あれからのエンジェリク (1)
マリアがドレイク宰相の秘書として働くのは、単に彼を助けるためだけでなく、彼から情報を得るためでもあった。
長くエンジェリクを不在にしていたから、城や王都……聞きたいこと、聞かなくてはならないことは色々ある。
でもまずは、彼らの近況や、子どもたちの成長のこと――本来なら後回しでいいことを先に尋ねた。宰相も、そんなマリアを咎めることなく丁寧に質問に答えてくれていた。
「では、警視総監の座には、やはりマスターズ様を?」
「そのつもりだが、まだ若いのが難点だ。それを補えるほど身分も高くない。しばらくは私が兼任というかたちで続け、マスターズに何か手柄を立てさせ、箔をつけてから地位を譲る。正直に言えば……クロフト候の一件を、それに利用できればと考えている」
ナサニエル・クロフト侯爵――彼の名前が出て、それまで和やかだった執務室に気まずい沈黙が落ちる。
クロフト候は、悪魔崇拝という非常にうさんくさて厄介な問題を抱えた男である。正確には、そういった厄介な集団をまとめているだけで、彼自身にその手の趣味があるわけではないのだが。
だが、マリアやドレイク宰相にとっては目障りな存在だった。レミントンの負の遺産を受け継いでしまった男……あの一族の忌まわしい財産は、すべて消し去ってしまいたいのに。
「クロフト候は、私の夫をよく監視してくださっているようですね」
セイランにいた頃に、その話は聞かされていた。
マリアの夫――夫の母親にも、うさんくさい趣味があるらしい。オルディス領で、その趣味を堪能するのではないか……マリアの最大の不安であったが、いまのところはただの杞憂で終わってホッとしている。
「そう簡単に尻尾はつかませまい。敬愛するリチャード・レミントンとやらから引き継いだのだ。私の手柄となるために潰されることは回避したいはず」
「そう言えば、リチャード様をいたく敬愛していましたね、彼。気持ちは分からなくもありませんが」
リチャード・レミントンのことは、マリアも嫌いではなかった。
チャールズ王子を守りたかったレミントン侯爵と、ヒューバート王子を王にしたかったマリアは、対立することになってしまったが、敵ではなかった。敬意を払うべき点も多かった。マリアに似通ったところもある人だったし……。
「リチャード様もでしたが……クロフト候も、城で重要な地位には就いていないのですね。先のクロフト侯爵は総務大臣だったはずなのに」
レミントンは、成り上がりの侯爵家だった。だから大臣職など就けるはずもなかったのだが……クロフト侯爵家は、一応由緒正しい貴族のはず。
でも……いまの当主ナサニエルは、庶子だった。
「家を継ぐ者がいなくなり、異議を唱える者もいなくなったためクロフト家当主となったが、所詮は庶子。彼の生まれでは、大臣職など不可能だ――当人も、それは欲していないだろう」
「そうなのですか。父親よりはましそうなのに……」
宰相の言う通り、たぶん、本人は大臣職に関心はないと思う。そういったものに執着するタイプには見えなかった。
でも、世襲となりやすい貴族社会で、父親よりはまともに働きそうな息子だというのに――マリアがナサニエル氏の手腕を高く評価しているというより、あれと比べれば絶対にましだろうと断言したくなるほど、先のクロフト侯爵は無能なただ飯食らいだった。下位身分の部下たちに仕事を押し付け、自分は名ばかりの大臣で……。
執務室の扉をノックする音が聞こえ、マリアは顔を上げた。ドレイク宰相が返事をするよりも先に、王国騎士団の団長が部屋に入って来る。
「マリア!無事に帰ってきてくれて嬉しいぞ!出迎えられなくてすまなかった」
陽気な彼の声に、マリアも自然と笑みがこぼれ……彼が連れている幼子に、笑顔を輝かせた。
「パーシー!」
マリアとの再会を喜んでくれるウォルトン団長をいささか無視するかたちとなってしまったが……可愛い息子が優先されるのは許してほしい。団長にとっても、愛する我が子なのだから。
「お久しぶりです、母上様」
緊張した面持ちで、パーシーはマリアに挨拶する。ちょこんとお辞儀する姿は、騎士のそれで……なんて可愛らしいのかしら、とマリアもデレデレ状態だ。
「とても挨拶が上手なのね。最後に会った時には、まだ歩くのもよちよちしていたのに。すっかり大きくなって……お父様に負けない騎士となるために、頑張っているのね」
「はい。いずれは兄上、父上も超える、立派な騎士となります」
マリアを見上げるパーシーは、やはり記憶には残っていないのだろう、初めて会う女性に対するぎこちなさがあった。でもそれ以上に、会いたかった母に会えて嬉しい、という気持ちもあって。
そんな息子が愛しくて堪らなくて、驚かせないようそっと手を伸ばし、パーシーに触れる。
小さな息子をぎゅっと抱きしめれば、パーシーもマリアを抱きしめ返した。
そんなパーシーの頭を、ウォルトン団長が大きな手でポンと撫でる。
「申し訳ありません、レオン様。すっかり放ったらかしにしてしまって――お会いできて嬉しいですわ」
「やれやれ。息子に嫉妬してしまうホールデン伯爵の気持ちが、よく分かるな。もっとも……それでもやはり可愛くて堪らないのが、我が子というものだが」
マリアを抱きしめて頬にキスしながら、ウォルトン団長は悪戯っぽく笑う。ふふ、とマリアも笑った。
「パーシーは……レオン様のお母様に似たみたいですね」
マリアの息子の内セシリオ、ローレンス、ニコラスは、それぞれの父親に似ていた。長男のクリスティアンは、間違いなくマリア似。
パーシーは、大柄なウォルトン団長の息子にしては線が細く、どちらかと言えば女顔……だけど、マリアというより、ウォルトン団長の母親に似ている気がする。
目元は間違いなくオルディス家特有のものだが、全体的な顔立ちは、やはり父親の血筋を受け継いだようだ。
「お。君もそう思うか。人からは母親似だと言われるんだが、僕も、マリアより僕の母に似てるんじゃないかと感じる時があってな」
「レオン様のお母様も、とても美しい御方ですわ。男の子なので、それが誉め言葉となるのかは悩んでしまいますが」
ウォルトン団長の母親はすでに故人で、マリアは肖像画でしか彼女の姿を見たことがなかったが。
ウォルトン団長も、実は母親と似通った部分が多い。
「母上。母上は、これからはエンジェリクで暮らすのですか?もうどこにも行ったりしませんか?」
パーシーが、少し不安そうに眉を寄せてマリアに尋ねる。マリアは優しく微笑みかけ、頷いた。
「どこにも……というのは、さすがに無理かもしれないわね。王都にずっとはいられないから。でも、もうエンジェリクを離れるつもりはないわ」
マリアの答えに、パーシーはパッと顔を輝かせる。
子どもたちと離ればなれになるのは、マリアも辛いし、子どもたちに寂しい思いをさせてしまうのも申し訳ない。これからは、できるだけそばにいてあげたい……。
「領地のこともあるからな。ずっと王都で生活するわけにいかんのは当然だな」
ウォルトン団長の言葉に、マリアはまた頷く。
「はい。実を言いますと、パーシーに会えたら行くつもりで――ずっと不在にしていましたから、オルディスがどうなっているのか、やはり不安ですわ」
領主は優秀な男だが、彼の技量だけではどうしようもない、大きな不安がオルディスにはある。
……ある、というか……いる、というか。
宰相も団長も、マリアの不安についてはおおいに心当たりがあるようだった。
「僕もようやく地方から帰ってこれたことだし、ここらで休暇でも取るか。パーシー、マリアと一緒に、オルディス領に行くぞ」
「はい!」
「えっ」
パーシーが嬉しそうに返事をするのと、マリアが驚いて声を上げるのは、ほとんど同時だった。
「それは、私にとってもとても嬉しいことですが、よろしいのですか?」
「もちろんだ。僕は仕事人間のジェラルドとは違う。休暇のために働いているんだ。ここぞというときは、遠慮なく休むぞ」
引き合いに出されたドレイク宰相は少し顔をしかめたが、ウォルトン団長は意に介する様子もなく笑い飛ばす。パーシーはニコニコしていて、この状況を理解しているのかいないのか――分かっていて、笑っているような気がする。
そういうところは、やっぱり父親似だ。
屋敷では、オルディス公爵領に帰る準備を進めていた。
クラベル商会は、しばらくエンジェリクを離れていたホールデン伯爵が王都にある本店での仕事に専念するため、マリアのオルディス行きに珍しくついてこないことになっている。
なので、クリスティアンや、父親が商会の従業員でもあるスカーレットは、王都に残る。
セシリオとローレンスも、久しぶりに帰ってきたエンジェリク、久しぶりに会えたクリスティアンと一緒に居たいようで、自分たちも王都に残ると言った――オルディス領なら、母はすぐ帰ってくるだろうし、馬に乗れば一日で着く距離。
それぐらいの別離は、二人も受け入れられるようになったらしい。そんな成長を残念に感じてしまうのは、自分のわがまま……マリアは内心苦笑した。
ニコラスとアイリーンは、一緒についていきたそうな顔をしていたが、寂しがりなお父様と一緒に待っていてね、とマリアが言った。最近の双子はマリアにくっつきたがるので、ドレイク宰相がちょっと寂しそうにしているのは事実だ。
子どもの世話をするためにナタリアは再び王都で留守番――ララを従者に、次女のリリアンを連れてマリアはオルディス領に帰ることとなった。
「マリア!そういうのは、俺を呼びつけてやらせろっていつも言ってんだろ!」
旅行用のトランクを運んでいたマリアを見つけ、ララがちょっと怒ったように言った。
大きなトランクだが、中身は空だ。今回の帰省にあたって、このトランクに荷物を詰めようと思って。それで、物置から引っ張り出してきただけ。
「大丈夫よ、これぐらい。本当に危ないことはちゃんと控えるわ」
「おまえって、本当に……大貴族の姫だろ?公爵なんだぞ?こういう些細なことも、いちいち召使い呼びつけてやらせるのが普通だろうに。なんで自分でやりたがるんだよ」
呆れたようなララに、あなただって似たようなものじゃない、とマリアは笑う。
ララも、召使いを呼びつけてやらせる、なんてことを面倒がって、自分でやってしまうタイプだ。
「そーなんだけどさ。いまのおまえは、こき使うべきっていうか……」
言葉を濁し、ララはじっとマリアを見つめる。
彼が何を考えているか、マリアには手に取るように分かった。
罪悪感と、少しの後悔――マリアは微笑み、ララの頬に手を伸ばした。
「もう、いまさらそんなこと気にしないの。私も選んだことよ。ララが責任を感じるのは……思い上がりってものだわ」
「分かってる。でも……やっぱ、酷いことしたなって……おまえにも、アレクにも……その子にも」
ララもそっと手を伸ばし、マリアの腹に触れる。
まだ公には明かしていないが、マリアは妊娠していた。子を作ってはいけないはずのララの子を――たぶん。




