陰りに潜む (1)
黒く、重い衣に身を包みながら、マリアはため息をついた。
まだ全快した、といえるほどの状態ではないが、不愉快な揺り返しは激減し、ほぼ正常な状態に戻ってはいる。あとはただ、二度と薬に手を出さないようにするだけ――知ってしまった快楽に目を逸らし、見ないふりで生き続ける……ただひたすら、ずっと……。
「マリア様、お元気になられたのですね。よかった」
久しぶりに顔を合わせることになったマリアに、皇后シャンタンがホッと笑顔を見せる。
マリアが薬によって乱心していたことは、周囲には秘密にしていた。皇帝や皇后にも話さず、リーシュにも固く口止めをして。しばらく自室で療養するのは、クリスティアン同様に風邪をひいたから、ということにしておいた。
「メイレン様も、今日は出席できないそうで……私一人なのかと、ちょっと不安だったんです」
「メイレン様が?」
今日は、先代皇帝――グーラン皇帝の父親の命日。グーラン皇帝が主となって、先代皇帝の供養を行う。
皇族や皇族の配偶者は当然参加することになっており、名家の当主たちが集まる公式な行事。
非公式な妾であるマリアがこれに参加するのはどうかと思ったのだが、シオン太師には正妻がおらず、外国とはいえ王族にも連なる血筋の大貴族の当主――都を不在にしている太師の名代として参加しても良いのではないか、ということになって。
ダリスの妻メイレンも、夫の名代として参加すべきなのだが……。
「イーリュウが行方不明なんです。たしか……マリア様が体調を崩して療養されている頃から、彼女も姿が見えなくなって。メイレン様にとっては母親代わりの相手だったので、すごく心配していました」
「イーリュウが」
メイレンの侍女イーリュウ。
主人のことを、心から慕っているようだった。主人からの信頼も厚く、彼女なら、メイレンの作った菓子にこっそり薬を盛ることも可能だろう。
……けれど、彼女のはずがない。
あの薬はどこででも手に入るものではないし、何より、あんなことをしたらイーリュウよりも先にメイレンに疑いがかかる。
人見知りの主人を気遣っていたあの姿が、偽りとは考えにくい。洞察力と観察眼には自信がある。
あれがマリアを欺く姿だとしたら……そこまでの切れ者が、こんな分かりやすい手段を取るはずがない。やはり違うだろう。
ただ、あの薬が盛られたことと、イーリュウの失踪――無関係ではない。どう繋がるのかはまだ見えないけれど。
供養の儀には、すでに皇帝とフーディエ夫人が来ていた。その他にも、多くの参列者が居並んでいる。
マリアたちが入って来ると、一同がこちらに注目する。皇后は緊張し、少しだけ部屋に入るのをためらったが、マリアをちらりと見――マリアが微笑めば、ぎゅっと唇を結んで、自ら皇帝の隣に並んだ。
最前列は、皇帝と皇后。その横に並ぶのがフーディエ夫人とマリア。夫人の隣にも男が立っている。恐らくは彼女の夫だ。
夫人に比べると、ずいぶん若い。夫人は最初の夫とは死別して、のちに丞相となったいまの夫と再婚。ダリスは、前夫との間に生まれた息子だ。最初の結婚ではかなり年上の男に嫁ぐこととなり、二度目の結婚ではかなり若い男に……これだけ年の差があれば、いまの夫が妻に頭が上がらないのも納得だ。
やがて僧が入室してきて、一同に向かって礼をしたのち、読経が始まる。
僧の厳かな声だけが響き、誰もが神妙な面持ちで沈黙を守っていた。
咳払いすら許されないような静寂を破ったのは、メイレンだった。バタバタと走り込んできて、周囲の注目も目に入らないのか、フーディエ夫人だけを真っ直ぐに見つめている。
その視線には、強い敵意と憎悪が感じられた。
「……お義母様。イーリュウに、何をしたのですか」
メイレンはただひたすら姑に詰め寄り、フーディエ夫人はちらりと嫁を見ただけだった。
「メイレン、いまは私語を慎むように。静かにおし」
「誤魔化さないでくださいませ!」
ほとんど絶叫するように、メイレンが大声で怒鳴る。持っていたものを、見せつけるように床に叩きつけて――女物の服。マリアにも見覚えがある。皇后シャンタンも同様だったようで、驚きに声を上げそうになったのを、慌てて抑えていた。
「いま、お義母様の部屋から見つけてきました。これはイーリュウの服……血がついておりますわ……いったい、彼女に何をしたのですか!?イーリュウを返して――!」
「メイレン」
完全に取り乱しているメイレンに対し、フーディエ夫人は穏やかに、幼子に言い聞かせるような口調で、ゆったりと微笑む。
「落ち着くのじゃ。取り乱しすぎて、何を言うておるのか分からぬ。深呼吸をして……周りを見回してみるがよい」
夫人の言葉で、メイレンはようやく周囲に気付いた。
それは、非常に危険なことだった。メイレンは人見知りで、大勢の人間の前に立つなど、とても……。
夫人への怒りと混乱で周りを見失っていたが、冷静さを取り戻したことで、自分が注目を集めていることに気付いてしまい……興奮で赤くなっていた顔が、見る見るうちに青ざめていく……恐怖で、怯え始めていた……。
「あ……ああ……」
「落ち着いたようじゃな。改めて言うてみるがよい。この衆人の中で、はっきりと。そなたの話を聞こうではないか」
おろおろとあたりを見回した後、メイレンは泣き出し、逃げるように出て行ってしまった。皇后シャンタンはちょっとだけ夫を見、すぐにメイレンを追いかけて行った。
「――続けよ」
フーディエ夫人の言葉に、呆気に取られていた僧がハッと我に返り、読経に戻る。
少しの間、ざわざわと困惑する周囲の雑音が聞こえてきたものの、やがて何事もなかったかのように供養の儀は続いていった。
「フーディエ夫人、娘が大変申し訳ないことを……」
儀が終わると、フーディエ夫人に中年の男が声をかけくる。発言から察するに、メイレンの父親だろう。
夫人は扇を取り出し、素知らぬ顔をしていた……丞相も、妻を気遣っているような……。
その後、マリアは皇后からメイレンの様子を聞くことになった。
「供養の儀を欠席して、フーディエ夫人の部屋を調べに行ったそうなんです。メイレン様は夫人からも可愛がられておりましたから、部屋の侍女たちもあまり不審がらなかったそうで……」
「フーディエ夫人の部屋を。ということは、メイレン様は、イーリュウの失踪に夫人が関わっていたと考えていたのですか?何か不審なことでも?」
メイレンの立場なら、夫人の部屋を出入りするのも容易。それはそうなのだが……わざわざ行事を欠席して、夫人の不在を狙ってまで探しに行ったということは、最初からメイレンは姑を疑っていたということだ。
マリアが聞けば、皇后は沈んだ表情で頷く。
「イーリュウの姿が見えなくなったのは、マリア様が体調を崩して寝込んだ日から。姿が見えなくなる日に起きた異変と言えば、マリア様の不調……それから、フーディエ夫人がメイレン様の部屋を訪ねてきたこと。クリスティアンへのお見舞いに、メイレン様が桃饅頭を作ったことを覚えていらっしゃいますか?あの日、メイレン様の部屋には夫人が尋ねてきていたそうで……自分が部屋に呼ばれることはあっても、自分の部屋を訪ねてくるのは珍しいことだから、もしかしたら……」
皇后がちらりとマリアの顔を見て、目が合うと、さっと視線を逸らしてしまった。
「マリア様が不調になったのは、あの日、自分が作った桃饅頭のせいではないのか、と……。イーリュウは何かを知ってしまって、それで……」
「メイレン様ったら。想像力がたくまし過ぎますわ」
マリアは明るく笑って言った。
「私が体調を崩したのは、日頃の不摂生のせい。シオン様が、なかなか寝かせてくれなかったせいもありますが」
しかし、皇后の表情は晴れない。
「夫人に、以前言われたんだそうです。マリア様と親しくしているのを、咎めるようなことを……。それぞれの立場を考えるとフーディエ夫人が苦言を呈するのも自然なことと思い、その時は深く気に留めなかったけれど……もしかしたら、といまになって気になってきて」
皇后がため息をつく。
「かなり取り乱していらっしゃって、あんまりお話しできませんでした。メイレン様にとって、イーリュウは本当に大切な存在ですから、彼女のことが心配で冷静でいられないみたいで。私とお話をしていても上の空……悪いほうに思い詰めてしまわないか、私も不安です……」
笑顔で皇后を励ましながら、マリアも嫌な予感はしていた。
皇后の不安は単なる杞憂ではなく、彼女でも気付くほど不穏な気配がただよっているから。
何事もなく終わる……なんてことは、有り得ないだろう、きっと。
皇后と共にメイレンを訪ねたのは、翌日になってからだった――クリスティアンやララも一緒に。
クリスティアンはメイレンに可愛がってもらっていて、彼女のことを純粋に心配していたし、マリアがあまり目を離したくなくて、自分のそばに置きたくて……そうなると、当然護衛役にララもついてくる。
大所帯で訪ねてしまったから、またメイレンがパニックを起こしてしまうだろうか。
そんなことを考えながらメイレンの部屋を訪ねてみれば、見慣れぬ女官がマリアたちを出迎えた。
「メイレン様は、今朝からずっと臥せっておりまして。私も、寝室に立ち入ることもできず」
緊張し、しどろもどろに女官が話す。
若く、後宮の雰囲気になじんでいない――おそらく、ここへ来て間もない女官なのだろう。皇后や高位の人間を相手にして、卒倒してしまいそう、という本音があからさまなほど顔に出ていた。
「いいから声をかけてきて。もし怒られるようなことがあれば、私のせいにすればいいから」
マリアに言われ、女官は慌てて奥の部屋へ向かう。時々服の裾を自分で踏んで、転びそうになっていた……。
これは先が長くなりそうだ。
そう思い、マリアたちは部屋に入り、それぞれ椅子に腰かけて女官が戻って来るのを待とうとした――奥の部屋に引っ込んですぐに、若い女官が戻ってきた。
「た、た、大変です!メイレン様がいらっしゃいません!」
その報告だけして、どうしよう、と女官はただおろおろするばかり。マリアはため息をつき、最後に見たのは、と尋ねる。
「ええっと……昨日の夜……いえ、夕刻ぐらい?昨日はお早めに就寝されて……朝になってお部屋の外から声をかけたんですが、お返事がなくて……」
「おいおい。なら朝の時点で、もういなくなってたのかもしれねーだろ。ちゃんと確認しろよ」
ララが呆れたように口を挟んだが、だって、と女官が涙目で言い訳をする。
「前にいたお屋敷で……朝、頼んでもいないのに勝手に起こすなって怒られたことがあって……声をかけてもお返事がなかったら、何もしないでおくべきだと思って……」
マリアはもう一度ため息をつき、責任の追及よりもメイレンの捜索を指示した。
皇后と一緒に寝室へ行ってみれば、女官の言う通り部屋には誰もいない。ただ、寝台には利用した痕跡があって……でも、触れてみれば冷たくて。
皇后の話によると、昨日、自分と最後に別れた時も、寝台に横になって臥せっていたそうだ。取り乱して泣いていて……別れ際には少し落ち着いたようだが、寝台から起き上がることはなかったらしい。
「シャンタン様は、クリスティアンと一緒に部屋の中を見てきてください。女性でないと調べにくい場所もあるでしょうから。私、あの女官を連れて外を見てきます」
皇后とクリスティアンはララに任せ、マリアはおろおろするばかりの女官を半ば無理やり引っ張って庭に出た。
美しく整えられた庭は、とても静かだ。夏が迫っているから、日の光が眩しく……池に反射してキラキラと……。
「きゃあああああああ!」
マリアが気付いて息を呑むのからワンテンポ遅れて、若い女官が悲鳴を上げた。
腰を抜かして尻もちをつき、無様に後ずさる。
悲鳴を聞き付け、ララたちも庭へやって来た。
「シャンタン様!クリスティアンとそこに――こちらへ来てはいけません!ララ、人を呼んできて――!」
水面に浮かぶ花と見間違うほど、華やかな彼女の衣は水に映える。マリアはそっと近づき、彼女の顔にはっきりと死のそれが浮かんでいることを確認した。
メイレンは池の中にいた。変わり果てた姿で。




