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蛟の卵  作者: 吉沢大生
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 森の中は冷たく湿っていた。


 夜露に濡れた葉が腕や頬に触れるたび、ミユはびくりと震えた。

 光のない暗がりの中で、焚き火の幻影のような揺らめきが浮かんでは消え、地面がふわふわと柔らかく沈むような感覚が、足元から這い上がる。


 ときおり、木々の間に水面のきらめきが見えた。

 実際には沢までまだ距離があるはずなのに、そこから水の匂いがはっきりと漂ってくる。


 ——いや、これは水の匂いじゃない。ぼくはわかっていた。


 けれどミユは、その匂いときらめきに引き寄せられるように、さらに奥へ足を踏み入れていった。


 草をかきわけて進んでいくと、やがて目の前に開けた場所が現れた。

 草木が一本も生えていない地面が広がっていた。


 中央には、子供の頭ほどの大きさの黒い卵があった。


 ミユが来るのを待ちわびていたかのように、それは静かに佇んでいた。





 ▲▲▲






 ワゴン車のハッチが開き、コンテナが次々に積み替えられていく。銀色の金具がぶつかって、短い金属音が響いた。

 N大学の理学部地球環境科の吉沢ゼミに所属するメンバーのうち、最もてきぱきと出発の準備に取り掛かっていたのは、ミユだった。日が昇る直前の午前四時過ぎの頃。すでに蒸し暑くなっている中で、彼女はタブレットに表示させたチェックリストと睨めっこしながら、小さな声ではっきりと言った。


「そのコンテナ、中に入っているのは採水ボトルだから、逆さまは厳禁ね」


「了解。ポンプと水質チェッカーはこっちに入れておくな」


 レンが彼女に買ってもらったばかりだと自慢していた水玉模様のピアスを揺らし、肩でバランスを取りながら荷物を積み込んでいく。

 その後ろで、リカが眠たそうに欠伸をした。肩に下げているブランド物の蛇柄のバッグは、派手な金髪と露出の高い服装の彼女にはお似合いだった。


「よし、これで全部か?」


「いち、に、さん、よん……オッケー。バッテリーは?」


「ここに二基。モバイルも一応準備した」と、マサが足元の黒いケースを日焼けした手で叩いた。


「よし。じゃ、行きますか」


 ゼミ長のヒロが運転席に乗り込み、エンジンが目を覚ました。座席の背もたれからシートベルトの噛む音がした。


 ぼくは身を乗り出し、窓の外に視線を置いた。街が早足で後ろへ流れていく。コンビニの白い灯りが一瞬だけフロントガラスを照らし、次の瞬間には消えていった。


「今日は下流から5ポイント、そのあと上流へ3ポイント移動して、採水するようにしよう」


「ねぇ、本当にこのルートで行くつもりなの?」


 助手席に座るアキが、タブレットで地図を拡大表示しながら、怪訝そうに声を漏らした。


「アキ、なにか気になることでもあんのか?」


「気になるって言うかさ……」


「別に肝試しに行こうってわけじゃないんだから、そう身構えるなよ」


 ヒロが唾を飛ばしながら笑った。鍛え上げた大胸筋を見せびらかすためか、ブルーの半袖シャツは明らかにサイズが合ってない。ホワイトニングした真っ白い歯を見せて笑うたびに、いまにも第二ボタンが弾け飛ぶんじゃないかとヒヤヒヤする。


「そーそー。水質調査だよ水質調査。卒論の中間発表も近いしよ。吉沢先生からオッケーもらうのに、データは必要だろ?」と、いちばん卒論研究の進んでいないであろうレンが、呑気そうに言った。


「まー、レンの言う通りデータは必要だけどさ……私、昨日少し調べたんだよね、あのルート」


「おー、なに? 珍しく真面目じゃん」


「茶化さないでよ~も~………あのね。今日行く予定の沢のルート、そのむかしに事故があったらしいよ」


「事故? 俺らが今日行く予定のところで? マジ? マサ知ってた?」


「いや、ぜんぜん。もしかして滑落事故? それともクマに襲われたとか?」


「あそこ、そんなに危険な場所じゃないけどね」


 ぼくがそう口にした直後、アキが嫌そうに口にした。


「溺死だよ」


「は? 溺死? マジ?」


「十五年くらい前にね」


 今度はユウタが、スマホを弄りながらそう付け加えた。


「あれ、ユウタも知ってんの?……って、そうか。地元こっちなんだっけ?」


「ああ。そこそこ有名な話だよ。今日行くところ、もともとはキャンプ場だったらしくてね。親がちょっと目を離した隙に、子供が川で溺れて亡くなったらしい。で、そんなことがあったもんだから、キャンプ場も閉鎖して、すぐ取り壊されたってわけ」


 話の内容が内容なだけに、車内に沈黙が下りた。


「朝っぱらからテンション下がること言うなよなあ」と、レンが眉をひそめた。


「いや、まだ微妙に夜だからセーフっしょ!」


 マサのよくわからないフォロー。いつも通り、薄い笑い声が車内に広がった。


「たしか、上流のほうに祠があるんだよね? もしかして、鎮魂のために建てられたのかな」


「いや、そんな最近のものじゃないよ」


 ミユの素朴な疑問に、ユウタが反応した。ゼミでいちばんの秀才と言われる彼は、眼鏡の鼻当てを軽く押しながら言った


「市立図書館で調べてきたけど、祠はミズチを祀るためのものらしい。いつ頃に建てられたのはよくわかってないんだけどね」


「ミズチ…………」


「ミユ、知ってる?」


「たしか、水に棲む神様だよね」


「へー、良く知ってるね。どこで知ったの?」


「うーん。どこだろ? なんとなく知ってた、みたいな?」


「なになに? そんなに有名な神様なの?」


「虫へんに交わるって書いて(ミズチ)。ミユの言う通り、水に棲む蛇の神様だね」


「げ、蛇出るの?」


「リカ、蛇苦手なんだっけ?」


「マジ無理」


「蛇柄のバッグ持ってんのに?」


「これは彼氏に買ってもらったやつだって! 前に話したじゃん! だからこれはいーの!」


 リカはギュっとバッグを手元に引き寄せてそっぽを向いた。


「大丈夫だよ、リカ」


 安心させるようなユウタの声。


「蛟なんて、ただの伝説だからさ」


「あたしは実在する蛇の話をしてるの!」


「それも安心して。マムシやヤマカガシの目撃例は少ない。アオダイショウはいるらしいけど」


「いるんじゃん!」


「無毒だから」ユウタが笑いながら軽く返す。


「無毒だからオッケーってわけじゃないでしょ。吉沢先生なら言いそうだけど」


 車内に笑い声が漏れた。


「もし見つけたらインスタ載せるか。ミユ、頼んだわ」


「え、あ、うん……え、本気?」


 車内に、さっきより大きな笑い声が満ちた。ミユは恥ずかしくなったのか、肩を縮こまらせた。


 車はやがて高速を降り、谷筋に沿ってくねった道に入った。目の前にトンネルが迫ってくる。


「ここ、事故多発地帯だから、気を付けてね」


 ユウタが運転席に座るヒロに向けて忠告した。


 しばらくして、ぼくらはトンネルを抜けた。


 朝霧が次第にほどけて、山肌の緑が遠目にも少しづつ露わになってくる。


 少し開け放たれた窓の外から、湿った空気が流れ込んで、ぼくの頬を撫でていった。土と苔の匂いがのぼってくる。その匂いに、どこか懐かしさを感じた。昔、じいちゃんと一緒にカブトムシを捕りに出かけた時に感じた、あの時の匂いによく似ていた。


「雨だ」


 思わず声に出た。ぽつ、ぽつ、と、フロントガラスを叩く音が、次第に大きくなってくる。


「うわ、マジか。降ってきたぞ」


「窓閉めろ、窓」


「天気予報だと晴れのはずだったけど……どうする?」


「あと三十分ちょっとだから、このまま行こう。雨合羽は全員持ってきてるよな?」


「そりゃ持ってきてるけど……ヒロ、本気か?」


「さすがに雨足がこれ以上強くなるようだったら引き返すけど、この程度なら問題ないだろ。リカ、上着用意しておけよ。あと、雨合羽忘れてないよな?」


「忘れてない。ミユが昨日『山の天気は変わりやすい』って十回言ったから」


 リカの言葉に、アキが肩をすくめる。


「なにそれ。お母さんじゃん」


「ねー、一回言えばわかるのにさー」


「十回も言ってない」ミユが小さく抗議して、笑い声が前から後ろへ流れた。


 そんな彼らをいちばん後ろの席で眺めながら、ぼくは窓の外に視線を向け続けた。






 ▲▲▲






 みんなの心配は杞憂に終わった。林道の終点にある駐車場に車を停めた頃には、雨は収まっていた。時刻は朝の七時を迎えたばかりで、雨雲の代わりに太陽が顔を覗かせていた。日の光はまだ斜めで、杉の幹の間に白い筋を落としている。


 ぼくは一足先にワゴン車から降りた。あたりは鳥の声で満たされていた。頭上を見ると、木々の葉に喰い破られた青が見えた。


 荷物を降ろすとき、レンが「これ重いから俺が持つ」と言って、さっと担いだ。マサが支える。ユウタが「転ばないでくれよ」と言って笑う。


 ミユはチェックリストの最後の枠に丸を付け、顔を上げた。


「ユウタくん、ここにあったキャンプ場って潰れちゃったんだよね?」


「ああ。それがどうしたの?」


「いや……駐車場だけが残ってるの、不思議だなぁと思って」


「俺らみたいなのが来るから、残してくれているんじゃね?」レンが採水ボトルを抱えながら言った。「他の大学の分析化学系の学生たちも、ゼミの課題とか先生のフィールドワークの付き合いで、結構ここ使うらしいぜ」


「いいデータが取れそうだよな」マサがザックを背中に担ぎながら言った。


「ねぇ、ちょっと聞いてよ」


 駐車場併設の女子トイレでアウトドアウェアに着替えたリカが、ぼくらのところに戻ってくるなり、縋りつくように言った。


「トイレの壁に変な落書きがあってさ––」


「らくがき? どんな?」とぼくは訊いた。


「––こんな感じのやつなんだけど」


 リカは、ネイルで装飾された爪でスマホの画面をタップして、写真アプリを立ち上げた。







 たまご、みつけて、おねがい、オねがい







 スマホ画面に映し出された個室の壁に、血のような色でそう書かれていた。


「たまごってなに?」


「いやあたしに聞かないでよ知らないよ」


「子供の悪戯なんじゃないの?」


「にしてはちょっと不気味だね~」


「あれじゃね。キャンプやってたときにオムレツ作ろうとしたやつがいたんじゃね?」


「マサ」


「なに?」


「座布団、全部没収ね」


 ぶった切るようなアキのツッコミが、白けた空気を払拭してくれた。

 その場にいたみんなが呆れつつも失笑し、各々のやるべきことに戻っていった。


 でも、ミユだけが、女子トイレのある方角をじっと見ていた。


「……ミユ、はやく行こうよ。みんな待ってるよ」


 声をかけると、彼女は遠くに川のせせらぎを聞いたような表情で、視線を下に向けた。






 ▲▲▲






 土の道はすぐに狭くなって、片側が沢へ落ち込んでいた。足を置くたびに湿った土が少し沈む。落ち葉が厚く、踏むとわずかに甘い匂いが立った。


 前から一定の間隔で、沢の音がほどけて届く。最初は遠く、次に少し近く、そしてまた遠くなる。木々の間隔が変わるたび、音の高さと速さも変わった。


「ここの石、滑るから気をつけろよ」レンが振り返って注意を促す。


「ミユ、ザック重い? 代わろうか」ユウタが声をかけると、ミユは首を振った。


「平気。重いのはボトルだけだから」声にどこか元気がない。でも、ぼく以外だれもそのことに気付かない。


「頼もしいじゃーん。じゃあお任せするね」ヒロの隣にぴったりくっついて先を歩くアキが、けらけらと笑った。


 最初の採水ポイントに着いた。斜面からしみ出した水が細い糸になって落ち、小さな浅瀬で広がっている。


「水温、11.3」マサが読み上げる。


「pH、6.6」ユウタが試験紙の色を見てメモを取る。


「濁度ほぼゼロ。流速は……測るほどでもないな」レンが棒を水面に差し入れて苦笑いした。


 ミユはボトルを両手で支え、首のところを一回ひねってから、下流を流れる水を受けた。空気のかたまりがひとつ、ボトルの中を上に登って消えた。


「ラベル書くから、番号言って」


「S-01、ちなみに下流左岸Aポイントな」


「OK」ミユの持つ黒いマーカーペンが、白いラベルの上を走った。


 ぼくたちの作業は滑らかに進んだ。次のポイントへ移動する途中、苔の厚い倒木を跨いだ。幹の裂け目には、まだ湿った樹皮が柔らかく残っていて、指で押すと跡がつきそうだった。

 沢から来る風が、斜面に並ぶシダを微かに揺らした。

 誰かが枝を踏んで音を立てるたび、鳥の鳴き声が一斉に高くなる。すぐに元の高さに戻る。


「アブラゼミ、もう鳴いてる」


 ぼくは耳を澄まして、みんなと一緒に歩き続けた。


 上流に向かうほど、谷は狭くなった。苔の色が濃くなり、湿気が増え、頭上から降り注ぐ光が細くなった。


 沢へ向かうほど、足元が緩くなっていった。

 レンが先に下って手を伸ばす。でも、後に続くミユはその手を取らなかった。


「大丈夫。自分で歩ける」


 そう言って、足場を確かめてから自分で沢へ下りた。膝の角度が正確で、重心の移し方に無駄がない。


「ミユって、こういうところ歩くの上手いんだな。初めて知った」レンが感心したように言う。


「小さい頃、家族で山にキャンプしに行ってたからね。こういうのは慣れてる」


「へぇ。ここみたいなところ?」


「うん……」ミユが一瞬だけ目線を上げ、ぎこちなく笑みを浮かべた。「曖昧な記憶だけど」


 昼を少し過ぎた頃、空に薄い雲が流れてきた。


 ぼくらはタープを張れる平らな場所を見つけ、そこで軽い昼食を摂ることにした。ミユのザックから食料が出てくる。パンに挟んだチキンと、固いチーズと、細長いトマト。彼女がみんなのために早起きして作ってきた、定番のサンドイッチだ。


「カロリーは正義だよな」


 マサがものすごい速さで食べ終えた。


「相変わらず喰うの早いな。ほら」


 ヒロが水筒に入った水をマサに手渡しながら、みんなに呼びかけた。


「水分はいまのうちに取っておけよ。午後は上流の調査に入るからな」


「了解」


 ミユは口の端に付いたパンくずを指で払って、ペットボトルのキャップを静かに回した。

 最初の一口を飲み込むとき、彼女の喉がひとつ鳴った。ぼくの耳がその小さな音を、ほとんど反射的に拾った。


「上流の調査が済んだら、ためしに祠に行ってみるのもいいかもね」


「祠って、どの辺にあるんだっけ?」


 アキがサンドイッチを頬張りながら訊いた。


「支流の合流点から左に少し入るとあるらしい。ここからだと……1時間くらい歩くかな」


 昼食を摂り終えたユウタが、タブレットを指でなぞって位置を確かめる。


「マジで言ってる? あたしもう足パンパンなんだけど」適当な岩に腰かけたリカが、あからさまに不満の声を漏らした。


 それでも、男連中は祠に行く気満々のようだった。卒論研究のデータ取りのために来ているとはいえ、大学から三十キロも離れた自然豊かな山に来たことで、少年心が目覚めたのか。彼らは乗り気ではない女性陣たちをあの手この手で説得すると、昼食を早めに切り上げてタープの片づけに入った。


 上流の水質調査にひと通り目途がついたところで、ぼくらは祠へと足を運んだ。

 斜面をよじ登ると、木々の切れ間に、灰色の影がぽつんと現れた。


「お、あれがほ、こ……ら、か……」


 先陣を切るように口にしたレンだったが、その声が尻すぼみに小さくなっていった。ほかのゼミ仲間たちも、祠の姿が目に入るやいなや、なんと感想を口にしていいのかわからないのか、ポカンとしている。


「い、意外と小さいんだね」


 マサが絞り出すようにありきたりな感想を口にした。実際、祠はこじんまりとしていた。高さは人の背丈ほどしかなく、屋根は反り返った朱色の板が何枚も欠けて、雨水が流れ込んだ跡が黒ずんで筋を作っていた。柱はねじれるように傾き、指で押せばそのまま簡単に崩れそうだ。


 祠の前には低い石段が三段ほど残っていたが、苔が厚く張りつき、ところどころに雨水が溜まっている。踏むとぬるりと滑り、独特の下草の匂いにアキとリカが顔をしかめた。


「もう完全に打ち捨てられてるな」


 ユウタが鳥居の残骸らしきものを見つけて、吐き捨てるように言った。二本の柱はまだ立っているものの、上を横切る笠木は真ん中で折れ、泥に半ば沈んでいる。注連縄はすっかり腐り落ち、白い紙垂は色も形もなくなって、ただ黒ずんだ繊維がぶらさがっていた。


 その足元に、奇妙なかたちをした石細工がいくつも散らばっていた。


「なんだよこれ……気味が悪ぃな」


 ヒロがスマホのカメラ越しに顔をしかめた。

 奇妙な石細工は拳大から子供の頭ほどの大きさまで様々で、人の指や掌、足の裏の形を模していた。


「これが蛟……なわけないよね」


 マサが頬を引き攣らせている。


 石細工の指はどれも五本揃っているが、節が異様に強調されていて、骨ばって突き出ている。足裏を模した石は、土踏まずのくぼみまで写し取ったように不自然にリアルだった。


「ねぇ、気分悪くなってこない?」


 同意を求めるようなアキの言葉を無視して、ぼくは石細工の表面をまじまじと観察した。石の表面には細かい皮膚の皴まで再現されていた。まるで実際の人間の手足を鋳型にして焼き固めたかのようだった。


「うわ、いるじゃん。なんか」


 レンが祠の内部を覗いて、嫌そうに眉間に皴を寄せた。

 朽ち果てた木枠の奥に、崩れかけた石の台座が見えた。なにかを安置していたかのような窪みがあるが、いまは空っぽだった。

 石細工の破片と、湿った土や木屑が積もり、細い虫がうごめいていた。


「うげ、それ蛆虫?」


「なにビビってんだよ、マサ。俺ら普段から触り慣れてるだろ」


「レンだってビビってたじゃん……てか、なんで蛆虫が湧いてんだ? 野生動物の死骸なんて、どこにもないのに」


「ていうか、ここ本当に蛟を祀っている祠なのか? どうもそんな雰囲気じゃなさそうだけどな」


 ヒロがユウタに尋ねるも、まさかここまで祠が朽ち果てているとは、ユウタも思っていなかったのだろう。ヒロの問いに対して「そのはずなんだけど……」と自信なさげに答えた。


「ねぇ、もう戻ろうよ。あたしここにいたくない」


 アキがヒロの腕を掴んで、駄々をこねるように言った。


「そうだな。駐車場まで戻るか。ホテルのチェックインに間に合わせないとな」


「はやく露天風呂はいりてー」


 ヒロの後ろをレンやアキ、他のメンバーがぞろぞろついて歩く。時代に置き去りにされた蛟の祠から逃げるように。振り返る者は誰ひとりとしていない。


 ただひとり、ミユだけが祠に向かってしゃがみ込んで、掌を合わせて祈りを捧げていた。


「ミユ……」


 戻ろうよ――そう声をかけて肩に手をかけた拍子に、ミユの体が強張るのがわかった。

 長い睫毛を伏せて、彼女はぎゅっと目を閉じていた。


「ちょっとミユ、なにやってんの?」リカが半笑いで声をかけた。けれどミユはすぐには答えなかった。


 周囲に風はないのに、木の葉がかさかさと鳴る音がした。


 なにかが、祠の奥からこちらを見ているような気がした。





 ▲▲▲





 山の天気は変わりやすい――ミユがしつこく口にした通りのことが起こった。


 祠の探索を終えて下流へ戻ろうとしたときだった。急に空が暗くなってきたかと思いきや、またぽつぽつと小雨が降り始めた。


 みんなが雨合羽に着替えているうちに、雨は次第に本降りになり、あちこちで雷鳴が轟き始めた。


 当然ながら、沢の水位はどんどん上がっていった。河の流れは濁流に代わり、のたうつ蛇のように暴れ回った。斜面の土がスポンジみたいに水を吸い込み、足元がぬかるむ。


 全員、フィールドワークに適した服装をしているが、豪雨はみんなの体力と気力を容赦なく奪っていった。


「このままだと戻れねぇぞ!」レンが叫んだ。


「みんな! 一時、高台に避難しよう!」ヒロが素早い判断を下した。


 全員、沢から離れるように、必死で藪をかきわけた。男連中は無言で斜面に足をかけ、女性陣はミユを除いて、ぶつぶつと不満を零している。それも、この激しい雨音でかき消されてしまっているが。


 やがて、ぼくらは大きな岩が傘のように出っ張った地点を発見した。我先にと岩の下に転がり込み、ザックを下ろして一息をついた。

 けれど、状況は依然として好転しなかった。雨足はますます強まるばかりで、時刻はとっくに夕暮れに近づいていた。


「これ、帰れるのかよ……」マサが気の弱い声で言った。


「さすがに明日の朝には止むだろうけど、ホテルにはキャンセルの連絡入れるしかないな」


 ヒロがスマホを取り出し、ホテルの連絡先番号を入力しながら、残念そうに口にした。


「汗でびしょびしょ……今日はここで野宿ってわけ?」


「その言い方やめろってリカ。グランピングとか、ほかに表現あるだろ?」


「はぁ? どこがグランピングなのよ」


「いやだから。こう、なんつーか。俺ら自然を満喫してます!みたいな。なあ、気持ち切り替えてこーぜ」


 務めて明るく振る舞うレンだったが、この状況では、彼の軽さは逆効果だ。案の定、ペットボトルの水で喉の渇きを潤したリカが、眉間に皺を寄せて言った。


「つーかさ、レンが祠を見たいなんていうからこうなったんじゃん。祠無視して下山してたら余裕で間に合ったっしょ」


「は? いや、俺じゃねーし。ユウタだから」


「なに言ってんだよ。俺は祠までの道を調べただけだ」


「ねぇ、クマ出ないよね? 俺いやだよ。こんなところでクマに襲われるのは––」


「マサやめてよ。クマとか言わないで」


「アキ、イライラするなよ。マサの心配性はいまに始まったわけじゃないだろ」


 ぼくも含めて、怒りに任せて声を荒げる人は誰もいなかった。でも、予想外の豪雨に見舞われて、宿泊するはずのホテルもキャンセルすることになって、みんなストレスが溜まっているのはたしかだった。


「一晩、ここでやりすごそう。もし明日の朝になっても雨が止まなくて下山が難しかったら、救助隊に連絡することも考えた方がいいかもな」


 ヒロが言った。救助隊、という物々しいワードに、その場にいたみんなが軽く凍りついた。


「ホテルはどうなった?」


 地面に下ろしたザックから軽食を取り出しながら、ユウタが振り返り、尋ねる。


「いまさっきフロントにお願いして、キャンセルしてもらった。当日キャンセル料金は後日徴収するから」


「マジ最悪」


 苛立ちを隠そうともせず、リカが空になったペットボトルを明後日の方向へ放り投げた。ペットボトルはそのまま転がって、吸い込まれるように濁流に呑まれ、あっという間に見えなくなった。


 誰もリカの行動を咎めなかった。


 ただ、ミユだけは何かを口にしたそうに、じっと暴れ狂う濁流を眺めていた。





 ▲▲▲





 河の流れが穏やかになるのを、みんな口に出さずとも祈っていた。そうこうしているうちに、闇が森の奥から這い寄ってきた。


 ヒロとレンがキャンプ用のガスコンロで火を起こし、残るメンバーたちで岩の下にタープを張り、カセットコンロを用意して、軽めの夕食の準備に入った。万が一の場合に備えて、ヒロが人数分のレトルトカレーと米を持ってきてたのが功を奏した。さすがはゼミ長なだけあって、準備がいい。


「雨の勢い、ぜんぜん収まらないね」


 いのいちばんにカレーを食べ終えたマサが、焚火と濁流とを交互に眺めながら、心細そうにつぶやいた。


「しょうがない。こういうときは、これに限るな」


 ヒロがザックの中を漁り始めた。まだほかに食べ物を持ってきているのかと思ったけど、違った。

 出てきたのは紙袋だった。ヒロが中身を取り出していく。缶ビールと、赤ワインのボトルが三本。


「さすがヒロ。準備がいいな」


 レンが同好の士を見つけた喜びに笑みを浮かべ、同じようにハイボールの缶を3本、ザックから取り出した。


「ちょっと、いつもより多くない?」アキが声を潜めた。


 宿泊を兼ねた調査の際に、決まって男連中は酒を持ち込んでいた。それはぼくの知るところもであり、女性陣も知っていた。だから、いまさら過剰に咎めるようなことは、誰もしなかった。吉沢ゼミ四年クラスの面々にとって、これはもはや普通の光景だった。


「飲まなきゃやってられないだろ」


「オヤジか」


 そういうリカも、柑橘系サワーの缶を口元へ傾けている。アキもマサも紙コップを手に、ヒロから注いでもらった赤や白の液体をちびちびと口に運び、雨音の騒々しい夜をやり過ごそうとしている。


「ミユも飲みなよ」


 ユウタが、女子ウケの良いデザインで知られるチューハイの缶を、みんなから少し離れたところに座っているミユへ差し出した。


「遠慮しとく。それに、お酒弱いし」


 ミユが苦笑いを浮かべて首を横に振った。


「ん? そうだっけ? 意外と飲んでみると美味しいよ」

 

 そう口にするユウタの顔は、すでに少し赤らんでいた。普段の秀才ぶりを、その顔に見てとることは、ぼくにはできなかった。


「いいって。ありがとう。気持ちだけ受け取っておく」


 頑ななミユの態度。ユウタは少し鼻白んだ様子で彼女から視線を外し、みんなの輪に戻っていった。


 ぼくもミユと同じく、みんなの輪から離れたところで、焚火の輝きを受けて、黒く光る河の流れを、じっと眺めていた。


 時間が進むにつれて、輪の中の声は大きく、間延びしていった。誰かが歌を口ずさみ、誰かが笑いを堪えきれずに膝を叩く。


 決して気を許して良い状況ではないはずのに、吉沢ゼミ四年生グループの雰囲気は緩みきっていた。みんなの顔が紅く見えるのは、焚火の照り返しのせいだけでないのは確かだった。空になった缶や瓶の数が足元に増え、転がるたびにカランと音を立てた。


「……にしても不気味だったな、あの祠」


 レンが缶のプルタブをいじりながら、ふとそんなことを口にした。


「指とか足とか、あんなものを祀ってたのか? どういう祠なんだか」


「誰かの悪ふざけかもね」と、ワインボトルに直接口をつけたユウタが、唇の端から垂れる血のような色の液体を手の甲で拭いながら言った。


「悪ふざけ?」


「俺らみたいなのをビビらせようって、誰かが自前であれを作って、わざわざ置いたのかも。見たところ、そんなに年季を感じさせるようなもんでもなかったし」


「皮膚の皴まで再現されてたよね。あー、思い出すだけで気持ち悪い」


「ユウタの推測通りなら、相当な暇人もいたもんだな」


 そうヒロは蔑むように言うと、胸ポケットから電子タバコを取り出した。有害なニュアンスを払拭したような、その流線形のボディ。ブレードが加熱しきったのを確認してから、口に運ぶ。


「ちょっと、吸うんだったらあっちで吸ってよ」


 アキが鼻をつまみ、大袈裟にリアクションを取った。でも、ヒロはどこ吹く風といった具合だ。


「いいだろ。焚火の臭いに紛れるし」


「紛れてないから」


「それにさ、知ってるか、アキ。山でタバコを吸うと、幽霊とか妖怪とか、寄ってこなくなるんだぜ」


「なにそれ。迷信でしょ? てか、祠とか幽霊とか、怖いこと言わないでよ。それに、あたし幽霊とかそういうの信じないし」


「おいおい、発言が矛盾してるぞ」


 ヒロがからかい、男連中がつられて笑った。


「――幽霊」


 と、いままで口を噤んでいたミユが、唐突に口を開いた。


「お、なに? ミユは幽霊信じるタイプ?」と、ヒロが水を向ける。

 けれど、ミユはどこか遠くを見るような眼差しで、滔々と口を開いた。


「……あたしは、信じるタイプ」


「へぇー! 意外。なに、幽霊見たことあるの?」


 マサが馴れ馴れしそうに身体を寄せる。ミユは少し尻を浮かして若干距離を取りながら、慎重に話し始めた。


「直接見たことはない。けど……子供の頃から、誰かに見られている気がする。学校の登下校の時とか。修学旅行でユニバに行ったときも、あたしがアトラクションに並んでいる時に、じっと後ろから誰かに見られている気がして、振り向いたら誰もいなかったとか……大学入試のときもそう」


「大学入試?」


「後ろの席から視線を感じて……試験中だったから振り向くことはさすがにできなかったけど、じーっと見られてる気がしたの」


「たまたま、後ろ姿フェチの変質者がいたんじゃね?」


 レンが茶化すが、誰も乗ろうとはしなかった。

 パチパチと焚火が弾ける音が、やけにその場に響いた。

 気づけば、すでに雨は止んでいた。


「気のせいだって、ずっと自分に言い聞かせてきたの。あたしの思い過ごしだって。でも、なんかずっと視線を感じるの。ここ最近はとくに……」


「もしかしてだけど」


 ユウタがおそるおそる聞いた。


「ここに来てからも?」


 ミユが黙って頷いた。


 レンも含めて、その場の全員が息を呑んだ。


「車の中とか、駐車場でも、誰かに見られてたり、声のようなものが聞こえたりして……雰囲気悪くするのも嫌だから、ずっと黙っていたんだけど……もう我慢できなくて。それで、あの祠にお願いしたの」


「お祈り捧げてたよね。まさか、そういうこと?」


 リカの問いに、ミユが気まずそうに頷いた。


「祠に祀られているのが蛟なのかどうかわからなかったし、そもそも蛟に祈ってなにか解決するわけでもないってわかってるけど……」


 そこで沈黙が下りた。


 遠くで、沢の流れる音が聞こえる。







 ▲▲▲







 水を被って焚火の灯りは消え、あたりには闇しか広がっていない。


 沢のせせらぎをBGM代わりに、アルコールを睡眠導入剤代わりにして、吉沢ゼミの四年生たちは寝袋にくるまって、深い夢の世界にいる。


 ただひとり、ミユだけが取り残されていた。


 彼女は寝袋の中でもぞもぞと寝返りを打っていた。自分から怖い話をしたことが、尾を引いているんだろうか。いつまで経っても、寝る気配がしなかった。


 それにしても、怖い話か。

 ぼくとしては、彼女が自身の体験を『怖い話』として認識していることに、すこしがっかりしている。


「……誰?」


 と、不意にミユが上体を起こした。目を眇めて周囲を見つめる。返事はなかった。


「ねぇ……誰なの?」


 慌てた様子で、手元の懐中電灯を点けて確かめる。だが、丸い光の軌跡が映し出すのは、濡れた岩と黒々とした木々だけだ。





 こん こん こん こん こん こん……





「なに、なんの音……?」

 恐怖心を紛らわせようとしているのか。ミユの独り言は続く。





 こん こん こん こん こん こん……





「この音……どこから響いてるの……?」

 聞き間違いじゃない。彼女の耳には、たしかにそれが聴こえていた。ぼくの耳にも。

 くぐもったように響くのは、薄くて硬い板を、指の節で弾いているような音だった。規則的なリズム。





 こん こん こん こん こん こん……





 ミユは奥歯を震わせながら、隣で眠るリカの体を寝袋越しに揺すった。

「ねぇリカ! リカ起きて!」

 ミユの声は切迫していた。でも、リカは目を覚ますどころか、気持ちよさそうに寝息を立てるばかりだった。





 こん こん こん こん こん こん……





 だんだん音が近づいてくる。沢の方角から近づいてくる。

「た、たしかめなくちゃ……」

 ミユは懐中電灯を手に立ち上がると、岩の下を抜け出した。死んだように眠るゼミ仲間たちへ一瞬視線を向けるが、まるで見えない糸に引っ張られるかのように、そのまま静かに夜の森を歩き出した。





 こん こん こん こん こん こん……





 謎の音は鳴り続けている。まるでミユを誘い込むように。

 ゆっくり慎重に足を進める彼女の後ろに、ぴったりとぼくもついて回った。


 森の中は冷たく湿っていた。枯れ枝が折れる音が連続し、土が跳ねた。


 雨に濡れた葉が腕や頬に触れるたび、ミユはびくりと震えた。


 光のない暗がりの中で、焚き火の幻影のような揺らめきが浮かんでは消え、地面がふわふわと柔らかく沈むような感覚が、足元から這い上がる。


 ときおり、木々の間に水面のきらめきが見えた。


「……あれ」


 歩きながら、ミユは疑問を口にせずにはいられなかった。







 こん こん こん こん こん こん……







「……沢の方からじゃ、ない……?」


 実際には沢までまだ距離があるはずなのに、すぐそばから音が聞こえてくる。加えて、水の匂いもはっきりと漂ってくる。


 ——いや、これは水の匂いじゃない。ぼくはわかっていた。


 けれどミユは、その匂いときらめきと、そして謎の音に引き寄せられるように、さらに林の奥へ足を踏み入れていった。


 草をかきわけて進んでいくと、やがて目の前に開けた場所が現れた。


 草木が一本も生えていない地面が広がっていた。


 中央には、子供の頭ほどの大きさの黒い卵があった。


 ミユが来るのを待ちわびていたかのように、それは静かに佇んでいた。



 こん こん こん こん こん こん……



 音は、その黒い卵から鳴っていた。


 ミユが懐中電灯の光を、ゆっくり、舐めるように卵へと向けた。

 卵の表面は、墨を流し込んだように真っ黒だった。表面には細かな突起がびっしりと並び、まるで湿った皮膚の毛穴が膨れ上がったかのようだった。


 こん こん こん こん こん こん……


 音に合わせて、卵の表面がわずかに盛り上がった。最初は微かな震えにも似ていたが、だんだんと、その動きが強くなっていくのがわかった。


 こん こん こん こん こん こん……


 ぶにゅ、と黒い殻が内側から押し広げられる。硬いはずの殻が、指で圧し潰されたゼリーのように、ぐにゃりとゆがんだ。その拍子に、懐中電灯の光を受けた部分が薄く透けてみえた。


 ミユが後ずさり、小さな悲鳴を上げた。

 殻の内側に、青黒い血管のようなものが広がっている。


「なん、なの……これ……」


 こん こん こん こん こん こん……


 一定のリズムで、胎児が母の腹を蹴るように黒い影が殻の裏を叩いていた。節くれだった突起が殻を押し出しては引っ込み、まるで指の骨が幾本も中でうごめいているようだった。


『蛟のたまごだよ』


 ミユが驚いた顔で、ぼくの方を見た。


『ああして、生まれる時が来るのを待っているんだ』


 彼女の白く、きれいな生足に縋りつくぼくの姿を見て、彼女は恐怖に顔を引き攣らせ、奥歯をがちがちと鳴らしていた。大方予想通りの反応だけど、実際にそんな顔を向けられると、少し心が傷ついた。


「あ、ああ……あ、あ……」


『ミユ、安心してよ。元の場所に還るだけなんだから』


「き、きみ……そ、その、かお……」


 やっぱり、この顔がいけないのか。でも、ぼくにどうこうできる話じゃない。長く放置された水死体がどんな状態になるかなんて、じいちゃんだって教えてはくれなかった。


『もしかして、覚えてないの? ぼくのこと』


「しっ……!」


 肺の中の空気をすべて出し切ってしまったような声。言葉になってないけど、ぼくにはわかる。


 知らない。あなたのことなんて。もしかしてずっと付きまとっていたのはあなたなの? あたしをどうする気なの――たぶん、こんなことを聞きたいんだろう。


 ぼくとしては、そのすべてに丁寧に答えてあげる義務はない。それに時間もない。


 卵が、孵り始めている。


 その証拠に、音はさっきからずっと大きさを増していた。次第に殻の表面に薄い亀裂が入り、そこから黄緑色に濁った粘液が漏れて、涎を垂らすように卵の表面を伝って垂れた。地面に落ちた瞬間、じゅっと熱した鉄板に水をかけたような音がして、白い煙が上がった。草木が一本も生えてない土が、灼けたように黒く煤けた。


 やがて、喉の奥を掻きむしるような腐敗臭が辺りを満たした。

 ミユは堪えきれず、むせるように咳き込んだ。


『ねぇ、ミユ。いい加減、現実に目を向けようよ』


 涙目になって話を抑え込み、忙しない様子でぼくと卵の両方に視線を向ける彼女へ向けて、ぼくは足元から口にした。はっきりと。今度はしっかり、彼女に聞こえるように。







『君もとっくに死んでるんだ。ぼくを助けようとして。キャンプで溺死したのは、ぼくだけじゃないんだよ。忘れたの?』







 ぼくのその一言は、彼女の古い記憶を呼び覚ましたようだった。ミユの目が大きく見開かれ、ずるぅ……と大きく落ち窪んだ。


 長く艶やかだった髪は、根元からずるりと抜け落ち、顔の皮膚がめくれるように剥がれていく。

 黄色く濁った脂肪が滲み出し、筋張った筋肉が露わになり、そこからまたどろどろと崩れた。

 華奢だった肩も、慎ましい胸も、そしてぼくが縋りついていた生足さえも。

 すべてが水に溶けるように、ぐずぐずと腐り落ちていった。

 その肉の裂け目から、一斉に蛆虫が湧き出した。蛆虫たちは、まるで失った時間を取り戻すかのように、ミユのからだのあちこちを貪り始めた。


 と、ついにその時が来た。


 こん こん こん こん こん こん……パキッ……と、音がした。


 見ると、黒い卵の殻が、中央からぱっくりと割れていた。そこから夥しいほどの、指、指、指、指、指、指――手や足の指のかたちをしたなにかが、腐り果てたミユの体だったものへと殺到した。ぼくも初めて見る光景だった。指には無数の目と一対の小さな牙があった。目には瞼まであった。でたらめに瞬いて、ときおり白目を剥きながら、気が狂ったかのように、蛆虫ごとミユのからだにかじりついていった。


 ミユの体が骨だけになるのに、十分とかからなかった。


 次はぼくが食われる番だ。でも恐怖なんてこれっぽっちもなかった。本当だ。これはぼく自身が望んだことなのだから。


 幽霊になってから結んだ【契約】――それがいま、果たされようとしていたからだ。


 指のようななにか――指蟲とでも言えばいいのか。とにかくそいつらは、ミユを食べ終えると、喰い足りないとばかりに、今度はぼくの体をびっしりと覆い尽くした。小さな牙が、目や額や、股間や乳首に突き刺さる。痛い、という感覚はなかった。むしろ、くすぐったい。指蟲の体表には繊毛のようなものが生えていて、それが青白いぼくの皮膚をなぞっているのだ。思わず笑い声が込み上げてきそうなくらいに。


 よかった。とてもよかった。


 これで、ミユは成仏できる。そしてぼくも。


 次は、ちゃんとした両親の下で、生まれてこようと思いながら。


 ぼくとミユは、しばらくの眠りについた。







 そう、ほんのしばらくの眠りに。







 ▲▲▲







 昼前の陽射しが、森の葉の隙間から斑に射し込んでいた。

 小鳥の声と沢のせせらぎが戻ってきて、昨晩の豪雨が嘘だったかのように、空はからりと晴れ渡っている。


「……んー、あー……」


 最初に寝袋から這い出てきたのは、金髪の男だった。二日酔い気味の顔をしかめながら、伸びをしてあたりを見回す。


「雨、止んでるじゃん。めっちゃ晴れてんじゃん」


「よかったー! これなら帰れる! クマにも遭遇しなかったし、一安心だね」


 続けて、マッシュヘアの細い男が起き上がって、心底嬉しそうに声を上げた。


 派手な金髪の女と茶髪の女は、髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら寝袋を抜け出した。二人とも服は湿って皺だらけだが、思ったより機嫌は悪くない。


「ホテルの露天風呂はパーになったけど……まあ、帰ってシャワー浴びればいいか」


「データまとめるのめんどくさ~!」


 軽口を叩き合いながら、全員が少しずつ日常の調子を取り戻していた。


「あ! なんだよ録れてないじゃんか」


 と、筋肉質の精悍な顔つきの男が、やおらに声を上げた。


「どーしたヒロ。珍しいなそんなに慌てて」


「いや……いびきを録音しようとして、寝てる間ずっとアプリ立ち上げてたんだけど、うまく録れてなくて」


「いびき? なんで?」


「あたしが言ったの」


 茶髪の女が、ザックの中身を整理しながら言った。


「この人、最近いびきうるさいから、チェックするよう言ったの。ほら、睡眠時……なんちゃら、かもしれないでしょ?」


「睡眠時無呼吸症候群だろ? アキ」


「へー。相変わらずの仲なことで。でも気にすんなよヒロ」


「そうそう。ぜんぜん気にならなかったし」


「そうか……っかしぃーなぁ。これでちゃんと保存できるはずなんだけど……」


「ねぇねぇ。カレーの残り、食っとく?」


 マッシュヘアの細い男が袋を探りながら言うと、眼鏡をかけた賢そうな若者が首を振った。


「もういいよ。帰ってコンビニ寄ろう……下山は足元気をつけような」


 全員が装備を確認し、濡れたタープをたたみ、夜を過ごした岩陰をあとにする。

 そこに残るのは、焚火の跡と、湿った土の匂いだけ。


 ただひとつだけ――なにかが、あった。


「ん?」

 派手な金髪の女が寝袋を束ねながら、怪訝そうに眉をひそめた。


「……これ、数合わなくない?」


「どういうこと?」


「だって、寝袋……六人分しか持ってきてないはずでしょ?」


「うん、そうだな」


「でも……ほら」

 派手な金髪の女が指差した。

 岩の下に並べてあった寝袋は、七つあった。


「……誰か予備、持ってきてたっけ?」


「いや、そんな話はしてないぞ。なぁ?」


「数え間違いだろ。あるいは、誰かが間違えて一個余分に持ってきたとか」


「大方、マサなんじゃないの?」


「いや……俺じゃねーよ。え……しかもそれ……」


 マッシュヘアの細い男が、寝袋を指差して体を強張らせた。派手な金髪の女も、自分が手にしている寝袋の違和感に気づいたようで、狐につままれたような顔をしていた。


 その持ち主不明の寝袋だけ、他の者たちのそれより、ひと回り小さかった。


「……どうするんだ? 持って帰るか?」


「だって、マサのでしょ?」


「しつけぇーなー! 俺じゃねーって!」


「わ、わかったわかった! そう怒るなよ……悪かったって」


「……なんか祠といい、寝袋といい、気味の悪い出来事にばかり遭遇するね」


「……ま! 気にしないことだ!」


 筋肉質の精悍な顔つきの男が笑い飛ばし、背負ったザックを叩いた。


「さっさと降りるぞ。まだ足場がぬかるんでる。駐車場まで気を抜くなよ」


 誰もそれ以上、口にはしなかった。


 ただひとつ余分な寝袋は、誰にも触れられることなく、その場に転がったままだった。

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