セイラン事情 (2)
セイランの王都が移されたことをマリアが知ってから一週間。太師の言った通り、本当に王都に着いてしまった。
ただ、北方の遊牧民族から逃げるために急遽移した都は、マリアが知っているものの中で最もこじんまりとしていて、西方の国々にもその文明の偉大さが伝わる国のものとは思えないほど地味だった。
王宮も、大帝国の皇帝が住むものにしては小さくて――西の都で見た太師の館のほうが、よっぽど威厳があるのではないだろうか。都の中では存在感もあり、大きな建物ではあるが……。
「陛下には、わしから手紙で知らせてある。后共々、おまえに会うのを楽しみにしているようだ」
「ということは、私が太師様の愛人となったことはすでに陛下はご存知ということで?」
「し、仕方なかろう!やって来る側室候補にどう対応すべきか、陛下は悩んでおったのだ!気に病む必要はなくなったと、知らせてやりたくて――」
「別に咎めているわけではありません。ただ、シオン様のことですから馬鹿正直にご説明なさったのではと思って。私の心変わりということにしておけば、万事丸く収まりますのに」
マリアが言えば、そのような卑劣な真似はできん、と太師は即答する。
「おまえの名誉を貶めるようなことは許さぬ。わしの横恋慕だ――護衛として迎えに行ったわしが一目惚れをし、陛下から横取りした――それでよい。まったくのでたらめというわけでもないのだし」
無自覚なのだろうが、なかなか熱烈な愛の言葉だと思う。本人は至って真面目な分、余計に。
「シオン様は、本当にお優しいのですから」
マリアは微笑んだ。
いずれマリアはこの国を去っていくのだから、女が悪いということにしてしまえばいいのに。これからも国のため、皇帝のために生きていかなくてはならない太師の評価が下がるようなやり方を選ばなくてもいいのに。
「それにしても、大帝国の王都にしては……何と言いますか……」
「はっきり言えばよい。地味だ、とな」
口に出すことをためらうクリスティアンに対し、シオン太師はきっぱりと言い切る。
「わしも、いささか悔しく感じておる。外国から来たおまえたちにこの有様を見せるのは……。わずか数年前まで、セイランの王都はもっと大きく、もっと華やかなものであったというのに」
シオン太師は都を見渡し、ため息をついた。
「わしも都暮らしは息が詰まって好きではなかったが、いざこうなってみると郷愁のようなものを感じる。わしですらこうなのだから、やはり姉上たちに恨まれるのも当然というものか……」
皇帝の叔母の話をもう少し聞いてみたかったのだが、そう呟く太師の表情も声も複雑な想いが込められていて。
さすがのマリアも、気楽に詮索できるようなものではなかった。
セイラン皇帝に対面する準備をすることとなり、マリアはシオン太師から服を贈られた――それもかなりの量を。
「ありがとうございます。とても美しいものばかりで……お返しできるものを持たない私としては、いささか心苦しいぐらいです」
太師の好意をむげにしないよう気を付けながらも、やんわりと、遠回しに、こんなにたくさんいらん、という正直な気持ちを伝える。
だって、すでにホールデン伯爵から贈られた衣服がいっぱいあるし。マリアが怒っても懲りることなく貢いでくるから、有難迷惑という単語がちらつくようになってきていた。
マリアのそんな内心を察したのかどうかは分からないけれど、太師はムスッとした顔だ。
「……これぐらいのこと、大したことではない」
大したことではないのなら、なおのこともっと実用的なことにお金を使ってほしいと思うのだが――さすがにその言葉は呑み込み、マリアは微笑んだ。
他の男が贈った服を着ていることを、シオン太師がさりげなく気にしていることは知っていたから。
リーシュに手伝ってもらって、太師から贈られた服に着替える。どれを着るかはあらかじめ太師と決めてあったらしい。悩む様子もなく、当たり前のようにリーシュは服を選んでマリアに着つけていく。
濃紺に近い青い衣装――ところどころ金の装飾が施され、非常に重厚な印象を受ける。服に無頓着なマリアでも感じる高貴さ。
自分が着てしまってもいいのだろうか、とちょっと腰が引けた。だってこんな、立派なものを着て皇帝の前に参上したら、まるで自分の権威を示すかのような――。
「あら。太師様とおそろいだったのですね」
着替え終えてシオン太師と合流したマリアは、彼の姿を見てホッと胸を撫で下ろした。
上等な衣服に戸惑っていたが、それも消え去った。なるほど。高貴さを惜しみなく引き立てる服でいいのだ、と。
マリアとシオン太師が着ている服は、同じ布で誂えられている。デザインにも男女の差はあれど共通するものがあって。彼とおそろいなのだから、マリアのほうも自然と高貴な衣装になるのは当然なのだ。
「おそろいなどと、そのような言い方をするでない」
照れ隠しなのか太師はぶっきらぼうに言ったが、おそろいでいいんですよ、と従者のヤンズが苦笑いで口を挟む。
「あえて同じものにしてるんですから。マリア様がシオン様の情人であることをアピールするために、わざわざ対となる衣装を選んだのに」
ヤンズに言われ、ぐっと太師が押し黙る。マリアはにっこりと太師に笑いかけ、いかがでしょう、と声をかけた。
「太師様と並んでも見劣りせぬ程度には、私も着こなせておりますか?」
「う、む……そうだな……」
「よくお似合いですよ」
もごもごと口ごもる太師に代わり、再びヤンズが口を挟む。
「とてもお美しくて、太師様も一目見た瞬間ぽーっと見惚れておりました」
「余計なことは言わんでいい!この女はすぐに調子に乗るのだから、いちいち褒める必要もないだろう!」
顔を真っ赤にして太師が怒鳴る。こほん、とリーシュが小さく咳払いをした。じろり、と。シオン太師を敬愛する侍女にしては珍しく、彼を睨んだ。
「シオン様。いくらなんでもその言い草はあんまりです。マリア様の寛大さに、甘え過ぎですわ――そのようなお姿、見たくありませんでした」
「大目に見てあげて、リーシュ。私は可愛らしくて、結構好きよ」
マリアがころころと笑ってフォローすれば、太師は顔を赤くしたまま怒った。だから嫌なのだ、と叫ぶ。
「おまえはすぐ、そのように、人をからかいおって!だからわしもつい……ええい、もういい!行くぞ!」
マリアの腕をぐいっとつかんで引っ張り、太師は謁見の間に向かって歩き出す。しばらくは肩を怒らせてずんずんと歩いていたが、王宮の中心部に近づくにつれ落ち着いた様子となり、やがて重厚な扉の前で足を止めた。
「おまえには、不愉快な思いをさせるかもしれん。かばってやりたいが、わしも限界がある……見世物扱いは避けられぬだろう。すまぬが堪えてくれ」
低い声で、太師が言った。彼なりの真摯さ、誠実さが込められた言葉に、マリアは微笑んで応える。
「シオン様がこうして隣に立っていてくだされば、恐れることなど何もありません。どうぞ――頭を下げる必要はありませんわ」
「そうか……」
短くうなずき、太師は握っていたマリアの手を改めて自分の手の中に包みなおす。
「その……悪くはない。その色はおまえによく似合っておる……」
「ありがとうございます」
太師の手を、マリアもそっと握り返した。
謁見の間に来るまでの廊下でも、遠巻きにじろじろと見られていた。
それでも、シオン太師の偉大さを前に遠慮してはいたようだったし、そこまであからさまでもなかった。
けれど謁見の間では、隠すことのない好奇の視線にさらされて――シオン太師の心配した通り、マリアはよい見世物だ。
何十人もの視線を一身に集めながらも、マリアは微笑を絶やさず、胸を張って太師と共にセイラン皇帝の前に進み出る。
見世物扱いはいまさら。
王子の婚約者でありながら、その父王の愛妾となった経験もあるのだ。好奇の視線に動じるほど、マリアは繊細な乙女ではない。
真っ直ぐに前を見据えながら、さりげなく周囲に視線をやる。マリアがもっとも関心を持ったのは……やはり皇帝だった。
いままでマリアが会った王と言えば、足元にも及ばぬほどの貫禄と迫力を持ち、老いも若きも堂々としたいでたちであった。ベナトリアの先王ですら、王としての威厳はそれなりにあった。
しかしセイランの皇帝は……。
「陛下。エンジェリクより訪ねてきた客人を連れて、戻って参りました」
臣下の礼を取って、シオン太師が恭しく話す。
マリアも太師に倣って皇帝の前に跪きながら、なんともしっくりこない光景だな、と思った。
シオン太師は、皇帝の叔父、勇名で馳せる猛将と言われても納得の男なのだが、その男が仕える主君としては、セイラン皇帝はあまりにも……凡庸で。
悪い人ではないのだと思う。たぶん。やさしげな顔つきに、シオン太師を見つめる目には親愛が込められている。ただ、皇帝としては……頼りないというか、弱弱しいというか。
線の細さのせいだけではないだろう。エンジェリクの王ヒューバートも、どちらかといえば中性的で線の細い美青年だった。それでも、王としての威厳はすでに身に着けている。
若く、即位間もないにしても……それこそ、マリアの故郷キシリアの王も若くして王となったが、頼りないとかそんなこと、感じたことがなかった。
「その女をお前が囲いたいと――陛下にそう申し出たとのことだが、まことか」
太師の挨拶を遮り、皇帝を差し置いて、女の凛とした声が響く。皇帝を含め、一同が息を呑むのが分かった。
その周囲の様子に、この声の持ち主が誰なのか、マリアも理解した。
太師が頷くと、女が嗤う。
「なんと恥知らずな。陛下の妃となる女人に手出しするとは……血は争えぬのう」
嘲笑する女に、シオン太師は沈黙を守り、ひたすら頭を垂れる。
そんなやり取りを気の毒そうに見つめる者、女に同調するようにいやらしい笑みを浮かべる者、居心地悪そうに冷や汗を流す者……。反応は様々だ。
「だがしかし、異人の女を後宮に入れる羽目にならずに済んだと考えれば、存外悪いことではないのやもしれぬ。セイランに、これ以上余所者の血は要らぬ」
セイラン皇族の後ろ暗い過去。
一応、マリアも知っている。それなりに有名なことみたいだから、ホールデン伯爵が調べて教えてくれた。
それでも、気軽に口に出してよいことではないだろうに。
「陛下」
皇帝の叔母――フーディエ夫人の台詞は聞こえなかったふりで、マリアは顔を上げて皇帝を見つめる。
にっこりと微笑めば、皇帝がわずかにたじろぎ、居合わせる男たちもどこかぼーっとした様子でマリアを見つめた。
「どうかお許しくださいませ。私は陛下の側室としてエンジェリクより参りましたが……シオン様に熱心に口説かれて、つい……。あれほど熱烈に求愛されては、とても拒むことなどできず」
何かを思い出すように頬を染めて言えば、皇帝や一部の人間は虚を突かれたように目を瞬かせた。
シオン太師も、何を言い出す気だ、と叫びたい衝動を必死で堪えているようだった。目を見開き、焦ったような表情でマリアを見つめている。
「え……あ、えっと……その、叔父上が、貴女を口説いた……?熱烈な求愛……?」
そう話す皇帝に威厳のかけらもないが、誰もそれを咎めなかった。
そんなことより、シオン太師による熱烈な求愛、の部分のほうが気になるようで。
マジか、と言いたげな視線が集まる中、シオン太師はブンブンと首を振っている。何を否定しているのか、きっと自分でも分かっていないだろう。
やがて、豪快な笑い声が響いた。
「失礼――いや、しかし……あの堅物で有名な叔父上がそのような……と思うと、どうにも笑いが抑えきれず」
笑ったのは、皇帝と年の変わらぬ若い青年だった。
着ているものはかなり上等――それどころか、皇帝やシオン太師と同じ、濃紺の青。セイラン皇族が身に纏う色を着ている。
笑う青年に、皇帝も控え目にはにかんだ。
「シオン太師殿。護衛の任、ご苦労であった。それにマリア・オルディスのこと……余は、そなたの申し出を認める」
皇帝が言った。
太師も神妙な表情に戻り、皇帝に頭を下げる。
「太師殿は長年に渡り、セイランや皇帝に忠義を尽くしてきた。その太師殿がそこまで惚れ込んだというのであれば、余は喜んで譲ろう。いままで浮いた噂ひとつなかったのだ。一度ぐらいは大目に見ても、問題はないだろう」
同意を求めるように皇帝は周囲を見回す。
フーディエ夫人が蔑むような表情を扇で隠したが、異を唱える者はいなかった。家臣たちは頭を下げ、沈黙している。
先ほど笑った青年は、頭を下げながらも意味ありげな視線を皇帝に送っていた。皇帝も、青年と目が合うとちょっとだけ笑った。
「マリア。エンジェリクからの客人を、余は歓迎する。セイランは素晴らしい国だ――その良さを十二分に堪能し、いずれ故郷へ帰る時、それを伝えてほしい」
こうして皇帝との対面は終わった――つつがなく、と言えるかどうか。
とりあえず、どうにか切り抜けることはできたのではないだろうか。




