惑う (1)
セイランの王都に迫る北方の遊牧民族を追い払うため、ついにシオン太師が出陣する日がやって来た。
皇帝への挨拶を終え、将軍としての正装をした太師は、見送りのために後宮から出てきているマリアに近寄る。
手を伸ばして、マリアの手をぎゅっと握り――熱っぽい目で、太師はマリアを見つめた。
「……わしが都を離れている間に、エンジェリクに帰ったりしないだろうな」
「いくらなんでも、そんな薄情なことはしませんわ。どうぞお気をつけて。シオン様のお帰りを、クリスティアンと共にお待ちしております」
微笑むマリアに対し、シオン太師は複雑な表情だ。マリアを抱き寄せて、そっと口付ける。
「あまり、危うい真似はせぬようにな」
シオン太師にまでそんなことを言われてしまうだなんて。
マリアは苦笑した。
危ないことはするな――それは、マリアがよく言われる台詞だ。ホールデン伯爵に、ノアに……最近ではクリスティアンも。
マリアとの別れを惜しんでいる叔父を見ていたダリスは、皇后シャンタンと共に後宮から出てきた女を見て目を丸くした。
「メイレン!おまえ……出てきて大丈夫なのか?」
恐らくは自分を見送るためにやって来たであろう妻に、喜ぶよりも先にダリスは心配する。
その滑稽さをマリアは笑い、皇后も困ったように笑っていた。
「はい……いえ、正直に申し上げますと、かなり辛いです。でも、私も旦那様をお見送りしたくて……シャンタン様やマリア様がご一緒なら、なんとか……!」
自らを鼓舞するように、メイレンが言った。
メイレンはかなりの人見知りで、人が多い場所は避ける傾向がある。夫の見送りも、いつもは後宮で別れを惜しんで、表には出ないことも。
けれど、本当は夫を見送りに行きたい、勇気を出してみたい、と自ら言い出して、ここに……。
「旦那様。どうかご無事で。ご武運をお祈りしております」
「ああ――シャンタン、妻をよろしく頼む」
皇后にも声をかけ、ダリスは都を出発する。少し遅れてシオン太師も――武人としての務めを果たすと決めた太師は、マリアに振り返ることはなかった。
シオン太師が都を――自分のそばを離れる。恐らく、宮廷では何かが動き出すに違いない。頼るべき相手が不在のいま……マリアに何かを仕掛けるなら、恰好の機会だ。
すぐに動きがあるのか、油断を待ってしばらく間を置くのか。さすがにそれは分からない。相手次第――少し焦れる気持ちがありながらも、表面上は平穏な日々をマリアは過ごしていた。
何かが起きるのは望むところだが、そのターゲットになるのがクスティアンではないか――それだけが、マリアの気がかりだった。
だからマリアは、クリスティアンを後宮から出して、父親に預けることにした。ホールデン伯爵は、これ以上なく信頼できる相手だから。
しかしそんなクリスティアンも、いまはトラブルに見舞われていた。
「今日もあの子は臥せっているのですか?昨日の別れ際には、すっかり元気な様子だったのに……」
「夜中に熱がぶり返した。明け方頃にはずいぶん下がったが、今日は一日、しっかりと休養を取らせた方がいいだろう」
「夜中に……可哀想なことをしましたわ。私ったら、もう大丈夫だと思ってのんきに過ごしていて……」
「君に知らせようとしたのだが、心配をかけたくないとクリスティアンが嫌がってな。強がりとやせ我慢は、母親譲りだな」
冗談めかして話す伯爵に、マリアもちょっとだけ笑った。
ここ数日、クリスティアンは、風邪をひいて寝込んでいた。
季節の変わり目で、暑かったり寒かったりと気候が安定しない。環境も変わり、それに加えて旅の疲れが出て、それで体調を崩してしまったのだろうと医者はそう説明した。
セイランの都には珍しいものだらけだから、クリスティアンもちょろちょろと出歩いていたそうだし、どこかで病をもらってきてしまったのかも。
クリスティアンのいる寝室へ行ってみれば、寝台で横になっている姿が。
静かに近づくと、クリスティアンがぱちりと目を開けて、マリアを見た。焦点ははっきりしているが、疲れた表情をしている……。
「気分はどう?まだ身体は……熱いみたい」
額に触れ、クリスティアンの容態を確かめる。
すみません、とクリスティアンが謝罪した。
「ご心配をおかけして……」
「そんな……謝る必要なんてないわ」
マリアはショックを受けた。
体調を崩して、ごめんなさい、だなんて。子どもが、親にそんなことを言うなんて。
「だって。これから……心配をかけてはいけませんって、母上にお説教しにくくなります」
ちょっと気まずそうにクリスティアンは言い、マリアは吹き出した。
「これからは、お母様も少しは改めることにするわ」
「……どうだか」
憎まれ口をたたく息子を、優しくなでる。
「豆花を作ってきたの。これはもともと、病人のために作られた料理だそうよ。ちゃんと食べれるように作って来たから、安心して。起きれそう?」
もぞもぞと起き上がり、クリスティアンは持ってきた豆花を食べ始めた。もぐもぐと食べる息子の隣で、そうだ、とマリアは思い出す。
「メイレン様が、クリスティアンにって。作ってきてくださったの」
そう言って、持ってきたもう一つの料理を取り出す。蒸籠に入ったそれは、甘い桃饅頭。
「昨日の内に元気になったと思っていたから、今日なら食べれるかと思って」
言いながら、ちょっと無理かしら、とマリアは思っていた。
高熱から回復したばかりで、まだクリスティアンはぐったりしている。饅頭を頬張るだけの元気はなさそうだ。
「お気持ちは嬉しいのですが、それはちょっと……」
「そうよね。こればっかりは仕方ないわ。メイレン様には、私から言っておくから気にしないで。お見舞いの品なのに、あなたに無理をさせたら意味がないもの。分かってくださるわよ」
「お前が食っちまえよ。毒見で食べて、気に入ってたみたいだし」
ララが口を挟み、マリアは思わず黙り込んだ。
きょとんとした顔で、クリスティアンが見つめて来る。気まずくて、つい目を逸らしてしまう……。
「ここに来る馬車の中で毒見がてらひとつ食べたんだけどさ、こいつ、一人で三個も食べちまって」
「言わないでよ。反省してるんだから……。ちょっとお腹が空いてたし……甘いものが、無性に美味しくて」
クリスティアンへの食事は、マリアやノアが毒見をする。
マリアも毒には多少の耐性があるから……我が子のための毒見役を、他の人間に任せられるはずもない。
メイレンがクリスティアンに毒を盛るとは思っていないのだが、やはり念のため。
それで、馬車の中でひとつ食べて……気が付いたら、三つもぺろりと。
「なら、母上が召し上がってください。ダメにしてしまうよりは、食べてしまった方が、きっとメイレン様も喜びます」
クリスティアンにまで笑われ、マリアは恥じ入った。
豆花を食べると、クリスティアンはまた横になった。しばらく付き添って、クリスティアンが眠ってしまったのを確認すると、マリアは部屋を出た。
そばにいてあげたいけれど……今日は長居するつもりはなかったから、そろそろ王宮に戻らないと……。
「ヴィクトール様。クリスティアンのこと、よろしくお願いします。あの子が嫌がっても、不調はちゃんと教えてくださいね」
「分かった。ただ、あの子にお願いされると、どうしても強くは出れん。あの顔には弱いのだ」
伯爵はわざとらしくおどけて見せ、マリアも笑う。
伯爵の頬にキスをして、マリアは馬車に乗って王宮へと帰っていった。
帰りの馬車でも、メイレンが作ってくれた桃饅頭を食べて。
後宮に戻ってからは、特に変わったこともなかった。
帰りを待っていた皇后とメイレンから見舞いの様子を聞かれ、クリスティアンがまだ臥せっていることを説明した。
メイレンは、自分の差し入れが食べてもらえないことにがっかりするより、不調の続くクリスティアンのことを気にかけていた。
クリスティアンの姿がないことを除けば、いつもと変わることのない夜を迎え――あの子がそばにいてくれないのは寂しいけれど、これからは、これが当たり前の光景になる。
クリスティアンのことを思うのなら、もう気楽に呼ぶべきではない……。
「マリア様?お口に合いませんか?」
食事の進みが遅いマリアを見て、リーシュが気遣ってくる。
マリアはハッと我に返り、いいえ、と首を振った――ぼーっとしていて……自分がいま何をしているのかも、ほとんど意識していなかった……。
「お腹が減っていなくて。馬車の中で、メイレン様の桃饅頭をつまみ食いしてしまったからかもしれないわ」
マリアが笑って言えば、リーシュも笑顔で相槌を打つ。
太師が夜に訪ねてくることもなくなったので、体力を持て余し気味だ。だからあまり食欲がわかないのかも。
……でも、桃饅頭は食べたい気がする。
「メイレン様から頂いた桃饅頭、まだ残ってる?」
「残っておりますが……もう冷めてしまっていますよ。桃饅頭が欲しいのでしたら、新しく作らせますわ」
「いえ――」
口に出しかけた言葉を飲み込み、マリアはもう一度首を振る。
「止めておくわ。シオン様がいないと、どうにも緩んでしまってダメね。少しは美容にも気を付けないと」
食事は下げさせて、マリアは寝室へ向かった。
お風呂は、とリーシュに声をかけられたのだが、なんだか寒気がして。クリスティアンの風邪がうつってしまったのかも――その日は、いつもより早く就寝することにした。
なかなか寝付けないのは、やはり体力が余っているせいなのか、一人寝が久しぶりだからなのか。
寝台の上で、マリアは何度も寝返りを打った。
落ち着かない……気分が悪くて……次第に、じっと横になっていることすら苦しくなってきて……。
マリアは起き上がり、フラフラとした足取りで隣室へ向かう。足元がおぼつかなくて、何度か倒れこみそうになるのを壁に縋り付いて耐えた。
息苦しく、壁についた手が小刻みに震えている。まるで、高熱で苦しむ患者のように。
体内で暴れる不快感……吐き気がおさまらない……。
いっそ吐いてしまいたい。この苦しみから解放されたい……あの桃饅頭が欲しい……。
気付けば、桃饅頭が入った蒸籠がマリアの目の前にあった。
メイレンからもらったもの――処分するわけにはいかないから、残りはララとリーシュが夜食代わりに食べると言っていた。
無意識のうちに隣室に移動し、卓の上に置きっぱなしにされた蒸籠のそばまで来ていたらしい。
リーシュもララも、マリアが眠ったものと思って奥の控室に行ってしまって――。
息も絶え絶えに浅い呼吸を繰り返しながら、マリアは桃饅頭の入った蒸籠に手を伸ばした。
エンジェリクの王ヒューバートには、いささか危険な趣味がある。
花を愛する彼は、植物の研究に余念がない。特に、毒を持つ花に強い関心を……。
「陛下ったら、感心しませんよ。あの薬を研究しようだなんて」
城の地下深く、真っ当な人間なら近寄らないような場所。
そこを管理しているのは、警視総監のジェラルド・ドレイク卿だった。役人が厳重な管理と監視を行う場所を、ヒューバート王は自身の研究に利用していた。
「良くない好奇心だとは自分でも思っているよ。でも、やはりどうしても気になって」
苦笑いするヒューバート王、ポーカーフェイスを崩さぬ警視総監と共に、マリアは牢屋を歩いた。
牢と言っても、中に入っている人間の処遇は様々。
比較的軽微な犯罪で適当に牢に放り込まれた者もいれば、苛烈な尋問で息も絶え絶えになった者もいる。
いま歩いている牢は、二度と外に出ることはできぬ死刑囚の集まる場所。
重犯罪者の牢というのは騒がしいものなのだが……王の研究に利用されたせいか、異様なほどあたりは静かだった。
「ここまで短期間に劇的な効果を現す薬は初めてだ。量が少ないから、確実なデータにできるほどの検証はできないが……」
牢に横たわる死刑囚に、ヒューバート王が視線をやる。
腹は出ているのに、手足はガリガリで、頬はこけている。肉が落ちすぎて、目玉がぎょろぎょろとしているのだが、焦点は合わず、すでに正気を失っているような形相だった。
「もう彼は、自分で起き上がることもできない。あと一週間も続ければ、たぶん、身体の機能がほとんど止まって――」
王が説明している間に、別の牢が突然騒がしくなった。
牢の中で誰かが暴れている。ただ……暴れ方が、普通ではないような。ドレイク卿にかばわれながら近づきすぎないよう確認しに行ってみれば……囚人は拘束服を着せられ、猿轡を噛まされて、さらに強固な鎖で寝台に縛り付けられていた。
それでも、囚人は暴れていた。自分を縛り付ける寝台ごと。ガシャガシャと鎖が鳴り、引きちぎってしまいそうな迫力があった。
「禁断症状が出て暴れるから、ああやって抑えてるんだ。理性と自制心を失った分、暴れ方が尋常じゃない。なるべく抵抗されても抑え込みやすい囚人を選んだつもりだったんだが、それでも……本気で暴れ出すと、ウォルトン団長ですら手こずる。最初の頃は甘く見ていて、何人か死なせてしまった。薬を求めて牢から逃げ出そうとするんだが、痛みも麻痺しているのか自傷行為になりがちで……」
それ以上の思考は無理で、マリアは大きく息を吐いた。
蒸籠に伸ばした手で――卓からそれを薙ぎ払う。
「いまの音は……?マリア様?いかがされました?」
騒ぎを聞きつけ、リーシュが部屋に戻ってきた。
不思議そうに自分を見つめるリーシュを見ず、マリアは寝室に引き返す。
「ララを呼んで。それから……それを、私の目の届かないところへやって。早く!」
リーシュの返事は待たずに寝室へ戻って――寝台の手前で、マリアは倒れこんだ。手足に力が入らない……震えるばかりで、マリアの言うことを聞かない……マリア自身、強烈な不快感と苦しみに思考が奪われていて……。
――やられた。
それだけは、はっきりとマリアにも分かった。
偉大なエンジェリクの王すら滅ぼしたあの薬――純精阿片。あれを盛られた。




