10 台風に隠された私達だけの世界
台風15号が近づいている。
今ではもう見慣れた天気予報氏が取り乱した声で叫ぶ。
「災害級」「10年に一度」___ そんな言葉が並んでも俺にとっては希望の雨だった。
台風が来るその日を心待ちにしていた。
「これで空が沈黙したままだったらただじゃ済まさないからな」なんて独り言を言って、笑う。
雨が降らなかったところで舌打ちを打つ程度で何か行動するわけでもないのに。
寂しさをかみしめながら、それでも今回こそはと願う。
8月22日。
予報通り台風は俺達の住む町に向かって勢力を拡大しながら近づいていた。
外から聞こえる風の轟音は予想以上に激しい。
窓を叩く雨音、家を揺らす風の唸り。
全ての音が俺の存在を掻き消すように覆いかぶさる。
ネットニュースは刻々と状況を伝える。
河川の氾濫、土砂崩れ、避難勧告。
願った雨の代償がこれなのか。
天は加減を知らないのか問い掛けたくなる。
雷鳴が響き、路上に水が溢れる中俺は部屋着のまま外へ飛び出した。
深呼吸をして、覚悟を持って扉を空けなければいけないほどの激しい雨だった。
「こんな時に外出るなんて死ぬぞ。ほんと馬鹿だな」
背後から兄の馬鹿にする声が聞こえてきたが、今は気にしていられなかった。
久しぶりに彩芽に会えるチャンスだから。
バケツの水を思いっきり被ったような水圧の雨が降り続く。
雨と風が強すぎて、息をすることすらままならない。
「あと、少し」
小さく声に出して、重い足を前へ進める。
公園が見えてきた頃には服は濡れて暗い色に変わり、寒さが身に染みていた。
いつもの東屋にはこんな雨の日ですら、水筒の水を美味しそうに飲む、そんな彩芽の姿があった。
驚いた顔で笑いながら、俺の服をハンカチで拭ってくれる。
「こんな日に来たの?大丈夫?」
丁寧に拭いてくれてはいるが、湿った感覚は抜けず寒さはほとんど変わらない。
「いや、でもまさかこんな日でも来るなんてね」
笑って濡れた体を指さす。
「灯夏もじゃん」
「私はアレだからいいんだよ」
アレ…? 疑問が残ったが、訊かずにいた。
「しかし、強い台風だね」
目の前のブランコを乱暴に揺らす風に尊敬のような眼差しを向けている。
「そうだね」
風と雨の音だけが響き渡る。
子供の声や虫の音をかき消して、まるでこの世界に2人だけが取り残されたようだ。
本当にそうだったらよかったのに——。
そんなことを思いながら、現実では困るはずなのに、良い想像を巡らせる。
「私たちだけの世界か、それもいいかもね」
空を見上げて、灯夏は寂しそうに、それでも笑っていた。
気まずい沈黙の中、彩芽が口を開く。
「やっぱり、蓮。私が彩芽だってわかってるでしょ」
「うん」
息を呑むように、彩芽が固まる。
「やっぱりか」
溜め息。
笑顔が諦めの表情に変わる。
感情を隠すように立ち上がり、目線を変え、身体を動かす。
落ち着かない様子で、視線を彷徨わせる。
そして、空を見上げて達観したように言った。
「そうだよ。私は彩芽だよ」
精霊のような光が彼女の瞳に宿る。
「でも、演技派のつもりなんだけど、どうしてわかったの?」
おどけながら俺の顔を覗き込んで笑う。
やっぱり、彩芽だ。
「顔も声も同じだし、癖や言動も変わってない。無鉄砲に綺麗事を言えるところとか、なのに励まされてしまうところとか」
ふふっと柔らかく笑って、「駄目だったか」と嬉しそうに笑っている。
空模様とは対照的に、真昼の太陽のような姿だった。
本当に、彩芽は変わっていない。
「あ、雨が止んじゃう。ごめん、またね」
空を見上げて、慌てて俺を追い出すように手を振る。
走り去っていく彩芽の後姿を前に、俺は叫んだ。
「またって、本当にある?」
灯夏が彩芽だと気づいていることが彩芽に知られたら、消えてしまうのではないか——。
そんな懸念を、彩芽は簡単に吹き飛ばす。
「また会えるよ。絶対にね」
さざ波のような風が吹き、彩芽は消えた。
その瞬間、雨が止んだ。