一方、その頃
エンジェリク王国オルディス公爵領。その領主の屋敷の中庭で、スカーレット・オルディスは絵を描いていた。
この季節は草木も枯れ、空の色もくすんでいる。でもこの物寂しい風景も、スカーレットは結構好きだった。
スカーレットと一緒に庭に出ていた兄セシリオは、最初こそ大人しくスカーレットの隣で絵を眺めていたが、やがてローレンスがやってきて、二人で取っ組み合いの勝負を始めてしまった。
男の子って、どうしてこう……と苦笑いしながら、スカーレットは構わず庭の絵を描き続ける。
勝負に対する技術や腕前はセシリオのほうが上なのだが、いかんせんローレンスは大きい。次兄のセシリオどころか、長兄のクリスティアンの背まで追い越してしまっていて。
一度目は言い訳ができたセシリオも、三度目の敗北には青ざめ、絶句していた。
「よっしゃー!また俺の勝ちだ!」
「け、剣の腕なら……!それに、実戦ではそんな馬鹿正直な戦い方で勝てるもんか!」
勝利にはしゃぐローレンス。悔しそうに憤るセシリオ。
このままだと取っ組み合いの勝負ではなく本気の喧嘩に発展してしまいそうで、スカーレットはキャンバスから顔を上げ、二人の仲裁に入った。
「いいじゃない。ローレンスだって、何か一つ兄たちに勝てるものが欲しいのよ。剣や馬の腕は間違いなくセシリオが上なんだから、腕っぷしの強さぐらいは譲ってあげなさい」
クリスティアン、セシリオ、それにスカーレットは、乗馬の練習を始めていた。
ローレンスも練習してみたのだが、これがまた、びっくりするぐらいダメダメで。どうしても向かないのかもね、と母からもやんわりと乗馬を止められていた。
「俺は馬に嫌われてるんだ」
自分の欠点を突き付けられて、ローレンスはちょっと拗ねたような、不貞腐れたような口調で言った。
ふふ、とスカーレットは微笑む。
「気にすることないわ。兄弟同士、得意なこと、苦手なことをそれぞれ補っていけばいいんだから。セシリオとローレンスが組めば、無敵のコンビでしょ?」
セシリオとローレンスは互いに顔を見合わせ、やがて納得したように落ち着いた。
……と、思ったら。今度はフェルナンドが愚図りながら庭へやって来る。
「あらあら。フェルナンドったら、お昼寝から逃げ出してきたのかしら」
母の故郷キシリアでは、シエスタという習慣がある。
もっとも、それは暑い夏の季節に行うもので、エンジェリクのような土地で、寒い季節にまで行うものではないのだが。
だがフェルナンドは幼いこともあり、お昼過ぎのこの時間には午睡をすることになっていた。
ぐずぐずと泣くフェルナンドを、スカーレットが抱きしめてあやす。
かーしゃま、と呟くフェルナンドに、一同は察した。
「お母様がいらっしゃらなくて寂しいのね。とてもよく分かるわ。私たちも、お母様やクリスティアンとしばらくお別れで、とっても寂しいわ」
「それぐらいで泣くなど、軟弱な奴だ」
自分の父親そっくりの口調で厳しく言うセシリオに、ローレンスが笑う。
「セシリオだって、母さんやクリスティアンを見送った日には部屋でこっそり泣いてたくせに」
うるさい、と顔を真っ赤にしてセシリオが怒鳴る。まあまあ、とスカーレットが再び二人の仲裁に入った。
「ローレンス、セシリオをからかっちゃだめよ。お母様への甘えたがりは、あなたが一番なのに」
スカーレットの指摘に、ローレンスは面白くなさそうに唇を尖らせた。
ようやくフェルナンドが落ち着いた頃、泣き声が増えた。
スカーレットのいとこメルヴィンが、リリアンを連れて屋敷に帰ってきた。メルヴィンに手を引かれ、泣きながら帰ってきた妹に、セシリオが顔色を変える。
「貴様、妹に何をした!?」
「やめんか、ドアホ!」
メルヴィンの胸ぐらをつかんで問い詰めるセシリオを、ローレンスが止める――咄嗟に、自分の父親の口癖が出ていた。
「リリアン――何があったの、メルヴィン?」
泣いているリリアンを慰めながら、スカーレットはいとこを見た。さっきまで自分も泣いていたくせに、フェルナンドは泣くリリアンを心配そうに見つめ、よしよしと頭を撫でている。
メルヴィンは、スカーレットのいとこ。スカーレットの父親メレディスの、兄の子。リリアンの婚約者でもある。
オルディス領に遊びに来て、リリアンと一緒に出掛けていたのだが……リリアンは無邪気にメルヴィンを慕っており、機嫌よく屋敷を出て行ったはずなのだが。
「ずっと楽しく町を見て回ってたんだ。でも、ロディ……だったかな、リリアンの顔見知りみたいなんだけど、男の子と会って、賑やかにおしゃべりしてたと思ったら、急にその子がリリアンに意地悪してきたんだ」
困惑するメルヴィンから説明を聞き、兄弟たちは察した。
ロディというのは町に住むリリアンの男友達で、どうもリリアンのことが好きみたいなのだ。好きな子にちょっかいをかけて、泣かせてしまう……という幼さがあり、メルヴィンと仲良くするリリアンにヤキモチを焼いて、ついそんなことをしてしまったのだろう。
「あいつ、いっぺんしめとくか」
ボキボキと手を鳴らしながら物騒なことを言うローレンスに、セシリオが神妙な面持ちで頷く。
「もう、やめなさい。あなたたちじゃ弱い者いじめになっちゃうでしょう。ロディには、私から言っておくわ」
スカーレットがため息をついて言えば、セシリオとローレンスは眉をひそめた。
――おまえの説得って、地味に怖くないか。
そう言いたげな兄たちに、失礼ね、とスカーレットはこぼした。
夜も更け、静かな公爵領の屋敷。
寝室で、スカーレットは今日描いたスケッチを眺めていた。
当然なのだが、最近の絵はセシリオやローレンス、フェルナンドが多い。
でも、この三人はやがて屋敷を離れてしまうから。いまのうちにたくさん描いておきたい。母や兄の絵も、もっと描いておけばよかったな、と思う時もあるから。
もっと早く、母の旅立ちを知っていたら……スケッチブック一冊分を埋めるぐらい、しっかり描いておいたのに。
コンコン、と部屋の扉を誰かがノックする。どうぞ、と声をかければ、ローレンスが顔を出した。
「どうしたの?」
「いや……大した用があるわけじゃないんだけど……ちょっとお喋りでもできないかなーって」
スカーレットは苦笑した。
こんな時間に。兄弟とは言え、女の寝室に来てまで。
その反論は呑み込んで、スカーレットは自分が腰かけているベッドを指して座るよう促した。
「……なあ。もうすぐ、セシリオもフェルナンドもキシリアに行っちゃうんだよな」
「たぶん……。迎えに来るって、シルビオおじさまから連絡があったし」
母が長く不在となるということで、兄弟たちはそれぞれの父親のもとに引き取られることになっていた。
弟のパーシーはウォルトン団長に、双子のニコラス、アイリーンはドレイク卿に。あの子たちは王都に残り、スカーレットたちはリリアンの父親がいるオルディス領へ。
本当は、スカーレットもマクファーレン伯爵家のお世話になるはずだった。父メレディスは絵描きとクラベル商会の仕事で忙しいから、父の生家にスカーレットは厄介になる予定だった、当初は。
でも、母親はいない、クリスティアンもいない、弟たちもバラバラに……で、寂しがったリリアンのために、一緒にオルディス領に来ることになったのだ。
ローレンスの父親は海の上。セシリオとフェルナンドの父親は海を隔てた外国。だからこの三人もオルディス行きとなったのだが……間もなく、セシリオとフェルナンドの父親であるシルビオがやって来る。
そうなったら、二人はキシリアへ……。
セシリオは母が戻ってきたら帰って来るだろうが、フェルナンドは……。
「やっぱり、フェルナンドとはこれでお別れになってしまうのか?」
スカーレットと同じことを考えていたらしく、いつになく沈んだ表情でローレンスが言った。
これには、スカーレットも良いフォローが思いつかない。
「もしかしたら、そうなってしまうかもしれないわね。私もすごく辛いわ。とても懐いてくれたし、本当の兄弟みたいに想っているから。あの子がまたエンジェリクへ来てくれることを期待しましょう」
励ますようにスカーレットは微笑み、うん、とローレンスもしおらしく頷いた。
父親に似て明るい笑顔が似合う兄には、なんだか不思議な姿だ。
スカーレットがどう話題を変えるか考えていると、また部屋の扉をノックする音が。どうぞ、という台詞をスカーレットが繰り返すと、枕を抱えたリリアンが、おずおずと顔を出した。
「お姉ちゃま……あっ、ローレンスお兄ちゃまもいる!」
姉だけでなく、兄もいて。リリアンはパッと顔を輝かせる。
「おう。どうした、リリアン」
ローレンスがいつもの明るい笑顔で振り返れば、リリアンはちょこちょことベッドに近寄ってきて、ベッドによじ登る。
「お姉ちゃま。今日、一緒に寝てもいい?」
甘えるような表情で上目遣いに自分を見つめる妹の頭を、スカーレットは優しく撫でた。
それで姉の返事を察したリリアンは、嬉しそうに姉に抱きつく。
メルヴィンは帰ってしまったし、リリアンの父親は、いま屋敷を離れている。母に、たくさんの兄弟に囲まれて賑やかな生活に慣れているリリアンにとって、静かな屋敷は寂しくて、怖くてたまらないのだろう。
「お兄ちゃまも、一緒に寝ましょ」
「え……いやー、いくら兄弟って言っても、さすがに俺は……」
遠慮しようとするローレンスに、眉を八の字にしてリリアンが不満そうな声をあげる。
参ったなぁ、とローレンスが頭を掻いていると、三度目のノックが。
「スカーレット。夜になって、またフェルナンドが母上恋しさに泣き始めて……俺じゃ泣き止まないんだ。なんとかしてくれ」
ぐずぐずと泣いているフェルナンドの手を引いてやって来たセシリオに、スカーレットは笑いながらもため息をついた。
うとうととまどろんでいたスカーレットは、ふわりとした感触に顔を上げた。少し重い瞼を開けて見上げてみれば、毛布をかけようとしている父と目が合った。
「ごめん。起こしちゃったかな」
寝かせてあげようと思ったんだけど、とバツが悪そうに父は笑う。スカーレットも微笑み、お帰りなさい、とメレディスに抱きついた。
「お父様も、オルディスにいらしてたんですね」
「うん、ついさっき。なんだか疲れてるみたいだけど……大丈夫?クリスティアンがいないと君が兄弟のまとめ役になるから、やっぱり大変なのかな」
「頼られるのは嫌いじゃないんですが……でも、お兄様が恋しくなりますわ。うちの兄弟たちはみんな癖が強くて……早く帰ってきてほしいです」
個性派ぞろいの兄弟たちをいつもきっちりまとめている長兄クリスティアンには、やっぱり頭が上がらない。その大変な兄弟に、スカーレットもしっかり含まれているが。




