっちに……こっちに来ないでよぉぉぉぉっ!!」


 叫んでいたのは千鶴だった。宗助が襲われていた間に、彼女もまた舟傀儡に追い詰められていたのだ。壁際まで追い詰められた千鶴は目に涙を浮かべながら、マーカーを利用して作った松明を片手に震えている。


「もう嫌! どうして私たちばっかり、こんな化け物に追っかけられなきゃならないのよ!!」


 舟傀儡が伸ばしてきた手を、千鶴は身体を低く屈めることでかろうじて避けた。そして、そのまま松明を片手に走り出すと、開け放たれていた図書室の扉をくぐり、部屋の外へと飛び出した。


「なっ……! ちょっと待てよ、千鶴!!」


 飛び出した千鶴の姿を見て、宗助が慌てて叫ぶ。このホテルの中、武器も、化け物を退けるための術も持たず、たった一人で行動するなど自殺行為だ。


 もう、考えている暇などない。蓮や志乃のことも心配だったが、今は千鶴の身の安全が最優先だ。


「蓮! お前は志乃と一緒に二階へ逃げろ! あそこには、まだ化け物が入り込んでない!!」


「二階へって……椎名先輩は、どうするつもりなんですか!?」


「俺は千鶴を追う! 悪いけど、その間、志乃のことは任せたぞ!!」


 相手の返事を待っている余裕などなかった。再び伸ばされた舟傀儡の腕を宗助は渾身の力を込めて振り払う。そして、体勢の崩れた一瞬の隙を突き、その額に護符を貼り付ける。額から白い煙が立ち上り、舟傀儡が奇声を発しながら倒れた。


 蓮と志乃のことを考えると、本当は部屋の中の舟傀儡を、全て始末しておきたい。もっとも、そんな余裕はないために、宗助は千鶴の後を追う形で残る敵を無視して部屋を出た。


 廊下の正面、ホテルの西側へと続く道から、千鶴の走る足音がする。次いで、それと同じ方向から、彼女の悲鳴が聞こえてきた。


 もう、一刻の猶予も無い。残る護符を片手に、宗助もまたホテルの廊下を走り出す。廊下の曲がり角までは目と鼻の先だったが、宗助にはそこまでの短い距離が、なぜかとてつもなく長く感じられた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 闇に閉ざされた温室の中では、美紅と化け物の死闘が続いていた。


 ナマコやフナムシ、その他様々な海洋生物が絡み合ってできた触手が、美紅を捕えようと宙を舞う。が、その先端が彼女を捕えるよりも先に、彼女の手にした霊木刀が容赦なく触手を叩き斬る。


 赤く光る梵字の刻まれた一撃によって、触手を形作っていた生き物たちが床に散った。それでも化け物は諦めず、新たな触手を伸ばして美紅を狙うものの、今度は黒影が大きく吠えて、その口から吐き出す青白い炎で牽制をする。


 破魔の炎。黒影の武器とする青白い炎を、美紅はそう呼んでいた。その力は、肉体を傷つけることなく、魂だけを焼き尽くす。群体を形成している生き物たちの魂を、内に込められた七人岬の呪いごと焼き払うのだ。


 黒影の吐き出した炎によって、怪物はその身体の中に触手を引っ込めた。このまま同じことをしていても、逆に押し切られる。そう考えるだけの知能があったのかどうかは、美紅にもわからない。ただ、怪物は美紅を触手で甚振るような戦い方を止め、代わりにその中央を縦にゆっくりと開き始めた。


 多数の生き物が蠢く怪物の身体の中心、その頭部から胴体部に当たる部分が開かれて、中からナマコのような生き物が姿を現した。あの、美紅を押さえ込んだとき、彼女の身体に入り込もうと姿を見せたやつだ。


 怪物の全身がぶるっと震え、ナマコを先頭に内部から現れた生き物が一気に身体を伸ばしてきた。様々な海洋生物を糸のように束ね、それは真っ直ぐに美紅の顔を狙って放たれる。


 もう、霊木刀で弾いている場合ではない。ここまで直線的な攻撃では、美紅も身体を捻ってかわす他になかった。


 頭の上の方で、何かが壁にぶつかる音がした。恐らく、攻撃を外した怪物の身体が、壁に衝突した音だろう。


 闇の中、白金色の髪の毛の間から、美紅の赤い瞳が怪物の姿を捕える。横目に相手を睨みつけたまま、美紅は外套のポケットの中から、一つの金属球を取り出した。


 あの怪物は、七人岬の操る海洋生物の集合体。外側にいるものをいくら倒したところで、すぐに内側にいたものたちが外に出て身体を作り直してしまう。黒影の炎で焼くにしても、あれだけの数を焼き払うのは、さすがに時間がかかり過ぎる。


 ならば、あのような敵を倒すにはどうすればいいか。その答えは、美紅も当に気が付いていた。そして、相手を仕留める絶好のチャンスは、他でもない今この瞬間だ。


 美しい、弓のような曲線を描き、美紅の手から放たれた金属球が怪物の体内に吸い込まれてゆく。小さく、しかし重たい一撃が決まり、怪物は慌てて触手を引っ込めると、その身体を二つに割っていた部分をしっかりと閉じた。


「決まったわね……」


 怪物の中に金属球が飲み込まれたことで、美紅は勝ち誇ったような笑みを浮かべて立ち上がる。そして、霊木刀を放り投げると、その両手を使って不思議な印を組み怪物を睨みつけた。


「砕……!!」


 瞬間、怪物の中に取り込まれた金属球から、強い銀色の光が迸った。それは瞬く間に怪物の中で膨らんで、巨大な爆音と共にはじけ飛ぶ。一瞬、真昼の太陽に照らされたような明るさが部屋を包み、それが収まった頃には、怪物の身体はバラバラに吹き飛んでいた。


「ふぅ……これで終わったかしら?」


 壁や床、部屋のあちこちに飛び散った海洋生物の残骸を見て、美紅が両手を腰に当てたまま言った。


 あの怪物には、外部からの攻撃は殆ど通用するものがない。だが、内部からバラバラにしてしまえば話は別だ。美紅の放った金属球は、当然のことながらただの鉄球などではない。彼女の霊能力に感応して、邪気を払う光と共に爆発する性質を持った特殊なものだ。


 本当は、今後の戦いに備える意味でも、武器は温存しておきたかった。しかし、ここで足止めを食らっては元も子もない。今は一刻も早くホテルの電源を復旧させなければ、闇の中を逃げ惑う宗助たちの危険が増すだけだ。


 村瀬の話では、温室制御室の更に奥に、電算室があるともことだった。そこまで行けば、予備の電源も確保できる。温室の奥に更なる扉を見つけ、美紅はそこに向かって歩き出した。


 再び静寂に支配された温室の中、美紅の足音だけが闇の中に響く。だが、その裏で、部屋の壁や床に散った怪物の破片が蠢いたいたことに、美紅は気がつくことができなかった。


 床を、壁を、何かが素早く這いずる音。それを聞いたときには、既に遅かった。


「なっ……こ、こいつら、まだ生きて……!?」


 そう、叫んだときには、既に美紅の足下に無数の海洋生物が集結していた。金属球の力でバラバラにされてもなお、生き残ったものたちが再び集結を始めたのか。それは瞬く間に美紅の足下から這い上がると、彼女の脚を、腰を埋め尽くしてゆく。


「来なさい、黒影!!」


 主の声に、黒影が一陣の影となって飛来する。犬の姿はとらず、ただ影の塊のようになったまま、黒影はいち早く美紅の身体を覆うようにして上から包む。


 薄い、幕のような姿に変化した黒影が美紅を覆うのと、その上から無数の海洋生物が彼女を包み込むのが同時だった。今や、その全身を君の悪い生き物に覆い尽くされ、美紅の身体は先の怪物のそれと同じ姿になっていた。


 触手を断たれ、仲間を潰され、その身をバラバラに砕かれてもなお、怪物は諦めてはいなかった。最後の一匹が倒されるまで、例え肉体を構成していた殆どの仲間を潰されても、執拗に美紅を取り込もうと攻撃を仕掛けてくる。それはもう、七人岬の命令など関係ない。ただ、執念によるものと言った方が相応しい。


 美紅に群がった生き物たちが、彼女を仲間に取り込もうと激しく蠢く。もはや、美紅に生き物たちを払う術はない。彼女はこのまま舟傀儡として、七人岬の下僕と化してしまうのか。そう、思われたときだった。


 突然、蠢く生き物たちの隙間から、青白い炎が噴き出した。それは瞬く間に美紅の上半身に広がって、最後は彼女の身体に付着していた生き物たちをまとめて吹き飛ばす。その衝撃で下半身に群がっていた生き物までもが剥がれ落ち、生き延びたものたちは慌てて排水溝に逃げ出した。


 ずるっという音を立て、美紅の身体から黒い幕と化した黒影が剥がれ落ちる。その身体からは全身の毛を逆立てるようにして破魔の炎を拭き出していたが、やがて敵がいなくなったところで、静かに炎を収めていった。


「まったく……しつこいったらありゃしない。でも、これでしばらくは、こっちの力に怯えて大人しくしているでしょうけどね」


 その身体の上で息絶えてしまった生き物の残骸を払い落し、美紅が苦々しい顔をしながら吐き捨てた。


 例え黒影に守らせたとはいえ、あんな気味の悪い生き物たちに集られたことなど、できれば早く忘れたい。それに、黒影にとっても、炎の全身放射はかなりの力を消耗する大技だ。今後、どのような強敵が現れるかわからないだけに、今は少しでも休んでもらった方がいいだろう。


 黒影に、自分の影に入るように目で合図し、美紅は今度こそ電算室へと続く扉を開いて中へと足を踏み入れた。そして、その扉が閉まる直前に、黒影は美紅の影に溶けるようにして部屋の中から姿を消した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 蓮が図書室の二階に辿り着いたとき、そこは驚くほどに静かだった。下の喧騒が嘘のように、部屋の中は物音一つしない。ただ、天井まで届く背の高い本棚が、物々しい雰囲気でこちらを見降ろしてくるだけだ。


 宗助の話では、ここにはまだ化け物の手が及んでいないとのことだった。まあ、すぐ下の階に化け物がうろついているようでは、ここも直ぐに危険になることは間違いない。できることなら、もっと別の安全な場所に、さっさと移動した方がいいだろう。


(それにしても……)


 先ほどの宗助の行動から、蓮はあの怪物の正体がなんなのかを改めて考えた。怪物につかまれたとき、宗助は何やら紙のようなものを使って相手を倒していた。一瞬、護符のようにも見えたが、そうなると、敵の弱点はお札ということなのだろうか。


 この、科学の進んだご時世に、護符によって化け物を退治するなどナンセンスだ。しかし、現に宗助が護符を使って怪物を退けた以上、そんなことは言っていられない。それに、非常識といえば、今のホテルを覆うこの異常な事態が既に非常識の塊だ。


 とにもかくにも、一度、宗助に色々と訊いてみる必要がある。そう思い、ふと思い出したようにして後ろを振り返ると、蓮の顔に一瞬にして緊張の色が走った。


「七森……? 七森、どこだ!?」


 志乃がいない。この部屋に上がって来るまでは一緒にいたはずなのに、気がつくと後ろから姿を消していた。


 まさか、下から上がってきた怪物たちに、そのまま襲われてしまったのか。いや、だとすれば、悲鳴の一つくらい聞こえるだろう。それに、志乃を襲った怪物たちが、この部屋に留まって自分のことを襲って来なかったことも不自然だ。


 では、いったい肝心の志乃はどこに消えてしまったのか。なにやら嫌な胸騒ぎを覚え、蓮は油断なく辺りの様子に意識を集中した。



――――シャキッ……。



 突然、部屋のどこかで鋭い音がした。なにか、刃物のような物を研いだときにするような、妙に耳障りで鳥肌が立つような音だ。



――――シャキッ……。



 まただ。今度はより近く、蓮のすぐ真横で聞こえたような気がした。


 この暗闇の中、鋭い何かを研ぎながら近づく者は、いったい誰か。あの、展示室で見た半魚人の怪物が頭に浮かび、蓮は思わず肩を震わせて後ろを振り返る。


 次の瞬間、シュッという風を切る音と共に、蓮の横を巨大な何かが通り過ぎた。いったい、自分の身に何が起こったのか。それを理解するよりも早く、蓮の首元に一筋の赤い線が刻まれる。その線からは瞬く間に赤い鮮血が流れ落ち、ついには激しい音を立てて、彼の首から大量の血飛沫が溢れ出た。


 床を叩く鈍い音と共に、かつて檜山蓮のものであった首がゴロゴロと転がった。その首から流れる赤い血が、彼の胴体と頭を一直線に繋いでいる。眼鏡の奥で見開かれた目には、既に生者の色はない。ただ、何が起きたのかもわからないまま、一瞬の内にして絶命したことを物語っていた。


 何かが跳ね返るような水音と共に、暗闇の中から二本の足が現れる。紫色の鱗に覆われ、鋭い爪の生えたそれは、人のものではない。部屋を包む闇に溶け込むほど暗い色をした二つの瞳が、離れ離れになった蓮の頭と体を見つめている。


 闇に紛れ、蓮の首を切り落とした者。それは、あの幹也や大輝を殺したのと良く似た、半魚人の内の一体だった。身体を覆う鱗は紫色に近く、その瞳の色も黒味がかっていたが、全体的な姿形は同じだ。


 ただ、最大の違いを挙げるのだとすれば、それは両手から伸びた鋭い爪だった。人間の腕ほどの長さを誇るそれには、先ほど切り落とした蓮の血がべったりとついている。爪先からは赤い血液が滴となって、ひたひたと部屋の床に垂れていた。


 既に動かなくなった蓮の体に、半魚人は止めとばかりに爪を挿し込む。瞬間、半魚人の全身が激しく痙攣し、がっくりと膝をついてその場に崩れ落ちた。


 爪を通し、半魚人の中に込められていた邪悪な気が、次々に蓮の肉体へと送り込まれてゆく。その力が蓮の中に吸収されればされるほどに、半魚人の肉体は、徐々に萎んで土塊のようになってゆく。


 やがて、怪物の全てを受け継いで、首なしの蓮がゆっくりと起き上がった。その途端、蓮の首元が急激に膨れ上がり、醜い腫瘍の様な瘤を作り出す。そして、何かが潰れるような不快な音と共に、腫瘍の中から新たな蓮の頭が現れた。


 再生した自分の頭の様子を確かめるようにして、かつて檜山蓮であった者は、ゆっくりと首を左右に振った。その側にある半魚人のなれの果て、土塊と化した物体には興味も示さず、目の前に転がっている自分の頭だったものへと近づいてゆく。


 蓮の肉体を持つ、それでいて蓮ではなくなった者。怪物の力を受け継いだ悪魔は、床に転がった頭から、ひったくるようにして眼鏡を外す。その眼鏡を自分の顔につけたところで、彼は不気味な薄笑いと共に、闇の中へと消えて行った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ