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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その悪名伝~  作者: 星見だいふく
第三部02 花園にひそむもの
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惑う (2)


ほとんど這うようにして、寝台のそばにある小さなチェストに近づく。

引き出しを開けて――もう身体を起こすこともできないから、手探りで。引き出しの中身を引っかき回し、かんざしに触れたことを確認してそれを手に取る。

容赦なく、マリアは自分の足にそれを突き立てた。


「何やってんだよ!」


焦ったようなララの声が寝室に響く。

倒れこんでいるマリアを抱きかかえ、ララが驚愕に目を丸くしてマリアの顔を覗き込んだ。


「ララ……あの桃饅頭を、ヴィクトール様のところへ。あれに、純精阿片が仕込まれてるわ……私、あれを食べてしまった……」


その薬の名前と効果は、ララも知っていた。

息を呑み、事態の深刻さを察する。


痛みで我を取り戻したのも、ほんの一瞬――また不快感が襲ってきて、マリアは何も考えられなくなる……。


「私をそこの寝台に縛り付けて。いますぐ……早く!ためらってる場合じゃない、それが、私のため――」


マリアが自我を保っていられたのはそこまでだった。

次の瞬間には、強烈な飢餓が襲ってきて、メイレンが持ってきてくれた桃饅頭のことしか考えられなくなっていた――あれを食べなくちゃ――あの薬が欲しい……。


最後に覚えているのは、手にしていたかんざしをララに向かって振り下ろしたことだけだった。




「薬物中毒というのは、治す方法があるのでしょうか?」


ヒューバート王の研究成果を見せてもらったマリアは、警視総監の執務室で、彼の手伝いをしながら疑問を口にした。

手にした書類から目を離すことなく、いや、と警視総監が首を振る。


「毒と違い、薬物中毒を完治させることは不可能だ。毒ならば解毒薬もあり得るが、薬への依存症に特効薬は存在しない」

「では……治ることはないと?」

「ない。症状を抑えることはできても、完治はあり得ない。二度と薬を利用しない――ただそれだけだ。禁断症状と、薬から得られる快楽を欲する衝動と戦いながら……人によっては、死んだほうがましだと思うこともあるだろう。死ねば終わる。生きている限り、続くのだからな……」




マリアが目を開けた時。

目の前には、自分の手があった。

両手をシーツでガチガチに包まれていて、その上から、微動だに出来ぬほどきつく縄で縛られて。


ふと、マリアは自分が誰かに抱きしめられていることに気付いた。

寝台の柵に手を縛られたマリアは床に座り込んでいて、そんな自分を、後ろから誰かが……。


「……正気に戻ったようだな」


ヴィクトール様、とマリアは呟く。心の中で。

さるぐつわをされているので、声は出なかった。


マリアを抱きしめていたのは、ホールデン伯爵だった。いつもは髪も服もきっちり整えているのに、いまはぐちゃぐちゃ――この部屋に劣らぬほどに。


「すまなかった。君が縄を噛み千切ろうとするものだから……放っておくと、歯を折るのではないのかと思うほどの勢いだったのだ」


そう言って、伯爵がマリアのさるぐつわを解く。


自分の顔に近づく伯爵の手を見て、マリアは息を呑んだ。

伯爵の手には、いくつも歯形が――噛みつかれた、なんて。そんな可愛らしい表現では済まない。彼の肉を食い千切る勢いで……痛々しい有様で、血がにじんでいる。


「気にしなくていい」


マリアが自分の手に残る傷跡を見ていることに気付き、伯爵が言った。


「君も酷い状態だ。抑え込むために、かなり手荒な真似をした。あとでリーシュに手当てをしてもらいなさい――君の身体に残る暴行の跡を見たら、彼女は真っ青になることだろう」

「私が望んだことです。ヴィクトール様は何も悪くありません」


吐き気と不快感が、時折ぶり返してくる。

それと同時に、身体中が痛くて――これはたぶん、伯爵の言うように、暴れる自分を抑えるために与えられた痛み……。


「ああ、やはり……跡が残らなければいいのだが」


マリアの両手の拘束を解いて傷の具合を確かめながら、伯爵が顔をしかめる。


縄の跡が残らないように丁寧にシーツまで使って拘束したが、マリアの暴れ方はそんな気遣いも上回る酷さだったようだ。両方の手首は縄による傷ができていて、一部皮がめくれている。

伯爵は、マリアの身体に残る不安に思いをはせ、ため息をついていた。


「ヴィクトール様は、どうしてここに?」

「ララから伝言を受けたリーシュが、私を呼びに来た。酷く暴れていて、ララでは抑えきれないと――ララやノアは、君に手荒な真似ができないからな」


それで、マリアを止めるために伯爵が直々に……他の人間では、マリアを傷つけることをためらって、結局何もできなくなってしまうから……。


伯爵に支えられて立ち上がる――激しい疲労感と脱力感に、危うくそのまま倒れこんでしまうところだった。自分でも足を踏ん張って、伯爵と共に隣の部屋へ――。


「マリア、大丈夫か?」


姿を現すなり、すぐにララが駆け寄ってきた。

ララは顔に包帯を巻いている。マリアが見ているものに気付いて、苦笑いしながら説明した。


「すげー正確に目を狙ってくるもんだから、よけそこなっちまってさ――俺は大丈夫だって。ちょっとかすっただけ。顔だから大袈裟に見えるだけで……それより、おっさんのほうが大変なことになってんじゃねーのか。全身ボロボロだろ」

「余計なことは言わなくていい。私の格好がつかないではないか」


冗談めかして二人は話しているが、マリアはとても笑う気にはなれなかった。

マリア様、と声をかけるリーシュはとても怯えているように見えて……マリアには記憶がないのだが、恐らく薬を欲しがって暴れる自分の姿は、彼女に恐怖心を植え付けるには十分なものだったのだろう。


リーシュの態度も気にしないふりで、彼女に振り返る。


「お湯の用意をしてあります。お身体を清めて、怪我の手当てを……」


風呂に入って服を脱いでみると、マリアの身体は本当に酷い有様だった。

あちこちに痣が……いずれ青くなって……しばらくは、人に見せることのできない状態だろう。


風呂は好きなのに、いまはそれでも気分が浮上することはなかった。まだ悪寒がして、不快感が襲ってくる――さすがに自我を失うほどのものではないが、マリアをうんざりさせて……。


風呂から上がると、蒸籠を手に持ったホールデン伯爵と出くわした。

ぎくり、と。マリアは反射的に身体をのけぞらせてしまう。


見せつけるように蒸籠の蓋が開けられ、中身が視界に入った途端、マリアは悲鳴を上げてリーシュの後ろに隠れた。


あの可愛らしい桃色が目に入った瞬間に、強烈な飢餓と衝動が襲ってきて――あれが欲しい――身体の奥底から湧き上がる渇望に抗うのは、とても苦しい。

だって、マリアの脳には刻まれてしまっているから……あの桃饅頭を食べれば、どれほどの幸福が得られるか、知ってしまっているから……。


「薬物中毒は完治するものではない。ヒューバート陛下から聞かされていると思うが」

「分かっています。一度の使用で廃人になることはありませんが、知ってしまった快楽は忘れられません。自分の理性でねじ伏せるしかないと……生涯に渡り、永遠にそれを続けていくしかないことも承知しております……」


ヒューバート王曰く、短期間で劇的な効果を出す特殊性はあるものの、健康な人間が一度摂取したぐらいなら、身体へのダメージもすぐに回復できるだろうとのこと。

――二度と薬に手を出すことがなければ。


あの快楽を知って、それを完全に断ち切ってしまえる人間がどれぐらい存在するか……。

マリアもまた、あの蒸籠に飛びつきたくてたまらないというのに。


「……母上は、まだお加減が悪いのですか?やっぱり僕のせいですか?」


部屋の外から聞こえてくる声に、マリアは凍り付いた。

絶望し、すがるように伯爵を見つめる。


「クリスティアンを、ここに呼んだのですか……!?あんまりです!こんな姿、あの子にだけは絶対に見られたくないのに!」

「だろうな」


残酷にも、ホールデン伯爵はあっさりと頷いた。


「薬に溺れた姿を、我が子にだけは見られたくないものだ。だから、私がここにあの子を連れてくるように言った。薬を断ち切るためには、君自身で何とかするしかない。君の、強がりで見栄っ張りですぐ痩せ我慢をする性格を考えれば……クリスティアンを前にして、薬の誘惑に屈するはずもない」


話している間にも、ノアに連れられてやって来たクリスティアンが部屋に入ってくる。

マリアを見つけると、息子はすぐに駆け寄ってきた。気遣うように母親を見上げ、不安そうな表情で。


「母上。母上も体調を崩して寝込んだと聞きました。もう大丈夫なのですか?僕の風邪がうつってしまったのですか?」


どうやら、クリスティアンは何も知らされていないようだ。

母が寝込んだと知らされて、純粋に心配している。


ぎゅっと手を握り、大きく深呼吸をして――マリアは微笑む。


「大丈夫よ。お母様も、ちょっと疲れが出たみたい。夜更かしが続いていたもの」


クリスティアンの目の高さまでしゃがんで、少しおどけたように……我が子を安心させるように言い聞かせる。

もう、と呟いて、クリスティアンは眉を八の字に寄せる。


「気を付けないとダメですよ。母上――まだ顔色が悪いです。ちゃんと休んでください。油断すると、熱がぶり返しますよ」

「ええ……ええ、そうね。気を付けないとダメね……油断したら、また元に戻ってしまうわ……」


言いながら、クリスティアンをぎゅっと抱きしめる。


クリスティアンは、もうこの後宮には置いておけない。マリアが思っていた以上に、この子は関心を引き付けてしまっている。

あの薬を持ち出すこともためらわない相手だ。父親のそばに居させて――絶対に、手を出すことができない場所に避難させるべきなのに……それができなくなってしまった。


「クリスティアン。今日からはこっちに戻って、母上を見張っておきなさい。目を離すと、すぐに自由気ままに振舞い出すからな」


伯爵が笑って言い、はい、とクリスティアンも苦笑いで同意する。

あんまりな言い草ね、とマリアも笑った。


理性と自我を保つために、我が子を危険にさらして。

それはマリアにとって、この上ない屈辱と、打ちのめされてしまいそうなほどの敗北感を与えた。

だから絶対に、屈したりしない。薬ごときに、二度と、自分を奪わせてなるものか。


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