道の先 (4)
チャールズが使った謎の煙玉を浴びてから、一日は経過したはず。けれど、マリアの目はまだしぱしぱしているような気がした――何とも滑稽な擬音だが、それがいまのマリアの率直な感想だった。
「まだ鼻が詰まっているような気がします」
「悪かった。もうちょっと穏便なものもあったんだが、あいつには毒が効かないから、それぐらい強力なやつを使うしかなくて」
苦笑いしながら、チャールズが謝罪する。
そう言えば、チャールズはヒューバート王が毒に耐性があることを知っていた。だから、マリアもかなりのとばっちりを食らうレベルのきついものを使うしかなくて。
チャールズがマリアに気を遣う義理などないのだが、とんだ目に遭った、とマリアは感じていた。内心で恨んでいるぐらいは自由だと思う。
「それにしても、ずいぶん山奥まで来ましたね。まだホオズキの花は咲いていますが、いったい何を示しているのでしょう」
最初は、別の基地までの道標ではないかと考えていた。けれど進めば進むほど、人間の拠点に選ぶに適さない地形になって行っている。
「処刑場とか……あちこち崖だらけですし、崖から突き落として始末するのは簡単そう」
我ながら悪趣味な発想だが、チャールズは真面目に考えていた。
「普通の人間ならそれで問題ないだろうが、華煉で鍛えてきた人間が相手にはいまいちな処刑方法だな。場所を選んで……簀巻きにでもして一切の抵抗を封じた状態で頭から落とさないと、生き残る可能性も高いぞ。そんな手間をかけるぐらいなら、もっと楽で確実な方法がいくらでもあるだろう」
「残虐に殺す趣味があるかもしれませんよ。その手間も惜しまないほど、そういったことを好んでいるとか」
エンジェリクの警視総監は、尋問のためなら手間を惜しまない人だったし。あれは本人の趣味ではなかったけれど――本人の趣味だったらどうしよう。
刑部尚書も、もしかしたら普通の処刑に飽きて、気持ちの悪い楽しみ方を見出しているかもしれない。
「……それは、否めないか。俺には理解できん趣味だが」
「そのほうが健全です」
言いながら、マリアはいままでずっと目を逸らしていたことと向き合わなくてはいけないな、と思い始めていた。たぶん、チャールズも薄々感じ始めていること。
自分たちが考えていることが事実だったとしても、どうしようもないからあえて口にしなかったこと。
「チャールズ様。もしかして、私たち……まんまと誘き寄せられていません?」
「おまえもそう思うか?」
ちょっと気まずそうに、チャールズが答える。
あのホオズキの花は、マリアたちのように、刑部尚書の懐に潜り込んできたねずみを、誘き寄せるための罠かもしれない。その可能性は、かなり早い段階からマリアも考えていた。チャールズも同様に。
「手掛かりもなしにうろうろするよりは、罠を逆に利用していったほうがマシだと開き直って進んできたんだが……やはり、まずかっただろうか」
「私はチャールズ様の意見に賛成です。罠だと言うのなら、踏み抜く勢いで突撃していけばよいだけのこと。考え過ぎて動けなくなるよりは、私もマシだと思いますわ」
「そうか。そう言ってくれると助かる。昔から、ごちゃごちゃ考えるのは苦手で……それで取り返しのつかないことをしてきたし、マオにも呆れられたから、少しは改めようと努力しているんだが」
ホッとしたように、チャールズが言った。
確かに、昔の彼は思慮深いほうではなかった。成長してずいぶん落ち着き、大人びたと思ったが、そんなところは変わらなかったらしい。
……意外とヒューバート王も、脳筋なところがあるからなぁ。
マリアは内心苦笑いだ。
ヒューバート王も、ごちゃごちゃ悩むよりさっさと行動してしまいたい人で。じっと待っていることができない性分だ。まさか、セイランに来ていたなんて……落ち着きのなさは、マリア以上かも。
罠の危険を十分に考えながらも、マリアたちはホオズキの花を追って歩く。
そして、再び足が止まった。
「花が……見えなくなったな。どこかで見落としたか……道を間違えたか」
チャールズはきょろきょろと辺りを見回し、マリアも周囲を見回し――どこかで間違えたかな、と考えた。
だって、目の前は崖。行き止まりだ。
まさか、この崖を下りるなんてチャールズが言い出さないか心配だった。馬で駆け降りた崖に比べれば傾斜も高さも控え目だから……五十……いや、下まで三十メートルほど。何とかなりそうなだけに。すごく不吉だ。
「……あら。チャールズ様、あれは……」
言いながらマリアがチャールズを見れば、静かに、と合図を出される。チャールズがマリアの肩を押し、マリアは彼に合わせてそっとしゃがみ込む。
崖の下。木々の隙間から、男が一人。
セイラン人だ。マリアやチャールズよりは年上だが、若く……血まみれで。
周りを強く警戒しているが、怪我をしている様子はない。なら、あの血は彼ではなく、別の誰かの……。あれがチャールズの探していた人物なら……もう一人いるはずだから……あの血の持ち主は、きっとそのもう一人……。
男は追われているのだろうか。あの血だ。何かはあったのだろう、実際。
でも、人の気配はしない。
警戒していた男も、そろそろと歩き出す。
――ほんの一瞬の出来事だった。
ガサリと茂みが揺れる音がしたかと思うと、男がびくっとすくみ上り……ひどく怯えていた……彼が駆け出そうとした瞬間に、それは飛びついてきた。
男の喉元に噛みついて一撃。骨が砕けるような嫌な音がして……ぴくりとも動かなくなった男は、ずりずりと茂みの中に引きずられていった……。
マリアは、血の気が引いているのを感じていた。口元を押さえ、息をすることも忘れてそれを見ていた。吐き出した息は震えていた。
チャールズを見れば、彼も真っ青になっている。
「あ、んな、ものが……」
マリアの腕を引っ張り、静かにその場を離れる。何も言わなかったが、進んできた道を急いで引き返そうとしているのはマリアにも分かった。
もう、この山に留まる必要もない。
「おまえの勘は当たりだな。あの花が示した先は処刑場……俺が探していたやつも、もう見つかった。一人はいま、俺の目の前で死に……もう一人も、たぶん、あれにやられた。あんなものがいるんじゃ、死体も見つからないだろう」
ホオズキの花をたどって、チャールズは足早に歩く。背の高い彼のスピードについていくためには、マリアはほとんど走るしかなかった。
ためらいなく引き返すチャールズは、目の前に現れた男に立ち止まる。驚き、急いで剣を手にかけて――マサパンを連れたヒューバート王は、剣を抜かなかった。
「君たちがいま見たものを、僕も見た」
マサパンは嬉しそうに尻尾を振りながらマリアにすり寄る。ヒューバート王は、蒼白な顔をしていた。
「……君との決着は、山を出てからにしよう。さすがの僕も……あれを見て、君のことにこだわっている余裕はない。マリアもいる。優先順位は分かっているつもりだ」
ほんの短い間、沈黙が包み……チャールズは警戒を解いた。
あっさりと、ヒューバート王の言葉を信じて――信じるだけの説得力があった。あれを見たら、誰だって同意するしかないだろう……。
「ヒューバート陛下。セイランへいらしてたんですね」
「ああ。君が心配で。セイランに来るまでにも、すでに問題だらけだったんだろう?ベナトリアでは、フランシーヌ軍に、ベナトリア王……フリードリヒ王は、君のことをずいぶん気に入っていた。僕に結婚の許可を求めてきたよ。すでに既婚者だから無理だと断っておいたけれど」
ヒューバート王の話に、マリアは苦笑いするしかなかった。
帰りもベナトリアを通ることになるのだが……フリードリヒ王とは、顔を合わせないほうが良いだろうか。そういうわけにはいかないけれど。
「セイランへ着いたら、今度は君が行方不明だと知らされて。僕が捜索に乗り出すことを刑部尚書は嫌がったが、王権を持ち出して黙らせた。若い王だと思って侮っていたんだろうね。僕に居丈高に命令されて……必死に平静を装っていたが、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。セイランの皇帝も、あれでは苦労しているだろうな」
「どうやって俺たちを追いかけてきた」
チャールズが言った。
いまはマサパンを連れているから何となく理解できるが、この広い山の中を、偶然見つけ出せるとは思えない。マリアも、ちょっとだけ疑問に感じた。
「ホオズキの花を追ってきた。ホオズキの花言葉は秘密――不穏な花言葉に興味を惹かれたのもあるが、あの種のホオズキは、セイランでは自然生息していない。それがあちこちに咲いているとなったら、やっぱり気になるだろう?」
「さすがは陛下ですわ」
マリアは苦笑した。趣味で花を育てて研究しているだけあって、この手のことはマリアたちよりも察しがいい。
「けれど、お一人なのですか?マサパンを連れてはおりますが……マルセルは?」
「刑部尚書の足止めを頼んだ――まさか、僕が一人で行ってしまうとは思ってなかったはず。でも、大人数で動くと目立つから……刑部尚書は、明らかに胡散臭くて信頼できない。彼の目をすり抜けたかった」
ヒューバート王の目は泳いでいた。
戻ったら、マルセルからこっぴどく叱られるだろうなぁ、なんて考えているに違いない。
「……マオはどうしている。お前が投げた剣が足に当たって……動けなくなっていた」
チャールズが、低い声で尋ねた。
不安と、少しの怒りを込めて。彼を見捨てた罪悪感も、きっと含まれていたのだろう……。
「捕えて、マルセルたちに見張らせている。ちゃんと足の手当てはしてあるから、命に別状はない――君を狙ったんだけど、あの煙のせいで手元が狂った。刑部尚書が身柄の引き渡しを要求してきたが、それは拒否しておいたよ。彼は喋れないみたいだから尋問も必要ないし、嫌な予感しかしないから。さっきの光景を見たら、絶対に引き渡したくなくなった」
その言葉に、チャールズは秘かにホッとしていた。
マリアも、刑部尚書には渡さない、と断言してくれたことは、ちょっとだけ嬉しかった。
マオも、始末してしまう必要は出てくるかもしれない。けれど、刑部尚書には譲りたくなかった。あんな男のおもちゃにされて殺されるのは御免だ。
マサパンに先導されながら、ホオズキを辿って歩いていた。まだ後ろ足を少し引きずっているが、マサパンはだいぶ回復したようだ。
そんなマサパンが、周囲を警戒し始めた。ヒューバート王とチャールズの反応は素早く、何かに気付いたかと思うと、走れ、とマリアに短く指示を出した。
走り出した途端、矢が飛んできた。真っ直ぐ平地ではない足場に、木が生い茂ったこの場所では、矢を当てるのもそう簡単ではないが。
ちらりと飛んできた方向を見てみる――マリアも、生い茂る木が邪魔で向こう側をよく見ることができない。気になって、よそ見をしてしまったのはまずかった。
数日前の雨で脆くなっていた部分を踏んでしまい、マリアは坂道を滑り落ちた。
「マリア!」
ヒューバート王とチャールズの焦る声が聞こえる。どちらのものか判別できなかった――ほとんど二人同時に、叫んだような。
最悪の展開を予想したが、恐れていたほど酷いことにはならなかった。急勾配な坂道ではあったが、落下は坂のなかほどで自然と止まり……マリアは、ギクリとなった。
ちょうどそこは、木々の隙間となっていた。対面に、崖が見える。そこに弓を構えた男たちが……マリアから丸見えということは、こちらも、向こうに無防備な姿を晒しているということで……。
登ることをやめ、マリアは急いで坂を駆け下りる。予想通り、マリアのいた場所に弓が撃ち込まれた。
上のほうでも、何本か弓が飛んで行っている――ヒューバート王たちも、あれでは逃げるしかあるまい。下まで降りて、マリアは木々の中へ飛び込んだ。
とにかく、弓から隠れないと。
しばらく走って、やがて弓の音が完全に聞こえなくなると、マリアはようやく足を止めて長い溜息をついた。
改めて辺りを見回す――どこか、上に登れる場所はないだろうか。背の高い木が邪魔で、上が見えない。木に登るのも難しそう……。
ガサガサという物音に、マリアはハッと息を呑み、木に張り付いて身を隠す。
人間……ではなさそうな気配に、息が止まりそうになった。茂みが揺れて――ひょっこりとマサパンが顔を出した。
「マサパン……!良かった、あなたに会えて……追いかけてきてくれたのね……」
安心のあまり脱力し、マリアはへなへなと地面に座り込む。腰が抜けた、というやつかもしれない。しばらくは足に力が入らなくて、そのまま。
そんなマリアに駆け寄って尻尾を振るマサパンを、マリアはぎゅっと抱きしめた。
足が泥にまみれている。毛皮には、小さな枝や葉が引っ付いて……マリアを追いかけて、彼女も坂を駆け下りてきてくれたのだ。
マサパンの勇敢さと忠誠心には、本当に、感謝の念しかない……。
「来てくれてありがとう。私なら大丈夫よ。ヒューバート陛下やチャールズ様と合流しに行きましょう」
ようやく立ち上がれるようになって、マリアは服についた泥を払う。
マリアの周りをそわそわとマサパンが歩き回り、ピタッと、その動きを止めた。振っていた尻尾もピタリと止まり、マサパンは一点を見つめ、視線を離さなかった。
マリアは悲鳴を上げそうになって、ぐっと堪えた。
怯えを見せたら襲われる――とっさの本能で、逃げ出したい衝動をなんとか踏みとどまった。
マリアの目の前に、それは姿を現していた。
人間の血と肉の味を覚えた、大きな虎だ。
 




