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「アンタが、“視える”人間ってやつなのか」
乱暴に開かれた扉の向こうから、背の高い青年が入ってきた。
後ろ髪だけが長かった。赤く染めていたが、根元から半分ほどは黒く戻っていた。
青年は、こちらの返事も待たず、ソファの前まで大股で来ると、断りもなく腰を下ろす。
私は向かいのソファに座り、「ええ、まあ」と頷いた。
「曖昧だな」
青年は、片方の足首をもう片方の膝の上に乗せた。
「視えるものと、視えないものがありますから」
青年は鼻で笑った。
二十歳を少し過ぎていると聞いていた。大学に進んだものの、今は休学しているとも。けれど顔立ちだけを見れば、まだ十代の終わりのようにも見える。頬の線が幼く、目の奥だけが不自然に熱い。
「オレにはゲッシュがかかっている。アンタがホンモノだっていうなら、視えるはずだ」
私は、内心で少し困った。
こういう相談は、珍しくはない。
呪われているのではないか。霊が憑いているのではないか。家に何かいるのではないか。夢に出てくるものは本物か。死んだ者の声は聞こえるか。
答えられる時もある。答えられない時もある。視えるものが何もない時もある。
ただ、何もないと告げることが、一番難しい場合もある。
それでも、嘘をつくことだけはできない。
「……いいえ。ゲッシュは、かかっていませんよ」
青年の顔色が、はっきり変わった。
「嘘つきめ」
低い声だった。けれど、言葉そのものは幼かった。
「嘘ではありません」
「嘘だ。オレにはある。オレには、確かにあるんだ」
「そう思われる理由があるんですね」
「理由?」
青年は、足を組んだまま身を乗り出した。
「オレはクー・フーリンの再来だ」
部屋の空気が、一拍だけ止まった。
私は、どう返すべきか考えた。否定すれば、余計にこじれる。肯定はできない。クー・フーリンの名を軽く扱うこともしたくない。なにより、ゲッシュは青年が望んでいるような祝福ではない。
祝福に見える場合はある。力に見える場合もある。
けれど、それは本質ではない。
「クー・フーリンの再来、ですか」
「そうだ」
青年は胸を張ったが、強そうには見えなかった。長い身体をどう立たせればいいのか、本人にもまだ分かっていないような姿勢だった。
肩にも腕にも、鍛えた厚みはある。けれど、それは使われてきた身体ではなく、部屋の中で作られた身体だった。床に敷いたトレーニングマットの上で、何度も同じ動きを繰り返してついた筋肉。外の風や、他人の視線や、急な衝突を知らない身体。
「オレは犬肉を食べない。犬を傷つけない。求められた戦いから逃げない。客として出されたものを拒まない。そう決めている」
「ご自分で?」
「ゲッシュだからだ」
青年は、胸元のペンダントを指で押さえた。ケルト文様らしきものが彫られている。銀ではない。おそらく安価な合金で、磨かれてもいない。
「自分で決めたもの、ということですね」
「違う。思い出したんだ。魂が覚えている。だからオレは、普通の連中とは違う」
私はすぐには答えられなかった。
そのとき、部屋の端で黙っていた彼が、ゆっくりとカップを置いた。
陶器が受け皿に触れる音は小さかったはずなのに、青年はそちらへ顔を向けた。
「嘘つき、というのは、コイツが視えているものを偽っている、という意味か」
私の方へ顎をしゃくりながらも、彼の視線は青年を捉えたまま逃がさない。
「そうだ」
「では、コイツには何が視えているか、君に分かるのか」
「……は?」
「何が視えているかも知らないまま、偽っていると判断した。根拠は?」
「オレにはゲッシュがあるからだ」
「つまり、先に結論がある。君にはゲッシュがある。だから、それを否定する者は偽物か、嘘つきか、君を認めたくない人間だ。そういう理屈か」
「そうだ。アンタらは、オレを認めたくないんだ」
私は静かに目を伏せた。彼が会話に入ると、こうなる。怒鳴り合いにはならない。ただ、言葉の逃げ道が一つずつ塞がれていく。
「認めるかどうかの話ではない。普通ではないことと、クー・フーリンの再来であることは同じではない」
「うるさい」
「それに、ゲッシュを持つことと、英雄であることも同じではない」
「同じだろう。英雄にはゲッシュがある。クー・フーリンにはあった」
「順序が違う。君は、犬肉を食べないと言ったな」
「ああ」
「では、君は犬を殺したのか」
青年の顔から、作りかけの笑みが消えた。
「……何の話だ」
「クー・フーリンは、最初からその名だったわけではない。セタンタだった。彼はクランの番犬を殺し、その代わりになると申し出た。だからクー・フーリン、クランの犬と呼ばれるようになった」
「そんなことは知ってる」
「なら、分かるはずだ。犬は彼の名と結びついている。役目と結びついている。行為と結びついている。だから犬肉を食べてはならない、という因果が生まれる」
彼は、青年の赤い後ろ髪へ、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
「君は犬を殺していない。誰かの門を守ってもいない。犬の名を負ってもいない。なら、犬肉を避けても、それはゲッシュではない。ただの選択だ」
「違う!」
青年の肩がかすかに震えた。
私は少し迷ってから、口を開いた。
「……犬を食べないこと自体は、悪いことではないと思います。犬を傷つけたくないというのも、分かります。何かに憧れて、生活を変えることも、悪いことではありません」
青年が、私を見た。
「なら」
「でも、それをゲッシュとは呼べません。少なくとも、あなたが望んでいるような、英雄の証ではありません」
「アンタに何が分かる」
青年は再び胸を張ろうとした。けれど、肩の力が抜けず、背筋だけが不自然に反った。
「英雄には制約がある。強い制約には、強い力が宿る。そういうものだろ」
「それは現代の娯楽作品の読み方だ」
青年の目が、彼へ向いた。
「何だと」
「ゲッシュは、力を得るための取引ではない。契約でもない。代償を払えば対価が来る、というものではない」
「じゃあ何だよ」
「因果だ」
青年の口元が、不自然に歪んだ。
膝の上に乗せていた足が、少しずつ落ちかけている。本人は、それに気づいていないようだった。
「こういう名を持つ者は、これをしてはならない。こういう役目を負った者は、これをしなければならない。こういう行為をした者は、以後こう振る舞わなければならない。そういう、名と行為と関係に結ばれた因果だ」
私は、青年を見た。
目はまだ反発している。それでも、自分の知らない説明が始まったことには気づいているようだった。
「古い社会では、規範を条文にして、誰もが読めるわけではなかった。文字に頼らない世界で、『してはならない』『しなければならない』を伝えるには、物語にするしかない」
「物語?」
「そうだ。英雄に背負わせる。英雄でも破れば死ぬ、と語る。そうすれば、誰も忘れない」
青年は、ペンダントを握った。安い金属の輪郭が、指の間に食い込むほど強く。
「ゲッシュは、規範の寓話化だ」
彼の言葉は、ゆっくり落ちた。
「歓待を拒んではならない。名に背いてはならない。受けた役目から逃げてはならない。そういう規範を、英雄の名と死に結びつけて記憶させる」
私は小さく息を吐いた。
「怖い話にして残したんですね」
「怖い話は残る」
「でも、クー・フーリンは強かった」
青年は、ペンダントを握ったまま続けた。
「……最初は、大学の授業で名前を聞いただけだった」
声の調子が、少しだけ変わっていた。
「クー・フーリン。あとで調べた。休学して、講義にも行かなくなって、家にいて、ネットで読んで、本も買って。像を見たんだ」
「像?」
「ダブリンの郵便局にあるやつだ。死にかけたクー・フーリンの像。致命傷を負って、それでも倒れない。最後まで立っている。あれを見た時、これだと思った」
部屋は、静かだった。
「倒れないんだよ。普通なら、もう終わりだろ。負けて、傷ついて、死ぬしかない。それでも倒れない。膝をつかない。敵の前で、最後まで立っている」
私は、青年の目を見た。
誤読も、自分を特別にしたい欲もある。けれど、それだけではなかった。
倒れたくない。
倒れていると認めたくない。
それだけは、確かだった。
「クー・フーリンは強かった」
青年は、もう一度言った。
「だからゲッシュは英雄の証だ」
「違う」
彼は、一切ためらわなかった。
「ゲッシュは、英雄を特別にする祝福ではない。英雄でさえ逃れられない規範の寓話化だ」
「英雄でさえ……」
「そうだ。君は、ゲッシュを英雄の勲章のように扱っている。だが、クー・フーリンの物語として見るなら、本命はそこではない」
「何が本命だ」
「死に方だ」
「クー・フーリンは、犬肉を食べてはならなかった。一方で、差し出された食事を拒んではならない。そこへ犬肉を出される。食べれば禁忌を破る。拒めば義務を破る」
青年の足が、膝の上から完全に滑り落ちた。
靴底が床に触れる音が、妙にはっきり聞こえた。
「強くなるための制約ではない。強いまま逃げられなくなるための因果だ」
「でも」
青年の声がかすれた。
「あの像は」
「あの像に、君が不屈の精神を見たことは間違いではない。だが、不屈とは、傷つかないことではない。死なないことでもない」
彼は静かに言った。
「致命傷を負ってなお、自分の名と役目から逃げないことだ」
青年は黙った。
「そこまで含めて欲しいと言うなら、止めはしない。だが、そこを見ないまま英雄の名だけを欲しがるなら、君に残るのは不屈ではない。ただの悲惨な死に様だ」
青年の手から、ペンダントが落ちた。
胸元で、小さく揺れる。
「君が見た英雄は、倒れなかったのではない。倒れることさえ許されないところまで行ったんだ」
私は、青年の顔から怒りが少し引いていくのを見た。
「……でも、オレには、何かあるはずなんだ」
その声は、先ほどより小さかった。
「ずっと、違うと思ってた。こんなところで終わる人間じゃない。今はこうなっているだけで、本当は何かあるはずだって」
私は黙って聞いていた。
「クー・フーリンを読んだ時、分かった気がしたんだ。オレにも、そういうものがある。普通の人間にはない、古い約束みたいなものが」
「約束ではありません」
青年はにらんだ。けれど、先ほどほど強くはなかった。
「ゲッシュは、あなたが欲しい時に手に入る約束ではありません。あなたを特別にしてくれる祝福でもありません」
「じゃあ、オレには何もないって言うのか」
「少なくとも、ゲッシュはありません。でも、ゲッシュがないことは、悪いことではありません」
「慰めか」
「いいえ。ゲッシュがあれば、逃げられなくなるからです」
「君は、自分がうまくいかない理由を、運命にしてほしがっている」
彼が静かに言った。
「……違う」
「違わない。もし自分がクー・フーリンの再来なら、大学に行けないことも、人と会えないことも、部屋に閉じこもっていることも、まだ発現していない英雄性の一部にできる」
「黙れ」
「だが、それはゲッシュではない」
「黙れ!」
青年は立ち上がった。
立てば、本当に大きい。けれど、怒りに押し上げられたその姿勢は長く続かなかった。首が前に落ち、背中が丸まり、指先だけが震えていた。
「君がクー・フーリンを名乗るのは自由だ」
彼は、座ったまま続けた。
「ただし、英雄の名を借りるなら、死に方まで含まれることを忘れるな」
青年は、何か言おうとした。
だが、声にはならなかった。
その沈黙だけは、部屋に入ってきてから初めて、青年自身のものに見えた。
「今日は、もう帰ったほうがいいと思います」
「オレは……」
その先を言えない青年に、私は首を振った。
「考える時間を持ってください、ということです。……自分が本当に欲しいのは、ゲッシュなのか。それとも、違う何かなのか」
青年は、しばらくこちらを見ていたが、乱暴にペンダントを握った。安い金属が、手の中で小さく鳴った。
青年は扉へ向かった。来た時と同じように乱暴に開ける。だが、出ていく時の背中は、少しだけ小さく見えた。
扉が閉まったあと、私は長く息を吐いた。
「言いすぎでは」
「どこが」
「だいたい全部です」
彼は、冷めかけた紅茶に手を伸ばした。
「あの青年は、優しい否定では聞かなかった」
「それは、そうですけど」
「それに、お前は嘘をつけない」
「……つけません」
「だから、俺が口を出した」
私は力なく笑った。
「あなたは、こういう時、本当に容赦がないですね」
「容赦の問題じゃない。あの青年はゲッシュを欲しがっていた」
「ええ」
「なら、教えるべきだ。あれは欲しがるものではない」
私は、青年が座っていたソファを見た。
「本当に、何もありませんでした」
「霊的には?」
「はい。呪いも、縛りも、名を呼ばれた痕もありません。ただ……」
「ただ?」
「欲しがっていました。何かに縛られることを」
彼は、しばらく黙っていた。
「自由は、扱いにくいからな」
「そうですね」
「因果があれば、迷わなくて済む。これは運命だ、と言える。自分で選んだ結果ではない、と言える」
「でも、ゲッシュはそんなに親切なものではない」
「ああ。あれは道を示すものではない。逃げ道を塞ぐものだ」
窓の外で、風が枝を揺らした。
私は、閉まった扉をもう一度見た。
あの青年がこの先どうするのかは分からない。髪を染め直すかもしれない。ペンダントを外すかもしれない。あるいは、ますます頑なになるかもしれない。
ただ、ソファのクッションには、青年が乱暴に腰を下ろした跡がまだ残っていた。
見えないはずのものが、そこに残っているようだった。
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