魔女への羨望 (2)
昼間はよく晴れていたが、帰り道は雨に降られてしまった。おかげで帰るのに手間取ってしまって。
マリアが屋敷に帰り付いた頃には、空は真っ暗になっていた。
雨に濡れたマリアを、タオルを持ったナタリアが出迎える。
「すっかり遅くなっちゃったわ。子どもたちは、もう眠ってしまったかしら」
寝かしつけの時間までには帰って来たかったのに。つい他のことを優先してしまう母親だから、せめて眠る前ぐらいは一緒にいてあげたかった……。
「今日はお友達が来たので、殊更はしゃいでおりました。ですから、いつもより早い時間にベッドに入って頂きまして」
「そう……友達?」
いったい誰が、とマリアはナタリアを見た。途端、ワンという鳴き声が屋敷に響く。
「マサパン……!?まあ、あなたが遊びに来ていたの」
愛くるしい瞳でマリアを見上げながら、大きな犬のマサパンがトコトコと駆け寄ってきた。自慢の毛皮をマリアが撫でれば、嬉しそうに尻尾を振る。
「待って。雨の日にあなたが来ているということは……」
マリアはあることに気付き、クスリと笑う。ナタリアもクスクスと笑い、彼がいる部屋にマリアを案内した。
長身の男が、膝に幼い男の子を座らせ、男の子と一緒に赤ん坊を抱っこしている。
「……ふむ。こうして見ると、本当にマリアそっくりだな。スカーレット。私のことをお父様と呼んでもいいのだぞ」
長女スカーレットを抱いてそんなことを話すヴィクトール・ホールデン伯爵に、男の子が顔をしかめる。じとーっと父親を睨みつける緑色の瞳は、マリアと同じ――オルディス家特有のもの。
「父上。スカーレットに嘘を教えないでください。その子が父と呼ぶべき相手はメレディスなんですよ」
「ならメレディスのことをお父様と呼び、私のことはパパと呼べばいい。名案だな」
どこがですか、と。舌足らずな口調で、クリスティアンがぴしゃりと却下する。父子のやり取りに、マリアは堪え切れず笑い声を上げた。
マリアの笑い声に、伯爵とクリスティアンが振り返る。
「お帰りなさい、母上」
伯爵の膝から飛び降りて母に駆け寄り、クリスティアンは礼儀正しく挨拶した。息子の柔らかい金色の髪を撫で、マリアは微笑んだ。
「ただいま、クリスティアン。それにヴィクトール様――今夜お越しくださること、私は聞いておりませんよ」
「予定にはなかったのだがな。雨が降り始めたのを見て、これは、と思ったのだ」
そう言って、伯爵はマリアの頬に口付ける。そしてマリアから漂う香りに苦笑した。
「……君が先日購入していたあのドレス。私のためではなかったのだな。君が着てくれるのを楽しみにしていたというのに」
移り香から全てを察したように伯爵が言い、マリアは悪戯を咎められた子どものように笑う。クリスティアンが、今度は母親をじとーっと見つめた。
「母上。僕たちの新しい兄弟を作るのは結構ですが、せめてもう少し休養を取ってからにしてください。まだスカーレットを生んで一ヶ月しか経っていないのですよ」
こんこんと説教をする息子を、伯爵が複雑な表情で見下ろす。
「……マリア。成長するごとに、この子はノアに似てきているような気がするのだが」
「奇遇です。私も同じことを感じておりましたの」
ホールデン伯爵にはノアという従者がいる。マリアや伯爵は、自制のなさで彼を振り回し、説教されてしまうこともしばしば――マリアに説教をするクリスティアンの姿は、そんな彼にそっくりで。
「おかしいですわ。ノア様の血は流れていないはずなのですが」
クリスティアンと目線が合うようにしゃがみこみ、マリアは息子の顔を覗き込む。
髪の色以外は母親そっくりだとよく言われる我が子――でも、非難がましく見つめてくる目付きはやっぱりノアに似ている気がする。
「母上たちと長く付き合っていくと、自然とこういう性格になっていくんです」
「まあ、生意気」
柔らかいクリスティアンの頬をむにゅっと引っ張る。
……子供の頬というのは、どうしてこうも柔らかく、むにゅむにゅとしてやりたい触り心地をしているのだろう。
クリスティアンの頬にキスをして、マリアは息子を抱きしめた。
「さあ、あなたももうベッドに入る時間よ。お母様と一緒に、部屋に戻りましょう」
「僕、もう一人で寝れます」
「だめよ。お母様に生意気な口を聞いた罰として、あなたは私に甘やかされなくてはいけないの」
「母上は子離れしないといけません。僕たちにばかり構うから、父上がすぐ嫉妬するんです」
「あらあら。悪いお父様ね」
マリアが振り返って見てみれば、伯爵は素知らぬ顔でスカーレットと戯れていた。
おやすみなさい、と父親に挨拶のキスをして、クリスティアンはマリアと一緒に自分の寝室へ向かった。
「今日は何ページからだったかしら」
「三十七ページからです。主人公が脱獄方法を思い付いたところでしたよ」
寝衣に着替えながら、クリスティアンが言った。
息子がベッドに入ると、ベッドの近くに椅子を持ってきて、マリアは分厚い小説を読み始める――クリスティアンはまだ四歳になったばかり。でも幼児向けの短いおとぎ話は気に入らないらしく、本格的な小説を寝物語に要求する。
……十ページも読めば睡魔に負けて眠ってしまうあたり、まだまだ可愛らしい年頃である。
今夜も、絶海の監獄島に閉じ込められた主人公が、ようやく脱獄を果たしたところでクリスティアンは眠ってしまった。
「可愛い我が子に嫉妬などしないぞ。私をのけ者にして二人でいちゃつくのが面白くないだけだ」
マリアが自分の寝室へ戻ってみれば、待ち構えていた伯爵にそう言われてしまった。
スカーレットも眠ってしまい、ナタリアに取り上げられたようだ。ララとノアを相手に、酒を飲んで時間を潰していたらしい。
ノアは立ち上がり、自分の座っていた席を譲ろうとしたが、伯爵がそれを遮ってマリアの手を引っ張る。
マリアは苦笑し、仕方なく伯爵の膝に座った。
「君も飲むか?」
テーブルに用意された酒とグラスを指し、伯爵が言った。
「いえ。授乳期間中ですから」
「ご自分で、子どもたちの世話をされているのですか?」
意外そうにノアが口を挟む。ポーカーフェイスだが、無関心無感動というわけではなく……むしろ、感情豊かなほうだ。
「まさか。乳母は雇っているわよ。私は屋敷を不在にすることが多いし、子どもも増えて来て、いくらなんでも私一人じゃ無理だもの。ただ、タイミングが合えば私があげるようにしているだけ」
母親であることをおざなりにしがちだからこそ、母親らしいことができる時はなるべく子どもと一緒に過ごしてあげたくて――生まれたばかりのスカーレットはもちろん、一番下の息子も乳離れするにはまだ早い。
「……いまララから聞かされたところだが、今日の相手はモーリス・ケンドール侯爵だったそうだな。内務大臣まで陥落させていたのか」
「陥落だなんてそんな。ただちょっと、大人の話し合いをさせて頂いただけです。モーリス様が快く応じてくださる方のようで安心致しましたわ」
悪びれることなくマリアが言えば、ララとノアからは苦笑され、伯爵は笑顔のまま剣呑な空気を纏う。
「ご心配なさらずとも、そんなやり方が通用するのもあと数年の間です。いまは男の方の興味を惹きつけることができておりますが、そんなものは若さと美しさがある間だけ……いずれ、どちらも陰るものです」
ため息交じりにマリアが言えば、伯爵もノアもララも、意味ありげに視線を逸らす。
……ちゃんと弁えているつもりなのに、そんな反応をされるのは心外だ。
「いや、そうじゃなくてだな……おまえ、城中の男から羨望の眼差し向けられてるの、自覚ねーの?」
「他の男への競争心と虚栄心からでしょ、そんなの。いつかは飽きられるって分かってるわ」
「いつかねえ……こいつの無自覚と無防備のせいで、俺も結構大変な目に遭ってると思うんだよな」
何それ、とマリアは反論しかけたが、なぜかノアが頷いている。
「……伯爵も苦労されるはずです。他ならぬマリア様ご自身が、自分の魅力を侮っているのですから」
「同情してくれるか。このような調子で魅力を振りまくものだから、私の心が休まる日がない」
マリアの寵愛と関心を得る――それはいまや、エンジェリク貴族の男たちの大きな目標となっている。
そういった対象に見なす年齢幅が広いため、老齢した男たちも期待しているし、若者たちはいずれマリアの目に止まる男になろうと躍起になっていて……おかげで優秀な人材が労することなく集まって大助かりだ――と、ヒューバート王が密かに喜んでいるのをマリアは知らない。
……いや、何度か説明しているのだが、いくらなんでも過大評価よとマリアが流すものだから……一向に信じてもらえない。
「何やら私がヴィクトール様の心労を増やしているようで申し訳ないと思ってはおりますが……オルディス領へ行くまでにできるだけのことはやっておかないといけませんので。ヴィクトール様を怒らせてでも、私は自分の務めを果たしますわ」
「ん……もうオルディスに帰んのか?」
ララの問いかけに、ええ、とマリアは頷いた。
「そう言えば予定をちゃんと話しておかなかったわね。オフェリアも体調が回復したことだし、エステル王女を連れてオルディス領で療養させようと思っているの。そのついでに、私も最後の子作りよ」
マリアが言えば、ララたちにまた苦笑されてしまう。
「おまえ……よくやるよな。妊娠と出産繰り返して……なのに今回も、出産から一ヶ月足らずで妊娠前の体型きっちり取り戻してるわけだろ?男を誘惑するためにそこまで努力してるの見てきたからさあ、本当感心するぜ……」
「他の男を誘惑するために、彼女の健康と美貌を取り戻す協力をさせられた私としては複雑な気分だ」
伯爵の言葉に、マリアは涼しい顔で笑った。
「王妃が療養のためにオルディス領に引っ込めば、また貴族たちの不満の種となります。私も一緒に城を離れるわけですから、ヒューバート陛下に孤軍奮闘していただくわけで……陛下の助けとなってくださる方は、一人でも増やしておかないと」
オフェリアが完全に回復するまで……そしてマリアの妊娠が安定するまで、オルディス領で過ごす予定だ。それなりの期間になる。長い休みを落ち着いて取るためには、それまでに馬車馬の如く働いておく必要があるものだ。
「オルディス領……ということは、最後の相手は君のおじか」
「はい。私とオフェリアのおじ――オルディスの領主です。おじ様との間に生まれた子に、オルディス家を継がせなくてはいけませんから」
マリアとオフェリアのおじ――エリオット・オルディス。
亡くなった伯母の夫であり、マリアたちと血の繋がりはない。それでも、オルディスの領民たちから慕われる男であり、オルディス本家の人間だ。
平民の伯爵や、家を出ているメレディスの子では、オルディス公爵家を継がせることはできない。
オルディス家の正式な後継ぎを生んで……ようやく、マリアの義務も終わる……。
子どもの泣き声が聞こえてきて、マリアは思考を打ち切った。
「失礼します。マリア様、ローレンス様が起きてしまって……」
一歳の男の子を腕に抱き、ナタリアが部屋を訪ねてくる。目を覚ましたローレンスは、夜泣きをしてナタリアを呼び寄せたようだ。
マリアは伯爵の膝から降り、ひくっとしゃくり上げる息子を抱きしめる。
「身体は大きくても、まだまだ赤ちゃんね。ちょっとあざといぐらい甘えたがりなのは、お父様に似たのかしら?」
優しくあやすマリアの胸に顔を埋め、ローレンスはうつらうつらとし始めた。けれど今度は、セシリオの手を引くクリスティアンがやって来て……一人が起きると、他の子どもたちまで起き出すのが厄介だ。こればかりは、子どもが増えるたびに悩まされる。
「母上、ローレンスが泣いていませんでしたか。あの子が大泣きしたせいで、セシリオまで目を覚まして泣いていましたよ……」
眠たいのか、クリスティアンは何度も目をこする。そんな兄に手を引かれてやって来た次男セシリオは、グズグズと泣きながらマリアに抱きついた。
「どっちか寝かしつけを引き受けようか?」
ララの提案はありがたいが、ローレンスもセシリオも、マリアにしがみついて離れようとしない。どちらかを連れて行こうとするララやナタリアを拒絶するようなオーラを発している息子たちに、マリアは悟った――これは、母親の自分でないと駄目だろう。
「いいわ。二人とも、私のベッドへ連れていくから。ヴィクトール様、クリスティアンはお願いしますね」
「……僕は一人で寝れます」
クリスティアンは、完全に寝ぼけたままそう呟いた。伯爵に担がれ、されるがままに運ばれていきながら、何を言っているのやら。
ヴィクトール・ホールデン伯爵
深い恩のある相手で、マリアの愛人たちの中でも別格の男。
伯爵は貴族の養子になって得た称号に過ぎず、平民。
ノアという従者がいる。
ララ
マリアの従者兼護衛。
元はチャコという国の皇子だったので、
偉い立場の人にも割とフランクな態度で接する。