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銃殺刑当日 明治海軍・南郷元帥の苦悩1

「……いったい、ワタシたちはどこからまちがえた歩みを正しいと信じてここまできてしまったんですかねェ?」


 着物姿の老爺は言って、長年愛用してきた筒の長い煙管を咥える。

 刻み煙草はとうにやめたが、何かを考えるとき、口元がさみしいときはいつもこれを咥えて耽っていたため、ずいぶんと心に余裕がある人だと思われてきたが、それはあくまでも見た目のこと。

 内心はどうしたらすべてに合点がいく答えを見いだせるものかと深く考えるばかり。

 そもそもは気鬱に漏れるため息を隠すために煙管をはじめたので、いまさら理由など明かせない。


「まったく」


 ――どうして、こんなことになってしまったのだろうか……。


 老爺はこれから起こる惨劇をどうにかして回避できないものかとここ数日とことん悩み、昼夜問わずほとんど馴れ親しんだ自宅の縁側に腰を下ろして庭を見やり、けれどもその目にはまったくちがう世界を映し、最大限のよかれの道を探しあぐねていた。

 たしか先ほど見あげた空はまだ夜明けには遠く、またたく星は充分に見えて、西に向かう月も白銀の色が美しく、夜風は心地もよかった。

 しかし、ふと気がつくとその空はすでに夜明けの色を越えて、薄い青の世界が頭上に広がっている。

 この時期、東から昇る太陽ははやく、朝の四時半とはいえもう差す光は夏の熱を帯びてまぶしい。

 すぐ奥の座敷では湯飲みにお茶を注ぐ音が聞こえる。

 ここ数日まともに寝ていない老爺を心配してか、本来であればまだ寝ていてもいい老婆がため息をついてお茶でも用意しているのかと思われたが、縁側にすわる老爺のそばに茶器を置いた手は老婆……妻の手ではなく、壮年の男性を思われるしっかりとした骨格のもの。

 年からいえば老爺の末の子どもというふうにも見えるが、この家には老爺と妻、その生活を支える手伝いの女性しかいない。

 いるはずのない男がお茶を差し出してきたのだから、老爺は存分におどろいてもよかったのだが、あいにくその男は知らない顔ではない。

 むしろ、彼を待っていた。

 よく家の外でこちらの動きを監視している男たちに気づかれずに家内に忍びこめたものだと感心し、老爺は茶器を手にとる。


「……どうでした?」


 尋ねると、見ようによっては新聞配達員のようにも感じられる男が一言、


「あと半刻もせずに、この家は正式に陸軍の特務歩兵隊に包囲されます」


 言って、かたわらに隙なく座す。


「おやおや。何が、正式に、ですかねェ。こちらは丸腰の老爺と老婆のふたり暮らし。物騒な装備の陸軍さんに家を囲まれる筋合いはないのですけれど」


 そう。

 すくなくとも帝国陸軍に喧嘩を売られるようなことは「いまは」していない。

 けれども帝国陸軍のほうはどうあっても「上手に」喧嘩を売りたがっている。

 なので、こうなることは予想もついていた。

 すでに近所にはこの日だけは外を出ないでくれと言って、頭を下げている。

 たとえ発砲音が聞こえたとしても、けっしてようすを覗くような真似はするな、と。


 ――とはいえ、ほんとうに早朝から銃を手に迷惑行為をかけてくるとは。


 老爺はのんびりと茶をすすり、くっくっと笑う。


「しっかし、舐められたものですヨ。この天下の南郷(なんごう)元帥をたかが十人ていどの分隊の小童どもに見張らせておけば充分だなんて。あとで陸軍参謀本部のアホウどもの胸倉でもつかみにいかないと、気が収まりませんねェ。南郷を制したくば旅団でも持ってこい、と」

「――閣下」


 普通であればどこにでもいる老爺のたわ言など受け流せばよいのだが、残念なことにこの老爺は口にしたことはしないと気がすまない性分ではあるし、第一、普通という枠にあてはめるのはあまりにも規格外なので、男はこまったように額を押さえる。

 老爺はそれを見てなおおもしろそうに笑うが、庭の向こう――通りのほうでこちらを伺うような気配をわずかに感じたので、笑いを堪えようと煙管を咥える。

 瞬間、表情はうってかわって険しくなった。

 万が一のときは身を呈して、と反射的に浮き腰になった男も老爺に制されて、その場に座をしなおす。


 ――もとより、これ以上はもう笑えない。


「今日は……」


 ――あまりにも屈辱的で口にするのもおぞましいが……っ。


本山(もとやま)大将をはじめとする将校たちの軍法会議が下した処刑の日。いま、閣下に表舞台に出てこられては陸軍としてはこまりますから」


 男が言うと、老爺はいまも変わらぬ怜悧な目元を細め、


「ふん、ワタシを存分に評価してくださるのは結構。しかし、海軍の処罰にこうまで陸軍が絡むとは……。余計なお世話だと言って、ほんとうに《長門(ながと)》か《陸奥(むつ)》の主砲を陸軍参謀本部にブチこんでやりますかね?」


 ――いっそうのこと「撃ち方はじめ」の号令でもかけてやろうか。


 半ば本気でつぶやくと、男はそれこそ勘弁してほしいと首を振る。

 現実、老爺がそれを口にすれば帝国海軍はだれひとり躊躇わず、その号令に即座実行するだろう。

 すでに実動権限がないとはいえ、明治海軍・聯合艦隊司令長官南郷(なんごう)大将……現在は退役をして元帥として列している彼の意に従わぬものなど、帝国海軍にはいない。

 老爺――南郷は帝国海軍のみならず、帝国陸軍にも強大な影響力をいまも持ち合わせている。

 南郷が軍法会議の場に姿を現し、一言「極刑に反対」と唱えれば、不満の声があろうとそれを足元に圧し沈めて降格か数か月の服役でことは済んだであろう。

 できることなら、本日処刑を下される帝国海軍の将校たちをどうにかして救ってやりたい。

 南郷にとってはかわいい子どもであり、日露戦争で皇国の興廃をかけて護り抜いたこの大日本帝国の守護を託すに値するたいせつな後輩でもある。

 とくに現在の聯合艦隊司令長官である本山大将は、南郷もひときわ目をかけていた。

 若いころから人望があり、周囲に不協があってもうまくとりまとめ、有事でなくても高潔を以て軍事を維持する日々の姿勢。

 身内からは「幕府」と謳われ、陸軍からは「桃源郷」と揶揄されたが、南郷は久方ぶりに才覚ある将校が育ってきたと実感し、何度も家に招くほど気に入っていた。


 ――それだけに、()()()()()()()()()


 自分がことあるごとに身を乗り出していては、権威はかたむく一方。

 帝国民に対する高潔、綱紀はすぐにゆがむだろう。

 それでなくてもすでに自分の名前がひとり歩きし、あたかも実在の権威となって、性根がかたむいてきた一部の海軍将校たちにいいように使われている。

 その自覚があるだけに、南郷は黙に徹した。


 ――しかも現実問題として、守護を託したはずの聯合艦隊司令部はその責務を果たせず、帝都を大火で染めあげ、十万人もの犠牲者を出してしまった。


 この責任はまさに、腹を切って詫びるしかほかがない、の一言に尽きる。

 それだけに今日という日を迎えるのが腹立たしく、無念でならない。

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