あれからのエンジェリク (4)
応接室に、控え目なノック音が響く。マリアたちがそちらを振り返れば、少しだけ扉が開いて、おずおずとリリアンが顔を出した。
「お母様。お母様にお客様よ。おじ様もオルディスに遊びに来てくださったの」
そう言って、リリアンは手を繋いでいた相手を引っ張る。
応接室に入ってきたのは、リリアンの話した通り、彼女たちのおじ――ヒューバート王だった。
王は簡素な旅用の衣装を着ている。その様子から察するに、急いで適当なものに着替えて、馬に飛び乗ってオルディスへ向かって……そのまま、応接室に飛び込んできたようだ。
「陛下、いかがされたのです?前触れもなしに……マルセルの姿もありませんし、まさか、お一人で?」
王都からオルディス領までの道のりは治安も良く、交通路も整っているので、馬を飛ばせばマリアでも一人で行き来できそうな場所ではあるが。それでも、やはり王が一人で気軽に出かけていいものではない。帰ったら、近衛騎士隊長のマルセルや、宰相のドレイク卿から、めちゃくちゃ怒られそう。
「……話したいことがある。ご領主殿、彼女を借りても良いだろうか」
ヒューバート王の登場に、おじは呆気にとられていた――王に話しかけられ、おじが慌てて頷く。
おじから了承をもらうと、王はすぐにマリアを部屋の外へ連れ出し、マリアと向き合った。
王の表情は暗く、明らかに、何かが起きたことをあらわしている。
「オフェリアが……妊娠した」
絶望の入り混じった声で、ヒューバート王が呟く。
マリアは唇を結び、王から視線を逸らす。驚く様子のないマリアに、知っていたのか、と王は問い詰めた。
「……はい。私が指示致しました。ぎりぎりまで陛下に気付かれぬよう……あの子にも、私が隠し通すべきだと言ったのです」
自分をじっと見つめる王を、マリアも真っ直ぐに見つめ返す。王の目は、マリアの反応を探っているようでもあって……。
「陛下のお怒りはごもっともです。どうぞ……。罰を受ける覚悟はできております」
マリアは、静かに頭を下げた。
ヒューバート王にとって、これが重大な裏切りであることはマリアも分かっていた。
長女エステルの出産で、オフェリアは危うく命を落とすところだった。以来、王はオフェリアの妊娠を恐れている。
エンジェリク王国に男児の後継者が必要だとしても……臣下から強く渇望されても、絶対に首を縦に振らなかった。
マリアに不本意な結婚を強いて、王女のために子を生めと、恥知らずな命令まで出した。
そうまでして回避したかった妊娠を、王に黙って。それどころか、堕胎するのも難しい時期まで王を欺いて。
ヒューバート王の怒りが落ちるのは、当然のこと。
だが王はしばらく黙り込んだ後、困ったように微笑んだ。
「ベルダか」
察しが良すぎる王に、マリアも内心苦笑いするしかない。
「侍医の話によると、そろそろ六ヶ月になるそうだ。君が戻ってきたのは二、三ヶ月前……。いくらなんでも、それまで誰も気づかずにいられるわけがない」
「ベルダを罰しないでください。オフェリアの命を軽んじているわけではありません。あの子にとっても、オフェリアは大切な主人ですもの……。ただ、彼女も母ですから……オフェリアに、我が子殺しをさせたくなかったのです。ベルダなりに、オフェリアを想って」
エンジェリクに戻ってきたマリアが一番驚いたことは、オフェリアの妊娠だった。
オフェリア本人は気付いていなかった。なんだか体調が優れなくて、と話す妹に、マリアのほうが先に気付いたぐらいで。
どうやらベルダが、オフェリアのことすら欺いていたらしい。
妊娠特有の不調を適当な理由を挙げて誤魔化し――オフェリアに隠し事は無理だから、ヒューバート王に気付かれないために、オフェリアにも気付かせなかった。
ナタリアはマリアの子どもたちの世話で手一杯で、オフェリアの不調にまで気が回らなかったそうだ。
アレクは、もしかしたら、という疑念は抱いていたが、女の部分にはさすがに踏み込めないから確証は持てず、気付かないふりでやり過ごしていたとか。
「……そうか。ベルダを罰したりしないよ。怒ってもいない……最初から。オフェリアの妊娠を回避したいのなら、僕には、妊娠させない選択もできた。それをしなかった僕が……どうしてベルダたちを責められるだろう……」
オフェリアの妊娠を、絶対に回避する方法。たしかに、それはある。
でも……その方法を取れなかったヒューバート王を、マリアも責める気はなかった。オフェリアを深く愛するヒューバート王にその選択をさせるのはあまりに気の毒だし……たぶん、オフェリアにとっても辛いこと。
「陛下だけの責任ではありませんわ。オフェリアも、肉体的には健全な女ですから……そういった触れ合いのまったくない夫婦関係というのは、あの子も嫌がることでしょう。愛し合う夫婦の間に子ができるのは当然のこと。子を作るためだけの行為ではありませんし」
ヒューバート王の表情は晴れない。オフェリアの命に関わることだから、当然なのだが。
「陛下……これは私と、オフェリアの賭けでもありました」
マリアの指摘によって、ついにオフェリアも知るところになり――妊娠を喜び、どうしても生みたいと懇願する妹に、マリアはチャンスを与えることにした。
隠し事の苦手なオフェリアが、ヒューバート王に妊娠を隠せるかどうか。
「堕胎するのも難しくなる時期まで、陛下を騙すことができれば……。隠し事のできないあの子が、必死で隠して……陛下はオフェリアのこと――特に妊娠のことは、ひどく過敏になっているというのに……見事、それを成し遂げました。私は、あの子の覚悟を受け入れようと思います」
マリアは微笑む。
「もちろん、最悪の事態は想定しておきます。お医者様にも、最初からその準備をして出産に臨むよう、すでに相談済みです。オフェリアにも……それは、納得させてあります」
出産には、細心の注意を払う。
危険だと感じたら……オフェリアの命が危うくなったら、子を諦め、しかるべき処置を取ると。悲しい結果になるかもしれないけれど、それも承知の上で――オフェリアも、はっきりと頷いた。
あの子だって、もう分かってる。命を生むというのは、幸せいっぱいな、ふわふわした甘いおとぎ話ではないことを。
「僕は……」
ヒューバート王は、険しい表情のまま口を開く。
「もしかしたら……気付きたくなかったのかもしれない。オフェリアの子どもを、殺したくなくて……おかしいって、感じる時はあったのに。気のせいで見過ごした……もし違ったら、無意味にオフェリアを傷つけることになってしまうからって、そんな言い訳をして……」
「それも当然の感情ですわ。だって、陛下はオフェリアのことを愛していて……愛している女性が自分の子を身ごもって、嬉しくないはずがありません。我が子を殺すなど、そのようなこと……やりたくないと思うのが普通です」
ヒューバート王の手を取り、そっと握る。重ねられた自分の手を見つめ、ヒューバート王はうつむいていた。マリアの顔を、正視できないでいるようだった。
「君には、我が子を殺せと強要した。その僕が……」
「――私も、そのことはよく覚えております。ですから、今度は私が陛下にこの言葉をお返ししましょう」
暗い表情をしたままのヒューバート王に、マリアはにっこりと笑う。
「あなたとの付き合いも長くなりました。私に隠し事は無理でしてよ。ヒューバート様のくせに生意気な」
ヒューバート王が目を瞬かせる。
ちゃんと分かっている。
あの時、堕胎の命令をオフェリアが撤回させたこと――オフェリアがあの命令を知っていたのは、単なる偶然ではなくて。あの命令を止めてほしい誰かさんが、オフェリアに望みを託したのだ。
中途半端な冷酷さしか貫けない自分を罰するように、愚かな悪者を演じて……。
マリアの前で悪者を演じるなんて、まったく、良い根性をしている。
「参ったな……。やっぱり、君にはまだまだ敵わないみたいだ」
おずおずと微笑むヒューバート王に、当り前です、とマリアは容赦なく返した。
「ところで、陛下。改めてお尋ねしますが、お一人でオルディスへいらしたのですか?」
「ああ……うん」
ようやくいつもの表情に戻ったヒューバート王は、気まずそうに目を逸らす。
「オフェリアの妊娠を聞かされて、居ても立ってもいられなくなって……発作的に馬に飛び乗って来てしまった。もしかしたら、マルセルが大騒ぎしてるかも……」
「すぐに王都へ戻ってください。城が大変なことになっておりますわ、きっと。王が突然いなくなったんですよ。騒ぎにならないわけが――」
その時、屋敷の召使いの一人がマリアたちのもとに慌てて駆け込んできた。
たぶん、正確にはマリアではなく、マリアの向こう側にある部屋――領主であるおじがいる応接室。マリアたちは、応接室から出てすぐの廊下で話し込んでいたのだ。
応接室に駆けこもうとした召使いは、その手前でマリアを見つけ、血の気を失った顔で叫んだ。
「公爵様、大変です!ウォルトン侯爵が、逮捕されたと――人を斬って!」
一大事を知らせる召使いは混乱し、説明に戸惑っているようだ。
だが、マリアやヒューバート王に、事態の深刻さを伝えるにはそれで十分だった。
「レオン様が、人を斬った?」
目を見開き、マリアも青ざめて思わず聞き返す。
とても信じられない。
ウォルトン団長は、騎士として強い信念と誇りを持った男で。敵を斬ることに容赦はないが、彼が剣を抜く状況なんて限られている。
そんな団長が……オルディスで、人を斬るだなんて。
「はい!それに、パーシヴァル坊ちゃまが怪我をされたそうで……診療所に運び込まれたと!」
それだけ聞くと、マリアは屋敷を飛び出した。
混乱している召使いに詳細の説明を求めるより、自分で直接向かったほうが早い。我が子が負傷したと聞かされて……伝聞で状況を説明されたって、納得できるわけがない。
自分の目で確認する以外に、マリアに選択肢が存在するはずもなかった。




