東国の男 (2)
まさかこんなに早く。しかも、いきなり御大に出くわすだなんて。
予想外の出来事に、さすがのマリアも困惑していた。
「シオン太師は親王の時代、将軍として前線に立つこともあった。西方のこの地域は北方の遊牧民族に加え、様々な外敵に対する防衛の最前線でもある。下手をすれば王都よりもずっと、このあたりは太師の本拠地と呼ぶに相応しい場所かもしれない」
ホールデン伯爵が言った。
「だからこの町に太師が来ることは予想しておくべきだった……まずいな」
思わずこぼした伯爵の言葉に、クリスティアンが不安そうに眉を寄せる。
「シオン太師は、そんなに危険な人なのですか?」
「ああ。実に危険だ」
伯爵が即答する。
「年齢は私より下。マリアとは、親子ぐらいの差がある。若い頃は猛将と呼ばれるまでに勇猛果敢な軍人で、硬派で誠実な人柄の好人物だそうだ。しかし親王という立場にありながら常に前線で戦ってきた男なのだ、やはり好戦的で野心家な一面を秘めていることだろう」
つらつらと説明を続ける伯爵に、マリアは首を傾げた。
……だというのに、クリスティアンやララ、ノアなど、他の男たちは何やら納得している。
「シオン太師というのは、もろにマリア好みの男だ」
「……そっちの心配ですか」
真剣な表情で何を不安がっているのかと思えば。
マリアはがっくりと肩を落とした。
「不安になるのも当然だろう。太師は独身だ。しかも皇族で、先の皇帝の弟……弟キャラなのだぞ。いままで君に堕ちた男と、ぴったり条件が合致する」
「そう毎度、都合よく私に誑かされる男ばかりではありませんよ――たぶん」
言いかけて、マリアも最後にはちょっと自信をなくした。
だって、もしかしたら。
生き残るためには彼に色仕掛けでも何でも必要になるかもしれないし。それは仕方がないことだと思うの。
町の南側に立つ館は、大きくて壮麗な造りで、いやでも人目を引いた。
館の主の権威を示すような建物――マリアを出迎える家人も、建物に負けず凛としたたたずまいで自らの威厳を示し。
美しく着飾った侍女は、微笑んではいるがどこかピリピリとした空気を醸し出していて、まるでマリアに対抗するかのように……たぶん、向こうも西方からやってきた女に舐められまいと、虚勢を張っているのだろう。
「遠路はるばるセイランへようこそ、オルディス夫人。私、リーシュと申します。太師様より、セイランに滞在する間オルディス夫人のお世話をするよう申し付かってまいりました」
「そう。どうぞよろしく。ただ、私に仕えるというのならそのオルディス夫人という呼び方はやめてちょうだい。マリアでいいわ。誰かの妻という呼ばれ方をするのは好きじゃないの」
リーシュは静かに微笑み、かしこまりました、と頭を下げる。
――さっそく主人気取りで注文を付けてきた女に、良い印象を受けなかったことだろう。妻と呼ばれることを嫌がるだなんて、そんな生意気な女。
でもマリアにも、プライドはある。誰かの付属品みたいな呼ばれ方、お断りだ。
リーシュに案内され、太師の待つ部屋に向かう。
セイラン文化の粋を集めたと言っても過言ではないような館の廊下を歩き、この建物はきっと、皇族の持ち物なのだろう、とマリアは思った。
来い、と呼びつけられたのは腹が立つが、それなりに丁重な扱いを受けてはいるのだろうか。館に足を踏み入れられるのは選ばれた人間だけ……誰でもかれでも気軽に招くことはないはず。
「おまえがマリアか」
部屋に入るなり、いきなり中にいた男からそう言われた。
背は高く、年を取ってはいるが鍛えられた身体も含めて威圧的で、貫禄があって。ああ、伯爵が心配するのももっともだな、とマリアは心の内で密かに一人頷いていた。
シオン太師は、たしかにマリアの好みばっちりの男だ。ビジュアルは割と好き。
「どうした。おまえはエンジェリクとセイランの友好のため、我が国に来たのだろう。わしが太師であることは知っておろう――そのわしの、ご機嫌取りをせぬつもりか」
蔑むような態度で、シオン太師は侮蔑するように言い捨てる。どこか挑発的な嘲笑を浮かべ。
マリアはまじまじと彼を見つめ、ふむ、と考え込んでいた。
ホールデン伯爵の調べによると、太師はマリア好みの男のはず――見た目も、中身も。伯爵の情報に誤りがないのなら……彼のこの言動は、何を意味するのか。
「脱げ」
「はい?」
短く投げつけられた言葉に、マリアは思わず間抜けな返事をしてしまった。
セイラン語はまだ自信がないから。聞き間違えたかも、とちょっと自分の語学力を疑ってしまって。
「服を脱げ。おまえは皇帝陛下の側室候補なのだ。陛下にお会いする前に、わしが味見をしてやる。有難く思うがいい」
高潔な男におおよそ相応しくないような……マリアを見下すような発言を、シオン太師は繰り返す。その状況に、マリアはある結論に達した。
――この男、案外ちょろいんじゃないかしら。
「おい、何を――」
平然とした顔で近づくマリアに、シオン太師がわずかに後ずさった。手を伸ばせばすぐに触れることができる位置まで近づき、マリアは束ねていた髪を外して後ろを向く。わざとらしく髪をかきあげ、太師に背中を見せた。
「エンジェリク風のこの衣装は、手伝ってもらわないと脱げない構造になっているんです。ほら、ここに紐が……引っ張ってくださいな」
どんな用件で呼び出されたのか分からなかったから、マリアはエンジェリク風のドレスで正装して来ていた。
脱ぐと分かっていたらもうちょっと脱ぎやすい服で来たのだが……今回は、手間がかかるものを着ておいて正解だったかな。
「わ、わしに召使いの真似事をさせる気か……!?」
「まあ。だって、この状況で人を呼ぶのは無粋というものでしょう。別に召使い扱いをしているわけではなく、太師様に脱がせていただくのが自然な流れだと思うのですが」
マリアがそう言えば、シオン太師は言葉に詰まり、目に見えて狼狽する。
やっぱりちょろい男だわ――マリアは確信した。
脱げと言いながらも、太師の目は語っていた――こんなことを言われて、従順に振舞う女はいまい、と。女が拒否することを前提で、そんな台詞を。
女に慣れた男なら有り得ないことだ。平然と従う厚顔な女がいることを、身を持って知っているだろうから。だから、そんな台詞を口にするのは女に夢を見ている証。
十中八九、シオン太師は童貞だ。
「太師様、どうぞご遠慮なく……」
あえて気付かないふりで、太師に促す。
太師はおそるおそる手を伸ばし、ドレスを戒める紐に手をかけた。戸惑う太師は、いっそじれったくなるほど。最後は、結局後ろ手にマリアが引っ張って紐を外した――着るほうは無理だけど、脱ぐのはマリア一人でも実は何とかなるのだ。
胸元が大きく開いた肌着。薄手の素材だから、マリアの身体の線に沿ってぴったりと……女性らしい体型がよく分かる姿に、太師は顔を赤くして視線をさまよわせている。よそを見るふりをしながら、ちらちらとマリアを見ていた。
自分の身体を押し付けるように、マリアは太師の胸にすり寄り、上目遣いで甘えるように彼を見上げる。そっと太師の胸に触れれば……びっくりするぐらい、早鐘を打つ心臓の音が聞こえた。
胸元で結ばれた肌着のリボンを、見せつけるように自ら解く――途端、シオン太師はマリアを突き飛ばした。
「はっ!す、すまん……!」
小さな悲鳴を上げて倒れこむマリアに、シオン太師が慌てたように跪き手を差し出す。腹の内でニヤリと笑い、マリアは太師に飛びついて、彼の首に腕を回した。
柔らかい女の肌の感触に、抱きつかれた太師は無様にも尻もちをついてひたすら焦っていた。太師の太い腕なら、マリアを無理やり引きはがすことも可能だろうに――できないのか、できることも忘れているのか。
「ま……待て待て待てぇっ!おまえ、国では偉い立場にある女なのだろう!?そんな女が、わしみたいな年寄りに娼婦扱いされて、腹が立たないのか!?」
「太師様のお相手を務めさせていただけるだなんて、名誉なことですわ。私、エンジェリクでは先代国王陛下の愛妾でした。娼婦のようもなにも、娼婦同然の女でしてよ。ちなみに私が十六で愛妾となったとき、陛下は御年五十を超えていらっしゃいました」
「はあっ!?なんという……。それにしてもだな!もっとこう、恥じらいとか、抵抗とか……」
「大丈夫です。初めてなのでしょう?優しく致しますわ」
「なんでそれを……!?いや、待て、そうではなく……おまえ、それでも女か!?」
「私、男物の服を着ていても男性と見間違えてもらえることが少ないのですが」
「そういう意味ではなあああああい!」
じたばたと。
ついに体裁を取り繕うことも忘れ、シオン太師はみっともなく逃げ始めた。
ええい、面倒くさい、身体はしっかり反応しているくせに――と、マリアも実力行使に出ることにした。
唇をふさぎ、ショックで固まる太師の手を取ってマリアの胸に触れさせる。マリアの奇襲は成功した。太師ももう、後戻りはできないだろう。
「……ええい!どうなってもしらんぞ!」
「あらあら。生意気な口を聞きますこと。童貞のくせに」
「そのような慎みのない単語を、女子が口にするでない!」
伯爵の心配した通りの展開になってしまったことは、あとで五分だけ反省しておくことにしよう。
差し出されたご馳走はおいしそうだったし、あまりにもシオン太師という男が面白すぎて、調子に乗ってしまった。
寝台は乱れ、塵一つ落ちていなかった床には脱ぎ捨てられた衣服が散乱している。その有様を眺め、どうしてこうなった、と太師は呟いていた。でもマリアを抱きしめる腕は緩めることなく……クスクスと笑い、マリアは太師の髪を撫でる。
対面した時にはしっかり整えられていた太師の髪も、いまは乱れ気味だ。
「見通しが甘過ぎましたね。侮辱するようなことを言って怒らせ、追い返そうだなんて。女にやり込められるかも、とは考え……るわけありませんね。所詮童貞では」
「だからそれを言うなと……!」
どうしてマリアを怒らせたかったのか、マリアを追い返したかったのかは聞き出せていないが、とにかく、対面した際のあの侮蔑的な太師の態度はすべて、演技だった。
大貴族の姫と聞いていたから、そんな女性なら、年の離れた男から性的な嫌がらせを受けたら怒り狂うか、嘆くかして、ここから逃げ出す――そう太師は考えたらしい。要するに目的は牽制だったのだが、相手とやり方が悪すぎる。
色事で、マリアが怯むはずもない。
「それにしても何故そのような真似を。実際に手を出すつもりはなかったとはいえ、女性を貶めるやり方は褒められたものではありませんし、なにより、太師様の名誉を汚す行為ですのに」
マリアが言えば、太師はそっぽを向く。
よほど悲壮な決意があるのか……単にマリアにいいようにされて面白くないから、意地を張ってるだけなのか。後者なんじゃないかなあ、とマリアは思ってみたり。
「良いですわ。身体に聞いてみますから」
「それは……女が口にする台詞ではないだろう。おまえという女はどこまで……!」
「そんなに褒められると照れちゃいますわ。太師様のご期待に添えるよう、全力で尋問して差し上げます」
「誰が期待など――!」
「あら。でも、お身体のほうは楽しみにしていらっしゃるようで」
口の減らないマリアを黙らせるため、今度は太師のほうが実力行使に出た。
もっとも、すぐにマリアに逆転されていたが。




