セイラン事情 (3)
対面を終えて謁見の間を出、マリアはシオン太師に連れられて別室に移動した。
おそらくは、王宮内の太師の私室。勇名で馳せる皇帝の叔父の部屋にしてはずいぶんこぢんまりとしていて、家具や調度品も必要最低限にしか置かれていない。
太師らしくもあるが、これはきっともっと単純な理由――シオン太師は、あまりここで生活していないのだ。
「まったく。おまえという女は本当に……すぐ調子に乗る」
簡素な長椅子にドサリと座り込み、太師はため息交じりに言った。だがいつものような覇気はなく、どこか疲れた様子だ。
「しかし、正直に言えば助かった。やはりわしは、ああいう場は苦手だ。何度やっても、上手く切り抜けるだけの度量もなく、機転も利かぬ」
「人間だれしも、得手不得手がございますもの。得意だからと言って、それが必ずしも良いことだとは限りませんわ」
マリアが笑って言えば、黙り込んだままシオン太師がじっと見つめて来る。小首をかしげて見つめ返すマリアを手招きし、隣に座った途端抱き寄せてきた。
「……おまえも。いちいちわしを甘やかさんで良い。つくづくたちの悪い女だ。憎らしいやら、複雑な気分にさせられる」
そう言いながらも、マリアの髪を撫でる太師の手つきは優しい。隣に座るマリアにもたれかかり、何やら考え込んでいるようだ。マリアは詮索することはやめて、されるがまま太師の腕に収まっていた。
しばらく太師は抱き寄せたマリアにもたれかかっていたが、人が来たことをリーシュから知らされ顔を上げた。
「叔父上、お邪魔します」
「グーラン。何もおまえがここに来ずとも――わしを呼びつければいいだろうに」
グーランという名前に聞き覚えはなかったが、入ってきた客はマリアも知っている相手だった。
セイラン皇帝――先ほど謁見の間で顔を合わせたばかりなのだから、誰なのか分からないはずがない。
「都に戻られたばかりの叔父上に、そのようなことさせられません」
「それに、叔父上を骨抜きにした相手をしっかりこの目で確認したくて」
皇帝の後ろから、ひょこっと悪戯っぽい笑みを浮かべて青年が顔を出す。彼も見覚えがあった。謁見の間で、豪快に笑っていた若者……皇帝と同い年ぐらい……どこか容姿も似通っている。
「ふーん、彼女が……うーん」
青年はマリアに近づき、頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと観察してくる。無遠慮でぶしつけな視線ではあったが、不快感はなかった。人懐っこそうな雰囲気があるからだろうか。
マリアは困ったように笑い、彼の視線を受け流した。
「たしかに美人だし、なかなか色気もあってそそられるけど……あの堅物の叔父上を虜にしたって言われると……うーん。いや、口説いてみたくなる感じはするけど……」
おいおい、と皇帝も困ったように笑って、男の行動をいさめる。シオン太師はイライラした様子で男の腕を引っ張り、マリアから引き離した。
「顔が近い。確認したいだけなら、そこまで近づく必要はないだろう」
男も皇帝もきょとんとなり、やがて顔を見合わせて笑った。
突然笑い出した二人に、太師は不審げな顔をした。
「いや、失礼……考えていたよりもずっと、叔父上は彼女に夢中みたいで」
腹を抱えて男は笑い、皇帝は裾で口元をおさえて控え目に笑う。それから、親しみのこもった眼差しで改めて叔父である太師と向き合った。
「安心いたしました。叔父上は……もしかしたら、私のために望んでもいない女を愛妾に迎えたのでは、と邪推しておりまして。単なる私の杞憂だったのなら、本当に良かった……」
皇帝の言葉に、太師はちょっと気まずそうに目を逸らす。セイラン皇帝はにこにこしたまま、今度はマリアを見た。
「オルディス夫人――いえ、その呼び方はお嫌なのでしたね。マリア殿。ようこそセイランへ。改めてはじめまして……私の名はグーラン。エンジェリクからの客人を、私も妻も歓迎いたします」
国の頂点に立つ男から、こんなに腰の低い自己紹介を受ける羽目になろうとは。とっさに返事ができなくて、マリアは目を瞬かせた。
「こっちは私のいとこのダリスです。いささか軽い男なので不安になるでしょうが、これで存外頼りになるやつです。どうぞ信頼して、気安くこき使ってやってください」
「あんまりな言い草だぞ」
ダリスと紹介された男は、そう言いながらもマリアに愛想よく振舞う。
「紹介の通り、俺はグーランのいとこのダリス……なんとなく予想はついただろうが、あのフーディエ夫人は俺の母親だ。母上がどう考えているかは分からんが、俺もあんたとは仲良くやっていきたいと思ってる。こき使われるのは勘弁だが、気軽に声をかけてくれ」
皇帝グーラン、そのいとこダリス――フーディエ夫人の息子。
紹介されて、なるほど、とマリアは納得した。この二人、なんだかよく似ているなと思ったが、いとこなら似ていて当然。こうして並んで立っていると、笑い方がそっくり……。
「……言っておくが、ダリスも妻帯者だぞ」
マリアも愛想よく皇帝とそのいとこの挨拶に応えていたら、シオン太師が拗ねたように口を挟んできた。
皇帝といとこダリスは何のことかと不思議そうに太師とマリアを見つめていたが、マリアは太師の真意を察して微笑みかける。
「大丈夫です。シオン様に夢中ですから、よそ見したりしませんよ」
太師がヤキモチを焼いたことに気付くと、皇帝とそのいとこも大笑いしていた。
皇帝との対面を果たしたその夜、マリアは後宮にいた。
それは、シオン太師の要請だった。
「まさかこんなことになると思っていなかったものでな。女のための部屋を用意していなかった。グーラン、すまぬが、マリアはおまえの後宮に置いてくれぬか」
太師の頼みを、皇帝は二つ返事で了承した。
以前の王都ならまだしも、都を移して間もないここにシオン太師は自分の館を持っていないらしく、新たな王宮には寝泊まりするための簡素な部屋しかなかった。
一年の大半を外敵と戦い、治安を守るために都から離れているから、必要性がなくて。だから、愛妾のための部屋なんてものはなかったのだ。
皇帝も、後宮には自身の后が一人だけ――都を移す際に女官たちも整理してしまったので、こぢんまりとした広さになったが人の出入りもなくなって、ずいぶん寂しい姿となったらしい。
だから、人が増えるのは大歓迎だ、と。叔父の寵愛を受けているマリアなら、后の地位を脅かす心配もないし。
そういうわけで、側室にはならなかったのに結局皇帝の後宮で過ごすことになり、ちょっと滑稽な思いに駆られながらマリアは入浴を楽しんでいた。
――後宮には、どの部屋にも広い浴室があることは素晴らしいと思う。
「あら、クリスティアン。遊びに来てたの」
風呂から出ると、部屋には息子のクリスティアンが来ていた。
今回は、リーシュが正式に招き入れたそうだ――自分のあずかり知らぬところで侵入されるよりは、そっちのほうがましだから、だそうだ。
「二胡の音が聞こえたんだけど……もしかして、あなたが弾いてたの?」
「はい。母上ほどではありませんが、僕もなかなか上達しましたよ」
手にしていた二胡を見せ、クリスティアンが言った。マリアは苦笑する。
セイランに来て、シオン太師の情人となり。貴婦人のたしなみとして、マリアは王都に来るまでの道中に様々なことを学んでいた。
二胡も、芸事に秀でたリーシュから教わっていたところで。
クリスティアンはマリアのそばで練習を見ていただけのはずだが……いつの間にやら、自分も身に着けたようだ。
濡れた髪をリーシュに整えてもらいながら、マリアはクリスティアンの隣に座り、少したどたどしい二胡の演奏に耳を傾けた。
「……誰が弾いているのかと思ったら。息子のほうだったか」
部屋に、夜着に着替えたシオン太師が入ってくる。片手に酒を、もう一方に……あれはたしか、蒸籠という道具だ。最近セイランの料理も研究していたから、見たことがある。
シオン太師はどさりとマリアの隣に座り、手にしていた酒を見せる。
「おまえを都に無事送り届ける任務を一応果たしたからな。久しぶりの酒だ」
リーシュは慣れた様子で酒の用意を始め、太師が手にした盃にマリアが酒を注ぐ。おまえも飲め、と太師がすすめてきた。用意された杯は二つ。
「おまえはこっちだ」
そう言って、太師は蒸籠をクリスティアンに渡す。クリスティアンはまじまじと蒸籠を見つめ、よいしょ、と蓋を開けた。
ほかほかと白い湯気が上がり、中には、薄ピンクが可愛らしい丸いものがちょこんと並んでいる。
「桃饅頭だ。本来は祝い事で食べるものなのだが、子どもにはこういうのが良いと思ってな」
クリスティアンが一つ取り、ぱくりとかぶりつく。マリアもせっかくなので一つもらうことにした。
中には餡子というものが入っていて、甘くて美味しい。妹だったら目を輝かせて喜んだことだろう――作り方を聞いて、蒸籠と一緒にお土産に持って帰ろう。
「子どもにしてはなかなかの腕前だった。おまえが教えたのか?」
酒を飲みながら視線を二胡にやり、太師が尋ねて来る。いいえ、とマリアは首を振った。
「私が習っていたのを、横で聞いて覚えたようで。賢い子だとは思っておりましたが、油断なりませんわ」
冗談めかして言い、マリアは笑う。そうか、と太師もかすかに笑った。
「どんな曲が弾ける?」
「母が習っているのを聞いて覚えただけなので、タイトルは分かりません。それなりに弾ける曲だと……これでしょうか」
桃饅頭を口の中でもぐもぐさせながら、クリスティアンは再び二胡を手にする。楽士ほどの腕はないが、太師はクリスティアンの演奏を気に入ったようだ。
ごろん、とマリアの膝を枕に横になり、演奏に聞き入っていた。
「……良いものだな」
「褒めていただくと、母親の私としては鼻が高くなる思いですわ」
「そういう意味では……いや、そういう意味もあるか」
「何か別のお話でしたか?」
クリスティアンの腕前を褒められたと思ったのだが、シオン太師は別のことを考えていたようで。
マリアが小首を傾げて自分の膝に寝転ぶシオン太師を見下ろすと、太師は相変わらずクリスティアンを見つめていた。
「わしには子がおらん。独身なのだから当然なのだが。こうしておると……少しばかり、後悔する時もある。待っている妻や子がおれば、わしももう少し王都で過ごしただろうかと……。とは言え、しょっちゅう戦に出ておる身だ。心残りになる者は持ちたくなかったという本音もあるのだが」
シオン太師はおどけたように話すが、マリアは返事をせず、代わりにシオン太師の髪を撫でた。
黒い髪に、白いものはよく目立つ。顔に刻まれた皺と共に、それは太師の生き様を表しているようでもあって。目立たぬ程度にではあるが、顔にも、身体にも、痕となって残る傷も……。
「シオン様は、ご結婚などは考えなかったのですか?」
「若い頃に一度、そういったことを考えた相手がいた。わしが戦場に出ている間に病で命を落とし……。戦場にいるわしに気遣って、彼女は病を知らせることもしなかった。わしの足枷にならぬようにと……ようやく都に帰ってきたときには、彼女の葬儀すらとうに終わっていたような状況で……」
「まあ。ではその女性を一途に想い続けてきた太師様の操を、私が無理やり踏みにじってしまったのですね」
「気色の悪い表現はやめんか。別に操を立てていたわけではない。亡くなって数年ぐらいは確かにそれが理由で女を遠ざけていたが、わしだって男だ。興味がなかったわけではなかった。ただ気が付いたら、言い出せぬ年齢になっていたのだ――女と手を繋いだこともないと。そうこうしているうちに硬派な堅物と思われるようになり、いまさら真実を打ち明けることもできなくなって――」
言いかけて、太師がハッと口を噤む。
演奏を終えたクリスティアンが自分のことをじっと見つめていることに気付いて。
子どもの前で何という話をさせるのだ、と太師は怒ったが……怒られても。
「奥の部屋へ行くぞ!クリスティアン、おまえも早めに寝ろ。子どもの夜更かしは感心せんぞ」
「もうちょっとだけ練習したら寝ます」
母親の手を引っ張って奥の別室へ向かうシオン太師を、クリスティアンは慣れた様子で見送る。
太師はマリアを乱暴に寝台に放り投げ、忙しなく覆いかぶさってきた。
「すっかり脱がせるのがお上手になって。初めてお会いした時は、ドレスの紐を解くのにも手を震わせていたくせに」
「余計なことは思い出さんでいい!まったく、おまえという女は……」
それも、もう口癖となってしまっているような。
マリアは心の中でこっそり笑い、自分の首に顔を埋めて来る太師の髪を撫でた。横から撫でるのとは、また違った感覚だ……。
「……間もなく。わしは都を離れるだろう。姉上には気をつけよ。わしは嫌われておる……おまえをあたたかく迎え入れてくれるとは……建前でも言えぬ」
「シオン様のお言葉、肝に銘じておきますわ。でも、私のふてぶてしさはシオン様こそよくご存知でしょう?ですからどうか安心なさって……シオン様ご自身のことだけを考えてくださいませ」
間近から自分をのぞき込むシオン太師に、マリアは優しく微笑みかける。髪を撫でていた手で、そっと頬に触れる。
「シオン様こそ、どうぞご無事で。クリスティアンと共に、お帰りをお待しておりますわ」
うむ、と太師が頷く。
マリアをじっと見つめ――その眼差しには、獲物を狙う獰猛さがあった。
都に来るまでの道中でも、そんな太師の目をマリアは見たことがある。戦いの中で高揚した時に見せる顔。それがいま、マリアに向けられていた。
「出発の日まで、おまえのぬくもりを堪能しておきたい。言うたであろう。わしとて男なのだ。女人の肌に、興味がなかったわけではない。わしにその美味さを教えた以上、覚悟せい」
「生意気な。私を誰だと思っているのです?」
憎まれ口を罰するように、マリアは唇を塞がれてしまった。




