女君主
セイラン皇帝と対面した日、皇后と顔を合わせることはなかった。
皇帝曰く、体調を崩して寝込んでいたとか。
元気そうな娘だが、側室が来ることにはあれこれ思い悩んでいたようだからな……。
シオン太師がそう呟くのを聞き、寝込んでいる、という話もあながち嘘ではないのかな、とマリアは思っていた。
貴族ではないということで、皇后は周囲から侮られやすい。セイランに来て日も浅いマリアですら、彼女を軽んじるような噂話をする人間にすでに何人も出くわしているぐらいなのだ。
自分の立場を脅かすような女――夫の寵愛を奪うかもしれない女と、率先して会いたいとは思わないのが当然の神経だろう。
シオン太師の愛妾となり、その関係が本物であることを知って、少しぐらいは前向きにマリアのことを受け入れられるようになっているだろうか。
「シオン様は、皇后陛下のことはお好きなのでしょうか。おかしな意味ではなく」
太師は少しだけ怪訝そうな表情をしつつも、そうだな、と相槌を打った。
「悪い娘ではない。それは確かだ。好きか嫌いかで言えば嫌いではない。決して。だが皇后としては――無理やりグーランを都に連れ戻したわしが言えたことではないが……皇后などと言う地位は、あの子を幸せにはせぬだろう。彼女自身、それを察する聡明さがあるだけに、なおのことな……」
つまり、身の程はわきまえた女性ということだ。皇后の責任の重さを理解するだけの能力はあり、自分には、本来向かないものだということも。
……それはたしかに、ある種の不幸だ。
「皇后らしくしてやってくれ、とは言えぬが、おまえも話し相手ぐらいにはなってやってくれ。すでに察してはおるだろうが、姉上が宮廷の女たちをまとめておるゆえ皇后は孤立しておる。女のことは、わしやグーランでは力になってやれんのだ」
「承知いたしました。シオン様が皇后陛下寄りなのでしたら、私も親しくさせて頂けるよう努力いたします」
助かる、とシオン太師にしては珍しく、素直に礼を述べた。
女性のことには疎い男だ。女同士の人間関係と言うのは、本気で苦手なのだろう。
宮廷で力を得ることは目的としていないのだから、フーディエ夫人――皇帝の叔母と良好にやっていく必要もない。率先して争いたいとも思わないが、夫人と太師の仲がいまいちなら、マリアも仲良くやっていくのは無理じゃないかと思っているし。
「むう。しかし……会いに行くにしても、なぜそのような恰好を。珍妙な……」
珍妙と言う表現に、マリアのほうが吹き出してしまった。
セイランへ来て、マリアは久しぶりに男装をしていた。西方の男物の服。とは言え、マリア用にあつらえられた――伯爵の貢ぎ物のひとつなので、男物の服であっても女らしい曲線は健在なままだが。
「色々と考えたのですが、女としての敵愾心を煽ってしまうような服装は避けたほうがよいかと思いまして。女らしく着飾ってしまうと、皇后様も邪推してしまうかもしれません。かと言ってみすぼらしくするのも……かえって挑発に感じられるかもしれませんし、なにより、礼儀に欠けます」
「ううむ、そういうものか。いや、これに関してはおまえを信頼して一任しよう。わしでは役に立てんのは間違いのない事実だ。おまえの思うようにやってくれたらいい。万一拗れてしまっても、それはわしの力不足だったということだ」
「頼もしいお言葉ですわ」
マリアは微笑み、太師の頬に口付ける。西側の風習に慣れていない太師はちょっと動揺したが、これがマリアたちにとって一般的な挨拶であることは理解してくれていた。
自分を信じて任せると言ってくれた太師のためにも、がんばってみよう。本来の目的とはあまり無関係な内容だが、だからと言ってどうでもいいと切り捨てられるほど、マリアも冷淡ではないつもりだ。懇意にしている太師から、素直に頼まれたのだし。
自分の侍女となったリーシュを伴い、マリアは皇后のいる部屋に向かった。
「初めまして、マ、マリ、ア様……私、シャンタンと申し――いえ、えっと……」
皇后シャンタンは、マリアを前にして明らかにうろたえていた。肩書は正式な后である彼女のほうが上でも、本来の身分はマリアのほうがはるかに上。
皇后らしく振舞いつつも高貴な女性に失礼のないように――悩み過ぎて、皇后は自分の有るべき姿を定められないでいるようだった。
「どうぞ気楽に。この恰好を見て頂ければ分かるように、私も変わり者の女ですわ。堅苦しい挨拶も、息苦しくなるようなしきたりも好きではありません」
「あ、ありがとうございます……」
ホッとした表情で、皇后が言った。
やはりマリアの読み通り、男物の服を着た異質な姿はある種の説得力があったようだ。がちがちに緊張していた皇后も、いくらか落ち着く。
「あの、不思議な御召し物ですね。ドレスというのは知っておりましたが、それも西の国でよく着られる服なのでしょうか……?」
改めて、皇后はマリアの衣服を観察する。
「西の国では一般的な服ですが、女性が着るものではありません。ドレスというものはとても動きにくくて」
「やっぱりそうなんですね。動きやすそうでいいなあって、私もそう感じてたんです。綺麗なお洋服は良いけど、動きにくくなっちゃうのが難点ですよね」
「それは西も東も同じようですわね。私もこちらの衣服を着てみて――」
マリアは言葉を切った。
マリアも、皇后の着ているものが気になっていた。
ファッションセンスについて、マリアは特に秀でたものはなかった。セイランの服飾文化にも疎いし……だから、もしかしたらマリアの感性のほうがおかしいのかもしれないけれど……。
「皇后様。失礼ですが、それは皇后様が選ばれた服なのでしょうか?」
はっきり言って、すごくダサいと思う。
何がダサいのか、ダメなのかは解説しにくいけど……なんとなく。ごちゃごちゃしていて品がない、という印象を受ける。
マリアの質問に、皇后は心当たりがあるようだった――顔を真っ赤にし、蚊の鳴くような声でぼそぼそと呟く。
「ええっと……女官たちが選んでくれたんです。私、こういったことに疎くて……。色々と頂いたんですけれど物の良し悪しもよく分からないし……。豪華なお洋服だってことは分かるんですけど……やっぱり、私なんかじゃ不釣り合いですよね……」
「皇后様に不釣り合いなのかどうかは私には分かりませんが、でもその恰好はちょっと……というのは分かります。リーシュ。あなた、どう思う?」
自分の侍女に振り返り、皇后の装いについて尋ねる。
リーシュは気まずそうに視線を泳がせ、返答を悩んでいた――率直に答えることが無礼になるのかどうか悩んでいるのだろうが、そんな態度を取っている時点で十分無礼だろう。似合っていない、と暗に白状してしまったも同じなのだから。
「あの、どうぞ遠慮なく!正直に言ってください!おかしいのは、自分でもなんとなく分かってますから!」
身を乗り出す勢いで、皇后はリーシュを見る。
では、と、覚悟を決めたようにリーシュが口を開いた。
「とても酷い。その一言に尽きます。お召しになっているもの、一つひとつは素晴らしい品なのに、すべてを適当に組み合わせてしまっているので台無しに――セイランの衣装は重ねや合わせのバランスが重要ですから、とにかく高価なものを着ればいいというわけではありません」
まったく遠慮なく、リーシュはダメ出しを続ける。
グサグサと言葉の刃を突き立てられて顔をしかめながらも、皇后は真剣な表情でリーシュの説明を聞いていた。
「皇后様はお若く、華やかなお召し物もよくお似合いになるはず――問題は、着方です」
「リーシュ。皇后様の着るものを、あなたが選んであげたらどう?」
マリアが口を挟めば、とても良い考えです、と皇后も賛同する。
「着方がダメらしいということは分かったのですが、じゃあどう着ればいいのか、というのは私では……。お願いします、リーシュ!」
「……かしこまりました」
一瞬だけ悩むような様子を見せたが、リーシュはマリアと皇后の頼みを引き受けた。このままにするには、あまりにも忍びないと思ったのだろう。
「皇后様。奥へ行く前に、皇后様のお世話をしている者を呼んでくださいますか?」
着替えのために奥の部屋へ行こうとする皇后を呼び止め、マリアが言った。皇后は不思議そうにしつつも女官を一人呼び出し、それからリーシュと共に改めて奥の部屋へ向かった。
「何の御用でございましょう」
呼び出された女官は年配で、マリアのことを小娘と思って侮っているのが見え見えの態度であった。露骨過ぎて笑ってしまいそう。
「あなたが、シャンタン様付きの女官?」
「正確には違います。私は女官たちをまとめる役目にあり、皇后陛下お一人に仕えているわけではありません。皇后様のお世話は私の仕事の一つでもありますが」
「そう。女官長だというのならちょうどよかった。シャンタン様付きの女官を全員呼んでちょうだい」
マリアが言えば、女官長は承服しかねるといった表情だ。
「なぜ――」
「その質問には、質問で返させてもらうわ。なぜ私が、あなたに、わざわざ理由を説明しなくてはいけないの?」
身分差を思い知らせるように、マリアは言った。女官長は盛大に気分を害しただろうが……どうでもいいことだ。
反論できるはずもなく、女官長は皇后付きの女官を呼び出す。今度は若い女性が五人――皆、なかなか華やかな衣装だ。着ているものは悪くない。着るものについて、ある程度の規定はあるのだろう。だが各々が、自らのセンスを披露するように、さりげなく独自のアレンジを利かせている。
つまり、彼女たちが選んだという皇后のあの服は、わざと――。
「これで全員?」
「はい。都を移したばかりでこの後宮も落ち着かず。皇后様のお世話は、ひとまずこの人数で……と。フーディエ夫人のご采配ですわ。皇后様も了承済みです」
説明する女官長は、どこか嘲りの色があった。
大国の皇后の女官にしては、明らかに数が少ない。この程度で十分な女だと、そんな本音が透けて見える。
……フーディエ夫人とやらの後ろ盾があるからなのか、怖いもの知らずだことで。
「そう。それじゃあ――」
マリアはにっこりと笑い、並ぶ女官たちを見る。
「あなたたち、今日で全員クビね」
女官たちはぽかんと口を開け――それからブーイングが飛ぶ。飛び交う雑音を、マリアは素知らぬ顔で無視する。
どういうつもりです、と問い詰めてきた女官長にだけ視線をやり、彼女の質問に再度答えた。
「当り前じゃない。今日の皇后様のお召し物のひどいこと……。五人もいるのに、服のひとつもろくに選べないんでしょう?そんな役立たずを雇っていてどうするの――あなたの責任でもあるのよ」
真っ直ぐに女官長を見据えて言えば、女官長はぐっとうめき声を漏らす。
「彼女たちをまとめ、指導するのもあなたの仕事なのに――無能を見逃し、教育もしない。あなたもこの女たちに負けず無能なのかしら。あなたのクビも切るように、シオン太師様と皇帝陛下に申し上げるわ」
女官長は青ざめ、あからさまに敵意のこもった目でマリアを睨む。
けれど、どこか勝ち誇った表情は譲らなかった。
「……後宮に、太師様や陛下の力は及びません。私のクビを切れるのは、フーディエ夫人おひとりだけです」
「あら、そう。じゃあ皇后様の世話から外すだけに留めておくわ。それは夫人ではなくてもできることでしょう」
マリアは静かに微笑み、女官長、と呼びかける。
「お忘れのようだけれど……いくら皇帝の叔母であっても、国の頂に立つのは皇帝陛下お一人なのよ。そして後宮の女君主は皇后。女官長でいたいのなら、もう少しその事実は覚えているようになさい」
女官長、五人の女官たちから揃って敵意を向けられても、マリアは笑って受け流すのみ。
――どうせ争うのなら、もっとマシな女がいいわね。
マリアは本心からそう思った。
マリアへの敵意を隠そうともせず、ひたすら墓穴を掘り続けるような浅はかな女と争っても、自分が惨めなだけ。このレベルとやり合わなくてはならないのかと思うと、ため息しか出ない。
「あ、あの……?」
何やら険悪な雰囲気となっている部屋に、皇后シャンタンが恐るおそる顔を出す。
何が起きたのかは分からないが、ピリピリとした空気は伝わってきて。
怯える皇后に、マリアは愛想よく微笑む。
「素敵なお召し物ですわ。リーシュ、あなたのセンスも素晴らしいわ」
先ほどとは比べ物にならないほど、すっきりしていてシンプルで。けれど、シャンタン皇后の若く、明るい雰囲気がよく引き出された装いになっている。
皇后としてはまだまだあか抜けない容姿だが、愛嬌はあり、可愛らしい顔立ちだ。豪奢な服は、これから着こなせるようになっていけばいい。しっかり経験を積んで、自信をつけて……。
「五人もいて、リーシュ一人のセンスに足元も及ばないなんて。やっぱりいるだけムダね。全員クビ」
改めて、マリアは女官たちに言い渡した。
来て早々に後宮に口出しする女。フーディエ夫人がその頂点に立っていることを知りながら。
さっそくこちらから喧嘩を吹っ掛けるかたちとなってしまったが、これでうまく夫人を釣り出すことができるか……。
マリアには、まだまだ情報が――きっかけが必要だ。




