誑かされた男 (4)
「シオン。そなた、自分の母のことを覚えておるか?」
「わしの……?」
「そうじゃ。幼くして死に別れた故、覚えておらずとも無理はないが」
姉の問いかけに、太師はしばらく考え込んだ。姉の話すように、幼い頃に死別してしまった母親だったから、はっきりとは覚えていないのだろう。
「……いつも悲しげな顔をしていたような気がする。ううむ……やはり、姉上の言う通り、あまり覚えておらぬ……」
「だろうな。わらわは覚えておる。聡明で控え目な女人で……北から帰ってきた後、そなたを生み、後宮の女共から様々な嫌がらせを受けた。公式には病死となっておるが、自分の置かれた境遇に思い詰め、自らも追い詰めた……父上は、彼女の死について、ずいぶんと我らが母を責めたものじゃ……」
「それは、わしも覚えておる。わしの母を死なせた一件で、父上は……皇帝と皇后の不仲は有名な話だった」
太師の言葉に、夫人が頷く。
「母には、皇后としての覚悟が足りなかった。それは事実じゃ。後宮の女たちをまとめ、管理する役割を担っていたにも関わらず、後宮で行われていることに見て見ぬふりをし、そなたの母を見殺しにした。だが――真に酷いのは、果たしてどちらだったか」
夫人は煙草を吸い、ふーっと煙を吐いてから続きを話す。
「我が母は、そなたの母親を後宮から出すよう、何度も父上に進言してきた。宮廷の外に屋敷でも買い与え、そなたから皇族としての権限を取り上げ、ただの市井の母子にして……そこに、気が向いた時にでも父が通えば良いと。父上はその提案を一蹴した。そなたたち母子を後宮に置き、皇帝の寵愛を受けるものとして、正々堂々とした地位を与えておきたがった。だがそれは、女たちにとっては酷い仕打ちでしかなかった」
女……たち。それに誰が含まれるのか、マリアは察してしまった。
一人はもちろん、夫人の母親にして、時の皇后。
夫を寝取った女の世話をさせられ……しかも、夫の胤ではないかもしれない息子を生んでいて……。
それで、彼女が後宮の女たちから嫌われているのをフォローしろと言われても。それが自分の役目だと分かっていても。つい、見て見ぬふりをしてしまって。
それを責められるかと言われれば……。
「フーディエ様。もしや、シオン様のお母上様は……人質として外国の王のもとへ行き、そこで……その国の王を、恋い慕うようになっていたのでは」
思いもかけぬマリアの発言に、シオン太師は目を丸くした。しかも、姉はその言葉を否定しない。
返ってきたのは、ただ沈黙であったが……それが答えだ。
「そんな……母上が……なら、わしは……?」
ずっと自分の出自を怪しんできた太師も、言葉を失っていた。まさか、自分が本当に父王の子ではなかったなんて――それを突き付けられて、戸惑っている。
夫人は、そんな弟の疑惑については即座に否定した。
「それはない。恐らくな。彼女の性格は知っておる。愛しい男の子であったのなら……はっきりと明かしたはずじゃ。隠したまま、妃の座にしがみつくような女ではなかった。だからこそ、苦悩したのであろう。たかだか後宮の女たちに嫌がらせを受けた程度で伏せてしまったのは、他ならぬ自分が、もっとも彼女を責めていたから」
夫人は言葉を区切り、もう一度煙草を吸う。
太師は考え込んでいるようだった。一方的な被害者だと持っていた母親が、そうではなかった。彼女の苦しんでいた姿も、意味が異なってくる……。
「彼女が生んだ子の父親は、ほぼ間違いなくセイランの皇帝じゃ。しかし彼女の心は、すでに他の男のもとにあった。肉体的な裏切りはなくとも、精神的不義は犯しておる。妃としての誇りを持っていただけに、自分の境遇に苦しんだ。そんな女を、いつまでも自分の後宮に囲っておった父上の行いは……愛情深いと言えるかどうか」
シオン太師は、父王を純粋に慕っていた。敬愛していた。
しかし姉に父王の素顔を教えられ、困惑しているようだった。
「そなたが、父上を慕う気持ちに水を差すつもりはなかったのだがな。そなたの言ったように、家族に対する情がなかったわけではない。ただ……父は皇帝であることを優先する男だった。身内の情に惑わされるような男ではなかった。妃となった女は、生涯をかけて夫と国を支える――それを、当然のように課した。個人的な感情で、それを反故にすることは許さなかった。兄上は帝位に最も近い皇子だったゆえ、父上のその姿勢をいたく尊敬しておったようじゃが……」
……と、なると。
先の皇帝――シオン太師とフーディエ夫人の兄王も、父親と同じく、妻に対して冷酷かつ傲慢な態度を取る一面があったということ。
外国人のマリアでは、想像することしかできないが……シオン太師も、恐らくはよく知らないままだったこと……。
「フーディエ様。フーディエ様の最初のご結婚は、陛下……お父上様の命令ですか?」
ぴくりと、煙草を持つ夫人の手が反応する。
平静を装っているが、夫人がかすかに動揺した。夫人ですら、動揺してしまうほどのことなのだ。
彼女の反応から、マリアは、自分が推測したものが、かなり事実に近いことを悟った。
「前夫は……華煉との繋がりが強くてな」
やはり、フーディエ夫人は華煉のことを知っていた。組織と、夫の関係も。
「父上は華煉を完全に潰してしまいたかった。しかし、いくら皇帝と言えど――相手は建国以来、陰で国を支配してきた組織じゃ――そう簡単に潰せるはずがない。正面から喧嘩を売ったことで、やつらは陰に引っ込んでしまった。どうにかして、組織の全容を暴き立てようと……。娘の結婚というのは、その時の父にとって、非常に都合の良いものだったのじゃ」
「娘を通して、丞相を見張った。自分の力を削ぐ存在が目障りだから……それを排除するために……己のエゴのために娘を利用して……娘を、阿片中毒にまでした」
太師が驚愕に目を見開き、マリアを――そして姉を見た。
夫人はそ知らぬ顔で、煙草を吸う。
「純精阿片……エンジェリクでは、そう呼ばれる薬。こちらでは、華薬と呼ばれているのでしたね。あれは、我が国でもちょっとした問題となりまして。いまのエンジェリク王が、個人的に調べておりました」
刑部尚書の山の捜査から帰ってきたエンジェリク王は、ある報告をマリアに伝えに来た。
それは、王が山狩りを手伝った目的。
マリアを追いかけて山を移動していたエンジェリク王は、刑部尚書が外国から様々な植物を取り寄せていることに気付いた。
その中に、芥子の花があった。
「芥子の花は、阿片の原料として有名だ。セイランに自然生息しているという話は聞かない。たぶん、外国から取り寄せて、密かに栽培していたのだろう」
セイランと、阿片を生み出す花。嫌な予感しかせず、ヒューバート王は山の捜索を手伝った。
何の目的で栽培しているのかを調べると同時に、できるだけ花を焼却処分してしまうため。
そして刑部尚書の隠し資料を見つけ、彼の真意を知った。
「どうやら彼は、純精阿片の作り方を研究していたらしい。徹底して調べたが、尚書も正しい作り方は分からずじまいだった。色んな花を輸入していたのは、薬作りで試すため。刑部尚書なら、実験台となる人間にも困らない」
説明するヒューバート王は、皮肉めいた口調だった。
自分も同じように――警視総監の権威を借りて、エンジェリクで似たような研究をしていたから、自虐的なものを感じたのだろう。
「刑部尚書は、華煉から正規に購入した分も多数所有していたようだ。僕が持っている量と桁違い――だから、実験結果も僕が調べたものより詳細だ……」
おかげで、新たに判明したこともいくつかあった。
あの薬は――種類も豊富で、果たしてマリアが服用してしまったものにも適用されるかは分からないが――嗅覚で人の意思を奪えるものもあるらしい。
特定のにおいで、薬を欲する衝動が強烈に現れる。
薬物中毒というのは、毒と違い、人を殺めることより、人を支配するために使われるそうだ。
薬欲しさに、相手の言いなりになるしかなくて……。
「あの男が……姉上に薬を盛ったと言いたいのか!?」
シオン太師の言葉に、いいえ、とマリアは首を振る。
太師が指す男とは、刑部尚書のことだ。そちらではない。彼は、その事実を知って、ずっと夫人を脅迫していただけ。刑部尚書の地位にあったからこそ、手に入れることのできた夫人の弱みを使って。
夫に薬を盛られ、支配され続けたフーディエ夫人が、その夫を殺した――その事件を秘密裏に調べることも、闇へ葬ってしまうことも、刑部尚書なら容易にできる。
マリアの述べた結論に、太師は絶句した。
「……わらわも、最初は気付かなんだ。あの薬を飲むと、しばし正気を失うのでな。当時はわらわも未熟ゆえ、そういったことへの知識が薄く……。いまでこそ皺まみれの老婆じゃが、わらわにも若い頃はある。若い皇族の女というだけで、ありがたがる男が大勢おったものじゃ。薬の影響で意識がもうろうとし……絶対に逆らうことなく、自分の意のままに動く女――これだけ言えば、女に疎いそなたでも、わらわが何に利用されてきたか察したであろう」
フーディエ夫人は自分の境遇を嘆くでもなく、むしろ不敵に笑い、そう言った。
聞かされたシオン太師のほうが、姉の過去に傷ついている。
「やがて、平時にもその影響が出るようになった。薬の副作用と、禁断症状の感覚が狭まったことで、ようやく自分の異常に気付いた。それでも薬に逆らい切れず、夫に支配され続けておったが……」
「ダリス様を妊娠したことで、薬を拒絶する心のほうが強くなった」
マリアが言った。
禁断症状と激しい衝動を断ち切ろうとしたら、何か、強いきっかけが必要だ。
子を身ごもる――女性にとっては、最大の転機だ。
「すでに重篤な状態にはあったが……せめて、それ以上薬を飲まされるのは避けたかった。それで――夫に薬を飲まてやったのじゃ。それも、わらわに飲ませていた量の十倍ぐらいの濃さでな。阿片の虜になる間もなく、昇天しおったわ。年齢を考えれば当然か」
夫人は愉快そうに笑う。彼女にとって、もはやそれは、何気ない世間話と変わらぬ内容なのだろう。
太師は苦しげにため息をついた。
「そのこと……父上や、兄上は……?」
「知っておったに決まっておろう。華煉を潰すために、他ならぬやつらが、わらわをあの男に妻として差し出したのだぞ。その後の動向を、目を離すことなく見張っていた。華煉を潰すための決定打を探し続けて――」
「――探し続けて、姉上が苦しめられ、辱められていたのを放置していたと!?姉上が自ら断ち切ったから、こうしてダリスも、姉上も生き残ったものの――!」
言いかけて、口を噤む。ダリスの名前を出したことで、太師も思い出したらしい。
夫に支配されていた姉が、何をされていたか。その状態で、ダリスを身ごもった。
……ならば、彼の父親は。
「ダリスは、わらわの息子じゃ。最も必要な血は受け継いでおる――それ以上、無粋なことは言うな。どうせ、わらわ以上に、稀少な血を与えられる者はおらぬのだからな」
気まずい表情で黙り込む太師に代わり、マリアが再び口を開いた。
「そして、フーディエ様が夫を殺めたことを、あの刑部尚書が嗅ぎ付けた。いえ……正確には、いまの夫君――現丞相殿ですね。まとめられた資料を読みました。フーディエ夫人の夫の死について、初期捜査を担当した人間が彼だった」
「夫の死は、病死として扱われていたからな。刑部に所属したばかりのいまの夫が、簡単な調書を取り、形式的な捜査をして資料をまとめ、報告して終わり――駆け出しの新人向けの仕事じゃ。ところが、あの男、意外と優秀でな。うっかり気付かれて……それで、刑部尚書の関心まで引き付けてしまった」
夫人は気楽そうに話し、煙草を吸って、煙を吐き出す。
煙からは、独特のにおいがただよっている。
「その煙草。阿片中毒を誤魔化すためのものですね」
「おお。エンジェリク王はそこまで調べておったのか――左様じゃ。血を吐く思いで禁断症状は克服したものの、前夫が刷り込んだ衝動性は、やはり完全に消え失せることはなくてな。においに反応して、激しい衝動が引き出されることがしばしば……この煙草は、その衝動を和らげるための苦肉の策じゃ」
きつい煙草のにおいで誤魔化して、薬が欲しくなってしまう衝動を抑える……。
薬への依存を克服するために、結局は別のものに依存するしかなかった。
「……シオン。そなたに父上や兄上への不信感を抱かせるようなことばかり話してきたが……二人とも、皇帝としては敬意を払うべき面もあったのだぞ。わらわを見捨てたと、そなたは憤慨してくれたが、見方を変えれば、わらわ一人の命で、これから先に現れる犠牲者をなくしたかったとも言える。我が子一人の命を惜しむよりも、大勢の命を救うことを優先した――もっとも。家族なれば、身内を優先してほしかったと思うところもあるがな」
「当り前だ!」
シオン太師は立ち上がり、憤慨した。
「姉上……やはり、わしは……皇族には向かん男だ。姉上の話を聞いて、父上や兄上……そんな男たちに耐えた姉上と……義母上、母上が、立派だったとは思えぬ……。民草を守る使命があるのは分かっておる。国への愛情はある。セイランを脅かす外敵と戦うためなら、命も賭けよう。だがそれは……やはり、身近におる愛しい者たちを守りたいからだ」
そこまで話すと、シオン太師は大きく深呼吸した。怒鳴り口調になってしまったのを落ち着かせようと。
少し落ち着きを取り戻した様子で、隣に座るマリアを抱き寄せる。
「わしは、例え私欲を優先したと批判されることになろうが、マリアの子を守る。この子が、皇族としての責任や義務に巻き込まれて苦しむ羽目になるのは御免だ。姉上には、無責任なやつだとさらに蔑まれることになるだろうが――知ったことか。愛する家族のために、わしは必死で強くなってきたのだ。いまさら、わしのこの性格が変わるはずもない」
シオン太師の言葉に、フーディエ夫人はふっと笑う。
「相変わらず……そなたは皇族にあるまじき男じゃ。女で身を滅ぼす心配だけはない弟だと思うておったのに、若い愛妾にすっかり誑かされおって」
咎めるような台詞――だが、その口調は、太師を責めてはいなかった。むしろ、太師の決意を面白がり……肯定しているようにすら聞こえた。
「……ま。それも、良いのかもしれぬ。わらわもそなたも、ずいぶん年を取った。残された時間は長くない。それをどう使うか……そろそろ、人に口出しされたくもないだろう……」
マリアは、不思議な気分に駆られた。
年を取り、もう先が長くない。太師も、自分も――このセイランも。
フーディエ夫人が、言外にそう言っているような気がして。
 




