皇帝の叔父 (1)
太師の館に呼ばれ、一晩経った。
あのあとマリアの身を清めるために侍女のリーシュが呼ばれ、部屋の様子を見た彼女はわずかに驚いていた。動揺はすぐに消え、プロらしく平静を装っていたが……シオン太師のお手付きとなったことで、マリアに対する態度も心なしか軟化していたような気がする。
太師は仕事があると言って、朝食も取らずマリアを部屋に帰してしまった。つれない男だ、と思いながらマリアが一人で朝食をとっていると、照れていらっしゃるのですよ、とリーシュがフォローをしていた。
「シオン太師様は真面目で、浮ついた噂一つない御方ですから。女性と一夜を共に過ごすことに不慣れで、それで……」
「別に怒ってるわけじゃないわ。彼の振る舞いは無粋だけど、不慣れなだけって私も分かってるから」
敬愛する主人の失態を弁解しようと必死なリーシュに向かってマリアは言った。
一夜を共にした相手を放ったらかしにしてしまうなんて、褒められたことではない。でもたぶん、太師はそういった関係に不慣れだから、照れくさくてつい追い出してしまったのだろう。それぐらいはマリアも理解している。
マリアのほうから迫った関係なのだから、彼の無粋さを指摘するほうが無粋というもの。
「ただ、女を甘く見過ぎているのは感心しないわ。リーシュ、あなた、今回の企みはどこまで知っていたの?反対して、止めてあげるべきだったと思うんだけど」
太師の目論見を逆に利用するような厚顔無恥な女だったらどうするのか、と。太師を思うのなら反対すべきだった。実際そうなったし。
リーシュはちょっと気まずそうに打ち明けた。
「太師様が、陛下の側室としてやって来るエンジェリク人を見定めたい、とお考えであったことは存じておりました。しかし、まさかのそのようなやり方をなさるとは思っておりませんでした。太師様は本当に真面目で誠実な御方で、女性にそのような振る舞いをしたことがなかったので――本当です。女を見下すような真似は、ふりであってもなさらない御方なのです」
リーシュは主人の高潔さをひたすらに訴える。侍女にとっては、心の底から敬愛する主人のようだ。
「普段はそんな真似をしない人が、どうして私には例外だったのかしら」
一晩かけて太師を尋問したところ、新しい女を後宮に入れるのが嫌だった、ということだけは白状した。甥である皇帝のため……のようなことを、ちらりと口にしていた。
でもそれ以上は話さなかった。まるで、皇帝のことを言い訳に出すのは嫌がるように……あくまで、自分が嫌だったからと、頑なにそう主張していた。
心当たりがあるのか、リーシュは何か言いたげな様子だった。完璧な侍女にしては、珍しい動揺の姿。主人のために話したい、でも、主人が話さないことを自分が話してしまうのは――そんな彼女の葛藤が、手に取るように分かった。
「いいわよ。自分で聞き出すから。あなたを世話役に寄越したってことは、私は当面太師様のもとでお世話になるんでしょう。なら、話をする機会はいつでも――」
言いかけて、マリアは立ち上がった。何気なく視線をやった庭に、誰かいる。
目を凝らして確認しなくても、セイラン人ではない彼らはよく目立つ。金色の髪を持つ少年に、赤毛のチャコ人。従者のララと、息子のクリスティアンだ。
「ララ、クリスティアン!」
庭に面した窓に近づき、マリアは一瞬考え――縁を乗り越えた。ぎょっとしたリーシュがマリアを制止するが構わず、自分を抱きとめようと慌てて駆け寄ってきたララに向かって飛び降りる。
ベランダのような造りになった窓は、地面からそれなりに高さがある。でも外へ下りることができる場所も見つからないし、じれったくて、マリアは飛び降りるほうを選んだ。
「もしかして、ずっと待っていてくれたの?」
従者のララは、館に着いたときに追い返されてしまった。マリアだけが館の中に案内されて、ララは門前でマリアを待つ羽目になった。
いったんクラベル商会が泊まっている宿に戻るよう言いつけておいたが、マリアを待って、ずっと……?
「太師は悪人じゃなさそうだから見送ったけど、それでも心配はあったからな。クリスティアンも心配だったみたいで、マサパン連れてこっそりと」
愛くるしい瞳でマリアを見上げ、クリスティアンの隣に立つマサパンが尻尾を振る。
「その様子だと、伯爵が言ったほうの不安が的中したみたいだな。無事だったんならいいけどさ」
「もう、母上は……」
呆れたようにため息をつきながらも、クリスティアンもホッとした様子だった。
「心配をかけてごめんなさい。ララもありがとう。太師様は伯爵の言ったとおり、悪い人ではなかったわ。色々言いたいことはあるでしょうけど、私なら大丈夫だから。ヴィクトール様たちにも、そう伝えて……」
「マリア様!」
急いで迂回をし、庭に降りてきたリーシュがマリアに駆け寄る。だめです、とマリアを厳しくたしなめながら。
「正式な後宮ではないとはいえ、ここは男子禁制。ご子息はともかく、そちらの男はすぐに退去させます」
「ああ……セイランって、チャコと同じ風習があるのか」
ララが苦笑いする。
人を呼ぼうとするリーシュを、マリアが止めた。
「それなら大丈夫よ。ララは宦官だから。男子禁制でも、宦官なら例外でしょ?だから彼は追い出さないで」
マリアの説得に、リーシュは押し黙る。
ララとクリスティアンが目を泳がせていることに気づいてはいるようだが……大きくため息をつき、わかりました、と答える。
「そういうことでしたら……。けれど、見逃すのはその方だけですよ」
念を押すように、リーシュはマリアを鋭く睨む。マリアは涼しい笑顔で、ありがとうと礼を述べた。
「……ララ。いつの間にそんな大工事を?」
声が届かないところまでリーシュが十分離れていくと、クリスティアンが口を開いた。んなわけねーだろ、とララが呟く。
「私にとっても大切なものなのよ。切り落とすなんてそんなこと。させるわけないでしょ」
息子クリスティアンのことは、リーシュも手厚くもてなしてくれた。ついでにマサパンも、雌なら問題なし、と朝食を用意してくれて。
ララには朝食が用意されず、疑わしい目つきで睨まれていた。
「ララ、私の分を食べて」
「マリア様」
自分の膳をララに差し出そうとするマリアを、リーシュが再び厳しく咎めた。
「あなたの立場は分かってるわ、リーシュ。ララを歓迎するわけにはいかないし、追い出さなくてはいけない――それがあなたの役目だもの。責めるつもりはないわ。でも私にとって、ただの召使いではなく友人であり家族でもあるの。だから私が勝手に情をかけることは見逃して。お願い」
マリアは控え目に微笑み、懇願する。
「あなたを悪者扱いしてるようで気が引けるけど……単なる意地悪じゃないことは分かってるから。私がわがままなだけ」
「……そんなふうにおっしゃられて。卑怯ですよ」
困り果てたように、リーシュは長い溜息をついた。
そして結局、ララの分の朝食も用意されることとなった。
「それにしても、その者たちはどうやってこの館に侵入したのです?警備はいったい何を」
「いや、俺も忍び込むのは無理かなーって思ってたんだけどさ」
慣れない箸という道具をぎこちなく握りながら、ララが言った。
「マサパンについていったら、なんかあっさりここに着いて」
マリアたちが視線をやると、食事に夢中になっていたマサパンが顔を上げ、ワン、と吠える。
警備体制を見直さなくては、と頭を抱えるリーシュに、マリアたちもちょっと同情した。
朝食には、いつもよりずっと時間がかかった。
使い慣れていない道具に、食べ慣れない料理。
これは研究のし甲斐がある――いつか、セイランの厨房を使ってみよう。マリアがそんな余計な決意をしていた頃、シオン太師から再び呼び出しがかかった。
仕事中で、執務室にいるから。そっちに来い、と。
相変わらず上から目線でマリアに命令する男だ。でも、あんなことがあっても懲りずに呼び出すなんて。マリアは内心苦笑した。
リーシュに着替えを手伝ってもらって、今度はセイラン衣装でシオン太師のもとを訪ねる。
太師は、従者らしき若い青年と一緒に執務室にいた。机にはそれぞれ書類のようなものが並んでいるが……仕事をしているように見えるだけ、なのは、マリアが疑い過ぎなのだろうか。
太師は部屋に入ってきたマリアをちらりと見て、興味なさげにすぐに書類に視線を戻す――ようなふりをした。これはマリアが疑い深いのではなく、太師が分かりやす過ぎるのだと思う。
マリアは愛想よく微笑んだまま、太師のそばに近づいた。
「なぜ近づく……?」
必死に平静を装っているが、太師は目に見えてそわそわと、マリアから距離を取るようにのけぞり始めた。
執務室で共に仕事をしていた若者が、太師の行動に目を丸くして思わず注目してしまうほど、太師の態度はあからさまだ。
「お呼びいただいたのですから、せっかくなら、と」
「まずは声をかけるべきだろう!何の用だとか、なぜ呼び出したのかとか」
「そこまで野暮になれません。お忙しい太師様のお邪魔はできませんし、わざわざ口に出すのも無粋ですもの」
手を伸ばし、机の上の太師の手に重ねる。触れた途端、妙な悲鳴を上げて太師が立ち上がり、猛烈な勢いで後ずさった。
ぐふっ、と、青年のほうからも妙な呻き声が聞こえてきた。
「ななななななんと破廉恥な真似を!人目があるのだぞ!?」
ついに、我慢の限界に達した青年が笑い始めた。ついてきたリーシュが睨み、青年の足をぎゅうっと踏みつけて黙らせる。
太師も笑い出した従者を睨みつけたが、するりと自分に寄り添ってくるマリアのせいで、抗議をしている余裕もない。
「もう、太師様ったら。お可愛らしいのですから。昨夜の初々しい姿が思い出されますわ」
「余計なものを思い出すな!だいたい、可愛いとはなんだ、可愛いとは!間もなく五十を迎える男だぞ、わしは!おまえは正気か!?」
「私からすれば、閨の下の太師様は生まれたての小鹿と変わらぬ印象です。ぷるぷる震えて、甘えてすり寄ってきて」
「気持ちの悪い表現をするでない!くっ……呼び出すのではなかった……!褥を共にしたばかりの女を放り出すなど、男の風上にも置けぬ行為だとヤンズが言うから仕方なく……おい、ヤンズ。おまえのせいだぞ、なんとかしろ!」
えっ、という声を上げ、笑い転げていた青年がこちらを見た。
「それはあんまりな言い草です!太師様の振る舞いは、やっぱり男として褒められたものじゃないんですから。私としては、まっとうな助言をしたつもりで……姉上だって、同意見だったじゃないですか!」
ヤンズはすがるように侍女のリーシュを見た。ヤンズという青年は、どうやらリーシュの弟だったようだ。
ヤンズの言葉に、リーシュも気まずそうに視線を泳がせた。
「ご主人様。その……やはり、私もよろしくないお振る舞いであったと……そう言わざるを得ないかと。私はご主人様を尊敬しておりますが、昨夜から今朝にかけてのこと……マリア様のご寛大さに甘え過ぎです。無体な真似をなさるご主人様を見るのは忍びなく……」
太師の矜持を傷つけてしまわないよう言葉を選びながらも、リーシュも太師を非難していた。
同じ女として。主人を敬愛する召使いとして。マリアを軽んじたことを反省してほしい――太師には、男として責任ある振る舞いをしてほしいと。
「ああ。つまり、私に謝罪をしようと思って呼び出したのですね。お優しいこと……。太師様の操を無理やり奪った女だと言うのに」
マリアが無邪気な笑顔で言えば、太師は耳まで顔を真っ赤にして怒鳴る。
「おまえはどうしてそう、まぜっかえすような言い方ばかり――」
「太師様」
太師の言葉を遮り、静かにマリアが言った。
「申し訳ないと思っていらっしゃるのなら、今夜も私を太師様のお部屋にお呼びくださいな。それで十分です」
感情の波に翻弄されていた太師が、すっと冷静になった。
驚いた様子で、いいのか、とマリアに尋ねて来る。
「そのようなことで……。その、たしかに……わしのしたことは、ヤンズたちの言うように、非難されるべきことだ……」
急にしおらしくなった太師に、マリアは苦笑した。
どうやら、根は誠実で真面目な男、というのは間違いではなさそうだ。シオン太師も、自分の振る舞いに恥じ入る気持ちはあるようだ。
マリアは微笑み、お待ちしております、と静かに頭を下げた。
リーシュを連れて執務室を出ようとするマリアを、太師が呼び止める。
足を止め振り返り、マリアは小首を傾げて太師を見つめた。太師はしばらく視線をさまよわせ、言葉に悩むようなそぶりを続け……やがて、小さな声でぽつりと言った。
「……そのセイランの衣装は、よく似合っておるぞ」




