夜明けの仮面
年が明け、僕が空に思い描いた時計は、新しい時間を刻みはじめていた。
それに合わせるように、小さな雪が闇の中でちらちらと舞っている。
吹き抜ける風は冷たく、徐々に顔の皮膚感覚を奪っていく。
墨を溶かしたような空は刻々と色を変え、紺碧、そして澄んだ色とグラデーションをつくっていた。
「明けるね、夜が」
僕は空を見上げながらいった。
「朝が、焼けるね」
彼女は空を見上げながら返した。
僕らは歩きだし、少し白くなった息を吐く。
僕らの取り巻く世界は、夜が完璧に明けきらない僅かな時間を保ち、過ぎようとしている。
「ねえ」としばらくして僕は口を開く。
彼女は尋ねるような目を僕に向けた。
「自分の顔が、自分のものに感じ無いときってある?」
「今がそう。寒さで感覚がないもの」
彼女は赤くなった顔を手で触れながらいう。
彼女の小さな手も赤くなっている。
握れば冷たくなっている事だろう。
「いや、そうじゃ無くて」
僕は彼女の手から視線を外しながらいう。
「こういう寒い日だけじゃなく、夏にも感じるものなんだ。何か自分じゃない別人の皮膚を顔に張り付けているような違和感、というのかな」
彼女はいぶかしそうに眉をひそめる。
「まさか、整形でもしたの? それとも私が整形したとでもいいたいの?」
「いや、違うよ」
僕は驚いて首をふる。
「何ていって良いのか。そういう比喩的なものじゃなく、本当に自分の顔じゃないように感じるって事なんだけど……」
「……ないわね」
彼女は少し考えていった。それから確認するように僕をみる。
「どうして? いま貴方は自分の顔じゃないみたいなの?」
「昔、そういう風に感じる時があったんだ。薄い陶器の仮面を着けているような感覚で、何か自分自身のものじゃないように感じてたんだ。
自分は本当に知らない間に仮面を被っているのではないか、ときとぎそう思う時があったんだ。それを剥がせば本当の自分があるような気がする。
でも、どうやればその仮面を剥ぐ事が出来るのか分からない。歯がゆいんだ。物凄く。剥がしたいのに、どうやっても剥がせない。顎の下に手を入れて皮膚を引っ張ればとれるんじゃないかって本気で考えた事もある。
でも駄目なんだ。そうすると徐々に頭というか顔が重たくなっていって、地面に顔を突っ込みそうになるんだ。まるで剥がされるのを拒否するように。これはとても辛い事なんだ」
僕はその時の事を思い出しながらいった。
彼女は僕を見つめて、それからぼそりと呟いた。
「ペルソナね」
「ペルソナ?」
「そう。ラテン語で仮面って意味。そしてユング心理学で元型の一つなの。それは表向き演じている性格の事をさすのよ。これはあくまで想像だけど貴方は昔、表向きの性格と本心のズレが生じて苦しかったんじゃない? それがそんな感覚を生んだのよ。だけどそのズレが元に戻った。だから今はそんな風に感じない」
彼女は著名な心理学者のように分析してみせた。
「……凄いね。いつそんな事勉強したの?」
感心して僕はいう。
「常識でしょ。こんなの。小説にもあるしゲームの題名にもあったでしょ。知る機会なんていくらでもあるじゃない」
「そうなの?」といいながら、僕は彼女がいった事について考える。
表向きの性格と本心のズレが生じたから、そう感じたのだ、と。
当たっている部分と間違っている部分があるな、と僕は思う。
確かに以前はそんな時があったかもしれない。しかし今は違う。
ズレなど感じないし正直に生きている。
それに彼女には言わなかったが、最近またあの感覚が戻りつつあるのだ。
仮面というより全く違う顔を張り付けて生きているような感覚が。
「ねえ。あまり深く考えない方がいいんじゃない」
彼女が僕の思念を破るように口を開いた。
「えっ?」
「世界はメタファーに満たされてるって言うじゃない」
「メタファー? なにそれ」
「あのね。あなたの名前は字は違うけど『晨夜』て書くことが出来るのよ」
そういって彼女は指で空中に漢字を書いた。
「それがどうしたの?」
意味がわからず僕は聞き返した。
「意味は『朝と夜』よ」
「……」
「勝手に解釈すれば『光りと影』とも言えるかもね。二面性って意味で仮面を被っている感覚と似てると思わない?」
「それじゃまるで、ずっと内面を隠していきている人生みたいじゃないか」
「そうは言ってないわ。でも『朝と夜』って、今のこの空のような気がしない。何ともいえない空気感とか何か始まりそうな感じとか、わたしは嫌いじゃないわよ」
「フォローしてるの、それ?」
微笑しながら僕はいった。
そして昔、こんな風にまだ夜が明けきらない時間に、僕はバックパックを背負い、しばらく旅にでた事を思いだした。
この国にいるのが辛くなったのだ。
もしかしたら、何かを変えたかったのかもしれない。
それが仮面と関係があったのかは分からないが、旅に出てからその感覚はなくなっていった。
しかしそれがまたぶり返してきている。
いや、ぶり返しの予感というものがあるのだ。
僕はまた旅に出たいのだろうか。
自問してみるが、答えは『違う』と返ってくる。
そうじゃないと自分のなにかが否定している。
では、一体なんなのだ?
彼女が隣で空を見上げている。
力つきた衛星のように、僕の思考は無軌道に動いている。
「新しい年って、何か新しい事が出来そうな気持ちになるね」
その彼女の言葉に僕は、はっとなった。
ある日、また僕は旅に出るかもしれない。
不意にそう思った。
それは実質的なものかもしれないし、精神的思考旅といえるものかもしれない。
ようは何かを過去に置き去り、未来に新しい何かを発見したいのだ。
まだ見たことない世界。
まだ知らない時間。
以前とは違い、旅そのものが目的じゃなく、それらを得る方法としての旅。
僕に必要なものはそういった事なのだ。
ある種の過去の忘却。
今という閉鎖された場所からの脱却。
気が付くと陽が昇りはじめ、空気を震わし始めていた。
舞っていた雪がゆっくり消えていく。
彼女はその様子を、耳をすますように見ている。
今まさに、夜が明けようとしていた。
僕の顔の下で、何かが主張するようにうずいた気がした。
End
他にも色々ショートショートを書いています。
良かったら読んでみて下さい。
2024.1.1
感想、評価していただきありがとうございます。
涙が出るほど嬉しいです。