マリアの秘密
後宮に戻って一週間、マリアはまだ一日の大半を寝台に臥せって過ごしていた。
さすがに、今回ばかりは体力の限界だった。クリスティアンやシオン太師が気遣ってくれたが、彼らの前で強がるのも精一杯で。
その日は、ヒューバート王が都へ戻ってきていた。
その後の山の調査を王は手伝っていたので――本当はシオン太師も調査の指揮を執っていたのだが、マリアの様子が心配でちょくちょく馬を飛ばして後宮へ来てくれていたのだ。
ヒューバート王は、都へ戻るとすぐにマリアを見舞いに来た。
「マリア。体調を崩して寝込んでいると聞いた。医者には、ちゃんと診てもらったのかい?」
「医者を嫌がるのだ。あの手の人間はうるさく説教をしたがるからと。エンジェリク王よ。そなたからも叱ってやれ」
シオン太師が怒りながら告げ口し、マリアは素知らぬ顔で笑う。ヒューバート王は温和な笑みを浮かべたまま、マリアに言った。
「ちゃんと医者に診てもらうんだ」
「陛下までそのようなことを。私なら大丈夫です。ただの過労ですから」
「マリア」
笑顔ではあるが、王の声には険しいものがある。マリアは押し黙り、シオン太師も異変に気付いた。
「医者に診てもらって、君の体調をはっきりさせよう。君との付き合いも長くなった。僕に隠し事は無理だよ」
医者が呼ばれ、マリアは診察を受けた――受けるしかなかった。
宮廷付きの医師は己の役割をしっかり理解しているようで、マリアのことも、慣れた様子で診察していく。ニコニコと。まるで何の問題も起きていないような笑顔で、医師は結果を待つヒューバート王、シオン太師に向かって言った。
「マリア様のお身体に、重篤な問題は見受けられません。体調が優れぬのも、この時期にはよくあること――マリア様は、妊娠しておられます」
シオン太師は絶句し、ヒューバート王は顔色一つ変えなかった。
マリアの妊娠を、王は幾度も見てきたのだ。体調不良の原因も、とっくに察していたに違いない。
医師の診察を終え、マリアは清潔なベッドの上にいた。自分に近づくヒューバート王に、思わず身を固くし、無意識にお腹を押さえた。
――王が次に何を言うか、分かっていた。
「堕胎手術の準備をしておく。その子どもを、生ませるわけにはいかない。君なら分かっていると思うが」
はい、と頷かなくてはいけない。なのに喉が詰まって、なぜか声が出なかった。ただお腹を押さえる手を、ぎゅっと握り締めるばかり。
シオン太師が、マリアをかばうようにヒューバート王の前に立ち塞がる。
「腹の子は、わしの子どもだ!」
マリアは顔を上げ、シオン太師を見上げた。ヒューバート王は冷たい顔のまま、黙って太師を見つめる。太師はわずかに怯み……けれど、マリアを守るため、決然とした態度で王に挑んだ。
「いくらエンジェリクの王と言えど、このセイランの太師の子に手をかけるのは断じて許さぬぞ!」
シオン太師の子でないことは明らかだった。
太師は北方の遊牧民族を撃退するために、一ヶ月以上都を離れていた状態だ。ならば誰の子なのか……考えるまでもない。
生まれてきてはいけない子。それは分かっている。でも、子どもを殺せと言われて、ためらいなく頷けるほどの覚悟は、マリアにはなくて……。
「君も、いまはまだ堕胎手術を受けられる状態ではない。しばらくは療養に努めて……その間に、心の整理をつけておいてくれ」
そう言って、ヒューバート王は部屋を出て行った。王の背中を見送った太師は怒り狂い、その怒りをなんとか落ち着かせ――何度か深呼吸を繰り返し、改めてマリアに向き合った。
「マリア。腹の子の父親はわしだ。おまえはそう主張しろ」
跪いて、シオン太師はマリアの手をぎゅっと握る。マリアを励ますように、力強く。マリアを見る目は、懇願しているようでもあった。
「わしの子を生むのに何を迷う必要がある。おまえは、元気な子を生むことだけを考えておれば良いのだ。エンジェリク王の言ったことなど無視しろ――誰が何と言おうと、わしの子だ。おまえがそう言ってくれるなら、わしはそう思うてその子を育てる」
そう言って自分を抱きしめるシオン太師を、マリアも抱きしめ返した。
でも、太師の言葉に頷くわけにもいかないことをマリアは分かっていた。
王子のいない王妃の地位を守るために、チャールズを始末しに来た。その自分が、王妃の地位を脅かす子を生むわけにはいかない。
自ら決めたことを違えることは、マリアの矜持が許さなかった――そんなことをしたら、これまで積み上げてきたすべてがひっくり返ってしまうから。その決意で守り続けてきたプライドが崩れ落ちてしまったら……自分がいままで歩んできた道は、いったい何だったの……。
マリアの妊娠は、シオン太師やマリアの身の回りの世話をするリーシュにのみ打ち明けられ、周囲には秘密となった。堕胎するしかない子なのだから、周りに知られるわけにもいかない。
ララやノアも、マリアの異変の理由は察していた。
彼らもマリアの妊娠を見てきた。態度には出さなかったが、それとなく気づいて、それとなく労わってくれていた。
特にララは、シオン太師の言葉に甘えてしまえ、とマリアにはっきり言ってきた。自分の子を犠牲にしてまで王妃を守る――それは間違っている、と。王妃を守りたいのなら、そんな選択はすべきではないと。
でも、マリアもいまさら素直に頷けなくて。ろくでもない意地だと分かっていても、頑なな部分が、マリアをひどく責めてきた。
ヒューバート王にもシオン太師にも返事ができないまま無為に時間だけが過ぎて……。
――突然、マリアの道が決まった。
悩み続けるマリアは、日に日に寝台から起き上がることもできなくなっていった。
妊娠初期特有の不快さもあるのだが、一日が過ぎるのが苦痛でたまらなくて。回復する気がないから、この有様なのだ。それはマリアにも自覚があった。
甲斐甲斐しく世話をしてくれるリーシュには申し訳ないことだが、マリアは、元気になりたくない。決断したくない……。
そんなマリアの悩みを吹っ飛ばしたのは――そんなことができる人間は、世界中でただ一人。
――マリアの最愛の妹だけだ。
「お姉様、来ちゃった!」
満面の笑顔で彼女が部屋に飛び込んできたとき、マリアは目を瞬き、しばらく呆然となった。
……そんな、バカな。
「えへへ。だって、お姉様、危ないことばっかりみたいで心配で。ユベルだけ行っちゃうなんて酷いよね。私も一緒に行きたかったのに!」
呆気にとられるマリアに対し、オフェリアはお構いなしに喋り続ける。オフェリア付きの侍女であるベルダも一緒で、そんな姉妹のやり取りを見てニヤニヤしていた。
どうやら幻覚ではなく、正真正銘、本物の妹らしい。
オフェリアが来たことを聞き付けたのか、ヒューバート王もほどなくして部屋に入ってきた。愛しい妻を見て、嬉しそうに微笑み――オフェリアは眉を吊り上げ、猛烈な勢いでヒューバート王に駆け寄ったかと思うと、全力のビンタをお見舞いした。
「ユベル!いますぐお姉様に謝って!すぐに命令を撤回して!お姉様の赤ちゃんを殺せだなんて、そんな恐ろしいこと――絶対許さないんだから!」
顔を真っ赤にし、カンカンになって、オフェリアが叫んだ。
マリアはぽかんとそれを見ているしかなくて、ヒューバート王は困ったように笑い、マリアに近寄って頭を下げた。
「マリア。すまなかった……僕が間違っていた。どうか元気な子を生んでほしい。もう二度と、堕胎しろなんて言わない」
「当たり前でしょ!次にそんなこと言ったら、本当に離婚だからね!」
頭から湯気が出そうな勢いで興奮しているオフェリアは、また猛烈な勢いでマリアのもとに駆け戻ってきて、ぎゅうっと姉を抱きしめる。
「お姉様、もう大丈夫だよ!お姉様と赤ちゃんは、私が守るから!誰にも殺させたりしないわ!お姉様は、自分と赤ちゃんのことだけ考えてて!」
オフェリアの迫力に気圧されながら、マリアはそっと妹を抱きしめ返す。
――本当に。この子には敵わない。
「ありがとう。オフェリア……」
ちゃんと、分かっている。
自分が妹を守っているようで、本当はずっと、妹に守られていること。だからマリアには、どうしてもオフェリアが必要なのだ。
姉妹水入らずを邪魔できるはずもなくて、ヒューバート王は部屋を出た。そんな王を、クリスティアンが追いかける。
どうかしたのかい、と自分に振り返るヒューバート王は、いつもの優しい笑顔だ。クリスティアンはおじを見上げ――何を言いたいのか、自分でもよく分からなくなった。
クリスティアンは、母の妊娠に気付いていた。クリスティアンだって、何度も母の妊娠を見てきたのだ。気付かないはずがない。
そして、母がその妊娠に悩んでいることも。クリスティアンにはよく分からないことだけれど、たぶん、父親がまずかったのだろう。それで生むべきかどうか悩んでいて。
おじが生んでもいいと言えば、母の頑なな考えも変わるだろうか。そう思い、クリスティアンはあの日もヒューバート王を追いかけたのだった。
「……マルセル。オフェリアが、こっちへ向かっているそうだね」
自分の後ろに控える従者に向かって、ヒューバート王が問いかける。
はい、とマルセルが頷いた。
「なら、ベルダに手紙を書いて頼んでくれ。僕がマリアの子を堕胎させようとしていること……それとなく、オフェリアの耳に入るようにしてほしいと」
「陛下――それは……」
マルセルも、王の真意を悟ったようだ。
オフェリアは、マリアとヒューバート王、共通の弱み。彼女に言われたら、マリアも王も拒めない。
そんなオフェリアが、夫が姉の子を殺そうとしているなんて知ったらどうなるか。考える間もなく――結果は火を見るよりも明らかだ。
マルセルは口を噤み、静かに頭を下げた。
ヒューバート王が振り返り、どうかしたのかい、とクリスティアンに問いかけてくる。クリスティアンはおずおずと姿を現して――盗み聞きするつもりではなかったのだけれど、何となく声をかけづらくて。
ただ首を振るクリスティアンの頭を、おじは優しく撫でた。
そんなことを思い出しながら、クリスティアンはじっとおじを見上げる。
おじは、ちょっと首を傾げてクリスティアンを見つめ返した。
「……大人になるということは、素直になれなくなるということなのでしょうか」
ぽつりと呟くクリスティアンに、ヒューバート王は笑い、そうかもしれないね、と言った。
大人になるというのは、何と厄介で、面倒なことだろう。相手を労わる気持ちも、素直に伝えられないなんて。




