帝都大空襲と関東大震災
一二三を乗せた車が帝都に近づくまで、それほど長い時間はかからなかった。
車に乗る機会は滅多にないことなので、最初のうちは車窓から見える風景に自然と心も弾んでいたが、郊外と帝都を隔てるように流れている大きな川の橋を渡ったあたりから風景は一変し、一二三の心はしぼんだ。
日差しもあって、午前中特有の爽やかな風も吹いて、空は変わらず夏の色をしているというのに、まるでべつの世界にでも来たかのように帝都の空気……気配そのものがひどく澱んでいる。
――幼い子どもの瞳はあからさまにこわばった。
以前はあれだけ多くの家をはじめとするさまざまな建物があったというのに、それらはみな大火で焼け落ち原形を失い、あるいは爆弾投下の威力で破壊されて瓦礫の山となっていて、黒ずんだものが一帯に広がっていた。
そのなかを途方に暮れた者がすわっている。手作業で瓦礫をどかしている者がいる。
身内を探しながら尋ね歩いているようだが、その表情は沈鬱している。
背に末弟とおなじくらいの赤子を抱く女の姿が目に入る。
その手には自分とおなじ年ごろの女の子の手をにぎっていて。
女は母親のようにも思えるが、もしかすると年の離れた姉なのかもしれない若い姿だった。
車窓越しでその女の子と目が合い、一二三は瞬間、なぜか申し訳ない気持ちでいっぱいになって視線から逃げるように身をかがめてしまう。
「主要となる往来の道だけはどうにか瓦礫を撤去して確保はしたけれど、それ以上のことはまだまだ」
「これ……全部燃えちゃって、壊れちゃったの?」
「そうだよ」
「みんな、あの夜に降ってきた爆弾のせい?」
「恐ろしいことだね」
「……」
これまで一二三が知っている帝都の姿といえば、煉瓦や石造りの大きな建物がいくつもあって、その下の通りを歩く人々の顔には活気があって、雑多な会話があって、車や路面電車も楽しそうに走ってにぎわっていた。
食べ物屋からはおいしい匂いがして。
通りを歩く学生たちからは、まぶしいばかりの未来が聞こえて。
流れてくる歌謡曲はどれもハイカラだった。
――それらがすべて夢物語だったかのように変貌してしまうなんて……。
明るく感じられるものは、何ひとつ見つけられない。
――先ほど目が合ったあの子は、これからどうするのだろう……。
「帝都六割の焼失は、ほんとうに計り知れない。広域地域で大火に見舞われたところもあれば、延焼を免れた地域、爆弾の被害で炎上した地域それぞれが点在していて。逃げ出せた人、逃げることが適わなかった人と明暗が分かれてしまった」
一夜で帝都民十万人が命を落としている。
大火全体の規模と威力、逃げ惑う人々の絶望がどれほどのものだったのか。
燃え尽き、瓦礫だけを残す一帯がそれを伝えている。
「それを思うと、一二三たちが母さんといっしょに里帰り出産に出向いてくれていてほんとうによかった」
これには心底安堵しているが、被害地域でそれを素直に喜ぶのは少々憚る気もするだけに長兄の表情も複雑だ。
――それに……。
この惨憺たる光景を見るのは、帝都に住まう一定の年代の者たちにとっては、じつははじめてのことではない。
長兄――暁久も当時を知るひとりであり、いまの光景はどうしてもあの日を思い出さずにはいられない。
「――あれはまだ、一二三が生まれる前のことだった。帝都や横浜、小田原にかけて大きな地震があってね。あのときも帝都をはじめとする町々が地震によって壊滅し、大火に見舞われて十一万人近くの方が逃げ場を失って、犠牲になられた」
――忘れもしない、大正十二年九月一日。
何の予感も予見もない、いつもと変わらぬ日常の昼。
突如そこを襲ったのは、のちに関東大震災と名づけられた天変地異ともいえる大激震。
震源地でもあった横浜、小田原地域は津波の被害も重なってほとんどが壊滅状態。
帝都も日本橋、京橋、浅草、深川を焼失。
地震は町を一変させただけではなく、大正十年に行われたワシントン海軍軍縮会議で戦艦から航空母艦に改装がきまっていた《天城》にまで被害を与え、工廠で大破。結果、処分を余儀なくされてしまっている。
「私たちの家があった地域は大火こそ免れたけど、お昼どきだったから近所にもいくつか火の手はあがったし、家も幾か所か歪んでね。でもあの日は、たまたま父さんが家にいてくれて――」
見た目こそまだ身重ではなかったが、母は一二三をすでに胎に宿していた。父が母を抱きあげ、暁久はまだ幼かった十七郎を背負い、近所に住んでいた暁久の友人が蔽九郎を抱えて、地域にあった帝国海軍関連施設の敷地に逃げこんだ。
同様に多くの人たちが着の身着のまま、または咄嗟に手にした荷物を抱えて駆けこんできた。
その最中にも帝都は何度も大きく揺れ、人々の不安と恐怖は計り知れなかった。
「父さんはすぐに避難誘導と保護、火消しにまわれと現場を指示されてね。施設にいた軍人さんたちはすべてそれに従い、みんなを助けてくれた」
「そんなことがあったんだ」
「着物姿の父さんの指示に、軍服姿の彼らが手際よく動く。なんだか不思議な光景だなと思ったことを憶えているけど、それだけ父さんが上に立つ立場にあって、どれほどの信任があったのかを目で見ることができて、同時にとても誇らしかった」
当時、それまでは蜜月とも揶揄できるほどの帝国海軍と英国海軍の日英同盟は小さな綻びからはじまり、第一次大戦後の「五大国」の利害対決、大日本帝国、英国、米国、仏国による「四か国条約」の締結などで終了したばかり。
国際軍縮会議でも帝国海軍は不利の立場に立たされていて、どのような理由があろうと目立つかたちで艦艇を動かすのは軍事面で誤解を生む大変危険な状態であった。
――だが彼らは護るべきものを知り、人命を最優先に動いてくれた。
「そのとき海に出ていた戦艦《長門》や《陸奥》、多くの艦艇が被害に遭ったみんなを助けようと駆けつけてきてくれてね。私はそれを見て、知って、誰かのためになれるような海軍軍人になりたいと思って、この道を目指したんだよ」
「へぇ」
「あれから時間をかけて、やっと帝都は再建したというのに……」
逃げ場のない火災と家屋倒壊で多くの者たちが犠牲と被害に遭った。
それを教訓に、防火、防災、避難経路、避難場所の面を重々に考え、帝都は建物、公園、公道、街路樹の種類にいたるまで専門家たちが知恵を絞り、復興再建に全力を注いできた。
全国からも自分たちを使ってほしいと資材や職人たちが集まり、江戸城下開拓以来のにぎわいを見せていた。
――なのに……。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
――あの関東大震災から今日まで、わずかに数年しか経っていないというのに。
あのときの帝国海軍は、暁久の目から見ても尊崇できるものばかりだったと思われるのに。
なぜ――。
そんなふうに長兄の話を聞いていると、ある光景を目にして一二三は心底身を震わせる。
もしかすると知らずに小さな悲鳴をあげたかもしれない。
「……っ」
ほぼ平らにならされた広場にひどく黒ずんだものが無数に横たわり、あるいは山のように築かれて積まれている。
よくよく見ずとも、それが人間のかたちをしているのは一目瞭然で、ではそれが何を意味しているのか、一二三は本能で察した。
亡くなられた人を見たことはある。けれども死体を見るのははじめてだった。
どれほどの恐怖、絶望、苦痛のなかで絶命していったのだろう。
あまりにも無残な最期であったことを伝える彼ら。
ときには生々しく焼けたまま腐敗している姿に耐えきれず、一二三は両手で目元を覆う。
「あのようにご遺体を積むのは失礼なことではあるけれど、何せ十万だ。帝都が焼け野原と瓦礫の山の状態では手厚い埋葬も満足にはできなくてね。生き延びたご家族、親戚の方たちが身内の安否を尋ねて歩いている気持ちもわかるが、いまは夏。ご遺体の損傷を考えればもう限界だ」
「どういうこと?」
「申し訳ないが、埋葬ではなく火葬として供養させていただく。二度も火をかけるのはとてもつらいことだけれど」
「……」
父方の祖母が他界したのは昨年のことなので、きれいに死に化粧を施された祖母がたくさんに敷き詰められた花にかこまれながら棺桶のなかで安らかに眠る姿を見たのは、一二三もまだおぼえている。
――人は亡くなったら、このようにきれいに施されて棺桶に入れてもらうのだよ。
そして安らかな眠りと成仏を願い、きちんと手を合わせるのが礼儀だと教えられてきただけに、業火が残した十万もの無残な死体を手厚く葬ることもできないのは無念の極みとしか言いようがない。
袈裟姿の坊主が手を合わせている。
読経を唱えているそのさまは、犠牲者の成仏を願うこと以上に自身の憔悴しきったようすが色濃く表れている。
――その無念の原因が、帝都防衛に失敗した帝国海軍聯合艦隊……。
これが銃殺刑を言い渡された聯合艦隊司令長官――一二三の父の罪……。
「一二三、そのように目を逸らしていては失礼だよ。怖がらずきちんと見て、きちんと手を合わせて成仏を願いなさい」
「……はい」
長兄にやんわりと窘められて、一二三は肩をすくめ、そして素直に手を合わせて目を閉じる。
目を閉じて思った。
――これが護ることが叶わなかった惨劇……。




