花のかおり (2)
皇后シャンタンはヤンズから教えを受けることになり、クリスティアンと共に机を並べることになった。
「はい。終わりました」
「えっ?えっ、ええっ?ま、待って……!」
ヤンズが提示した課題を終えたクリスティアンに、皇后は焦る。
横から皇后の手元を覗いてみれば、まだ解答用紙は半分も埋まっていない。
「まだ時間はありますから、焦らず、ゆっくり解いてください」
ヤンズは苦笑いでフォローするが、焦らず、というのは無理そうだ。
なにせ、共に学び始めてからずっとこんな調子で。クリスティアンがさっさと課題を終えてしまうものだから、皇后も焦ってしまう。
皇后シャンタンが鈍いというより、クリスティアンが優秀過ぎるのだと思う。母親としては、ちょっと鼻が高かったり。
「失礼するよ――シャンタン、調子はどうだ?」
部屋に、男の声が響く。皇帝グーランだ。
相変わらず人の好さそうな笑顔で、少し遠慮がちに顔を出す。
夫の姿に、皇后も笑顔になった。
「しっかり勉強しているわ。ヤンズはとてもいい先生で……でも私、やっぱりあまり出来のいい生徒ではないみたい。クリスティアンにちっとも敵わなくて」
「ふむ……大丈夫だ。私とそんなに変わらない」
皇后の解答用紙を見て、自虐気味に皇帝は笑う。ヤンズも、クリスティアンが優秀過ぎるんです、とフォローしていた。
「皇后様は学ぶことに積極的で、非常に好感が持てます。学習範囲に遅れは見えますが、それは皇后様のせいではなく、きちんとした指導を行ってこなかった教師たちの問題かと――」
ヤンズが説明しているところへ、今度は別の男が乱入してくる。
大きなあくびをしながら、まだ夜着から着替えてもいない、シオン太師だった。
「……ん。なんだ。賑やかになったと思ったら、グーラン、おまえも来ておったのか」
「叔父上こそ。その姿は……」
シオン太師の姿に、皇帝は目を丸くする。皇后も驚いた様子で、まじまじと太師を凝視している。
「シオン様。お着替えになりませんと。お若いシャンタン様の前でそのお姿は、いささか目の毒でしてよ」
「んん?ああ、そうか……そうだな。すまぬ、シャンタン」
太師は素直に詫び、マリアを呼ぶ。マリアももう慣れっこで――彼の意を察し、太師の着替えを手伝いに奥の部屋へ向かう。
着替えを手伝っているマリアに時々悪戯してくる太師の手をいさめつつ……皇后たちのいる部屋に戻れば、客が増えていた。皇帝のいとこダリスが、シオン太師を見て仰天した。
「ウソだろ。朝の鍛錬に顔を出さないから探し回ってみれば――本当にマリアのところにいたのかよ。あの叔父上が、女にかまけて朝寝坊――」
「たまには構わんだろう。わしはもうすぐ都を離れるのだ。マリアとの別れを惜しんで朝寝坊をするぐらい見逃せ」
ダリスに咎められていると感じたらしい太師は、少しムッとした表情で言った。
ダリスは武官で、すでに次期将軍として期待されるほど優秀な腕前だそうだ。皇族で、皇帝のいとこという後ろ盾がそれを後押ししているのは否めないが、それでも彼の実力は広く認められているようで。
前将軍だったシオン太師の名声はそれをはるかにしのぎ、いまも軍隊の長は彼である。だからダリスは、シオン太師の部下にも近い位置にあった。
「や、別にそれはいいんだけどさ――まさか叔父上が、そんな理由で遅刻しているのだとは思わなくて。世の中、何が起きるか分からんものだなあ」
ダリスは明るく笑い、同意を求めるように皇帝に視線をやる。皇帝も控え目に笑った。
「私も驚きました。いつもビシッと軍服を着ている叔父上が、寝起き姿のままあくびをして女性の部屋から出てくるだなんて、そんなことがあるのかと」
「むむ……いささか、わしを神格化し過ぎではないか?わしもただの男だぞ」
ストイックで硬派な男――その評価が高すぎて、シオン太師も戸惑っているようだ。
彼が生身の男であることを実感しまくっているマリアとしては、クスクスと笑うしかない。太師が気まずそうにマリアを睨んだ。
「やっぱり、そうなんだよな。叔父上も所詮男で、俺たちと同じ人間で。なんていうか、親近感というか、急に身近な存在に感じられたというか」
「そうですね。私も……おかしな言い方ですか、叔父上も私と同じ人間だったのだなぁ、と」
ダリスと皇帝は、からかっているつもりはないのだろうが……シオン太師は複雑そうだ。
朝食にしましょう、とマリアが助け舟を出す。
「遅い朝ごはんになりますが。シャンタン様も休憩にいたしましょう。私、桃饅頭というものを作ってみましたの。ぜひ召し上がって、感想など聞かせていただけると嬉しいですわ」
マリアの言葉に、リーシュが手早く食事と茶の準備を始める。
シオン太師のための朝食が並ぶ横で、皇后シャンタンとクリスティアンに向け、マリアが蒸籠を取り出す。
リーシュに教わりながら作ってみた桃饅頭――シオン太師が用意してくれたものに比べると小さく、ちょっぴり形も歪で。味は大丈夫だと思うのだが。
「とても美味しいです。マリア様は、お料理がお上手なんですね。それに、この桃饅頭にはマリア様の真心がこもっていますもの――どんな料理人にも出せない味です」
桃饅頭を食べる皇后は満面の笑顔だ。
クリスティアンも夢中で食べている――とりあえず、文句なく食べれる程度には美味しかったようだ。
「お褒めに預かり恐縮です。異人の私が作ったものでお口に合わないのではないか心配しておりましたから、安心しましたわ」
皇帝とダリスも卓に寄ってきて、マリアが作った桃饅頭を食べ始める。
わしの分も残しておけよ、とシオン太師が言うので、太師の分をマリアが皿に取り分けて――。
「あっ。シオン様。それはいけませんわ」
太師が手を伸ばしかけた皿を、マリアが慌てて引っ込める。
訝しむ太師に、これはダメなんです、と言葉を続ける。
「ララに食べさせようと思って――ああ、食べちゃダメですってば」
説明した途端、シオン太師が食べようとするものだから、マリアは皿を抱えて太師から距離を取る。
シオン太師は何やらご立腹の様子で、手を伸ばし、皿から団子を一つ取ってつまみ食いを……。
「ご主人様、いけません!」
配膳を行っていたリーシュが戻ってきて、事態を把握するなり真っ青な顔で叫ぶ。しかし、侍女の制止は遅かった。
団子を口に放り込んだ太師は盛大にむせ、半分涙目になっていた。
「おまえ――いったい――何を――!食べ物を粗末にするでない!罰が当たるぞ!」
リーシュが急いで持ってきた茶を流し込み、まだゲホゲホとせき込みながら太師が怒鳴った。
太師の迫力に周囲の人間は気圧されていたが、マリアは悪びれることなく、だからダメだと言ったのに、と拗ねてみせる。
「真面目な研究ですわ。危険物なのは分かっていたので、ララに頼もうと思っていたんです」
マリアと一緒に料理をしていたリーシュは、もちろんその危険性を知っていた。
食べれる物だけで作ったはずなのだが……あの組み合わせと量は、もはや料理のそれではない。隣で作業を眺めていた時点で青ざめていて、何をするつもりなのかと思わずマリアに問い詰めてしまったほどで……。
「もう。シオン様ったら食いしん坊なんですから」
「いえ、シオン様はたぶん、ララ殿に嫉妬したのだと……」
笑いをかみ殺しながら、ヤンズが口を挟む。
顔を真っ赤にして、シオン太師はヤンズの頭をどついた。
マリアとしては、危険な創作料理だから、耐性のあるララに毒見をさせるつもりだったのだが……シオン太師はマリアの危険な研究癖を知らなかったから、ララのための料理、という単語に思わず嫉妬してしまったのだろう。
そして……こんな悲惨なことに。
「余計なことを言うでない!」
「余計なことって……太師様が悪いんじゃないですか!いくら嫉妬でも、マリア様はお止めになっていたことなのに!」
抑えきれない笑い声が、部屋に響いた。大きな声ではなかったのに、彼女の明るい笑い声は一同の注目を集めて。
たぶん、彼女がこんなに楽しそうに笑うのを、初めて見たから……。
「ご、ごめんなさい……太師様があんまりにもお可愛らしいものだから、つい……」
バツが悪そうにしながらも、皇后は笑いの発作を止められないでいるようだった。呆気に取られていた皇帝とダリスも、皇后の笑いにつられ、自然と笑顔に……。
「私……ずっと太師様のことが怖くて。お優しい方なのは知っていました。グーランのことも、私のことも、ずっと気にかけていてくれてるのは分かっていたんですが……でも、なんだか近寄りがたくて。太師様の勇名は私も知っていましたから、それでいっそう……私なんかが、気軽に声をかけていいような相手に思えなくて。でも」
皇后はシオン太師を見た。真っ直ぐに彼を見つめ、その目には紛れもない親愛の情が込められている。
「マリア様とのやり取りを見ていて、太師様も私と同じ人間なのだと実感いたしました。それがとても嬉しくて……」
皇帝とダリスは、皇后の言葉に深く共感していた。特に皇帝は、笑顔で話す皇后を愛しく感じているようで、とても幸せそうな表情をしていた。
「あ、あの。マリア様……」
午前の勉強も終わった頃、こそこそと皇后がマリアに声をかけて来る。
もう男たちは各々の職務に出かけて行っているのだが、それでも、皇后は周囲を気にするように声を潜めて話しかけてきた。
「マリア様は、太師様ととても仲睦まじいご様子で……その。男性のことも、よく心得ていらっしゃると聞き及んでいるのですが……」
「シャンタン様がお聞きになりたいことは、閨についてでしょうか?」
マリアが言えば、ボッと皇后は顔を赤くする。まだ若い彼女には、刺激の強い話題だ。
「は、はい……マリア様は、クリスティアンだけでなく、すでにたくさんの子を生んでいらっしゃって……ぜひ、それについてもご教授いただきたくて……」
「シャンタン様」
マリアは優しく微笑み、諭すように話す。
「シャンタン様が何にお悩みなのか、私はよく理解しているつもりです。私の妹も王の妃で、同じ悩みを抱えておりますから。けれど――だからこそ、皇后様のお悩みを積極的に解消するつもりはないのです」
皇帝の即位と同時に后となった――そろそろ周囲の風当たりも厳しくなってきた。結婚してそれなりの年数が経ったのに、皇帝にはまだ後継ぎがいない。
皇后に与えられるプレッシャーは、お馬鹿な女官たちのいじめなど比にもならないほど、苦しいものになっているはず。それは分かっているのだが……。
「陛下との閨のこと……おうかがいしても?」
我ながら下世話な質問だとは思ったが、悩む皇后を放置するのも気の毒だ。
……実を言うと、シオン太師からすでに聞かされている。甥からそれとなく相談されて……でも女性経験の乏しい太師では答えられるはずもないから、彼もまたマリアに相談してきて。
「グーランとは……その、あまり……。欠かさず私の部屋を訪ねてきてくれるのですが、やっぱり疲れているせいか、ちょっとお喋りしたら、そのまま眠ってしまう日も……」
突然の玉座――慣れぬ生活――批判の多い遷都。
やるべきこと、やらなくてはいけないことが多すぎて、皇帝グーランは夜の営みもろくにできぬ状態らしい。決して皇后をおざなりにしているわけではないのだが、体力も気力も限界なのだ。本当に。
そんな状況では、当然子ができるはずもなく……。
「……子が欲しいのは、私の本心でもあります。後継ぎを生むという義務だけじゃなくて、グーランのことが好きだから……」
「陛下もきっと、同様のお気持ちでしょう。だからこそ、いまは子を作ることを避けているのかもしれません」
マリアの言葉に、皇后は顔を上げた。
愛する男性の子が欲しい。
それはマリアにも、痛いほど分かる気持ちだった。
何も持たない自分だから、せめて……切れることのない絆の証が欲しいと……。子どもがいれば、どんなことにだって耐えられる。だから、心の拠り所として……。
「はっきり申し上げて、いまの陛下には力がありません。シャンタン様が身籠られた時、シャンタン様と、御子をお守りするだけの力が。いまは遠巻きに見ているだけの連中も、シャンタン様に子ができれば動かざるを得ないでしょう。ですから、どうか焦らず」
一瞬、泣き出してしまうのではないかと思った。
けれど皇后はきゅっと唇を結び、それから笑った。
「そう……ですね。ただ生めばいい――子を成せばいいというわけではないのですね。私、欲しいと思うばかりで、我が子を守ることとか、全然考えていませんでした。マリア様のおっしゃるとおり、ぐずぐず悩む前に自分が強くならないと」
「その意気です。明日には私が選んだ女官や教師が到着いたしますから、今度は皇后様ご自身で、しっかりと彼らを仕切ってください」
皇后は笑顔で頷く――こうしてマリアは皇后との交流を深め、後宮の体制を変えるきっかけを作り出した。
それが良い結果に終わるのかは、まだ分からない。




