愛のあいさつ
「私もお兄ちゃまやお姉ちゃまと一緒に行く」
涙目で訴えるリリアンに、メレディスは痛む良心をなんとか抑え込み、ごめんね、と繰り返す。
スカーレットも、ちょっと困ったように妹の頭を撫でた。
「もうすぐあなたのお父様が帰ってきてくださるわ。お迎えしてあげなくちゃ」
父親の帰宅、という言葉に、リリアンもうなだれた。
王都へ行っていた父が帰って来る。それはやっぱり嬉しい。父に会いたい。でも、スカーレットやローレンスとお別れはいやだ。
「そんな顔するなよ。俺とスカーレットは、一ヶ月もせずに帰って来るんだしさ」
明るい笑顔で、ローレンスは妹を励ますように言った。
エンジェリク王国オルディス公爵領へ来たスカーレットの父親は、自分の娘と、ローレンス、フェリクスを連れて王都へ帰ることになっていた。
ローレンスは、父親のブレイクリー海軍提督に会うために。提督はもうすぐ王都に帰港するから、息子に会いたいだろうと思って――ローレンスも当然父親に会いたいだろうし。
フェリクスは、王妃オフェリアの侍女ベルダと、ヒューバート王の従者マルセルとの間に生まれた息子。
スカーレット、ローレンスを連れて王都へ行くのなら、彼も両親に会わせるため一緒に連れて行こうと。忙しい両親はオルディス家に息子を預けっぱなしにしているが、本当は我が子がどう過ごしている、どう成長しているか、いつも気にかけている……。
しかし、母と長兄クリスティアンが長期の不在。次兄セシリオは迎えに来た父親と共にキシリアへ行ってしまって――仲の良かったフェルナンドも一緒に。次々と自分の周りから人が去っていくので、リリアンは寂しくてたまらない。
メレディスたちの馬車を見送る時も、結局半べそ状態だった。
「リリアン様。エリオット様がお帰りになられましたよ」
しょんぼりと明らかに元気をなくしていたリリアンは、ナタリアにそう声をかけられ、ようやく顔を上げた。
一目散に玄関に駆けて行き、父親が乗っている馬車を見つけて顔を輝かせる。
馬車から降りた父の姿は……リリアンをさらに喜ばせた。
「ニコラス!アイリーン!」
父と、デイビッド・リースの腕に抱かれた幼子を見て、リリアンは歓喜する――デイビッドは、エリオット・オルディスの供として一緒に王都へ行っていたのだ。出迎えるナタリアも、久しぶりに帰宅した父親と会わせるために自分の娘を連れていた。
「お帰りなさいませ、エリオット様。それにデイビッド様も……。でも驚きました。ニコラス様とアイリーン様もご一緒だなんて」
「ドレイク卿から頼まれて」
言いながら、エリオットはどこか気まずそうだった。
幼いリリアンの前で話したくないことなのだろう。リリアンが弟と妹に完全に関心を奪われてしまったことを確認すると、娘のカタリナを抱っこしながらデイビッドが打ち明けた。
「フォレスター宰相殿のお加減が、かなり悪いそうです。お二人を見ている余裕がなくなって、それで……オルディスへ帰る領主殿に、しばらくの間、二人を引き取ってもらえないかと」
ナタリアは息を呑んだ。
フォレスター宰相も、ずいぶんと年を取った。彼より若く寿命を迎えた人もいるし、先王陛下も……。
王都へ着くと、ローレンスはすぐ父親のもとへ向かった。
というか、待ち構えていた海軍提督の双子の副官に連れ去られて行った。
残ったスカーレットとフェリクスは、メレディスと一緒に城へ。
王都にいる間はお世話になるだろうから、マクファーレン家に挨拶に行くのが礼儀なのだが……エステル王女に会うのを優先した。フェリクスも両親に会わせてあげたいし、城にはメレディスの兄もいて、挨拶したい人もたくさんいるから。
「スカーレット!」
スカーレットが城に顔を出せば、予想通りエステル王女は大喜びだった。大好きないとこに会えてテンションが高く、遊びましょ、と手を引っ張って自分の部屋へ連れて行こうとする。
苦笑いしながら自分に振り返るスカーレットに向かって、遊びに行っておいで、とメレディスは手を振って見送った。
「ねえねえ、いまエステルがスカーレットを連れて……あっ!やっぱり!メレディスだ!」
エステル王女と入れ違いで、オフェリアがやって来る。メレディスを見て、王女とまったく同じように顔を輝かせ、フェリクスが来ていることに喜ぶ。
オフェリア付きの侍女であるベルダも、フェリクスを見て嬉しそうで。
子どもたちがそれぞれ目的の相手と会えたのを見届け、メレディスは兄のもとへ向かった。
「やあ、メレディス。王都へ帰ってきていたんだな。今回はスカーレットも一緒かい?」
王都へ戻ってきた弟を、兄マクファーレン主席判事は歓迎してくれた。姪のスカーレットが来ていることも喜んでくれているようだ。
けれど、いまはあまり一緒にいてやれないかも、と兄は言葉を濁す。
「すでに聞いているかもしれないが、宰相殿のご容体がよろしくない。それで司法部も落ち着かない状態で……警視総監殿は職務に忙殺されている。本格的に宰相職を継ぐことになるだろうが、警視総監の椅子に座らせる人間もまだ決めかねている様子だ。いまは役人側の仕事を、こちらでもかなり引き受けている」
「そっか……危ないかも、とは聞いてたけど、本当に危うい状態なんだね。僕、ドレイク卿にも挨拶に行くつもりだったんだけど」
やめたほうがいいかな、と言葉を続けるつもりだったのに、兄から突然書類の山を手渡されてしまった。
反射的に受け取ってしまったが、メレディスはぱちぱちと目を瞬かせ、書類の山を見下ろす。
「ドレイク卿に会うのなら、それを渡しておいてくれ。今日までの決裁分だ――そう伝えれば、きっと彼は分かるはずだから」
にこにこと笑顔でそう話す兄に、メレディスは苦笑した。
――どうやら、兄の使い走りをするしかなさそうだ。
ジェラルド・ドレイク警視総監は、警視総監の執務室ではなく、宰相の執務室にいた。かつては彼の父親が座っていた椅子に座り、書類の山に囲まれながら黙々と仕事をしている。
もともと声をかけづらい雰囲気を持つ男ではあったが、その雰囲気はいっそう増したような気がする。
マリアがいなくなって、そんな彼の空気を和らげる人間もいなくなってしまったし。
「あの、ドレイク様。お久しぶりです。兄から頼まれた書類を……僕も、ご挨拶をと思いまして……」
ドレイク卿は、絵描きをするメレディスの大事な支援者でもあった。まだメレディスが絵描きとして無名だった頃、彼の後押しのおかげで日の目を見るようになって。
「息災そうで安心した。ご息女も、お元気にしておられるだろうか」
「あ、はい。僕も娘も元気です。ドレイク様は……その……兄から伺いました。お父君のこと……」
「気を遣う必要はない。もう何年も前から危ないのではないか、と言われてきた。先王陛下がご逝去されて、そのショックはやはり大きかったのだろう。私も、別れを惜しむよりも憂いなく休めるようにはからいたいという思いのほうが強い」
「そうなんですね。ええっと……兄が見舞いに行きたいような旨を漏らしていたのですが、ご都合はいかがでしょう?」
メレディスの問いかけに、ドレイク卿が視線をさまよわせた。
彫像のように完璧で美しいドレイク卿の顔に、明らかな迷いが浮かんでいる。
「……気持ちは有難いが、見舞いはお断りしたい。いまの父の姿を……あまり人に見せたくない」
そう話すドレイク卿の声は苦渋に満ちていた――そんな声、メレディスは初めて聞いた。
「父は寝込み……あっという間に、弱々しい姿に……。ニコラスとアイリーンをオルディスへやったのも、それが理由だ。あの子たちには、息子と愛人を奪い合うようなろくでもない、精気満ち溢れる祖父の姿だけを覚えていてほしかった」
思いもかけぬドレイク卿の本音に、メレディスは返す言葉を持たなかった。
マリアだったら、もう少し上手く彼を慰め、支えられただろうか。
「分かりました。では、見舞いの品を送るだけにしておきますね。マリアや……子どもたちの絵を描いて贈ったら、喜んでもらえるでしょうか」
「そうだな。父もきっと――」
ドレイク卿は言葉を切った。
執務室に、人がやって来る――城に仕える従者だ。手紙などを届ける伝令役。彼は、ドレイク卿に一枚の手紙を……。
なんと書いてあるのかは分からなかったが、それが手紙とも呼べないような代物であることは分かった。適当な紙に、短い文が走り書きされただけ……。
「……見舞い品も不要になった」
手紙を読み終えたドレイク卿の言葉に、メレディスは絶句する。
それは、つまり――。
「あ……その……ご愁傷様です。僕も、とても残念で……」
ありがとう、と短く答え、それきり。ドレイク卿は仕事に戻ってしまった。
メレディスは途方に暮れるばかりで、書類の山越しにドレイク卿を見つめながらおろおろと立ち尽くすことしかできなかった。
「ジェラルド。いま、僕のところに早馬が来た――」
執務室に、次の訪問者が。
慌ただしく駆け込んできたヒューバート王に、内容は存じ上げております、とドレイク卿は答える。
「たったいま、私のところにも同じ手紙が届いたところです」
「なら、こんなところにいないで、すぐにお父上のもとへ――そんなもの後でいい――」
王なりの慰めでもあったのだろうが、その台詞はドレイク卿の神経を逆撫でしたらしい。眉間に刻んだ皺をさらに深くし、ドレイク卿は王を鋭く睨む――非常に危険だ。
「この甘ったれのポンコツ王が。誰のせいで、私がこんなものの山に囲まれていると思っているのだ」
ヒューバート王が恐怖に顔を引きつらせ、わずかに後ずさる。メレディスも、ドレイク卿の危険極まりない様子に圧され、部屋の壁に張り付いた。
「私を気遣うなら、いますぐ仕事をしろ。余計なことに気を散らしていないで――いますぐ!私が明日、何の憂いもなく葬儀を執り行えるように!」
それから数時間後――どっぷりと夜も更けた頃。
終わった、という一言と共にヒューバート王は机に突っ伏し、それきり動かなくなってしまった。
軟弱者が、と内心悪態をつきながらドレイク卿は最後の書類を片付ける。もう一方の机で書類整理に追われていたメレディスに視線をやれば……彼もいつのまにか机に突っ伏したまま、気絶同然に眠っていた。
かすかな寝息だけが聞こえてくる部屋で、ドレイク卿は書き終えた最後の一枚を山の上に置く。
人を呼んで、この屍と化した連中を部屋に運ばせるか――ドレイク卿が立ち上がると同時に、扉をノックする音が。
「誰だ」
返事はなく、しばらく沈黙が続いた。
やがてゆっくりと扉が開き、寝衣を着たスカーレットが部屋に入って来る。眠いのか、しきりに目をこすっていた。
「まだ起きていたのか?」
メレディスが徹夜で仕事に明け暮れることになったので、娘のスカーレットはそのまま城に泊まっていくことになったのは知っていた。スカーレットが城に泊まるのはこれが初めてではないし、エステル王女なんかは大喜びしたことだろう。
「なんだかお母様の声が聞こえたような気がして……目が覚めちゃった」
「そうか」
のろのろと自分に近づくスカーレットは、まだ寝ぼけているようだった。
「彼女は何と言っていた?」
「うーん……。あのね」
ヒソヒソ話をするように、スカーレットが意味ありげな仕草で近寄って来る。ごく自然と、ジェラルドは身をかがめてスカーレットに耳を寄せた。
すっと彼女の手が伸びてきて、ジェラルドの頭を撫でる。
目を丸くしてスカーレットを見れば、優しく微笑んでいた――その表情は、マリアそのもので……。
「お母様がね。ジェラルド様にこうしなさいって――私の代わりに。どういう意味なのか、よく分からないけれど……」
そうか、とジェラルドはつぶやく。
けれどその声はかすれていて、震えるような吐息に消えてしまいそうだった。
視界がにじみ……頬を伝う感触……。幼い少女の前でうなだれるジェラルドに向かって、スカーレットはただ微笑んでいた。不可解な行動だっただろうに、彼女は詮索することもせず、ただジェラルドに寄り添って……。
目の前に立つ少女は、いったい誰だったのか。疲れていて、自分は幻を見ていたのかも。
……けれど、そんなことはどうでもいい。自分を優しく労わる手に促されるままジェラルドは最愛の人を想い、彼の死を悼んでいたかった。




