道の先 (1)
「マリア様――」
「ノア様、大丈夫?」
自分を追いかけるノアに振り返ってマリアが尋ねれば、ノアからは微妙な顔……もとい、微妙な空気を出されてしまった。ポーカーフェイスだから、表情はあんまり変わらない。
「私のことなど気に掛ける必要もありません。マリア様こそ……」
ノアは戸惑っているようだった。
大丈夫なのか、と質問するわけにもいかなくて。そんな無神経な質問をするわけにはいかない――自分の不甲斐なさを、ただ恥じ入るのみ……。
「私なら大丈夫よ。何もされてないから。本当に。少しぐらいの屈辱には耐える覚悟だったのに……私のほうが拍子抜けしてるぐらいよ」
マリアが笑って言えば、ノアは顔を上げてマリアを見た。
男たちに押し倒されたマリアは、抵抗することなく事の成り行きを見計らっていた――見計らっていたのだ、タイミングを。
狭い洞窟ではリスクが大きすぎるから使わなかったが、いざとなったら護身用の毒を撒いてこいつらを全員始末してもいい――ただ、マサパンが脚を負傷してしまったのだけは計算外だった。あの脚で、一緒に逃げ出せるか。
「へへ……やけに大人しいじゃねえか。俺としては、もっと抵抗してくれてもいいんだがな。嫌がる女を押さえつけるのもオツなもんだぜ」
「そんな面倒なこと、俺は御免だね。こっちのほうが楽でいい」
自分の頭上で繰り広げられる下品な会話も無視して、マリアは男たちを見定めていた。
毒は最終手段でいい。
この程度の男を、マリアにひれ伏せさせるのは簡単だ。七人もいるのが厄介だが……一番効率よく、誑かしやすそうな男を見極めて、ターゲットを絞る必要はある。できれば、あの女を嫌ってくれていると有難い――。
「良い子には、俺たちも優しくしてやるよ。ご褒美をやってもいいぜ。アオマのやつが宝石や服をため込んでるからな。ちょこっとぐらい、おまえに横流ししてやってもいい」
アオマ――あの女のことだろうか。
マリアはニタニタ笑う男をじっと見つめ、なら、と口を開いた。
「ご褒美は、あの女の泣き顔がいいわ。こんなふうに痛めつけられて、犯されてる姿が見たい」
アオマという女が、男たちからさほど慕われていないのは感じ取っていた。アオマではなく、その背後にいる人間を恐れている――たぶん、山賊たちの頭領。彼女は、頭領にとって特別な存在なのだろう。
アオマへの反抗心を煽ってみれば、少しぐらいは効果があるかもしれない。
そんな軽い気持ちで口にした提案だったが、思いのほか、男たちの心を揺さぶった。
「アオマをか……そいつは……おもしれぇ提案だな……」
マリアを押さえていた男がニヤリと笑い、周囲を見回す。彼に同調するように笑う者もいた。咎める者もいたが、それはアオマへの憐れみや情ではなかった。
「でも、アオマに手を出したらおかしらが……」
「頭領はたしかにアオマを可愛がってはいるが、血が繋がった妹だからちょいと優遇してるってだけだ。あいつの言い分を鵜呑みにして俺たちを問答無用でぶっ殺すほど、目は濁っちゃいねえ……」
男たちはマリアのことなど忘れ、アオマへの復讐について考え始めた。
気がかりなのは、アオマの兄――彼らの頭領のこと。頭領に逆らう気はない。だけど、兄の威光を笠に着て威張り散らすアオマが憎い――目の前に無防備な女がいても、それを忘れるほど強く想われているだなんて……なんだかヤキモキしちゃうわね。マリアは密かに嘲笑した。
「私は親切だから、彼らに上手い言い訳を教えてあげたの。チャールズの気を引きたくてたまらないのは見え見えなんだから、それを利用すればいいって」
マリアが部屋に戻ると、隅でうずくまっていたマサパンが顔を上げ、後ろ足を引きずりながら近寄って来る。
だめよ、とマリアは急いでマサパンを止めた。
「私は何ともなかったけれど、あなたのダメージは本物だわ。ごめんなさい、いつも甘えてばかりで……私が悪いのよ」
マサパンと出会ってから、もう十年以上の月日が経っている。人間で言えばマサパンはかなりの高齢――いつも勇敢で、忠実で……無邪気で愛くるしい友だったから、すっかり失念していた。
本当はもっと労わってあげるべきだったのに。
いまも、マサパンは自分の負傷を嘆くどころか、マリアに抱きしめられることを喜んで、ご機嫌で尻尾を振っている。どんな危険も顧みず、いつも身を挺してマリアたちを守って来てくれた……無償の愛情を示してくれていた……。
「マリア、大丈夫か!?」
部屋に、チャールズが血相を変えて駆け込んでくる。たぶん、何が起きたのか知ったのだろう。
大丈夫です、とマリアは答える。
「私は問題ありませんが、マサパンが……この子が負傷してしまって。後ろ足の様子がおかしいんです」
「骨は折れていないようですが……恐らく、ヒビが入っているかと」
マサパンの後ろ足に触れ、動かしてみたり、感触を確かめてみたりしながらノアが言う。マサパンは痛がって、何度も悲しげに鳴いていた。マリアが抱きしめて、マサパンを落ち着かせる。
「添え木になるものを探しに行かないと」
「マオを連れて行け。暗くなってから一人で出歩くのは自殺行為だ。マオなら夜目も利くし、このあたりのことも詳しい。マリアのことは、俺が守る――こんなふざけた真似は、二度とさせない」
はっきりと告げるチャールズの言葉には、力強さがあって。マリアのほうが目を丸くしてしまったぐらいに。
ノアはしばらくチャールズをじっと見つめた後、マリアに向かって膝をつき、頭を下げる。
「申し訳ありません。おそばを離れること、お許しください」
「マサパンが最優先よ。お願いね」
ノアは立ち上がり、部屋を出て行く。ノアと共に外へ出るマオに向かって、チャールズも呼び掛けた。
「痛み止めの薬草が底を尽きそうだ。この犬の分も含めて、多めに採ってきてくれ」
ノアとマオが出て行ったあと、部屋は静かだった。チャールズはマリアの隣にぴったり座り、マリアは少し、落ち着かない気分だった。
マリアの膝の上に頭をのせたマサパンはうとうととまどろみ始め……やがて眠りに落ちた。
「……マリア」
起こさないよう、そっとマサパンの頭を撫でるマリアに、チャールズが声をかける。
「すまなかった。気の良い連中だと思っていたが、所詮ならず者の集まりだということを忘れていた。女のおまえがどう見られるか、考えなかった……」
「チャールズ様が謝るようなことでは……」
チャールズを慰めるためというより、本心からマリアはそう思った。チャールズのところに勝手に押しかけて来たのはマリアだし。
チャールズには、マリアを守る義務など――。
「……あの。私、セイランの王都へ来る前、一度ひやりとしたことがございましたの。セイランを脅かす北方の遊牧民族……彼らが私たちの乗った馬車を襲撃し、私も直接刃を向けられることになって。その時に、敵の一人が弓で撃たれて倒されました。その時の私の護衛に、弓持ちはいなかったというのに」
ちらりと、壁にかけられた弓に視線をやる。
エンジェリクにいた頃から、チャールズは馬と弓を得意としていた。狩りを好んでいて、その腕前は間違いなく人並み以上。昨日マリアたちを助けてくれた時も、今朝マリアたちを逃がす時も、見事な腕前を披露している……。
チャールズは視線を泳がせ……やがて、観念したように白状する。
「ああ、俺がやった。エンジェリクから女が来ると聞いて……明らかに俺が知っている奴の特徴ぴったりだから、気になって偵察に行った――自分の目で確かめたいと思うだろう、普通!俺は一応、エンジェリクから逃げてきた身なんだから!」
「……そうでしょうね。私でも、逆の立場だった時、自ら確認に行きますわ。私が言いたいことはそういうことではなくて……」
我ながら、ずいぶんと歯切れの悪い会話だ。
助けてもらった身でこういうことを聞くのは無粋で気が進まないのもあるし――それを聞いて、自分はどうしようというのだろう……。
「どうして、私を助けてくださったのです?」
ぐっと、チャールズが言葉に詰まる。彼にとっても、あまり聞かれたくないことだったらしい。
さっきよりも視線のきょろきょろ具合がひどい。激しく動揺し……母親の顔色をうかがう幼子のように、マリアに視線を戻した。
「……おまえに、惚れてるから。昔からずっと……悪かったな!俺なんかに好かれても嬉しくないのは分かってるが、そんな顔することないだろう!俺が心の中でこっそり想うぐらいは自由じゃないか!」
逆切れ気味に、チャールズが怒鳴る。いまの姿は、マリアの記憶にあるチャールズと同じだった。
「どんな顔をしていたのかは私自身は分かりませんが――チャールズ様に好かれても云々以前に、なぜチャールズ様は私のことを好いてるのです?私、好かれることをした覚えがありません」
マリアの問いに、チャールズは眉を寄せ、これ見よがしに大きなため息を吐く。
どうしてだろうな、と独り言のように呟いて。
「俺も、なんでおまえなんかに惚れてるんだろうって思う。おまえのせいで、散々な目に遭ったっていうのに。最初のきっかけは、おまえに腹を思い切り蹴飛ばされたことだった」
「そういう性癖――」
「違う」
若干引きながらマリアが言えば、間髪入れずにチャールズが否定してきた。
「あの時、俺は初めておまえの顔を見た。意味不明のことを言っているように聞こえるかもしれないが……俺はずっと、人の顔が見えなかったんだ。いや――ちょっと違うか。伯父上や父上、母上……それに、妹の顔は見えていたから、見ようとしなかったというのが正しいだろうか――とにかく、あの頃の俺は、人の顔を認識していなくて。足蹴にされた怒りで、ようやくおまえのこともちゃんと見た」
チャールズが言った。
「おまえに散々な目に遭わされて……自分を取り囲んでいた環境も激変して……俺は、人の顔が見えるようになっていった。エンジェリクから逃げ出して以来、それがどういう現象なのか考えるようになったんだが……記憶をたどってみれば、小さい頃はちゃんと見えてたんだ。成長するにつれて、見えなくなった――ちゃんと、見ようとしなくなった」
マリアの膝を枕にしていたマサパンがもぞもぞと動き、顔を上げた。体勢を変えたかったようで、頭がマリアの膝から落ちても構わず、ごろりと転がって再び眠り始めた。
地面に転がるマサパンの頭を追いかけてマリアが伸ばした手に、チャールズが自分の手を重ねてくる。顔を上げたマリアの目を、じっと見つめてきて……。
「もっと早く、俺の目が開いていれば。俺は……おまえを父上に奪われずに済んだだろうか。おまえの息子の父親は、本当に俺が……」
「それはあり得ません」
マリアがきっぱり言えば、チャールズが苦笑する。
「相変わらず容赦のない女だ。俺を陥れるのもためらわなかった――くせに、俺のことを見逃して。情が深いんだか、冷酷なのかよく分からないやつめ。俺も、厄介な女に惚れこんだものだ」
チャールズの顔が近づき――なぜか、マリアは目をつむって彼を受け入れてしまった。
触れる唇の感触に……そう言えば、こうやってチャールズから口付けられるのは、まだこれが二度目だったことを思い出した。
だから彼の口付けはとてもつたなくて……まるで、これが初めてのように。
――肌を重ねていると、情が移らないか。
不意に、マリアの脳裏にその台詞がよみがえった。チャールズからの初めての口付けを受け入れた時にも思い出した言葉。
そんなことあるはずがない。そんなことぐらいで、自分は心動かされるような女ではない。
あの時はそう一蹴した。
「愛している、マリア。ずっと……おまえに、もう一度会いたいと思っていた。だから……本当は、おまえを一目見たくて会いに行ったんだ」
チャールズの手が、マリアの身体を押す。いまはそれに従う必要もないのに、マリアはそれに逆らわず。
自分に覆いかぶさってくる彼の首に、自ら腕を回した。




