現れたもの (1)
散々悩んで、他の方法も考えた。
自分の目的を果たすために、我が子を囮に使って、危険にさらす。それが母親としてどれほど愚かで非道なことか――例え本人が許してくれても、マリアは自分を許せなかった。
それでも。
悠長に別の機会が訪れるのを待っている余裕もない。
狙われているのがクリスティアンである以上、向こうの反応を待ってはいられなかった。
「破天荒な母上に心配されても、僕としては鼻で笑うしかありません」
馬車を下りる前に着ている黒い衣装を整えていたら、クリスティアンにそんなことを言われてしまって。苦笑いで、マリアは息子を見つめる。
「ノア。マリアとクリスティアンを頼む」
ホールデン伯爵が言い、ノアは静かに頭を下げた。
「でもさぁ。おまえの洞察力をいまさら疑うつもりはねーけど、フーディエ夫人がシロだって信じて大丈夫なのか?」
馬車を一緒に降りながら、ララが言った。マサパンもクリスティアンについて下り、マリアたちを見上げて尻尾を振っている。
「私が夫人から気に入られているかどうかはさておき、フーディエ夫人がメイレン様の父親のことが気に入らないのは確かだと思うわ。彼と会った時、割と露骨に態度に出てたもの」
メイレンの父親に声をかけられたとき、フーディエ夫人は完璧な愛想笑いを浮かべ、適当に相槌を打っていた――話を受け流して、ただ時間が過ぎるのを待っているだけ。マリアもよく使う手だから、あれはすぐに見抜けた。
「メイレン様の父君は、たしか、刑部の尚書ですよね。エンジェリクで言えば、ドレイク警視総監と同じぐらいでしょうか」
葬儀の受付を待つ間、小さな声で、クリスティアンがそっと母親に尋ねてくる。
「司法長官だから、ジェラルド様よりもさらに上よ。フーディエ夫人の前夫がやっぱり丞相で、前夫の死後は彼が丞相になるのではないかと言われていて……」
どうなったかは、説明するまでもない。
なんだかどこかで聞いたことがあるような気もするが……ただ、刑部尚書本人は、丞相の地位にあまりこだわりがなかったのかも。
夫人のいまの夫が丞相になったのは、やはり妻の意向が強いだろうに――そんな女の息子に、自分の娘を嫁がせているのだから、積極的に敵対する意思はないはず。
「丞相と確実に手が組めるのなら、自分がなりたいとは思わないでしょうね。刑部尚書の地位だって、十分魅力的だわ」
事実、メイレンの死が事故と認定されてあっさり片付いたのも、刑部尚書の決定があったから。
下町で起きたささいな事件など、取るに足らないこととしてまともな捜査も行われていないに違いない……。
「これは、これは。わざわざこんな辺境にまで足をお運びいただき、感謝の言葉しかございません。娘も、さぞ喜んでおることでしょう」
シオン太師……そして皇后シャンタンの名代として、マリアはメイレンの葬儀に訪れていた。皇后も参加したがったのだが、葬儀が執り行われるメイレンの生家が意外と辺鄙にあるので、都を長く離れるわけにもいかず。それで、マリアが代理として出席することに。
そんなマリアを、刑部尚書が直々に出迎える。
「セイラン流のお葬式は初めてですので、何かと至らぬ点もございましょうが……参加を認めてくださって、ありがとうございます」
「いえ、なに。ささ。このような場所ではなく、どうぞ上座へ」
マリアをもてなすふりをして、さりげなくララやノアを自分たちから引き離す。クリスティアンと二人だけで、葬儀の会場に入ることになり――さすがに、いまここで何かが起きることはないだろう。いくらなんでも、人目があり過ぎる。
マリアも刑部尚書のされるがままを装い、クリスティアンを連れて会場に入った。もちろん、息子から目を離すつもりはない。ただ、マリアから引き離されたように見せかけて、ララやノアを刑部尚書から目を逸らさせる目的もあった。
クリスティアンにぴったり寄り添ったまま、葬儀はつつがなく終わった。
葬儀が終わると、食事会だそうだ。準備ができるまでの間、貴賓用の客室で待機することとなったマリアのところに、ララとノアが戻って来る。ついでにマサパンも。
マリアの膝にのしっと頭をのせるマサパンを撫でながら、ララたちの報告を聞いた。
「ここのご当主サマ。外面はいいが、かなり横暴な裏の顔があるみてーだな。家人の不満をちょっとつついてみたら愚痴まみれだったぜ」
ララとノアは、当人らは無頓着だが、かなりの美形だ。国の違いはあっても、セイランの女性にもその魅力は通用するらしい。
それを利用して聞き込みをした――。
「ご主人様の横暴さには、召使いたちもみんなビクビクしてるわ。でも一番きついのは、奥方様やお子様たちでしょうね。妻や子は、自分の道具としか見ていないもの」
「メイレン様は人見知りがひどくて、召使いの私たちにもおどおどされるような状態だったけれど……あれはお父様のせいよね。ちょっとの失敗も許さないから、メイレン様はずっと緊張しっぱなしで……人見知りというより、人の前での失敗が怖くて何もできなくなっちゃってたのよ……」
「でも末っ子で他の兄弟よりは放置されてた分、助かったとも言えるのかしら?だって上の兄弟はいまの陛下の兄君様たちの側室として嫁がされて、あの諍いの巻き添えで命を落としちゃったもの」
「でもあの争いも、陰でご主人様が糸を引いてたんじゃないかって噂よ。共倒れになってしまったのは誤算だったけど。正妻や他の側室方の家はあれで消えていったのに、ご主人様だけは無傷だもの、そんな噂が立つのも普通よね」
「本当に。そんな噂が流れても、あの人なら有り得そうってなっちゃうのが怖いわぁ」
途中から、ララやノアのことなどそっちのけで家の女たちはお喋りで盛り上がっている。
詮索して余計な疑いをかけられては困るので、彼女たちが勝手に喋ってくれる分には有り難いが……葬儀にかかりきりで、主人が戻ってこないという確信があるから余計におしゃべりが止まらないのかも。
「メイレン様と彼女の侍女イーリュウとは、やはり特別な絆で結ばれていたようです」
家人たちから集めた情報を、ノアが説明する。
「メイレン様は、生みの母親との仲が芳しくありません。彼女の母親は、息子のほう――メイレン様の弟のほうに関心が向いていて。娘のことは、冷遇というか無視している状態だったそうです。しかしメイレン様の弟は幼くして亡くなり、母親は嘆き……あくまで事故とされていますが、実態は後追い自殺だったのではないかと言われています。そんなメイレン様の乳母だったのがイーリュウで、乳母としての役目が終わった後も侍女として残り、ずっとメイレン様に寄り添っていたそうです」
「それほどまでの絆なら、イーリュウは何でもしたでしょうね。メイレン様を助けるためなら、なんでも」
マリアが呟けば、全員がマリアに注目した。
クリスティアンがいるから口には出さなかったが、あの桃饅頭はイーリュウの仕業だったのか、とララは言いたげだ。
「……フーディエ夫人は、むしろメイレン様やイーリュウのために後始末をしてあげたんじゃないかって思ってるの。見ようによっては夫人が主犯に見えるからメイレン様は誤解したみたいだけど」
葬儀の場で夫人がメイレンの言葉を遮ったのは。
あれは、メイレンがそれ以上余計なことを口にしないように。夫人ではなく、他の誰かにとって不都合なことを。
――口に出す際には気を付けること……。
マリアは、三人の前に女性の服を出した。
「さっき、棺の中に入ってるのを見つけたの」
マリアが言えば、クリスティアンがぎょっとした。
「棺って……メイレン様が入っていた棺のことですか?母上、なんと畏れ知らずな……」
「花の中に隠してあったの。独特の……フーディエ夫人が愛用していた煙草の匂いがして。探してみたら、これが」
棺に敷き詰められた花は、かなり香りの強いものだった。意識していなければ、気付けないほどほのかな香り――花とは違う、異質な匂い。
「考えてみれば。若い女官はずいぶんとぞんざいに始末したというのに、イーリュウのほうは衣服を自ら取って置いたりと、やり方が異なっています」
考え込みながら、ノアが言った。
「そうなのよ。若い女官のほうは遺体も身の回りの物も、簡単に見つかる程度の投げやりな殺し方だったのに、イーリュウは遺体も見つからず、残っていたのはこの服だけ。何もかも違い過ぎるわ。この服に血がついてはいるけれど、殺されたと認定するには量が少ないし……」
クリスティアンが服を手に取り、何やらまじまじと見つめている。
女物の服を見つめている図も、血のついた服に子どもが関心を持つ図も、どっちも微妙だ。
「この服。二重構造になってます。ほら、ここ」
クリスティアンが指摘した箇所を見れば、目立たぬようさりげなく、内ポケットのように布が縫い付けてある。布も縫い目も、異変に気付かれぬように配慮がされ……ノアが、手に収まってしまいそうなほど小さな短剣で器用に糸を切り、布を剥ぐ。
小さく折りたたまれた紙が詰め込まれていて、ノアから受け取るとマリアはそれを読んだ。
「これは……遺書、といったほうがいいのかしら。イーリュウが書いたものよ」
「遺書」
目を丸くして、クリスティアンが呟く。
「メイレン様の父親に命じられて、クリスティアンを狙う羽目になって……どうしたらいいのか分からなくて、フーディエ夫人に相談しに行ったと」
渡された薬の中身も、クリスティアンを狙う理由も教えてはもらえなかった。
イーリュウは、この命令が下された時点で自分はもう生き残る道はないと悟っていた――成功しようが失敗しようが、必ず自分は消される。口封じになるか、制裁になるかの違いだけ。
ただ、メイレンが巻き込まれてしまうのだけが心配で。
刑部尚書は、自分の娘がクリスティアンと親しくしていることに目を付けた。母親は強く警戒しているが、メイレンには少し気を許しているようだから、それを利用すれば……そう指示されて、イーリュウは、刑部尚書がいざとなったらメイレンのことも始末してしまうのではないかということが恐ろしくて。
彼女の心配はもっともだ、とマリアは思った。
相手は刑部尚書――司法長官だ。事件が起きてもどうにでも誤魔化せる。息子を害されたマリアが訴えてきても、捜査をでっち上げて、イーリュウやメイレンのせいにしてしまえばいい。
だからイーリュウは、夫人に相談した。自分が取るべき行動を教えてもらうために。
ああ、それであの桃饅頭だったのか。
マリアは密かに納得した。
ずっと疑問だったのだ。
あのタイミングで、よりにもよってあれに薬を仕込んだことに。
マリアを介してクリスティアンに差し入れとなれば、クリスティアンが食べる前にマリアが毒見してしまいそうなこと、フーディエ夫人なら気付きそうなのに。夫人は、毒見なしに人からもらった食べ物に手を付けないことを知っている。
クリスティアンが食べなかったのは色々な偶然が重なっただけではあったが――仕込んだタイミングが悪かったせいでその偶然が重なったのはあるはず。夫人は、むしろそれを狙って選んだ……。
「イーリュウは、命令を果たせなかった。だからその責任を取って自ら毒をあおった……メイレン様が無関係の第三者でいられるように。ところが考えていた以上にメイレン様のイーリュウに対する思い入れが強くて、彼女自身がそれに反発してしまった。まさか夫人の部屋に侵入してまで手がかりを探して……そこまで行動するとは思ってもいなかったのね……」
恐らく……残酷な真実だが、メイレンが皇后シャンタンと親しくしていたのもまずかった。シャンタンの夫は、セイランで唯一、刑部尚書の決定をひっくり返すことができる人間だ。
いくら頼りなく傀儡にも近い皇帝であっても、何がきっかけで彼が覚醒するか分からない。特に皇后絡みとなれば……どれほど反対されても、彼女を后にすることだけは頑として譲らなかった、その頑固さをすでに見せているのだから……。
それで刑部尚書が、メイレンのことも始末してしまった。
マリアが沈黙していたおかげで事件にはならなかったが、メイレンを憐れんだ皇后が、夫に頼んでしまったら……そうなる前に……自分の娘を始末するのは、さほど困難なことでもないから……。
イーリュウの遺書をたたみなおして自分の懐にしまい、マリアはクリスティアンの手を取った。
「これで大体は把握できたわ。もうここで、新たに手に入る情報はないはず。さっさと離れるわよ」
食事会には、最初から出るつもりはなかった。
純精阿片を持っているような男が出す食事なんて……逃亡一択に決まっている。




