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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その悪名伝~  作者: 星見だいふく
第三部03 チャールズ
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道の先 (5)


マリアは以前、ライオンの檻に入ったことがある。

ライオンたちとの対面も冷や汗ものだったが、この虎と比べれば、彼らは可愛らしい存在だった。あのライオンたちには、理性というか、人間に通じる感情のようなものがあった。

しかし、目の前の虎は。


マリアを見つめる目に、感情はない。この虎にとって、単なる餌でしかないのだ。そこに、何らかの言葉がつくこともない。


目を逸らすことなく虎を真っすぐ見据えるマサパンにならい、マリアも虎から視線を逸らさなかった。虎はゆっくりと近づき、一定の距離を取ってうろついている。マリアを襲うタイミングを計っているのだろうか……いつかは、この膠着状態も終わる……。


マサパンはマリアをかばうように立ち塞がり、虎とにらみ合っていた。でも、いくらマサパンでも、この虎には敵わない。善戦の余地すらない。


マサパンは大型犬で、人間にも劣らぬ体格だ。目の前の虎は、そんなマサパンも子どもに見えてしまいそうなほど大きくて。

以前会ったライオンたちは、ここまで大きくなかった。きっとこの虎が特別なのだ。


距離を取ってうろうろしながらも、虎はさりげなくマリアに近づいてくる。マサパンも睨み合ったまま、わずかに後退していた。マリアも、背を向けて逃げ出したい衝動に抗うのに必死で――。


「マリア!こっちに向かって走れ!」


背後から聞こえてきたチャールズの声に、マリアはためらいなく動いた。


虎に背を向けることをためらわず、全力で走る――背後から、虎が追いかけてくる気配がした。振り返っている余裕はない。

チャールズの言葉を信じて走って……頭上からガサガサと派手な物音がして、マリアの目の前にチャールズが滑り落ちてきた。すぐに彼は体勢を整え、弓を絞る――虎は、マリアのすぐ後ろだ。虎の息遣いを、背中に感じる。

下手に避ければ、かえってチャールズの邪魔になってしまう。弓は自分に向いているが……マリアはまっすぐ走った。


チャールズの放った弓がマリアの耳元を掠め……虎が悲鳴を上げた。

その断末魔はすさまじくて、マリアは転びそうになった。そんなマリアをチャールズが抱き留め、自分の背にかばう。


弓は、虎の眉間をしっかりと射抜いていた。虎は悶絶し……けれど、完全に息絶えてはいなかった。のたうち回る虎の上に、誰かが飛び乗る。

ヒューバート王だ。

虎の背に乗り、渾身の力を込めて剣を振り下ろす。虎の首を狙って――恐ろしいことに、剣が深々と首を貫いても虎は絶命しなかった。虎の首に刺さる剣をしっかりと握り、振り落とされないようにヒューバート王はしがみつく。


チャールズはもう一度弓を引き、大きく開いた虎の口めがけて矢を放つ。矢が頭を突き抜けて虎の口内に刺さり、それでようやく巨体は倒れた……。


「まったく。近くで見るとますます……化け物じみた恐ろしさだ」


ヒューバート王はようやく虎から降り、力を込めて両手で剣を引き抜く。チャールズも、ほーっと大きく息を吐いていた。


マリアもまた、力が抜けて座り込んでしまって――自分にすり寄るマサパンに抱きつく。


「ありがとうございました。陛下、チャールズ様。マサパンも……」


言いかけて、マリアは恐怖した。マサパンは、まだ警戒を解いていない。


「陛下……チャールズ様……」


マリアの視線の先を追って、ヒューバート王もチャールズも息を呑む。それぞれの武器を握り締め、二人とも、じりじりと後ろに下がった。


虎が、のっそりと姿を現す。一頭……また一頭と。マリアとマサパンの後ろからも一頭――三頭の虎が、マリアたちを取り囲んだ。


「これだけいたら、処刑には困らないな。いつだって餌の奪い合いだ」


ヒューバート王は、皮肉とも自嘲とも分からぬ笑みを浮かべる。チャールズはマリアの腕をつかんで立たせ、自分とヒューバート王の背中に押しやった。


「一頭でも二人がかりの不意打ちでやっとだぞ。三頭も相手にしていられるか」


その時、マリアたちは目撃した。

崖の上――自分たちを見下ろす刑部尚書の姿を。


馬に乗り、弓を持った部下を引き連れて。嫌な笑みを浮かべている。

下手な逃げ方をしたら、今度はあっちが攻撃してくる……ということか。マリアはチャールズの服のすそを、ぎゅっと握った。意識したわけではなく……自分でも、気付かない内に。


刑部尚書の部下たちが、弓を構えた。

ヒューバート王は剣を握りなおし、チャールズは弓を片手に、もう片方の手でマリアの手を握った。二人とも、逃げ出す機会を諦めたわけではなさそうだった。


弓を放つ音がして――矢が飛んでいく。マリアたちを狙う男たちが、次々と倒れて行った。


崖の上で、刑部尚書が驚き、戸惑う姿が見える。訳が分からず倒れる部下たちを見ていた彼の馬に、今度は大きな槍が落ちる。槍は完璧に馬の急所を射抜き、その衝撃で崖から崩れ落ちた――刑部尚書を乗せたまま。


「うわあああああ!」


悲鳴を上げて崖から転がり落ちる刑部尚書は、虎たちの注目を集めた。

馬はすでに死んでいたが、落下した際に身体のどこかを折ったらしく、地面に血溜まりが……そんな馬に身体を挟まれて、刑部尚書はもがいていた。彼も落下で手足を負傷したようで、ぎこちない手つきで馬を押しのけようとしている。

刑部尚書の大きな呻き声と血の臭いに引き寄せられ、三頭の虎たちが静かにそちらへ近づいていく……。


マリアの肩を、誰かがつかんだ。

飛び上がりそうになりながら振り返れば、ノアが立っていた――マルセルや、セイランの兵士を連れて。


彼らについて、マリアたちはそっとその場を離れた。


「やめろ……ひいっ!誰か、助けてくれぇえ……!」


自分のほうに虎が近づいてくることに気付き、刑部尚書が悲鳴を上げる。それに振り返る者は誰もいなかった。


ノアたちは崖の前へとマリアたちを連れて行った。崖の上から何本もロープが垂れ下がり、他にも待機している兵士が。


ヒューバート王とチャールズは、自らロープをつかんで登り始めた。マリアはノアにおぶさり、ノアは人を背負っている重みなど微塵も感じさせずに崖を登る。

マサパンは、ロープのついた布を身体に巻きつけられ、上から引き上げてもらっていた。宙に浮く感覚をどのように感じ取っているのか、足は空を歩いているかのように動いていた。


頂上まで来た時、急いで伸びてきた手がマリアの腕をつかみ、強引なまでに引っ張り上げてくる。

そのまま強く抱きしめられて――それがシオン太師であることに、マリアはすぐに気付けなかった。


「危険な真似はするなと言うたであろう!」


聞き慣れた怒鳴り声に、マリアはくすりと微笑んだ。それと同時に、恐怖も緊張もスッと消え去って――彼の背中に手を回して、マリアも彼を抱きしめ返す。


「駆けつけてきてくださって、とても嬉しいですわ……ありがとうございます、シオン様」

「そんな可愛らしい態度を取っても誤魔化されぬぞ!おまえという女は……本当に……!」


そう言いながら、シオン太師は痛いほどマリアを強く抱きしめてくる。彼のこの握力なら、あの大きな槍を刑部尚書のいた崖まで投げ飛ばすのも簡単だろう。歴戦の猛将だ。狙いも完璧だった。


兵士たちが――おそらくは、シオン太師の部下だ――ちょっと冷やかすような目でこちらを見ている。

けれどマリアは……太師の肩越しに見えるものに、複雑な思いが胸中を締めて……。


崖の上に着いたチャールズは、諦めたような表情だった。

彼の目の前には、縄で拘束されたマオが。ヒューバート王の言ったように足の手当ては施されているが、跪かされ、その首筋には剣が突き付けられている。明らかに、チャールズへの脅し。


後ろ手に自分を拘束してくる兵士に対して、チャールズは一切抵抗しない。

マオは苦しそうな目でそれを見つめ、がっくりとうなだれた――きっと彼は、チャールズに逃げてほしかったのだろう。自分のことなど見捨てて……チャールズさえ無事なら、それでよかったのだ……。

そんなマオに、チャールズはぎこちなく笑いかけた。


――これで良い。

そう、彼に語りかけるように。


「マリア」


ヒューバート王が、マリアに声をかける。


「君は先に町へ戻るんだ。クリスティアンやホールデン伯爵が心配している。彼らに無事な姿を見せてあげないと。それにララも――無事に解毒が終わって、もうほとんど良くなっているはず」

「エンジェリク王の言う通りにしろ。わしたちはもう少し残って、やつの悪事を調べねばならんが、おまえがおっては集中できぬからな」


マリアは苦笑しつつも、素直に頷いた。

さすがにもう、へとへとだ。彼らと一緒に残りたいとも思えない。ゆっくり休みたいし……クリスティアンやララにも会いたい。

マリアも、二人のことをずっと心配していたのだ。無事に町に降りてくれていることを信じていたけれど、その姿を、自分の目で確認したい……。


「マリア様」


白馬のリリオスを引いて、ノアがマリアに近づく。リリオスは長い鼻をマリアに摺り寄せてきて……いまは、彼女のほんわかした雰囲気に癒される思いだった。


リリオスに乗り、ノアと、マサパンを連れてマリアは先に山を下りることになった。

去り際に一度だけチャールズをちらりと振り返り――チャールズは、マリアのほうを見なかった。一度も。

マリアもチャールズを見たのはそれが最後。言葉を交わすことなく、彼と別れた。




その後、山狩りが行われ、三頭の内二頭の虎は始末されたという報告をマリアは聞かされた。しかし、最後の一頭は見つからず。

山は広いので、どこかに隠れてしまったら見つけ出すのは至難の業だと捜索は打ち切られたらしい。山をすべて捜索することは不可能だったが、その程度の捜査でも十分なほど、たくさんの遺体が見つかったそうだ――すべてバラバラで、身体の一部だけだったけれど。


刑部尚書の悪事の真実を知りたかったわけではなかったから、マリアはそれきり、彼への関心を失くしてしまった。罪のない我が子すら犠牲にするような男は、その本性に劣らぬ獰猛な獣に襲われて、この世から消え去った。

それで十分だ。


マリアは後宮に戻り、休養に努めていた――大きな秘密を、誰にも打ち明けることなく自分の内に抱え込んだまま。


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