あれからのエンジェリク (2)
それは、マリアがエンジェリクに戻ってきて少し経ったある日のことだった。
別に意図したわけではないけれど、エンジェリクに帰って来たばかりで忙しかったマリアは、しばらく夜に男性が訪ねてくるのを遠慮してもらっている状況で。そんなマリアに、ララが神妙な表情で声をかけてきた。
――マリアに、自分の子を生んでほしいと。
「いいわよ」
マリアはちょっと苦笑しながらも、あっさりそう頷いた。もともと、ララの子を生んでもいいと提案を持ちかけたのは、マリアのほうだった。
だってララは……本当なら、マリアの夫となるはずだった男なわけで。マリアにとっては、それが自然だと感じたのだ。
何の問題もない申し出――なのに、ララはマリアが了承した後もひどく苦悩していて。マリアに対して、こんな言葉を返した。
「……ごめんな」
なんで謝るのよ、とその時のマリアは笑い飛ばしたのだが……。
その謝罪の意味を知るのは、もう少し先だった。
しばらくの間、夜、マリアの寝室を訪ねてくるのはララだけだった。
ララはマリアの従者なので、平時でもマリアの寝室によく出入りしている。だから、誰もマリアとララの密かな企みには気付かなかった。
なんだかララは思い詰めているみたいだから、その日が来るまでは周囲にも秘密にしておこう――マリアはそう考えていた。
その夜も、ララが部屋に来るのを待っていた。
脱がせやすい寝衣に着替え、ベッドに腰かけてぼんやりと窓の外を眺める。
今夜は少し曇っている。雲に隠れて、月はぼんやりと光っているだけ。隠れてこそこそと……でも、結局は見えてしまっているその様は、いまのマリアたちに似ているような。
「……ララ?」
部屋に誰か入ってきたのを感じて、マリアは声をかけた。振り返りかけて、後ろから抱きしめられる。
自分を抱きしめる腕に手を伸ばして……マリアは慌てた。肌の色が同じだから、うっかり勘違いしそうになった。
いま自分を抱きしめているのは、ララではない。
「あなた……アレク?どうして、ここに?」
アレクは、ララと一緒にエンジェリクに渡ってきたチャコ人だ。ララ同様、いささか特徴的な肌の色をしている。
普段はオフェリアの従者をしていて、オフェリアが城にいるいまは、当然彼も一緒に城にいるはずなのだが……。
「ララと交替中――あいつ、本当にバカなんだから」
呆れたようにアレクはため息をつくが、マリアは訳が分からず困惑するばかり。
だって、ララは今夜もマリアの部屋に来る約束をしていて……それは、ララ自ら言い出したことなのに……どうしてアレクと交替を……?
「躊躇なく利用すればいいのに、変に悩んでさ。そりゃ、イラッとするところはあるよ。僕の気持ち知っておきながら、マリアの子どもの父親に仕立て上げるなんて。やっぱりひどいよね。でも……一度ぐらい、自分のわがままを貫き通せばいいのに」
アレクの言葉が何を指しているのか察し、マリアは苦笑いした。
ララとの子どもは、大っぴらにはできない。
ララはチャコ帝国から逃げてきた皇子。チャコ帝国には、スルタンになれなかった皇子はすべて殺されるという風習がある。
皇位継承権を放棄し、チャコ帝国に戻る意思がないこと、帝位を狙うような思惑はないことを示して、見逃してもらっている状態。
それなのに、そんなララが子どもを作ったりしたら……。
そこで、身代わりに選ばれたのがアレクだ。子どもの父親を、公には別の人間にして――それを頼める相手は、同じチャコ人のアレクしかいない。
「……本当に。ひどいことするわ。アレクの気持ちも、私の気持ちも、踏みにじることになるのに」
アレクは、昔からマリアを慕ってくれていた。そんなアレクに父親の身代わりを頼むこと……ララは、とてつもない罪悪感を抱いているのだろう。
……それで。罪悪感から逃れたいばかりに、こんなことをしでかしてしまった。
どちらの子か、曖昧にしてしまおうと。せめて、可能性ぐらいは――と。
どちらが父親か分からない子を生むことになるマリアにとっても、そんな業を背負ってしまう我が子にとっても、かえってむごいことなのに。
「本当にバカよね。ララも、あなたも……私も」
でも、ララの罪悪感が少しでも軽くなるのなら――なんて思ってしまう自分が、一番バカなのかもしれない。マリアはそう思った。
「マリアって、結構ララに甘いよね」
「アレクほどじゃないわよ」
からかうように笑って言えば、アレクはちょっとムッとしたような表情で目を逸らした。
図星を突かれて、決まりが悪いらしい。
いささか常軌を逸したはかりごとによってマリアはまたもや妊娠し、オルディス領では伏せ気味となっていた。
妊娠も出産も、片手では足りないほど経験してきたが、この時期は体調が崩れがちだ。さすがのマリアも、大人しく休むようにしている。
オルディス領では無理のない程度に領主エリオットの仕事を手伝い、次女リリアンの授業を見守っていた。
「リリアンはとても優秀みたいね。エリオット様と私の子だから、勤勉な子に育つだろうとは思っていたけれど……」
家庭教師が提示したリリアンの解答用紙に目を通しながら、マリアが言った。
リリアンの教師は、少し誇らしげに頷く。リリアンの家庭教師は年配の女性で、高い実力と、なかなか容赦のない指導で有名だった。
マリアみたいなタイプにはぴったりだが、オフェリアみたいなタイプだと上手くいかない――リリアンに合うのかどうか気になっていたのだが、意外と相性良くやっているようだ。
「リリアン様の優秀さには、私も感服するばかりですわ。正直に申し上げますと……初めてお会いした時には、おっとりした御方で、私のような教師には委縮してしまうのではないかと不安もあったのですが……私のつまらない心配など吹き飛ばす勢いで、リリアン様はあっという間に私の教えを吸収していきまして」
「そう。嬉しい誤算ね」
教師も、教え子の優秀さに鼻高々の様子。それとなくリリアンにも探りを入れてみたが、リリアン本人も授業を楽しんでいるみたいで。上手くいっているのなら、それに越したことはない。
「……あの。公爵様?リリアン様は、いずれオルディス公爵家をお継ぎになると――そのようなことを、私も時々耳にするのですが」
おずおずと、教師が尋ねてくる。逸る期待を抑えきれないという内心が、顔に出ていた。
マリアはそれを指摘せず、あえて気付かなかったふりで、ええ、と微笑む。
「もしかしたら、当主は別の子になってしまうかもしれないけれど。少なくとも、このオルディス公爵領の領主になるのはリリアンよ。私もエリオット様も、そのつもりで教育しているわ」
「そうなのですね!」
やっぱり、という心の声が聞こえてきそうなぐらい、教師ははしゃぎながら相槌を打つ。本人は、これでも隠しているつもりなのだろうが。
別に、咎めるようなことでもない。
教師にとって、優秀で……出世してくれる教え子というのは、非常にありがたい存在だ。特に彼女は独り身で、教職で身を立てているのだから、自分の立場を良くしてくれる教え子と出会えたらはしゃぎたくもなる。
大成功した教え子がいる――その経歴があれば、教師としても次の仕事につなげやすい。
それで彼女が張り切って、リリアンへの授業の質が良くなるのなら、それはマリアにとっても大いに喜ばしいこと。誰も損をしない。何の問題もない。
「先生も、そのつもりでリリアンの指導をお願いしますね」
「ええ――あ、いえ、はい!もちろんです!」
父親に連れられてパーシーがオルディス領へやって来たのは、それから三日後であった。
夜遅くに到着し、マリアに会えて嬉しそうにしながらも、眠たいのかしきりに目をこすっていた。
クリスティアンや……かつては妹のオフェリアにもやっていたように、マリアはパーシーのことを寝かしつける。
眠る前にお話を読んでもらうというのは初めての経験のようで、マリアが語る物語を聞きながら、パーシーは少し不思議そうな顔をしていた。それに、母親におやすみなさいのキスをしてもらうのも初めてで。
ちょっと顔を赤らめて、おやすみなさい、と挨拶を返していた。
パーシーを寝かしつけた後、マリアがウォルトン団長の待っている部屋を訪ねると、彼はマリアのおじ――オルディス公爵領領主エリオットと酒を飲んでいた。
おじは底なしの酒豪で、酒好きの団長は、たびたび彼に酒飲み勝負を持ちかけているようだ。今夜は、大人しく酒を飲んで世間話を楽しんでいるだけだが。
「君も一杯どうだ」
「いいえ。お酒は好きではありませんし、レオン様とエリオット様が相手では、全力で遠慮したくなります」
特に、いまのマリアは酒を飲むわけにはいかない。
ララとアレク……マリアの身の回りの世話をする侍女のナタリアにだけ打ち明けてある秘密。他の誰にもマリアの妊娠は教えていないが、何人か、すでに気付いているような気はする。
ウォルトン団長は、じっとマリアを見つめていて――彼も、薄々勘付いているような。
「……マリア、怒っているか?」
彼がなんと声をかけてくるか身構えていたマリアは、別の話題を持ち出され、内心ホッとした。
……気遣って、あえて触れないでいてくれるのだろうか。
「私が、レオン様に……ですか?」
「パーシーの婚約を、僕の一存で勝手に決めたことについて」
そのことですか、とマリアは笑った。
エンジェリクに戻って、マリアが驚いたことはいくつかあった。パーシーの婚約のことも、聞かされた時は目を丸くしたものだ。
だが……別に、本当にウォルトン団長の一存で決まったわけではない。パーシー本人の意思を無視したものではあるが。
「レオン様を怒ったりはしませんわ。あの子も、きっと理解してくれます」
パーシーの婚約は、政略的な意味合いが大きい――エンジェリク王国近衛騎士隊、その隊長を選ぶために。
近衛騎士隊の隊長を務めていたフェザーストン伯爵は、去年、高齢を理由についに引退した。もともと、先王グレゴリー陛下が逝去された頃には引退を考え始めていたのだが、若い王を支えるために残留し……そして、昨年。先の宰相フォレスター候の死もあって、彼も軍人としての人生を終える決意をした。
そこで次の隊長に誰が選ばれるか――これが、ちょっとした問題となった。
順当にいけば、副隊長であるスティーブ・ラドフォードがその地位を引き継ぐべきなのだが。
近衛騎士隊隊長の最大の任務は、王の護衛。
ヒューバート王には、王子時代から彼に仕えている騎士がいる。副隊長ラドフォードを始め、彼らの主従関係を見てきた身近な人間なら、誰もが言った。
――隊長には、マルセルがなるべきだ、と。
マルセル・ド・ルナール。
騎士としての実力も、ヒューバート王への忠誠心も、近衛騎士隊長を務めるにあたって何の問題もない。
ただ……彼はフランシーヌ人。フランシーヌはエンジェリクにとって、政敵、仇敵とも呼べる国で。
そんな国の出身者が、エンジェリクの近衛騎士隊長に。ラドフォード副隊長という、実力ある人間が他にもいながら。
当然、反対意見も出る。
そこで、パーシーの婚約が重要になるのだ。
王国騎士団の団長にしてウォルトン侯爵家当主ライオネルの嫡子と、ラドフォード副隊長の息女が婚約。これにより、ラドフォード家はさらに格が上がる。ラドフォード副隊長は、五年前に待望の子息が生まれたばかりで……息子が跡を継ぐまで、時間がかかる。
ラドフォード家の次期当主がいずれ近衛騎士隊隊長となるまでの、繋ぎの役割としてマルセルを隊長に――といった建前を作り、マルセルは近衛騎士隊長に就任することになった。
そしてパーシーの婚約が決まってしまったのなら、おのずとニコラスの結婚相手も決まってくるというもの。パーシーとニコラスは、ヒューバート王に頼まれて、未来の有力な王配候補として生んだ子どもでもあるから……。
「貴族の家に生まれれば、その婚姻は親のため、家のために利用されてしまうもの。自由恋愛など……」
するな、とは言わない。
マリアも、十三歳で出会ってからずっと想い続けている相手がいる。誰に咎められようと……いずれ罰が落ちるのも覚悟の上で、その想いは貫き続けていた。
だから……子どもたちも、その覚悟を持って誰かを愛するのなら、それもいいと思う。マリアの子なら、生半可な気持ちで、その道に踏み込んだりしないだろう……。
「レオン様も、どうかお気になさらず。私の子ですよ?」
「……これ以上ないぐらい、説得力のある言葉だな」
そう言いながら、ウォルトン団長も陽気に笑った。




