▲×学舎刊 吉沢了見 編「甲信越地方 民間説話集③」より「蛟のわらし」
むかしむかし、越後国は信濃川の支流のひとつ、五十嵐川のほとりにある小さな村に、菊マサという男がおったそうな。
菊マサは、若い盛りに海へ出て、漁師をしておった。はじめのうちは事もなく営んでおったが、やがて時化の日が続き、くらしはたちまち貧しくなっていった。それに、もとより気の短いところがあったゆえ、漁師仲間ともよくもめごとを起こした。そんなこともあって、ついに菊マサは漁師をやめてしまった。
「海がだめなら、山でためしてやっぺ」
そう思い立ち、いまは木こりを生業にしとった。
菊マサは毎日山に登っては、カーン、カーンと斧を木の幹へ振りおろし、薪をこさえては麓の町まで運んで売った。けれども、はたらけどもはたらけども、くらしはちっとも楽にはならなんだ。菊マサは次第に気力をなくしていった。
「はぁ~……おら、もっと楽して暮らしてぇもんだなぁ」
そこへ、昔馴染みの悪友がやって来て、とある話を持ちかけた。山の上流にある吉之沢と呼ばれる沢に、おおきな岩魚が棲んでいるというのだ。そいつを捕まえれば大きな利になると悪友は口にするが、ふつうのやり方では捕まらぬという。
そこで菊マサどもは知恵をめぐらし、「根」を作って沢へ流そうとした。根というのは、山椒の皮や根を細かに砕き、灰を混ぜ合わせ、鍋でぐつぐつ煮込んでこしらえる毒であった。これを沢へ流せば、魚という魚はみな白い腹を見せて川面に浮き上がる、と昔から言い伝えられていた。
菊マサと悪友たちは、さっそく山から要るものを集め、三日三晩かけて根をこしらえた。
「へへっ、こんだけありゃ、十分だべ」
支度を整えた菊マサどもは、たっぷりと根を持って、山の中腹へ向かった。いよいよ流そうとしたのは、むせかえるように蒸し暑い夏の日のことであったそうな。
「およしよ……およしよ……」
そのとき、竹藪の向こうから人のような声がした。
菊マサどもが驚いて振り返ると、そこには、見たこともない不思議な生き物がおった。太く長い胴に、小豆ほどの大きさの角を頭に生やし、人の赤子のようなずんぐりとした手足でよちよちと歩く、その姿はどこか蛇にも似ていたそうな。
「な、なんじゃぁ! こ、こいつぁ!」
菊マサどもは気味悪がって、めいめい鍬や斧を手にして身がまえた。すると、その蛇によく似た生き物は、分厚い舌をちろちろとのぞかせ、怯えたように言った。
「どうか……おやめくださりませ。わたくしは、この沢を守っております、蛟の一族の童にございます」
「蛟だぁ? なんだそりゃ。化けもんのわらしがなんの用だぁ」
「先ほどから見ておりましたが、根を流そうとなさっておいででしたな。それだけは、どうかお控えくだされ。根を流されては、この沢に棲む生き物はみな毒にあたり、命を落としましょう。わたくしも、そして母も、この沢に棲むことがかなわなくなります。なにとぞ……お引き取りくだされ」
蛟の童は涙を流して懇願した。
菊マサはしばし考え、ようしわかったと、膝を打った。
「へっ、そんだけ言うんなら、まぁ根を流すのはやめてやっか」
「本当でございますか?」
「ああ、ほんとだとも……けんどなぁ、ひとつ条件があっぞ。おめぇ、蛟のわらしだ言うだな。蛟は雨呼ぶ力があるっちゅうが、ほんとがどうか、ここで降らせてみろや!」
「かしこまりました」
蛟の童は、うれしそうに後ろ足で立ち上がると、
「ううーーーん……えい!」
と両手を天に掲げた。するとあろうことか、ぽつ、ぽつ、と雫が空から落ちてきた。真っ黒い雲がどこからともなくわきあがり、たちまち大雨となった。
「おおっ! ほんに降りやがった!」
「こりゃすっげぇなぁ!」
菊マサと悪友たちは、ずぶ濡れになりながら目をひんむき、声を上げて驚いた。
「ご覧くだされ。これこそが蛟の力にございます」
蛟の童は肩で息をしながら、そろそろと手を下ろした。すると、さっきまで菊マサどもの頭上に被さっていた黒雲はたちまち消え、隠れていたお天道様が顔を出した。
「ほぉぉ……なるほどなぁ。けんどよぉ」
菊マサは濡れた顔を手で拭い、にやにやと笑った。
「山の天気は気まぐれだっぺ。こんくらいじゃまだ信じらんねぇな」
「……それならば、どうすれば信じてくださるのでしょう。――ああ、そうでございました。わたくし、姿を化える業も使えます」
「おうおう、そいつぁおもしれぇ。んじゃ石に化けてみろや!」
「そうだそうだ、蛟のわらしなら石くらいわけなくできんだべ!」
菊マサの企みを見抜いた悪友たちも、口々に焚きつけた。
「石っころになんぞ、目ぇつぶってでも化けられっぺ!」
「……お任せくだされ」
蛟の童は目を閉じると、
「えいっ!」
と、またもや両手を天に向けた。たちまち童の全身が煙に包まれ、掌ほどの石となった。
「へっへっへ! 見ろや! ほんとに石んなりやがった!」
菊マサは石を手に取ると懐へ入れ、悪友たちと連れ立って沢を離れた。
とつぜんのことに驚いた蛟の童は、石のまま声を上げた。
「どちらへ行かれるのです。どうか沢へ戻してくだされ。母のもとへ、お返しくだされ」
「へっ、心配すんな! 悪いようにはしねぇってな」
「喋る石だぁ? こんな珍しいもん、町ん衆が放っとくはずねぇべ!」
「どっかの物好きの旦那衆に売っちまや、一生遊んで暮らせらぁ!」
そう言って菊マサどもは大声で嗤い、転がるように沢を駆け下りていった。
「お願い申し上げます……沢に……母のもとへ戻してくだされ!」
「うるっせぇ! ぺちゃくちゃ喋ってんじゃねぇ!」
菊マサは石を殴りつけた。「ぐぅ」と低い音がして、石に化けた蛟の童は、それきり黙ってしまった。
日暮れ前になって、菊マサどもは麓の町へたどり着いた。
ところが、菊マサはなにかに気付いたように、懐に手をやった。
「あ! こいつ、しまった!」
懐から、業が解けた蛟の童が、力なく地へ落ちた。沢から引き離されたことに加え、殴られたこともあり、かわいそうに蛟の童は、すっかり弱り果てていた。
「おい! おいったら!」
「なんぼ小突いても起きやしねぇな」
「ど、どすっぺよ……」
菊マサどもは腕を組んでしばし考えた。これでは、利を企むどころの話ではない。
「こうなりゃしゃあんめぇ。鍋さぶち込んで喰っちまうべ!」
そう言って、元来た道を引き返し、村へ戻った。
帰りが遅いのを気にしていた村人たちは、菊マサの手にある蛟の童を見て、恐れおののいた。
「なんと罰当たりなことよ……」
そう嘆きながらも、誰ひとり声をあげることはできなかった。菊マサの荒くれぶりは、村でもよく知られていたのである。
その夜のこと。菊マサと悪友たちは、家で蛟の童を鍋にかけた。
「うんめぇ! こりゃたまんねぇな!」
「こった旨ぇもん、喰ったことあっか!」
菊マサどもの喰いっぷりは、それはそれはすさまじかった。まるで物の怪にとり憑かれたかのように、我を忘れて蛟の肉に食らいついた。鍋の底が空になってもなお、こびりついた汁を指で掬い取っては、最後の最後まで舐め尽くす始末であった。
鍋をきれいに平らげた菊マサどもは、腹をどっかりとふくらませると、大の字になってごろりと横になり、そのまま高いびきをかいて寝てしまった。
夜もふけたころであった。戸口の前で、かすかな女の声がした。
「……もし……」
寝ぼけ眼をこすりながら戸を開けてみると、そこには見たこともないほど美しい女が、ひっそりと立っていた。黒髪は長く、白い肌は月明かりを受けて仄かに光り、菊マサも悪友たちも、思わず目をみはった。
「ここへ、わらしが来なんだか……」
女はしとやかに問いかけた。
菊マサどもは互いに顔を見合わせ、女の美しさに見とれながらも、なんのことやらわからず、うろたえた。
「おらたちにゃ、覚えなんぞねぇがや」
女はしばし黙り、やがて長い髪を払った。
白い額には、人差し指ほどの蒼白い角が、つんと伸びておったそうな。
「わたくしは、蛟の一族の女。あの童の母にございます」
これを聞いた菊マサどもは、息をのんだ。鍋に煮て喰らったあの童のことを思い返したのである。されどすぐに顔をしかめ、居直って口をとがらせた。
「ふん。なにかとおもったら、あれのことか。いっとくけんどよ、おめぇのわらしが先にちょっかいかけてきたんだぞ。おらたちが山で働いてたらな、いきなり邪魔しやがってよ。だから、ちっとこらしめてやろうと思うて、村さ連れて帰って木に縛ってあるだけだ。痛めつけたりはしておらん。そう怖ぇ顔すんなや」
女は目をみはり、やがて深々と頭を下げた。
「……それは、わたくしの育てがいたらぬせいにございます。どうかお許しくださいませ」
そう申して、懐からひと包みを取り出した。
「これをお納めくだされ。これは一族に伝わる蛟の卵の殻にござります。あの童が世に生まれ落ちたときに残されたもの。これを細かく砕き、葛湯に入れて煎じて飲めば、長く命を保てましょう。これを差し上げますゆえ、どうか……わらしをお返しくだされ」
菊マサは包みを受け取り、そっと広げた。そこには、目も眩むばかりに青白く光る、大きな石のかけらが入っておった。
「ふふん……こりゃ面白ぇ。長生きできる宝だとよ」
菊マサは目をぎらりと光らせると、悪友らの耳元へ口を寄せ、こそこそと何事かをささやいた。悪友らは黙ってうなずき、炊事場のほうへ駆けていった。
「それにしても、遠いところをよう来なんした。わらしもすぐに連れてくるべ。しばし休んで、人里の食いもんでも口にしてけや」
女は頭を下げ、土間にあがった。
ほどなく悪友が茶と団子を盆にのせて運んできた。
「遠路疲れただろ。まずは腹をあっためなせ」
すすめられるがまま、女は団子をひとつ口にした。
その途端である。女は苦しげに喉をかきむしり、全身をがたがたと震わせた。
「……あぁ……わ……ら……し……」
女はその場に倒れ、こと切れた。
「へっへぇ。うまくいったべさ」
団子には、菊マサどもがこしらえた根が混ぜてあったのである。
女の息が止まると、しなやかな体はたちまち伸び広がり、みるみるうちに七尺もの大きさの蛟となった。うねる胴は土間を埋め、だらしなく伸びきった舌はたちまちのうちに蛆にまみれ、白い牙がにらみつけるように、鈍く光った。
「ひぃぃっ……!」
「気味わりぃ……こんなもん、置いとけるか!」
菊マサどもは青ざめ、蛟の死骸を縄でくくり、真夜中のうちに山の奥へ捨てに行った。
その日を境に、夜更けには山の奥より、我が子を求めて彷徨う、蛟の女の声が響くという。
「……わらしや……わらしや……」
その、低く哀しき声は谷をわたり、村にまで届き、今に至るまでやまぬと伝えられておるそうな。
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